00.子は親に似る
この世界に神様はいない。
誰もそれを疑わず、存在の有無を議論することなどない。名は残れど神話はない。漠然とした神という存在に祈ることはあれど信じてはいない。どうか上手くいきますように、なんて子どものおまじないと一緒。
信仰なくば宗教もまたない。宗教なくば聖戦もまたない。
なんて平和な世界。それが幸せなのかは分からないけれど。
円卓の上に密やかに影を踊らせるオレンジの灯火が、冷たい匂いのする部屋で僅かな温かみを与えている。仄暗い部屋の壁には円卓の上と同じく踊る私の影。五つで一揃いの椅子に座る老人の姿はなく、私一人がこの冷たい部屋で呼吸をしている。
部屋をぐるりと囲んだ20枚の肖像画。その始まりの一枚の男の前に立ち、私はひっそりと笑った。ゆらゆらと揺れる灯りが男の顔を浮かび上がらせている。やはり全然似てないな、なんて仕方のない話だけれども。
私の遠い記憶を辿り画家に描かせた肖像画は男の容姿を大いに美化していた。もはや肖像画というより想像画、いや創作画だろうか。そもそも王なんて柄じゃなかった。
何だってよかったのだ。ただ、男の存在を覚えていられるのなら。あの日、男に与えられた使命を忘れずにいられるのなら、何でもよかった。
忠誠なんて誓うつもりはなかったし、男もそんなもの鼻で笑って踏みにじっただろう。それでも私には縋る何かが必要だった。神様のいないこの世界で、祈るものを持たない私の精一杯の抵抗。それが、忠誠を捧げること。
神樣、かみさま、カミサマ……。言葉の定義とはなんと不確かなものか。何度口の中でまろく転がしてもするりと消えてしまう。
***
『神の存在を、消さなければならない』
男はそう言った。
それは全ての科学と神話を灰塵に還す作業。
『神という概念が残るのは構わない。神の力が形を変えて顕在するのも構わない。しかし、歴史の流れにその色を残してはいけない』
炎が燻っていた。男の瞳の奥には黒い炎が煌々と燃えている。
(全てを焼き尽くす炎は南からやってくる。そして天地を滅亡させる)
いつか男が諳んじた一節を思い出す。
『もし、この世界にたった一つ残すなら何が必要だと思う?』
男は問いかけた。
私はほんの僅か考えてから答えた。
『……みず』
この世で貴重なもの。それが無ければどのような生物であっても生きることは叶わない。形無きその不可思議な存在を巡って、戦争がどれほどの長き間に渡って続いてきたのか。争いの火種ではあれど必要だから生きるものは争うのだ。私だって、それを奪うために何でもした。必死になって求めた。だからきっと、無くなってしまったら全てが息絶える。
『はは、お前は莫迦だが頭は悪くねぇな』
男は軽く笑った。
そして、この時の私の姿を何と解したのか、静かな声で淡々と言った。
『俺は
男の話は私には理解し難かった。
生きるために必要な物だけを追い求めていた私には、男の話はヒドク抽象的で、それこそ水のように掴めないものであった。決して届かぬ世界の存在だと感じた。私はそういうモノが存在するのだと知っていた。男と私の生きる世界が違うように。
私は何かに願ったことも、祈ったこともなかった。この何かを神と言い換えても構わない。とにかく、決して届かぬ世界が在る様に、私にとっては決して届かぬ願いも祈りも思考の浪費でしかなかった。
夥しい死の進行が常に私のすぐ後ろまで迫り、背後を振り返る刹那の時間さえなかった。僅かにでも思考を止めてしまえば、あっという間に死に呑まれて、あの夥しい死の一つになってしまう。
『お前に存在意義をやろう』
不遜に笑った男の声が、私の中を激しく揺らした。
私は何も反応することができないまま佇んでいた。
『名が必要だな』
男が私を見下ろす眼は酷く静かだった。何もかもを決めてしまった眼だった。男が持つ煙草の灯がぼんやりと明滅している。くすんだ赤黒いそれは、いつか見た、燃え尽きて堕ちてゆく太陽のようだった。
『名は
テミス。私はその音を舌の上で小さく転がした。
不思議な感覚だった。それがどういうことか分からなかったのは、生まれ持ったヒトとしての器以外に、私にとって初めて他者から与えられたモノだったからだ。
もう一度、テミス、と確かめるようにつぶやいた。
いつか男が話した古い神話の中に出てくる掟の女神の名。それが今、私の名になるのか。
私は男を見上げて、かみしめるように尋ねた。
『わたしは、なにを、すればいい?』
『生きろ』
男はさも簡単に言ってのけた。
たったそれだけがどれだけ難しいことか、私はこれまでの生でよくよく知っていた。しかし、それとは違うのだと本能的に理解した。そして、恐怖した。
全身がさっと冷えて手先の感覚が曖昧になっていく。そうか、これが恐ろしいという感覚か。なんて、なんて、冷たいのだろう。死よりもなお一層、冷たく暗くがらんどうのように生はそこに横たわっていた。
神を喰い殺してまで不死を得ようとした私が、生きることを前に畏れを覚えた。それは私が紛れもなくヒトであった証しなのだろう。
それでも、心の奥底から暴れ出しそうな何かを押えこんで唇をかみしめた。そうしなければ、訳も分からず叫んでしまいそうだった。
男はそんな私をなおも変わらず静かな眼で、されど逃げることは許さないとばかりにじっとこちらを見下ろしていた。男は言う。
『ただ世界に存在し続ける。それだけがお前の使命だ』
私は震えて叫びそうになる唇を必死に宥めながら口を開いた。
『いつ、まで……?』
『さぁな。世界が安定するまでか、世界が滅ぶまでか、俺にも分からん』
男はどこまでも無造作だった。実際、男にとって、もはやどうでもよいことだったのかもしれない。滅びゆく世界も、新たに生まれくる世界も、男にとっては関係のないことだったのだ。
男は高慢だった。全てを自分勝手に決めた。私になんの了承もなく、何も憐れまず、何も気負わず、何も畏れず、世界の全てを私の前に放り出した。
それでも、あの男の誠実を私が一番よく知っている。
『世界だって、死んでは生まれてくる。次々と』
男は咥えたままの煙草をくるくると唇で転がして弄びながら、にやっと笑って、私を指さした。
『どうせなら笑って生きろ、
私はぐっと言葉を飲み込んだ。臓腑に灼熱を落とし込んだかのような苦しみだった。ゆらゆらと立ちのぼる煙草の紫煙が私の頬をかすめていく。その薫りを忘れたくなくて、私は深く肺の奥まで息を吸い込んだ。絶対に、忘れてなどやるものかと思った。
そんな私を、男はやはり静かな眼で見下ろしていた。
いつだったか、男は空が見たいとぼやいた。
空なんて見上げればいくらでも広がっているのに。しかし、男曰く、それは空ではないらしい。どす黒い分厚い雲に覆われた空は、空とは言わないのだと。なんでも数千年前までは確かな空だったという。男の記憶の中だけにある空を私は識らない。
いつだったか、男は海が見たいとぼやいた。
海なんてそこかしこにいくらでも広がっているのに。しかし、男曰く、それは海ではないらしい。涸れてひび割れた黒い大地が続く海は、海とは言わないのだと。なんでも数千年前までは確かな海だったという。男の記憶の中だけにある海を私は識らない。
『……青だな』
男は私を見上げてそう呟いた。
『あお?』私は囁き返すように問うた。
『本当の空と、本当の海の色だ』
男は擦れて空気が通り抜けていくような声で答え、『お前が、最後の……』そう言って男は途中で言葉を止めた。
見開かれたままの眼だけがいつまでも私を見つめ続けていた。私は黙って言葉の続きを待っていた。しかし男は二度と口を開かなかった。しばらくして、私は男が死んだのだと気がついた。それでも、男が死んだということが信じられずに、ずいぶん長い間、傍らで男を眺め続けていた。
どのくらい時間が経ったのかもわからなくなった頃、(なにせ、一日の終わりも始まりも、この世界にはないからだ。)やがて、ぽつりぽつりと死の雨が降り注ぎ、男の眼を、髪を、鼻を、唇を、黒く染めていった。どす黒く乾いた地面を這いずり回るように、流れた雨が染み込む場所を求めて彷徨っている。
そこでようやく私は、この男でも死ぬことがあるのかと思った。この男にもちゃんと、死というものが存在したのだと……。
***
蝋燭の灯火が、ジジと音を立てて白い蝋を溶かした。
蝋の甘い匂いが微かに漂い仄暗い部屋を満たしてゆく。私は男の肖像画をじっと見上げた。壁にかけられた肖像画は20枚。しかし本当は19枚で事足りる。最初の一枚はただの
あの日、私よりもずっとずっと長い時を生き続けた男が死んだ。
それは一つの世界の終焉だった。男とともに世界も死んだのだ。世界を時代と言い換えるには、あまりにも長すぎる時間を男は生きていた。こうやって世界が死んでいくのだと私は識った。
男は、最後のかみさまだった。