空と海と最後のブルー   作:suzu.

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10.カラスが鳴いたら帰りましょ

 

 神経がキリリと痛む。

 痛みを誤魔化すため、スラックスのポケットからライターと煙草の箱を取り出し、おもむろに口に一本くわえた。

 ダダンから掠め取った安物の煙草だ。銘柄は東の海では一般的なやつ。

 古びたライターは若干錆ついていて、いつ誰にもらったのかも忘れた。それでも無理やりフリントを回せば小さな炎を灯す。ゆらゆらと揺れる炎は今の空によく似ていた。

 (くゆ)る煙草の烟を深く吸い込むと同時に、盛大にむせる。

 白状しよう。実は、ろくに吸えない。

 こんな苦い煙の何が美味いのか、いつまでたっても理解できなかった。酒の味が分からないのと同じだ。それでも口寂しさに煙草を咥え、唇で転がして(もてあそ)ぶ。立ちのぼる紫煙をぼんやりと目で追いながら、肌を撫でる香りを感じた。

 崖の上から見下ろす世界はあかく染まっている。空も海も血を混ぜたようにあかくて、紫煙に混じる香りにさえ、鉄錆臭く感じそうだった。

 海は凪ぎ、世界は停滞している。紫煙の向こうに(かげ)ろう斜陽だけが、じわりじわりと落ちて時を刻む。歪み滲んだ夕日が、世界を闇に落としていく。

 夜明けを待っている。

 ずっとずっと、沈みゆく燃えるような太陽ばかりを見てきた気がする。私は夜明けを待っているのに。

 いつか見た夜明けの、あまりに清廉であまりに荘厳な生に、私は世界をみた。

 希望でもなく、絶望でもなく、ただ怒涛のように押し寄せる生への渇望。それは命を永らえさせることへの渇望ではなく、ただひたすらに今を生きていることへの渇望だった。

 何もかもが煤けた赤黒い大地の上で、私はただ渇いていた。

 夜が明ければ、今度は何が残っているのだろうか。きっと、そこに私はいない。今度こそ、私はいない。それでも私は夜明けを待っている。ただ、夜明けを待っている。

 あの日の夜明けは、(かな)しいほど美しかった。

 

 どこかでカラスが甲高く一声鳴いた。

 

 夕闇に冷えた空気がそっと頬を凪いでいくのを感じて、私は背を預けていた岩から僅かに身じろいだ。

 遠くから風に乗って、息子たちの声がかすかに聞こえてくる。

 自分を呼ぶ声。迎えが来たようだ。

「見つけた、母さん」

 サボが岩の反対から覗き込むようにして、声をかけてくる。それと同時に、「あーあ、またか」と呆れたようにぼやいた。

「かーちゃーん!! こんなところで何してんだー!?」

 元気よく転がり込んできたのはルフィだ。ルフィもまた私を見つけると同時に、「ウヘェ!」と顔をしかめた。

 二人とも以前は、私の怪我を見るたびに、青い顔をしてオロオロしていたのに、今ではずいぶん慣れたものだ。慣れ過ぎてしまい母は若干悲しい。心配してくれていた頃が華というかなんというか。

「全く……、少しは気を付けようとかないのか?」

「善処はしてます……」

「嘘つけ」

「嘘はついてない」

「なら、余計たちが悪いわ」

 サボは小言を言いながらも、持参して来た包帯でぎゅうぎゅうと傷口を締めつけていく。もうちょっと優しく手当てをしてほしいのだけれど、それを言うと自分でやれと包帯を投げつけられるので黙っていた。

 エースの姿がないのは夕飯を作っているからだろう。最近は私を探すのもサボとルフィの二人に任せることが多くなってきた。というのも、サボの探索能力がメキメキと上がっているからだ。何でもかんでも負けず嫌いの二人である。それからルフィが山歩きできるようになったことも大きいだろう。

「よし、続きは帰ってからな」

「帰るぞー、母ちゃん」

 そう言って、サボが私を背負って歩き出す。

 小さな背中はすっぽりと胸の中に収まってしまうくらいに頼りないが、それでも足取りは揺るぎなく、小さな肩に覆いかぶさるようにして掴まる。

「なぁ、母ちゃん。今日の晩メシはなー、ワニなんだ。オレとエースとサボの三人で狩ったんだ」

「ルフィは喰われただけだろ」

「サボ!」

 余計なことまで告げ口したサボに、ルフィはおかんむりだ。

 私はサボの小さな背に揺られながら、顔だけルフィの方へ向けて報告に応えてやる。正直、息を吸うのもツライのだが、そんなことを息子たちに微塵も感じさせたくなかった。

「そっかー、喰われたのかルフィ。どこも齧られなくてよかったなぁー」

「丸呑みだったおかげだな」

 サボがにやにやしながらルフィを横目に見下ろす。

 ルフィはそのからかう視線を受け、うぐっと腐ったものを呑み込んだかのような顔をした。そして、心底嫌そうに言った。

「腹ン中、ドロドロして臭かった。あんなのもう二度とごめんだ」

「あー、分かる分かる。生暖かいのも気持ち悪いよな」

「……分かるのかよ」

 サボが呆れたようにつぶやく。

 狭くて身動きどころか、息もろくにできないしなぁ。ずるんって、腹の中まで滑り込まれるんだよ。そう私が語ると、「知りたくもねぇよ、その知識。なんでそんなことだけ多弁なんだか」とサボは遠い目をしながらぼやいた。

 森の中は相変わらず、声なき声がうるさかった。それでも息子たちの声を聞きわけながら耳を傾ける。もう慣れた行為なのに、なんだか今日は頭の中でも甲高い音が響いていて集中できない。

 私の意識がそぞろになってきたのに気づいたのか、サボが私の代わりにルフィに返事をしていた。

「なぁ、母ちゃん。今日はでっかいやつの話をしてくれよ」

「巨人の決闘の話だろ。もう何回目だよ。俺は別のがいい。なんか納得できねぇし」

「なんでだよ! かっこいいじゃねぇか!」

「だって決闘の理由がくだらなさすぎる」

「サボは分かんねぇ奴だなー! 決闘は男のロマンだろ!?」

「まぁ、そうっちゃそうなんだけど……。いや、いいや。俺はそういうのは遠慮しておく」

「じゃあ、サボは何の話が好きなんだよ」

「赤い月の話かな」

「えぇー!? 何でそれなんだよ~」

 私は黙ったまま、二人の話にぼんやりと耳を傾けていた。

 あまり揺れないように、ゆっくりと進むサボの足取りに合わせて呼吸を繰り返す。しかし、森へと分け入るにつれ、ぐわんぐわんと響き重なる声なき声がいよいよと増幅して、二人の声が遠ざかっていった。

 何だか今日はいつもよりヒドイなぁ、と頭の片隅で考えるが、それさえも響く声にかき消されてしまう。

「なら、……の尾をくわ……の蛇が……で、……の上に……た話も……」

「そ……。オレも……あかい……たい……」

 もうほとんど息子たちの声が聞き取れない。

 何の話をしているんだっけか? ……ああそうだ、寝物語に聞かせてやっている話のことだ。この世界の……、だめだ、思考がまとまらない。何でこんな……、何が……。

 

 カァ、とカラスが一声鳴いた。

 

 バサリと羽音がすぐ耳元ではっきりと聞こえ、はっと振り返ったがそこには森の木々が鬱蒼(うっそう)と続くだけで何もいなかった。

「空の上にいるびっくり鳥人間にも会ってみてぇなー」

「いや、いないから。人間に翼は生えないから」

 ふいに、息子たちの声が聞こえてきて、私は頭の中でガンガン響いていた声が消えていることに気がついた。

 声なき声は相変わらず平常通りだが、心なしか息がしやすい。

「どうかしたか、母さん?」

「うん。いや、……何でもないよ」

 私の様子に気がついたサボが声をかけてくるが、私はあいまいに返事をした。

 どうやらサボもルフィも、あのカラスの存在には気づいていないようだ。さもありなん。こんなところで子ども相手に気づかれるような奴ではないだろう。

 何だ、そうか、そういうことか。

 忘れていた訳じゃないけど、考えないようにはしていた。というのは言い訳にもならないか。私は声もなく口を歪めて笑った。

「それで母ちゃん。今日はどんな話をしてくれるんだ?」

 ルフィが黒い目を丸めて見上げてくる。

 私は目を細めて見返し、すぐには答えなかった。

 そんな私に、ルフィは首をかしげている。

 初めにルフィがねだって話すようになった寝物語も、もう両手の数では足りないほど話した。普段、兄たちばかりが私と勉強の話をしているのが気に入らなかったのだろう。「何かおもしろい話をしてくれよ」と頼まれても口から何も出てこなくて困ったものだ。自分から話をするというのがこんなにも難しいとは知らなかった。

「……んじゃまぁ、今夜は妖精の話でもするかな」

「よーせい?」

「なんか、今度はえらくメルヘンチックだな」

 サボが戸惑ったように口を挟み、私はそれもそうだと苦笑した。

「なぁ、よーせいって誰だ? 強ぇのか?」

 好奇心を抑えられない慌ただしさをもって、ルフィが無邪気に質問をたたみかけてくる。

「人間の前には姿を現さない、小さな生き物だよ。……小さいけど、とても強くて優しい」

「へぇー、小さいのに強ぇってすげぇな」

「続きは後でね」

「わかった!」

 そう言って、ルフィが素直に頷いた。

 ルフィぐらいの齢には、エースはもう反抗期で私の話などロクに聞かなかったけれど、ルフィはいつまで経っても素直で純粋だ。人の話を聞かないのは同じだが。

 エースなんて、私が四苦八苦つっかえながら寝物語を聞かせてやっても、「それより、おふくろの航海の話をしてくれよ」とか言って、ふてぶてしく寝転がりながら覚めた目で見てくる。

 時折、どうしてこんな現実主義者(リアリスト)に育ってしまったのかと首をかしげるが、よくよく考えると、夢や希望を語っているエースの記憶がなかったからそんなものかもしれない。

 結局私は「自分の眼で見に行け」と言って、エースが望むような話はしてやらないのだ。

 やがて、踏み慣らされた道に出た。

 ここまで来ればアジトはもう目と鼻の先だ。

 夕闇が迫る淡い色をした星空を背景に、樹々の上から立ち上る煙がゆっくりと揺れている。ふわりと舞い起こった風につられて、ルフィが歓声をあげた。

「肉だ! ワニ肉の匂いだ!!」

「お、本当だ。今日は肉の丸焼きとスープかな」

 サボも確認するように鼻を上げて、ルフィに同意する。

「うぉおお!待ってろよ肉ぅう!!」

「お前が待てルフィ!!」

 突然走り出したルフィは、サボの制止も聞こえていないようで、そのまま道の向こうへ姿を消してしまった。

 まぁ、もうすぐ森も抜けるので、一人で行かせても危険はないだろう。

 サボもそう判断したのか、ため息だけ吐いて、急ぐことはせずにゆったりとしたペースのまま歩き続ける。

「ルフィのやつ、帰ったらエースに小言くらってるな」

「そうだねぇ」

 迎えに行ったサボと私を置いて、一人で先に帰って来たのをエースが見たら、それはもうネチネチとお説教をするだろう。

 きっと、私とサボがアジトのドアをくぐったら、囲炉裏の傍で正座をさせられ、目の前にある夕飯に意識を持っていかれながら、お小言を聞き流しているルフィがいて、そんなルフィに声を荒げるエースがいるのだろう。まるで目に浮かぶように想像できる。私とサボはくすくすと同時に笑った。

 不意に、唐突に。

 私は幸せというものが形をもってそこに存在しているように思えた。それが何だか耐え難くて、私は笑い声をあげたその口で、息を殺して空を見上げる。

 どうしてか、夕飯の匂いは私には分からない。

 先ほど見上げた時よりも深くなった星空を、流れる川のように白い煙がうっすらと立ち昇ってゆく。あの煙の下にエースもルフィも、ダダンも他のみんなもいる。

 帰らなきゃなぁと思う。

 私の居場所なんてどこにもないけれど、それでも、待っていてくれる人がいる場所が、私の帰る場所なのだと思う。だから、ちゃんと帰んなきゃ。

 

 この日、私は時間が残り少ないことを知った。

 

 

 

 

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