サボが死んだ。
嘘か冗談みたいな話を信じるなんて到底できなかったが、ドグラの目は戸惑いを浮かべながらも真剣で、それがドグラの嘘でも冗談でも無いことを認めるしかなかった。
「あいつが幸せだったなら、海へ出る事があったろうか。海賊旗を一人掲げて海へ出る事があったろうか」
ドグラはそう言った。その気持ちが分かると。
俺はサボを奪い返しに行かなかったことを悔やんだ。何が「様子をみよう、嫌ならまた必ず戻ってくるさ」だ。唯の嫉妬だった。本当の家族が居ることに嫉妬して、俺は口先で自分を誤魔化して助けに行かなかった。そんな自分を殺したくて仕方がなかったが、自分の父親に頭を下げてまで俺とルフィの命乞いをしたサボの姿が浮かんでどうしようもなかった。
せめてサボを殺した奴を殺しに行こうとした。絶対に仇を取らなきゃなんねぇと思った。だが、ダダンに床に叩き付けられて、「死んで明日には忘れられる。それくらいの人間だ、お前はまだ」と言われた。そして街へ行かないように木に縛り付けられた。
サボが一体何に殺されたのか分からない。
ダダンはサボを殺したのはこの国であり世界だと言った。国って誰だ、世界って誰だ。この国に来た天竜人って奴なのか、それとも世界政府それ自体なのか。結局サボは何に殺されたのか。どうしてサボが死ななければならなかったのか……。
いや、人が死ぬのに大した理由なんて無いことを俺は知っていた。ゴミ山の住人たちがそこで生きているというだけで殺されること。ゴミ狩り部隊の兵士たちがそこで生きているというだけで殺すこと。それがあそこでは当然のルールだった。
だから俺達は細心の注意を払って生きる必要があった。
ゴミ狩り部隊が門の外から出てくる日には山の中に身を隠すこと。ブルージャムの一味には手を出さないこと。高町には足を踏み入れないこと。他にもたくさんある。そういった注意すべき事は俺達だけじゃなく皆知っていた。誰かが教えてくれた事もあるし、暗黙の了解みたいなのもあって、それは肌で感じ取って知った。
そうやって、今まで生きてきた。誰かに理不尽に殺されるかもしれない。そんな恐怖を力で捻じ伏せて、生きていくために強くなりたかった。
力があれば生きていけると、そう思っていた。
木に縛りつけられ身動きの取れないまま夜が明けた。
ルフィは一晩中泣いていた。
泣き止ませるのは、おふくろかサボの役目だった。
その日の朝、サボから手紙が届いた。
出航する前に手紙を出していたのだろう。俺は縄を解いてもらって手紙を受け取り、一人になれる場所を探して歩いた。皆の前で読む気にはなれなかった。紙を広げるとそこには見慣れたサボの字が並んでいた。
手紙は俺とルフィの二人に宛てたものだった。
『 エース ルフィ
父親の事で二人には迷惑をかけた。あの後、ブルージャムに酷くされなかったか? あの火事で怪我をしていないか? 心配だけど無事だと信じている。
俺はもう帰れない。お前達には悪いけれど、二人が手紙を読む頃には俺はもう、海の上にいる。色々あって一足先に出航する事にした。俺は世界を見に行く。何が本当なのか、自分の眼で確かめに行くんだ。行先はこの国じゃないどこかだ。そこで俺は強くなって海賊になり俺の冒険を始める。誰よりも自由な海賊になって。
なぁ、勝手な話だけど、俺をまだ兄弟だと思ってくれるだろうか。もし、まだそう思ってくれているのなら、また兄弟3人どこかで会おう。広くて自由な海のどこかでいつか必ず。
それからエース、俺とお前はどっちが兄貴かな。長男二人、弟一人、母親一人。変だけどこの家族の絆は俺の宝だ。ルフィの奴はまだまだ弱くて泣き虫だけど俺達の弟だ。よろしく頼む。
追伸
エース、どうか母さんを許してやってほしい。』
手紙を読んでしまうと俺は海へ出た。すがすがしい程に青くて広い海だった。
サボはこの海のどこかに居る。誰もサボの遺体を引き上げようともしなかったらしい。今更、俺が海を潜っても遅い。せめて服の切れ端一枚でも浜に流れ着いてくれれば、俺はサボの死を実感できるのかも知れない。
なんにせよ、一つだけ確かなことがある。
サボは、おふくろがもう帰ってこない事を知っていたのだ。
おふくろは不思議な人だった。
何をやらせても状況悪化しかさせないある種の特別な才能を持ち、物心つく前の俺がどうやってこの人のもとで生き抜くことができたのか疑問に思う程には酷かった。(勿論その答えは山賊たちにある)。
母親としては無能どころの話ではなかったが、あの山賊アジトの中でおふくろの存在は妙に馴染んで受け入れられていた。その存在に疑問を持つこともあったが、おふくろが居る事が俺にとっての当たり前だったから、アジトの中で唯一おふくろだけが俺だけの母親だった。
しかし、大勢の中で暮らしてきた為か、おふくろと俺との距離は物理的にも精神的にもどこか離れていた。おふくろが俺の本当の母親じゃないと知った時は、この距離感は俺が本当の子どもじゃない所為だと思った。今よりもガキだった頃の俺はそれが許せなくて、必要以上に乱暴に当たったり、気を遣ったり、無視したり、おふくろの気を引こうと躍起になった。
後になって気づいた事だったが、実際のところ、その距離感は俺だけじゃなかった。おふくろは誰に対しても壁を作っていた。そして、それを悟らせないようにするのが非常に上手かった。
結局、俺が何をやってもその距離は埋まらなかったし、それがこの人なのだと納得する事で折り合いをつけるしかなかった。
そんな人ではあったが、おふくろの愛情を感じなかった訳じゃない。
ルフィやサボが上手いことおふくろに甘えているのを見て、俺もああすれば良かったのかと自分の不器用さを悔しく思ったこともあったが、兄弟が増えておふくろからの愛情が三分の一になると危惧したのは杞憂でしかなく、おふくろの愛情が三倍になっただけだった。あの人は、俺もルフィもサボも平等に愛してくれていた。
愛情深い人ではないのは確かだ。でも薄情な人でもない。母親らしい人ではないが家族だ。すぐに怪我をする人だが弱い人ではない。軽薄な態度の人だが嘘をついたことはない。感情の読めない笑みを浮かべているが人間味のない人ではない。
どんなに蔑まれても罵られても傷つけられても、いつも何でもない事の様に笑っていた。まるで流れる水や雲の様な、掴みどころのない人だった。俺にはそれが自由な生き方に思えた。
だからだろうか、おふくろが俺達を捨てたことについて、俺は奇妙なほど淡々と納得した。怒りも悲しみもあったが、それ以上に事実をすんなりと受け入れてしまった。サボの死の衝撃の方がよっぽど受け入れられなかったからかも知れない。
結局、俺は心のどこかで、いつかおふくろとの別れが来ることをずっと知っていたのだ。知っていながら気づかない振りをしていただけ。それは、俺がおふくろを捨てるのが先か、おふくろが俺を捨てるのが先か、どちらかが先に裏切るかの問題でしかなかった。
そしておふくろは俺を裏切った。最も残酷な方法で。
「おふくろは聖地に行ったんだな」
青い海を眺めながら俺はそう口にした。
俺の後ろには様子を見に来たダダンが立っていた。
「ああ、復職するんだとさ」
「まともに働けるものか」
「それにはあたしも同意するよ」
海はいつも通りの穏やかさでそこに在った。空も浮かぶ雲もそよぐ潮風も、物心ついた時から毎日のように見てきた景色と何も変わらないのに、どうして、こんなにも虚しく見えるのか。
手紙を握りしめる指にはもう力はない。俺はゆっくりと腕を持ちあげて掌で自らの目元を覆った。陽の光が瞼の裏側まで貫いて赤い残像が目を刺す。それを暗闇の中でなぞるように追いかける。
「意外だねェ」
「何が」
唐突に、本当にそう思っているのが分かる声でダダンが言うので、俺は何が言いたいのか意図が見えなくて後ろを振り向いて訊ねた。
「手が付けられねぇくらい暴れるかと思ってたんだが」
「別に……」
俺が言葉を濁すと、ダダンは少し考えてから訊いた。
「気づいてたのか?」
「まぁな」
「ふん、子どもってのは大人が思ってるよりも見てるもんだね」
俺は何を言えばいいのか分からなくなって黙った。
気づいていたのは本当だ。おふくろの様子が変だった時からこうなるかも知れないと心のどこかで思っていた。でも何もできなかった。おふくろを引き留めることなんて俺にはできなかった。引き留める機会さえ与えられなかった。
「あたしは自分の分しか殴ってないよ」
「自分の分?」俺は聞き返した。
「そうさ、一発だけしかあの小娘をぶん殴ってない。それはあたしの分。だから、おめェの分はおめェで殴りに行きな」
きっとその一発をおふくろは真面目に殴られたのだろうと思った。弱いくせにそういう律儀な面があることを俺は知っていた。それが別れ際の筋を通さないおふくろなりの筋の通し方なのだと。
「殴んねぇよ」
「あぁん?」
ダダンは眉を顰めると、目を細めて俺を見下ろした。
「父親ならともかく母親相手に手を挙げたりしねぇよ、俺は」
「いや、おめェ、いっつも小娘を乱暴に扱ってたじゃねェか」
「蹴ったり投げたりすることはあっても殴ってはいない」
「ふぅん。まぁいいさ。どうせ全部あの小娘の自業自得だったしね」
ダダンはそう言って頷いた。
暴力息子の疑惑は晴れていないけれどもダダンの中ではそれで問題ないらしい。あまり良い気持ちはしないが、もうそれでいいことにした。
「見送られるのが苦手なんだと」とダダンは言った。
「いつもそうだった」と俺は答えた。
おふくろはいつも何も言わずに行く。昔からそうだった。それに憤って追いかけようとした頃もあったが、そんな事は無意味で不可能だと理解するのにそう時間はかからなかった。なぜなら、おふくろの中では俺達の事と仕事の事は全く別の世界に分かれていて、同じ視点で考えられるものじゃないからだ。
「本当は知ってたんだ。おふくろは何処にでも行けるって」
言い訳を言うように、小さな声で俺は言葉を続けた。
「いつも怪我ばかりで、この山だってロクに出歩けないけど、行こうと思えば自分一人で何処にでも行けたんだ。それを知っていて俺は何処にも行かせないようにしていた。足手まといだからとか、怪我で帰って来られないのが面倒だからとか、そんな心配する振りをして何処にも行かせないようにしていた」
そこでふっと息を吐いた。ダダンの足元の小さな草が風に震えている。少しの間を空けて、俺は絞り出すように言った。
「おふくろが本気で行ってしまったら、今の俺には追いつけないのを知ってたからな」
乾いた唇を引き締める。俺は奥から漏れ出そうな何かを抑え込んで、憮然とした表情を作って顔を上げた。
ダダンは鋭い眼つきで俺の事を見つめていた。そして腕組みした指をトントンと二回叩いて言った。
「マグラの話じゃ、小娘は式典にいたそうだ。とは言っても、王族貴族に混じって出席していた訳でも、市民に混じって歓待に参加していた訳でもなく、ただじっと裏通りから眺めていただけだから、姿を見つけられたのは奇跡みたいなもんだって言ってたな。それでもあの髪色はテミスに違いないだと」
「そうかよ」
俺はそれだけ答えた。それから、できるだけ平坦な声で言った。
「マグラが見てたんだ。おふくろも見てたんだろうな。サボが殺されるところを」
ダダンは答えなかった。
「サボが手紙でおふくろを許せって書いてたんだ」
くしゃり、と手の中でサボの手紙が音を立てる。
俺はゆっくりと息を吸い込んだ。深く、深く、吸い込んでゆっくりと吐き出す。それから震えそうになる唇をそっと開いた。
「でも、俺は何を許したらいいのか分かんねぇ。だって俺はおふくろに対して何一つ怒ってないんだからよ。許すも何もハナっから許せる事なんて何もねぇんだ」
「エース、おめェ……」
ダダンが擦れた声で呟いて息を呑んだ。俺はそれに構わず言った。
「サボは国に殺された。世界に殺された。俺はそれが何を意味するのか分かんねぇ。サボが一体何に殺されたのか分かんねぇんだ。俺はサボみたいに頭がよくないから……」
微笑もうとして口元がぐにゃりと歪む。
一体、俺は何を許せばいいんだろうか。サボを殺したのはきっと自由とは反対の何かで、それは俺が思っている以上にいつも身近に付き纏っている。サボはそれに捕まってしまったのだ。
俺はダダンを見上げて言った。
「俺は思いのままに生きる。誰よりも自由に。サボが掴めなかった自由を俺は絶対に掴んでやる。そして、何一つ悔いのない様に生きるんだ」
「おめェにその覚悟があるのか?」
「あるさ」と俺は言った。「それが色んな奴らを敵に回すことだって分かっている。きっと、ジジイも、――おふくろも」
その言葉はするりと口をついて出ていた。
こんな風に、自分の中が波紋ひとつたてずに澄んでいるなんて初めてで、鏡面のようにしんと静まり返っている。それなのに、あと一滴でも落とされれば、何もかもが溢れ出してしまいそうだった。
「それでいいんだね」
「ああ」
静かに笑ってみせた俺の言葉に、何とも言えない顔でダダンは吐き捨てた。
「そういうところ、あの小娘にそっくりだよ」
俺は声をあげて笑った。
ダダンはますます形容し難い顔をして重い息を吐き出すと、「エース」と俺の名を呼んだ。その声はまるで悼むような響きだった。
「死ぬんじゃないよ」
俺はその言葉に黙って頷いた。
今はまだ、俺は自由に届かない。だから強くなる。国にも世界にも何にも負けないくらい強くなって、そして海へ出る。きっとその長い航海の先に、おふくろはいるのだろう。いつか追いつくことができたら、俺はおふくろを――。
「俺は絶対に死なない。死ぬものか」
自分だけに届いたその言葉は風に乗って消えていった。