読者の方々の期待に答えられるような文章になるよう、これからも頑張りたいと思います。
病室暮らしの時はのんびりと午前10時頃まで寝過ごすような習慣だったが、それ以前は早起きだったせいなのか。それとも固い床が寝心地が悪すぎて、なのかは鈴谷には見当がつかなかったが、今日の彼女は早くに目が覚めた。
昨日、異変があってから全く使っていなかったからか、バッテリーに余裕のあった携帯電話の画面を見る。時刻は午前5:23と出ていた。
「ふぁぁ……」なんて声が漏れるぐらいの大あくびが自然と口から出てきて。昨日みたいな事がいつ起こるとも解らないのに、ボケてるな、なんて自虐的に思う。同時に鈴谷は体に重いものがのし掛かっているような感覚に、視線をずらす。
「……ぅ……んん」
「…………。そういうことか」
よく考えたな、彼女は思った。女の子が自分の触手を枕にして寝ていたのだ。
熟睡中の相手を起こさないように、ゆっくりと上半身を持ち上げる。これで3回目だが、暇潰しに鈴谷はもう2、3度、自分の体がどうなっているのか見ることにした。
「………………」
スマートフォンのカメラを内側にして、無言になる。
深海棲艦の治癒力は自分の想像を超えていたようだ。火傷で済まない傷があったはずの顔の半分と、無理をして切り傷だらけになっていた腕の血が出ていた場所が、それぞれ光沢を持つ紺色の鉄板みたいな物に覆われているのを眺める。
次いで、女の子が頭に敷いている物を見て、思わず顔がひきつった。ケロイド染みた赤白い色に、固い部分は置いておき、ブヨブヨした手触りの軟らかい部分には赤や青色をした血管が浮かんでいる。これだけでもなかなかだが、極めつけに2つとも先端部には肉食の魚みたいな牙の並んだ口があった。どんな動物にも形容しがたいグロテスクな造形をしている。
「……これ、剥がれるんだろうか」
顔や首を覆う物に素朴な疑問が湧いた。ただの瘡蓋だとすれば、下の皮膚が治っているなら剥がれる筈だ。そう思って、恐る恐る顔の鉄板(?)に手をかける。
ビリビリと紙を破くような音と共にそれは剥がす事ができた。特に痛みもなく、それどころかこれがへばりついていた場所は、完璧に傷が塞がっていた。自分の体ながら、あまりの外傷の治りの早さに少し背筋に冷たいものが流れるような悪寒を感じる。
「……ちょっち、マズいかな」
ただ、1つ。携帯で自分の顔を見て、気付いた事があった。
右目が今まで通りで左目が赤くなっている、なんてどうでも良かった。体の怪我が治ったのは良かったとして、一応は形だけ治っていた右目の視力がほとんど無いのだ。
利き腕が右の自分は利き目も右だ。左は少し乱視が入っていると医者から診断を受けたこともある……控え目にいってもこれは大問題だ、と思う。人間という生き物は、2つ目があって初めて物の立体感を掴む生き物なのだ。物と物の距離の把握が難しくなったら日常生活はもちろん、緊急事態になったら対処が難しくなるのは容易に想像できた。
「……………………まぁ、いっか。」
こんなとき、神経質な人なら多少パニックになるのが普通かもしれない。だが、鈴谷はそうはならず、それどころか、この現状に悲観せず気楽に考えていた。
剥がした物を元の場所に着け直す。
昔からの楽天的な性分に加えて、すぐ近くで静かな寝息をたてている女の子のかわいい寝顔を覗いていると、心が落ち着くのだ。自分1人じゃなくて良かったな、と思う。
きっと、何とかなるさ。どうにもならなかったらその時は考えればいい。
今考えてもしようがない。強引に自分を納得させると、鈴谷は女の子が起きるまで、2度寝をすることに決めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「お姉さん、起きてますか?」
「んん……んぅ。今何時だ……?」
「お昼です。午前10:42って」
鈴谷は気休めで体の下に敷いていた上着を手に取り、大きな伸びをしながら女の子の報告を聞く。
2度寝で軽く5時間か……間違いなく、朝起きた時には疲れが取れていなかったんだな。考え事と平行して、血と煤で汚れているウインドブレーカーを着直しながら、女の子へ口を開いた。
「その、大丈夫? 怪我とか……」
「そんなことは」
「そっか……これからどうしようか」
努めて笑顔を作りながら言ったつもりだったのだが、何かまずかったのか。鈴谷の言うことに、女の子の表情が暗くなる。
「寝違えちゃった。首が痛いや……」
「あぁ……」
「……後は、お母さんにさよならが言いたいです」
「…………………」
ぱん! と音が周囲に響くぐらいの力で、鈴谷は自分の顔を掌で叩いた。何かと驚いて顔を動かした女の子に、彼女は話す。
「そっか。じゃ、あそこまで戻ろう。その辺散歩でもしながら」
「!! はい!」
彼女の表情がにわかにぱっと明るくなった。ただ、理由が理由だけに笑えないな。鈴谷は立ち上がりながら、そう思う。
昨日逃げてきたときとは対照的に、2人は手を繋いでのんびりと住宅街まで歩いていた。
力任せに殴り倒したあの艦娘が「町ごと消す」だとか何とか言っていた物だから、てっきり鈴谷は市全体に攻撃が加えられた物だと勘違いしていたが。現在歩いている海岸沿いの道はいつも通りの状態であることと、1~2km離れた遠くの方からかすかに漂ってくる焦げ臭い匂いに、「アレ」は局地的な物だったのか、と思う。
住宅街に近づくほど、女の子の表情が曇っていく。同じことを考えていたかは鈴谷にはわからなかったが、彼女も考え事が煮詰まるにつれて顔から笑顔が薄くなっていく。
テロリストに見せかけた破壊活動、と簡潔に言っていたが、一体背後には何が居るんだろうか。裏から政治や国を動かすRPGゲームの魔王みたいな人間の事を「フィクサー」とか言うらしい。あんなに大っぴらに人を殺して、しかも地図を描き換えることにまでなりそうな破壊活動を黙殺できるとすると、正にそういった人間の何かの陰謀か何かだろうか……
最後まで自分の事を案じながら亡くなった土井の事を思い出し、潤んできた瞳を服の袖でごしごし拭って誤魔化す。そんなときだった。ぼうっとして無言で歩いていた鈴谷に、女の子が話しかけてきた。
「お姉さん」
「ん、なぁに?」
「あの、お姉さんの名前が聞きたいんです」
名前、か。
急な質問に悩んだ末に、鈴谷は自分が嘘が苦手な人間だった事を思い出し。正直に本名を名乗ることにした。
「根上 紀美。根っこの上に、紀元が美しいっていう漢字ね?」
「根上お姉さん!」
言うが早いか。名前を教えると、彼女は両手で触手を抱き寄せながら抱き着いてきた。昨日の今日の辛い出来事で隠れてしまっているが、根は
彼女の母親の言葉を思い出しながら、今度は鈴谷から話題を振った。
「えぇと……ナオミちゃん? だっけ」
「吉田 直海です。おみくじの吉と田んぼに、素直な海です」
うわっ、すっごいわかりやすい。自分の言ったことを参考にしたのか、似たような自己紹介をして、しかもどのような字で書くかまでを綺麗に言う
そうこうしているうちに、あの住宅街に到着した。
「「……………………」」
火の手が挙がっていたあの時も大概だったが、焼け跡というのもまた、生の目で見るとなると見るに堪えない物だと思う。
そして、何かの謀略かと思っていた鈴谷の予測が確信に変わった。近くで平然と車が走る道路があったり、何食わぬ顔で営業中のコンビニがあったり。そんな「普通」と壁一枚挟んだ場所がこんな酷い有り様なのに、警察も軍隊も、一般人の立ち入りを禁止したり監視したりする人間が誰一人居ないのだ。明らかに異様な雰囲気が辺りに立ち込めている。
鉄パイプを適当に組み着けただけの粗末なオブジェに、今時、工事現場だってもう少ししっかりしてるものを置くぞ…… なんて思いつつ。鈴谷は進入禁止のバリケードを
「行こっか。誰もいないうちに、ね?」
「うん……」
素直にくっついてきたものの、直海はあまり気が乗らないといった様子だ。やることからしても、無理もないと思う。自分から提案しておいて! なんて
目的地には思いの
たまたまだがあのバリケードがあった道から、直海の家は近かったようだった。一応見回りなんかが居ないとも限らないから、と鈴谷は周りを警戒していたが、5分とたたずに彼女の家の焼け跡まで着いてしまう。
「「……………」」
瞳に映る景色に、2人とも数秒間は無言になった。
完全に焼けて崩れた建物以外は、昨日のままだった。鈴谷が水を被ってから置いたバケツに、外に出るために窓を割って投げたフライパンに、銃撃戦で放たれた銃弾の
そして、直海の母の遺体が、眠っているように倒れていて。
「お母さん……来ちゃった」
ゆっくりとした足取りで直海は母の遺体に近づく。当然ながら、返事はない。
このとき鈴谷は、細菌等の危険性から、彼女が素手で遺体に触れようとしたら止める算段だった。が、少々予想と違う行動をとった直海に驚く。
彼女は、わざわざハンカチを握って母の手を握ったのだ。なんて冷静で聡明な子だろうか、と思う。
ただの死体だと言ってしまえばそれで終わりだが、理性のある……特に感受性の豊かな人間なら普通は親族の遺体なんて危険だなんて考えない。油断してぺたぺた触ってしまって当然だろう。そうしたい気持ちを殺して振る舞っているのであろう直海に、鈴谷の瞳が潤む。
きっと、彼女が母親の側に居られる最後の時間だから―― そう思っていたから。鈴谷は何時間だろうと直海の事を待っているつもりだったが、意外にも、彼女は数分で立ち上がって体の向きを変えた。
花柄のハンカチを遺体の胸に置き、鼻をぐずらせてこっちにくる彼女に。慌てて鈴谷は問い掛ける。
「いいの? もう少しゆっくりしていっても……」
「もう、いいの……お母さんは、生き返らないんだから…………」
簡単にそれだけ言い残して。とぼとぼと直海はバリケードがあった場所を目指して歩いていく。
「……………………」
胸が痛いの例えで済まないぐらいの心の痛みのような物を、鈴谷は知覚した。少し考えて、なんでこんなに早く済ませたのかを理解してしまったからだ。
きっと直海は、詳しいことはわからなくても、この場所に長く居るのは危ないという事を解ってしまったんだ。さっきの行動から、死後に時間の経過した遺体の危険性を知っていてあんな手間をやった事を見ても、元来頭の良い子なんだろう。だから、自分のやりたいことを封殺しているんじゃなかろうか。
「…………ぐっ……」
艦娘を殴り倒した時の事を思い出す。それに匹敵、までは行かなかったが。あんな子供にそんな決断をさせる要因を作った吉田か、それともまだ顔も知らない何者かは知らないが。そういった人物らへの怒りが湧いた。
深呼吸をしてから、鈴谷は彼女の母親の前に立つ。
服のポケットに入れていた、造花を模したシュシュを持ち。それを、直海の母の手に着けた。
「………あの子は、とっても強い子だと思います。直海さんのお母様。」
死後硬直で血の気が引いて、今の自分のように肌の白くなっていた遺体の顔は。どこか笑っているようにも見えた気がした。
自分なりの供養を済ませ。鈴谷は小走りで直海の事を追い掛けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
住宅街を出て、次は何をしようかと鈴谷が直海に問う。
すると、彼女はどこまでが攻撃を受けたのかを見たい、と言うリクエストを受けて。そんな返答は予想外だったが、気を取り直して鈴谷はまた彼女と手を繋いで周辺を散策しているところだった。
「すごいな。服屋にリサイクルショップに。どこもボロボロだ」
「店の人は逃げれたのかな……」
「どうだろ。でも、こういう場所は警報とかあるだろうし」
駄弁りながら海岸線沿いを歩いていく。わかったことは、この周辺は地図に線を引っ張ったように、綺麗に区分けをして破壊工作をされている、ということだ。
こうして自由に外を出歩いていて初めて気づくが、研究所はそれなりに発展した場所に建っていた物らしかった。その証拠に、この建物を中心として、2、3連なった商業施設と住宅街……目測だがおおよそ半径1km2方向の長方形でくくったような部分が攻撃を受けた跡がある。
「なんだか壮観だね……嫌な意味で。」
心の中のモヤモヤは広がる。先程、フィクサーとか何とか、そんなのがこの破壊活動に関わっているんじゃないかとか思っていたが、それも本当なんじゃあないか、と考え出すと止まらない。住宅街以外、しかもそれなりの大企業の抱える店舗まで破壊の痕跡が残っているとなると、口に出すのも
「……………プゥーッ」
なんだか頭が痛くなってきた気がして。わざとらしいため息を吐いて、鈴谷は1度思考をリセットした。
のんびり歩いているうちに見つけた、外壁を壊された洋服屋を指差して、直海に話しかける。
「ナオちゃん、着替えとかしたいと思わない?」
「…………? うん、したいかも」
「よし、決まり! ちょっとやりたいことがあるんだよね。あそこまで行こうか」
「?」
言動の意味を理解しかねたのか、まばたきの回数を増やした彼女の手を引っ張り。鈴谷は意気揚々と廃墟に歩いていく。
飛散したガラスが散らばり、入り口の鉄筋の骨組みはぐちゃぐちゃになった、玄関だけ見れば廃墟同然に破壊されていた服屋の中に2人は入った。
中を物色していくと、店の奥は比較的綺麗に残っており、また商品の服も普通に着れそうな物が残っている。
端から見れば、獲物を物色中の空き巣そのものだった鈴谷へ。子供心に流石に何かおかしいと思った直海は突っ込みをいれた。
「え、あの、姉さん何を」
「何って、着替えをくすねようと」
「くすねる?」
「盗むってこと」
「ええっ!?」
昨日の事があって二人とも着ていたものは血や
「使えるものもまだまだ有りそうだし。じゃ、有り難く貰っておかないとね」
「犯罪じゃないですか!」
「だいじょぶだいじょぶ誰も見てない。たぶん!」
「そういう問題じゃ……」
「だってお金払う店員さんも居ないもん。どうするのさ?」
「そ、それは………」
ニヤリ、と笑って大人げなく年下を論破しつつ、鈴谷は誰も居ないレジからハサミを見付け、気に入った服のタグやら何やらを切って外す。命の恩人がなかなかのアウトローだと知り、直海は難しい顔になる。
ちょっとふざけ過ぎたかしら。内心そう思っていた鈴谷に、直海が数秒の間を置いてから懲りずに注意を続けようとした時だった。時刻はもう正午を過ぎていたので仕方がないか、彼女のお腹が鳴った。
「……!」
「あららら。そっか、もうお昼だもんね。お腹も空くか……」
自然とそんな擁護が口から出てくる。鈴谷は一瞬考えて、これを利用して彼女を説得することにした。
「ほら、ナオちゃんも着替えて。綺麗にしないとさ、私らボロボロで不審者みたいなカッコだし」
「むぅ……」
「身なり整えたらさ、買い物行こうよ。お腹も空いたしね」
「……お店の人が来たら、お金、払ってくださいね」
「わかってるわかってる。ほら、好きなの選びたい放題よ!」
言葉巧みに……少し強引に彼女を納得させる。
まぁ、もし何かの間違いで店員と鉢合わせたら万引きで捕まるがね!! 鈴谷は心の中でそんなことを言っていたが。
数分間建物の中をウロウロした後に、着るものを見繕い終わって鈴谷は落ち着く。
もう5月だからか今日は結構暑い日だったので、Tシャツにボーリングシャツ、下はジーンズとラフな格好になる。これでひとまず、戦場から帰ってきた兵隊のような服装ではなくなった……だが問題は腹部から生えている大きな触手だ。
都合の良いことに、ここや隣のリサイクルストアからおおよそ地形を掴み、近所にはコスプレ喫茶なる店が有ることは鈴谷は知っていた。働いている人間がマニアックな趣味の連中に合わせて、空母ヲ級やら一部の姫級といった人型深海棲艦の仮装をして仕事をしていることも、怖いもの見たさで時折店の中を覗いたりしていたので知っている。
が、状況が状況だ。その店の立地は、爆心地に近過ぎるのだ。攻撃があったか運良く逃れたのかは解らないが、普通に考えて営業はしていないだろうな、という所まで鈴谷は考える。流石にオフの日まで深海棲艦の格好をしている従業員は居ないだろう。となれば、これを剥き出しにしてウロウロ歩くのは少々まずい。
そこで鈴谷は少しだけ頭を使った。
店の中を探すと、大きめのスポーツバッグがあったので肩から掛ける。そして中に触手を詰め込んでチャックを閉じ、それとなく鞄を体の前に持ってくる。多少無理があったが剥き出しよりは何倍もいいぐらいには隠せた。……ただ、ギチギチに詰め込んだせいなのか、凄まじい閉塞感を感じて居心地が悪かったが。
取り急ぎこれで大っぴらに外を歩けるぐらいにはなったか、なんて先程までなかなかに凄い格好で出歩いておきながら思う、そんなときだった。上下ジャージ姿になっていた直海が、いきなり膝をつく。
「………ッ」
「? どうしたの?」
「足、
「あっ」
失敗したな、と思った。無理もない、時計に目をやればざっと3時間は歩いたりなんだりで立ちっぱなしだ。見たところは細身で、あまり筋肉も無さそうだから、直海は別に運動が好きな子という訳でもないんだろう。なら、子供にこんな運動は少し酷か、と考える。
建物から出て外出するにあたり、首と顔面の甲殻を外して店内にあった机に置き。鈴谷は座り込んだ相手と目線を合わせるためにしゃがみ、こんな提案をした。
「おんぶしたげる。乗りなよ」
「良いんですか?」
「モチ! 子供はね、大人に頼る生き物なんだから」
子供扱いするな!とか言いたかったのか。直海は鈴谷の言葉に渋い顔をしたが、ぐずぐずもたもたしながらその背中に乗った。
女の子一人をおぶさって、中腰で歩く。平日午後の車通りの少ない道を、先程通り越したコンビニ目指して進んでいたのだが、視界の猛烈な違和感で鈴谷は不愉快になっていた。
目が片方見えなくなったのは朝早くに気が付いたが、さっきまでは何ともなかった。というのも、顔に貼っていた物が眼帯の代わりになって、自然と目を閉じていたからだと今更に気づく。これは結構大事だぞ、なんて思う。
簡潔に言うと、「まぶたが開いていて、目の表面に風を感じたりはするのに、視界だけが欠落している」感覚を覚えたのだ。新鮮だが気持ちの悪いこれに、そう数分ごときじゃあなかなか慣れない。
「重くないですか」
「ん? いや、ぜんぜん」
唐突に語りかけてきた背中の彼女に返事をする。いかん、変な心配はさせないように振る舞わねば。鈴谷は速やかに視線を前に戻す。
あまり離れた場所でもなかったので、コンビニにはすぐに着いた。さて、妙な客だと怪しまれないか、なんてネガティブが鈴谷の心の中で育ち始める。
結論から言えば、そこまで気を張り詰める必要など無かった。入ったコンビニの店員は、随分と来店する客に
直海を背負っていたので、小銭を財布に入れる事が面倒に思った鈴谷は、募金箱に貰ったお釣りを突っ込んでさっさと店を出る。
「どこで食べよっか」
「……さっきの服屋さんで」
「?」
「とぼけないでください。店員さんが来るまで待つのです」
「あぁ、そういうこと」
なんというか。昔の
「あ……」と、声が出た。1つ、気がかりな物を思い出して、鈴谷は片手で直海を支えながら携帯電話のSNSを起動する。
やっぱり、と心の中で言う。熊野からメッセージが来ていた。どうやらあの破壊工作、立ち入り禁止にこそなっているが流石に周囲に情報が伝わってはいるようだ。
液晶に表示された文字を読んで、顔がひきつる。
『鈴谷、生きていましたら返事をくださいまし』
『鈴谷』
『紀美、なんでも良いから返答を』
「…………ふふっ」
意図せず口から乾いた笑いが出てしまった。文面から滲み出ているが、間違いなく自分は親友に多大なるストレスと心配を与えてしまったらしい。
慣れた手付きで鈴谷はすぐに返信を打ち込む。
『ケータイ、見てる?』
『もし見てたら、研究所横の服屋まで来て。待ってる』
「……………………」
事の経緯を、熊野にどう伝えたものか。考え事で表情が険しくなっていることに、鈴谷は自分で気が付いていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戻ってきた場所で朝食を摂る。落ち着ける時間になったので、今一度じっくりと見るが、この建物はなかなか設備が充実していた。まだ健在だった頃のここに服を買いに来たことが無く、入店するのは今日が初めてだった鈴谷には新鮮に感じる。
洋服屋だから試着室があったり靴のサイズ合わせに使うベンチやらがあったり、ぐらいはわかる。が、興味本意でスタッフルームの方を見れば、災害時用のシャワールームまであった。今は起動していないがエアコンも沢山あるし、ここの従業員はさぞかし快適だったろうな、と思う。
少し汗をかいたし、後で有り難く使わせて頂こうかしら、などという所まで思考を進めて鈴谷がサラダを食べていたとき。向かい合うような場所で無言でおにぎりを食べていた直海が、声も出さずに泣いていることに気付いた。
「…………」
「どうしたの?」
「んん…なんでもない」
始まった。そう来たか、と思う。鈴谷は相手の顔を両手で挟んで自分の所まで引き寄せる。
「!?」
「おねーさんに言ってみんさい。ベソかいてるのにヘーキになんて見えないよ」
「…………」
語調を優しくして、諭すように言う。直海は対面する相手の赤い瞳を見ながら、ゆっくりとこう言った。
「……昨日ね、私の11さいの誕生日だったの」
「!」
「いつも遅くまで帰ってこないお父さんも、昨日は早く帰ってくるって……言ってたのに」
「待っててもお父様は帰ってこなかったの?」
「帰って……帰ってくる前に、あんなことに……うぅ」
つい数秒前には突っぱねる態度だったのを逆転させ、直海は今度は鈴谷に抱き着きながら泣き崩れる。
着々と、鈴谷の中で昨日の蛮行を指揮した何者かへの炎が勢いを増す。
「うぅぅぅ…………!」
「よしよし。好きなだけ泣いていーよ。私が許す!」
いま、こうして直海の面倒を見ているが。見つけていないだけで、他にも何人もの子供が亡くなったり逃げたりとあったに違いない。そう思うと、嫌な気分になるなと己を律するのには無理があった。
今日と昨日とで何度も感じることがあったが、直海は強い子で。泣きながらも買ってきたものを食べ終わる。
この逞しさを活かして、健やかに生きていて欲しいものだ、なんて年を食った老人みたいな事を思ったときだった。ズボンに突っ込んでいたスマートフォンのバイブレーションに気づく。
「!」
熊野から『今すぐに行く』と簡潔なメッセージがSNSに入っていた。そして、建物の入り口の辺りから靴底が地面を叩くような物音が聞こえたのを確かに知覚する。
メッセージを打ちながらもう来たのかと思うが、鈴谷は持っていた携帯電話のレスポンスが悪かった事を思い出した。同時に、歩く音の主がまだ誰かも見ていないのに、こんな訳のわからない時間に親友が来てくれた!と喜ぶ。
「だ、だれ」
「大丈夫。ほら、様子見に行こう」
怯える直海に、無理もないな。と思った。
ゆっくり、ゆっくりと音をたてずに歩いて攻撃を受けた外壁部分に近付く。
そして、何かを警戒しているのか、ハンドガンを構えてそこに立っていた親友の姿を見付けて。鈴谷は涙が出そうな心境になった。こそこそしているのを止めて、直海を連れて熊野の前に自分の姿を晒す。
「ッ! 誰……」
女の子を連れているのは置いておき。自分の姿を見た熊野は表情を強張らせた。まぁ、こうなるか、と思う。
相手の警戒心を解く意味を込めて。鈴谷は銃を構えている親友に笑ってピースサインをする。
「まさか……鈴谷なの?」
「……………」
なんと言えば良いかが咄嗟に出てこなくて、無言で頷いた。流石に返事がこれだけだったのは悪手だったか、確証が持てないと思ったらしい熊野はこんなことを言ってくる。
「幾つか質問をさせて貰いますわ。しっかりと答えてくださいまし」
「……うん。」
「美術作品『ゲシュタルト・ゼルド』を製作したオーストリアの芸術家の名前は?」
「ヴィクトル・ヴェザルリ。」
「発酵食品のチーズの中でも、特に奇食として有名な生きたウジ虫を使用した食品の名前」
「カース・マルツウ。」
「……………最後ですわ。作家の母親に勘当された恨みから「髪長ければ 知恵短し」と女性を皮肉った哲学者の名前は?」
「アルトゥル・ショーペンハウエル……かな?」
3つのそれぞれに、鈴谷は淀みなく答えた。熊野は、ため息をつきながら構えを解く。
「はぁ……その服、私物じゃ無いでしょう? 一体どこから」
「そっちから
「な……貴女ねぇ………それにそちらのお嬢さんは」
「えぇと、色々。ね」
「色々と。なら
真顔で淡々と言っていたのが、段々と声が上ずっていたような気がしたのは鈴谷の気のせいでは無かったらしい。感極まった熊野が、ベソをかきながらこう言う。
「本当に鈴谷なのね……こんな変なことに答えられるのは、貴女だけですわ……良かった!」
親友の泣き顔を見るのはいつぶりだろうか。熊野に抱き着かれながら、鈴谷はそんなことを考えていた。
仮面と首輪を外したネ級というのは表紙絵を想像してもらえるとだいたいあってます。
作品世界では深海棲艦は実はそんなに恐怖の対象では無かったりします。身近な例に例えると山菜取りなどで注意換気される熊みたいな物でしょうか。