空と海と最後のブルー   作:suzu.

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14.いつまでもあると思うな親と職

 

 目の前に聳え立つ石壁は、こんなにも高かっただろうか。

 よろよろと大門に近づくたびに、吹き抜けていく強風は熱くなっていく。

 いつも開け放たれていた大門は、ぴたりと隙間なく閉じられ、辺りに濛々と立ち込める黒い煙が、風に煽られ生き物のように地面を這いずり回っている。熱された空気にじわりと汗が噴き出して、俺は額から流れてくる血と一緒に乱暴に拭った。

 

 高町から逃げ出してきた俺はすでに疲れ果てていた。

 警官は驚くほど執拗に追いかけてきて、ただ子どもを捜索し保護するためという理由ではあり得なかった。きっと父親の権力や情報漏洩の危惧など、様々な思惑があったのだろう。

 高町から出るのに無茶をしたせいで、あちこちに血が滲み、服もボロボロになっている。

 もう一度額を拭って、俺は石壁を見上げた。

 壁の上から真っ赤に染まった空が覗いている。今にも壁を越えて押し寄せてきそうなほど荒れ狂った炎の気流。この壁の向こうは一体どれほどの灼熱地獄なのか。

 何かが焼ける嫌な臭いがする。ゴミ山でさえ嗅いだことのないほどの悪臭。恐らくそれはゴミが焼ける臭いだけではない。想像するにもおぞましい臭いだ。

 もし、この向こうにあの二人がいたら。

 そう思うと居ても立っても居られず、俺は喉が枯れんばかりに叫んだ。

「エース! ルフィ! 逃げろー!!」

 せめてこの声が届けば。いや、もはや声が届く範囲にいるようでは何もかもが遅い。それでも叫ばずにはいられなかった。炎の中へ二人を探しに行くどころか、固く閉ざされたあの門をくぐり抜けることさえできそうにもない。俺は無力だった。

 その時、門の傍にいた兵士たちが俺を見て囁くのが聞こえた。

「おい、あのガキ、ゴミ山の『悪童』の一人じゃないか?」

「ちっ、町中にいたなんて運がいいな」

 はっとして、俺は視線を上にやったまま息をひそめた。向こうと俺との距離はそれなりにある。兵士たちは俺に聞かれたとは微塵も思っていないようだった。俺は聞こえたことを知られてはマズいと思った。

 兵士たちは声を潜めて話し合う。

「邪魔だな。どうする? 放り出すか?」

「……いや、命令は全部(、、)だ。誰にも見つからないように処理するぞ。明日、外で他と一緒にしてしまえばいい」

 何だって? 何を言っているんだ?

 俺が聞こえた声に呆然としている間に、兵士たちは俺に歩み寄っていた。その顔は頭上からすっぽりと覆ったマスクで何も見えない。何の表情も窺うことができなかった。

 兵士たちは俺に近づきながら無機質な声で言った。

「君、ここは危ないから避難するんだ。我々が君を安全な場所まで連れていこう」

「さあ、来るんだ」

 そう言って兵士は、俺に向かって手を伸ばした。

 その手がひどく不気味に見えた。捕まればどうなるのか、何をされるのか、明日には他と一緒に俺はどのような状態になってしまっているのか。そんな疑念が恐怖に変わるのは一瞬だった。

「う、うわぁあ!!」

「あ、くそッ!! 追え!」

 目の前に迫るその手に、思わず声を上げて逃げ出した。

 兵士の焦った声を背後にして必死に駆ける。

 

 走る。走る。走る。

 町の景色と人だかりを置き去りにして。

 ゴミ山の火事騒動で外に出てきていた町の住人たちは、必死の形相で走り抜ける俺と、追いかける兵士を見て驚愕していたが、子どもを追いかける兵士を訝しむ人間は誰もいなかった。

 そりゃそうだ。だって俺はこの端町ではゴミ山の子どもとして有名だった。今回の騒動に俺が関わっているから兵士に追われていると思われたのかもしれない。

 俺たちを呼び止める人間は誰もいなかった。助けてくれる人間も。

 荒い呼吸と心臓の音がうるさい。すでに体力の限界は超えていた。それでも気力を振り絞って足と腕を動かし、無我夢中で町の通りを駆け抜ける。

 火事に集まった人たちの間をすり抜け、気がついたら人気のない細い裏道を駆けていて、自分が今どこを走っているのかさえ考えることもできなくなっていた。

 これまで何度もエースたちと走り抜けた端町が、まるで知らない場所のように俺を呑み込む。いつもなら複雑なルートを考えながら、簡単に撒けるのに、別の事ばかりが頭を埋め尽くしていく。

(どうして、どうしてこんなことができるんだ? どうして、平然と人が殺せる?)

 高町の人間や国軍の兵士たちの姿が、脳裏を駆けめぐる。

 頭の中のどこか深い奥で、そいつらの声が耳鳴りのように、ぐわんぐわんと響いては消え、もはや何を言っているのか判別がつかない。ただ、反響して増幅するその声は、大きな黒い渦のようで酷く恐ろしかった。

 時折、ぽしゅんぽしゅんと気の抜けた音が響いて、腕や足に銃弾がかすっていく。腕や足のあちこちがじんじんと痛みを訴えたが、掠り傷に構っている余裕はなかった。

 洗濯物ロープの下を潜り抜け、空き瓶を蹴り飛ばし、木箱の上を飛び越え、どんどん町の奥へと吸い込まれていく。

 もはやどこへ行けばよいのかだとか、そんな思考すら放棄していた。ただ町に誘い込まれるままにひた走る。

 足を止めればそこで終わりだと、それだけは、はっきり理解していた。

「はぁッ! はぁッ! はぁッ!」

 息が苦しい。上手く空気が吸えなくて、まるで火の中にいるみたいに全身が熱い。

 嫌な臭いがする。火の手が上がる壁からはずいぶん離れた筈なのに、嫌な臭いが呼吸を奪っていく。

 いいや、違う。これは火事の臭いじゃない、この町の臭いだ。この町の中心から強烈に腐った臭いがする。腐った人間の臭いが充満している。この町で俺は、満足に息さえできないのだ。

 俺は無様に呼吸をくり返しながら、細い裏通りの石畳を蹴りつけた。

 自分と兵士たちの足音が、薄暗い壁に反響する。赤い空が光源となり不規則な明暗が視界の端を高速で過ぎていく。建物の輪郭だけを認識して俺は走り抜けた。

 はっと気がついた時には、目前に迫る交差の死角から人の気配があった。

(ぶつかる!)

 慌てて回避しようと身体を捻る。

 角から飛び出してきた俺に、向こうの奴も寸前で足を止めた。

 なんとか全面衝突を免れるも、俺はスピードを殺しきれず相手の懐に飛び込むように体がつんのめる。一瞬のうちに視界が黒で覆われ、反射的に少し高い位置にある相手の顔をパっと見上げた。

「母さん……」

「……サボ」

 目と鼻の先で、お互いの顔を突き合わせ、俺たちは呆然と呟いた。

 そこにいたのは、紛れもなくコルボ山にいるはずの、母だった。

 驚いた顔で青い眼を見開きぽかんとしている。そして、その眼の中に映る俺も同じような顔をしていた。

 どうして母がこんな場所にいるのか。どうやって町まで来たのか。いや、それよりも、どうしてそんな黒いスーツを着ているのか。

 瞬時に嫌な疑念が頭の中を駆け巡る。だが、その思考は致命的な間だった。

 気がついた時には背後に兵士たちが追い付いていた。

「いたぞあそこだ! 撃て!!」

「しまっ……!!」

 銃口越しに数人の兵士たちの姿が目に映った。何本もの銃身が伸びていて、それが一斉に火を噴いた。避けきれないと思った。その次に母さんにも当たると思った。

 突き飛ばさないと、そう考えるよりずっと先に、俺の腕は母に向かって伸びていた。だが、俺の腕が母を突き飛ばすことはなかった。

 いつの間にか母は飛び出していた。

 四つ角の真ん中、俺の前に。

 

 そこからは、まるで時間がゆっくりと動いているかのように、俺の視界には全てが克明に映っていた。俺を手繰り寄せる母の細い手も、抱き込まれた胸元の黒い服の皺も、肩越しに見えた赤く明るい夜の空も、その空を切り取るように囲む黒い輪郭だけの建物も。

 はっとした時にはキーンとした耳鳴りがして、銃弾の残響が耳に残っていた。耳元を掠っていったのか。一拍遅れて左肩に焼けるような痛みを感じた。こっちは被弾している。最後に地面に落ちた衝撃が背中から伝わった。

「かあ、さん……?」

 そしてようやく、自分の上に覆いかぶさっているのが母であることに気がついた。

 抱きこまれた体勢のままで、母の顔は見えなかった。

 そろりと肩越しに手を回すと、母の背中はぐっしょりと濡れていた。指を擦るとぬるりとした感触がする。それが血であることに気付くのに、しばしの時間がかかった。

 ぐったりと動かない母を抱えて、位置を入れ替えると、母は目を閉じたまま細く短い息をしていた。口からごぽりと血が溢れる。母を抱えた腕をすり抜けて血が滔々と零れ、薄暗い石畳にドス黒い血だまりが、みるみる広がっていった。

「あ……、」

 ただ茫然と、言葉にならない衝撃をぽつりと零した。

 母が酷い怪我で転がっているのは見慣れていた。血まみれの姿も。

 でも、こんなぐったりとして目を閉じている姿は初めてだった。母はいつも笑っていたからだ。どんな酷い怪我でも平気で笑っていた。なのに、どうして。

「か、母さん、母さん……! しっかりしてくれ!!」

 ようやく言葉になった呼びかけは、みっともなく震えていた。

 なんとか零れる血を止めようと、背中に手を押し当てるが、その手の隙間からまた零れてくる。息がひゅぅひゅぅと可笑しな音を立てている。時折、血を吐き出す。

「くそっ! 民間人を撃っちまった!!」

「こうなりゃ両方とも処理するしかないだろ!」

 いつの間にか兵士たちは、俺と母を包囲していた。

 一番背の高い兵士が、焦ったように吐き捨て、俺に銃口を向けた。

 母を連れては動けない。撃たれると思った時、別の兵士がはっとして声を上げた。

「お、おい、待てよ!? この女が着ているスーツ……」

 一瞬、声を詰まらせる。そして、にわかに声を荒げて叫んだ。

「せっ、世界政府の役人じゃないのか!?」

 その悲鳴じみた声に、他の兵士たちもばっと母を見下ろした。

 咄嗟に母をその視線から隠そうと抱きよせる。

「まさか!? こんな所にいるはずが! だ、だいたい視察団が来るのは明後日だぞ!」

 震えを隠せていない声で背の高い兵士が叫ぶ。だがそれに答えられる者はいない。

 騒然とした空気が場を包んで、俺はどうすればいいのか分からず息を潜めたまま身を固くしていた。母の身分を話せばすぐにでも治療してもらえるのか、それともこのまま俺共々闇に葬られるのか、その判断がつき難かった。

 俺が何か声をあげようとしたその時、くぐもった声が俺たちの耳に聞こえた。

「あーごほっ、あーうん、」

 俺のでも兵士たちの声でもない。喉の奥が詰まって上手く声が出ないような、喉の調子を確かめるために声を出したような、そんな間の抜けた声だった。

 まさかという思いで、全員の視線が横たわる母へと注がれる。

 むくり、と。抱えていた母が起き上がった。ぼんやりとした眼はまるで寝起きのようで、どことも見てはいない。がしがしと頭を掻きながら、少し濁った声で「あー、大丈夫、大丈夫。少し驚いただけで問題ない」と言った。

 呆気にとられたのは、俺も兵士たちも同じだった。

 まだ血は流れ続けているし、呼吸だって浅く変な音がしている。決して大丈夫だなんて一言で表していい状態ではない。それでも母は何事もなかったかのように起き上がった。

 咄嗟に引き止めようとした俺の手はさり気なく振り払われ、俺は呆然として血だまりに座り込んだまま母を見上げた。

 母は無表情で立っていた。

 この世のものとは思えない静邃を湛えた眼が茫洋とくすんでいて、まるで一枚薄い皮の向こうにいるように存在が遠かった。

 手を伸ばしても空を切りそうな違和感と、僅かばかりの疑念。それらが母に生きていることを感じさせない。そして、それがたまらなく恐ろしく感じられた。

 いまだ戸惑う俺たちを前に、母は淡々と口を開く。

「あと別に私は使節団の先遣隊とかじゃないから。合流する手はずにはなってるけど、今はまぁ、ただの通りすがり」

「そ、それではやはり」

 兵士たちは、母が役人だったことに声を詰まらせていた。

 自分たちの処分が恐ろしいのだろう。それほどまでに世界政府とは権力があるのか。それとも、この時期だからこそ問題を起こしたことに責任があるのか。俺には判断がつかなかった。

 そんな様子の兵士たちを見て首をかしげた母は、「ああ、」と思い至ったように声をあげて「私を撃ったことは報告しなくていい」と言った。

「え……!?」

「い、いえ、ですが、」

「私はここに居なかった。その言葉の意味が分かるね」

 いつもより低い母の声が耳を打つ。

「「「は、はい!!」」」

「うん。それでいい」

 兵士たちの委縮した返事に対して母は無機質に応えた。その声が静かに裏通りに響く。

 この場を支配しているのは紛れもなく母であった。

 見たことのない母の姿に、俺はじっと息を潜めて母を見上げた。

 薄暗がりの中に、母の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。薄明るい赤色の空が、母の青髪を万華鏡のように不思議な色彩に咲かせ、それ以外の全身が赤黒く暗がりに滲み、どうにもアンバランスな輪郭であった。

 座り込んだままの俺を、兵士の一人が見下ろして言った。

「それで、その子どもは……」

 俺はぎくりと身を強ばらせ母を注視した。

 母は問うた兵士を横目に、当然の理を述べるように答えた。

「ああ、この子はこの国の貴族のお子さんで、現在捜索願が出ている。知らなかったのか?」

 母のその言葉に、俺は目を見開いた。

「貴族の……!? 申し訳ございません!!」

「ですが、その、貴女を母親と呼んでおりましたが」

 背の高い兵士がどこか胡乱げな声で問いかけた。

 母は一瞬俺を見下ろしたかと思うと、すぐにふいっと視線を逸らして言った。

「人違いでしょ」

 ひくり、と呼気が喉に詰まった。

「ぁ、かぁ、……!!」

 世界がぐらぐら揺れ、耳元で鼓動がうるさい。

 呼びたいのに声が出ない。息が上手く吸えなくて、今になって全力疾走した全身が震える。鼓動が鳴り響いてうるさいのに、耳はしっかりと母の会話を拾う。

「第一、私が母親って(とし)に見える?」

「い、いえ、失礼いたしました」

 爪が掌に食い込むが、痛みすら感じる余裕はない。

 俺はいつのまにか石畳に広がる赤い染みを見つめていた。噎せかえるような血のにおいがする。

 コツリと靴音を鳴らして、母は踵を返した。

 兵士たちが慌てて敬礼して見送る。それを横目に、片手をひらひらと振りながら「じゃ、」と声をかけ、母は俺たちの横を通り過ぎた。

 そして、去り際に言った。

 

ゴミ処理(、、、、)お疲れ様」

 

 俺は恐ろしい勢いで背後を振り返った。

 夜の町に消えようとするその後ろ姿が誰か知らない人間のようだった。

「ぇ……?」

 ようやく、呆然とした声が俺の口から零れ落ちた。

 頭の中が真っ白になる。母の後ろ姿から目が離せない。

 まるで現実味のない、けれど耳元で鳴り続ける自分の鼓動はあまりにもリアルで、これが今本当に目の前で起こっている事なのだと、嫌でも思い知らされる。

 母の言葉の意味が、分からなかった。

 それは、どういう意味だ。ゴミ処理って何のことだ。この火事のことなのか。なんでそのことを母が……。

(全部、知っていたのか……) 

 言葉で表現しようのない想いが胸を押しつぶす。

 はは、と口から息が漏れた。どうやら俺は笑ったらしい。

 よろり、と俺は立ち上がった。

 力がうまく入らなくて、何か声を上げようとしてふっと息が抜ける。身体が芯まで冷えている気がした。呼吸が苦しい。疾走している時よりずっと。限界なんてとっくに超えた身体がもう駄目だと悲鳴を上げている。

 一歩、足を前に踏み出す。ぐらりと傾いた重心を戻して、もう一歩。進むたびに母の後ろ姿は遠ざかってゆく。

 ぎゅっと胸元の服を掴んで、青い髪をなびかせた小さな後ろ姿を見据えた。そして、深く息を吸い込み、獣の咆哮のように俺は叫んだ。

「――行かないでくれ母さんッ!!」

 悲痛な声が裏路地に響き渡る。

 だが、母は振り返ることも足を止めることもせず、その姿は小さくなるばかり。

「母さんッ!! かあッ……!!」

「おい! どこに行く気だ!」

 走りだそうと前に沈めた体勢のまま、後ろから兵士に取り押さえられる。自分でもどこに残っていたのかという程の力で暴れるが、押えられる腕が増えて振り払いきれない。

 もがきながら擦れた声で叫んだ。喉が引き攣って血の味がしても。

「かあさッ……!!」

 それでも母は一度も振り返らず、そのまま薄暗い路地の向こうに消えていった。

 は、は、と呼吸の音が聞こえる。兵士たちの拘束からもがくのを止め、俺は立ち尽くした。

 どれだけ霞む視界を凝らして待っても、薄暗い路地の向こうには闇があるばかりで、母の姿は戻ってこなかった。

 

 

 その後、俺は兵士たちに引きずるようにして連行され、左肩など傷の手当てと撃たれたことを口止めされた。そして夜明け前には家に戻された。

 寝ていたところを起こされた父は大層不機嫌で、殴られ、怒鳴られ、また殴られ、そのまま物置部屋に俺を監禁した。

 小さな部屋は少し埃っぽく、箱や物がごちゃごちゃしていたが、ゴミ山で暮らしていた俺には部屋の状態なんて少しも気にならなかった。天井近くにある小さな明かり取りの窓から見える空は、まだうっすらと赤い夜の色をしていた。

 俺は部屋の隅に座り込み、母のことを考えた。

 どうして母は知っていたのに、何もしなかったのか。あの姿はまるで高町の人間たちのようだった。それが仕事だからだろうか。腐った奴らに従うことが仕事なのだろうか。それが母にとって人の命よりも大切なことなのだろうか。

 どれだけ考えても分からない。分からないことだらけで、何を考えればよいのかもわからなかった。ただ延々と同じ問いを繰り返し続ける。答えなんて見つかる訳がない、欲しくもないと、心のどこかで思いながらも問い続ける。

 時間を経るごとに、もやもやとした問いは膨れ上がる。やがて俺はその問いの根本が何か気がついた。これは俺自身の感情だ。自分でも意外なことに、それは怒りでも悲しみでもなく、ただの恐怖だった。

 俺は、人の命を命とも思わない異常な周囲が恐ろしいのだ。周囲が当然のようにその考えを振りかざしているのが恐ろしい。周囲と違うことがまるで悪であるかのように言われることが恐ろしい。そして、この国に飲まれて俺という人間を変えられることが恐ろしい。でも、何よりも恐ろしいのは、母を信じられなくなることだった。

 きっと母はこの国を出ていく。俺たちを置いて行ってしまう。

 今すぐ母に全てを問いただしたかったが、きっと何も答えてくれないだろう。普段は何でも教えてくれるのに、本当に大切なことは何も教えてくれない人だった。それだけは「自分で答えを出せ」と言って笑っていた。

 でも、考えても答えが出ない時はどうすればいいのだろう。

「母さん……」

 ぽつりと零れた声が小さな部屋に響いた。

 身体がぶるりと震える。一人であることを自覚すると急に寒さが襲ってきた。手足を抱えるように縮こまり唇を噛みしめる。

 今頃、エースとルフィはどうしているだろうか。無事に、あの火事から逃げられただろうか。ブルージャムとはどうなっただろう。何事もなく無事でいてくれと願うことしかできない。

 すぐにでも二人のところに帰りたかった。でも、自分はもうコルボ山に帰ることはできない。父親との約束の為だけではない。俺は二人の顔をまともに見られるとは到底思えなかった。

(ごめん。ごめんな、エース、ルフィ……)

 母の遠い後姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。二人に合わす顔がなかった。

 どうしてこんな事になったのだろう。一昨日までは何でもない毎日が続いていたのに、一体どこから狂いだしたのだろうか。どうして、こんなにも分からないことばかりなのか。

 見上げると、窓から差し込む光は薄明るくなっていた。

 あの不気味な赤い色ではなく、やわらかな光を湛えている。夜明けだ。

 俺はゆっくりと息を吐き出した。強張った身体をゆっくりと動かし、痛みの残る腕や足をそっとさする。そうしてしばらく目を閉じた。すると、ふいに暗闇の中で母の声が脳裏をよぎった。

『自分の眼で見に行け』

 それはいつだったか、母がエースに言った言葉。

 はっとして俺は目を見開いた。

 そうだ分からないことばかりなのは当然じゃないか。今までだって知らないことばかりだった。俺はまだ海にも出たことがない、その向こうの広い世界も知らない子どもだ。だから自由を求めた。冒険の本を書く夢を叶えるために。

 じっとして居られなくなって俺は立ち上がった。

(行こう! 知るために、確かめるために、海へ……!)

 母を信じられなくなるぐらいなら、俺は自分の眼で世界を見に行く。今世界で何が起きているのかを知るのだ。

 そして、何が正しいのか、その答えを自分で出す。

 この国で俺が腐ってしまう前に。

 

 

 

 

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