「深夜の首都高というのはこうも閑散とするものかね。」
キュウビがポツンとつぶやく。
なめらかにハンドルを切られ疾走する車体は、昼間の陽光の下ではおおいに印象的な赤であるはずが、今は都心の毒々しいテールランプに照らされ不健康に暗い紅色をまとう。
週末のゴールデンタイムともなれば鬱陶しいくらいに車が連なり連続する車線変更と追い越しでめまぐるしいその道路も、曜日が曜日なだけに、時間が時間なだけに、すれ違う車体の音までもなんとなく寂しい余韻を残す。
それでも24時間眠らないビル郡は煌々と光を放つが、その白銀灯さえともすればわびしいものだ。
そしてその上空に、人工的な明かりでは太刀打ちできない闇。
星も霞で消されてしまっている分、闇はより怠惰に濁っている、とキュウビは思う。
先日の妖魔界でのF1もどきの催しから、車の楽しさを思い出したキュウビは、人間界に戻ってすぐに高級車を購入していた。
以前から自分が乗るならこれだと決めていた、艶かしく赤いボディー。
元より、目的地もなく制限時間もないアヤカシ達の生活において深夜のドライブは背徳的な楽しさを伴うものでもなく、キュウビはそれでも疾走を終わらせたいとは思わず、
それはやはりハンドルさばきの面白さと、そして何よりオロチを傍らに乗せているからで、それらのことによって低いアヤカシの体温を少しずつ上昇させながらキュウビはスピードを上げる。
スピーカーからは女の声でメロディーが流れている。
命短し人間の歌う声が、本来意図されている曲の趣旨とは異なるところでキュウビに切ない気持ちを抱かせる。
キュウビは、短く儚く、濁っている人間の営みが好きだった。
狐の一族ははるか昔から何かというと人に化け、人の社会に紛れ込む。
美男美女に化けては恋情痴情を楽しみ、人をたぶらかし、人を泣かし、裏でほくそ笑む。だけではなく、真摯に人と人の営みを、その一生を、観察したりする。
それは何の為かと問われても、わからない。
狐は昔から、人の群れが嫌いではないのだ。
ただ横にいるこの蛇族の少年はそうではないらしい。
「人間のオトナは怖い」とオロチは感じている。子どもはともかくとして、オトナは怖いと。
人はオトナになればなるほど大体の者が濁りだす。
ドロドロ濁った向こう側にどんな心を潜ませているのか、巧妙に隠されていて一見しただけではわからない。
建前と裏で見せる憎悪のギャップ。我先に飛びつく欲の深さ、躊躇無く繰り出される他者への攻撃、恥ずかしげも無いエゴ。
たったひとつの感情を愚直に守る傾向にある妖怪たちと違い、人間はその時々の局面でその仮面をいとも簡単につけかえる。
キュウビにとってはそんなものはショウのようなもので、むしろそんな人間の泥臭さにこそ愛着を持ったりもするのだが、オロチはそうではないらしい。
人間の丸出しの欲望を目の当たりにしてしまうと、口笛でも吹きたいような心持ちで観察するキュウビをよそにオロチはそっと顔を背ける。
見たくないもの、見てはいけないものを見てしまったというふうに。
そのたびキュウビは、人に代わって人の言い訳をせずにいられない。
「人間の大人もいろいろ大変なんだよ。そりゃあ僕だって、時には心底辟易するけれども。」
そう言って、顔をそむけて固まっているオロチの頬を撫でてやったりする。
「キミも人間だった頃にオトナまで生きていたら、多少は彼らに違う感情も持ってやれたかもしれないね。」
そして最後はどうしてもからかわずにいられない。
「それに人間の子どもだって純粋なだけじゃない。意外にしたたかな者もいるよ。
キミはごくごく少数の人間としか関わりを持とうとしないから知らないだけで。」
違う、という言葉を予期していたのに、オロチはしばらく考え込む。
「そうかもしれない。人の子どもは真っ直ぐな感情を持つ分、案外しつこいのかもしれないな。
私もまだ子どもの時分に恨みを抱えたから、なかなか諦められなかったのだろう。」
「…」
そうではなくて、やっぱりキミの恨み方は特別にしつこかったよ、とキュウビは思うけれども口に出すようなヘボはしない。
人の子どもがあまりに大きな執念故に生きながらその身を妖怪に変えたなどということは、はっきり言って妖魔界史上でも例を見ない、絶対に普通ではない事案。
対向車線が音を立て、黒い車体が影となって矢のように通り過ぎた。
キュウビは黙ってスピーカーの曲を変える。
「こうやって何度も何度も飽きるほど夜を過ごしていると、永遠にこのままなんじゃないかと思うね。」
確かな腕前で急カーブを切った。
「まあ、ゆるやかに長い妖怪の命も、いつかはやはり終わりが来てくれるわけだけど。」
「おまえ、命が終わる時にまでその気障な姿でいるんじゃないだろうな。」
助手席からオロチがチラリとキュウビを見るのを、キュウビはさりげなくミラーでチェックする。
「気障って…キミねぇ。この姿でいる限り、僕に振り向かない女性はいないよ。
どこからどう見ても、人の心を惑わさずにはいられない容姿だからね。」
キュウビは姿かたちの美しい、人のオトナによく化ける。
ただ美しい形に化けるだけではない。艶のある栗毛色の髪をわざと無造作に後ろで束ねてみたり、かける者によっては嫌味になりかねないデザインのメガネをあえて選んでみたり、キュウビは大いに楽しんでいる。
そしてその姿が数多くの人間を魅了しているというのも本当のことだ。
もちろん女性は年代を問わずキュウビに惹きつけられる。時には同性さえもその熟練されたヘンゲの虜になってしまったりもする。
キュウビはそんな人たちとの逢瀬やかけひきを上手に楽しみ、そして背後に注がれる視線を丹念にチェックする。
キュウビの行為を上空に浮かんで冷ややかに見下ろすオロチの視線に、侮蔑以外の何かの感情が混じっていないかと。
言ってしまえばキュウビは、嫉妬にまみれるオロチの顔を見てみたかった。
オロチの抱える暗い情念や執念深さが一途にキュウビひとりだけに注がれ、しつこくつきまとわれてみたかった。
キュウビへの嫉妬と執着で身を焦がしながら、ひざまずいてキュウビの愛撫を請うオロチの、その細い体をゆっくりと焦らしはぐらかし抱いていく様をキュウビはこれまで幾度と無く夢想している。
いずれ自分に対してなら、この中性的風貌の少年は本当に嫉妬にさいなまれもするのではないかとも思っている。
それはいつも髪やマフラーに隠され、追おうとするたびスルリと飛び去られてしまうものではあったけれど。
考えているうち食指が動き、キュウビはオロチの足に手を置き、膝から腿にかけてを衣服の上からなでる。
そのまましばらくまさぐるがその足は逃げようとせず、オロチもその気になったのかとキュウビは珍しく思う。
「私も運転してみたい。」
「…え?」
「私も運転できると思う。」
唐突に発された自信ありげな言葉に、キュウビは面食らう。
「おまえが運転するのを見ていて大体理解した。かわれキュウビ。」
「ち、ちょっと、押さないでよ。キミ、免許持ってないだろ?」
「持ってないがなんとかなると思う。」
「なんとかなるってさぁ…」
キュウビは天を仰ぐ。
オロチと話しているとたまにこういうことがある。
「簡単に見えるのかもしれないけど、はっきり言って僕のテクニックはプロ級だよ。それに僕のこの子はうまーくご機嫌を取ってやらないと…ほら、ダメだって。運転中だから。」
グイグイと詰めてくるオロチをキュウビは苦笑まじりに諭す。
「この子は僕に惚れてるからね。キミが運転したらやきもち焼くよ、きっと。」
「…この子とは、この車のことか?」
「そうだよ。この艶っぽい子のこと。名前もつけたから今度キミにも教えてあげようか。」
「…」
オロチは沈黙してしばらくジッと相手を見つめていたが、やがてこの部分を追求することを放棄する。
「妖1の時も結局キュウビに運転を譲った。私もやりたかったのに。」
「だってあれは、座席の順番から言ってもキミが運転して僕が前に座ってたらキミ前が見えなかったでしょ。2秒で大破だよ。」
「だが私も…」
「ダメ。絶対。ここは土地のありあまってるテキサスの荒野じゃないんだよ。」
それにね、と、キュウビはクククとおかしそうに笑う。
「キミがこの子を運転したら、万が一事故にならなくても明日ニュースになってしまうよ。『複数の目撃証言・深夜の首都高・未成年少女がポルシェで暴走』。」
「ああ、それもそうだな…って、せめてそこは少年と言え。」
「いたたた、冗談だよ、いたたた、つねらないでよ。」
「…ふん。」
オロチは顔を逸らし外を眺め始めた。
あ、ふて腐れてる。
24時間営業のゲーセンを探して、マリオカートでもやってみようか…。
キュウビはしかし、ふとデジタル時計の表示に目を止める。
--- AM3:00 ---
「午前3時。」
キュウビはひっそりと呟いた。
「キミにプロポーズする時間だ。」
「…またか。毎回、夜だな。」
「だってお日様の下でするような真っ当なプロポーズじゃないからね。いわばこれって闇プロポーズというか黒プロポーズというか。」
キュウビは片手を伸ばし、そっとオロチの手に重ねる。
息を吸い込んで、言葉を発す。
柄にもなく真剣な自分の、気恥ずかしささえ楽しみながら。
「オロチ。死んだら僕とキミはひとつになろう。輪廻の輪から共に外れて。」
「わかった。もう何度も了承している。」
「ああ、ありがとう。」
キュウビは笑う。
幾度と無く繰り返されてきた約束。真夜中のプロポーズ。
何度でも確かめないと、本当にこの目の前の相手がついてきてくれるのかキュウビにはいささか疑問がある。
僕はもう充分生きた。僕はもう生きすぎた。
でもキミはまだ、生きすぎたというほど生きてはいなかったんじゃないか?
キュウビとオロチはいつの頃からか、今生が終わったら輪廻の輪から外れ永遠に眠ろうと約束を交わしていた。
何がきっかけでそんな話になったのか今はもう覚えていない。
ただ、生きることを楽しむ力を持ち日々を享楽的に過ごすキュウビが実は、この命が終わったら後はもう目覚めなくてもいいと思っていたことに、思いがけずオロチは共感を示し、そっと寄り添ってくれた。
そして金色の瞳でキュウビをじっと見つめ、こう言ってくれた。
「私もずっとそう思っていた。」
キュウビが思わずその手を取り、じゃあ今生が終わったら僕とキミは一緒に輪廻の輪から逃れよう、と申し込むと、オロチはあっさりと頷いたのだ。
「わかった、そうしよう。私ももう、目覚めたくないから。」
--- AM3:04 ---
初夏の夜の独特の冷気の中、闇は疾走を加速させる。
あと、もう少し。
キュウビは思う。
あと、もう少し生きたら、夜の大気と同化できる。
温度の無い世界で、音の無い世界で、感情の無い世界で眠ることができる。
そしてそのまま目覚める必要がない。もう繰り返す必要がないという、なんと甘い誘惑。
「僕が先に死んだら、僕はキミが来るまであの世の境目で待っている。
キミが先に死んだら、キミは僕が行くまで待っていて。」
キュウビは、無言だけどちゃんとこちらの話を聞いている相手に向かい、今まで何度も繰り返してきたセリフを今日も楽しげに口にする。
「その後は永遠に消灯しよう。宇宙の藻屑となって眠ってしまおう。
何万光年かかっても、いつかきっとキミという原子とめぐり合い、1つになれるまで。」
オロチは黙ったまま頷く。
そしてまた顔を逸らし、流れる景色を眺めだす。
キュウビは胸に溢れてくる陶酔をゆっくりと反芻する。
今生が終われば自分はたったひとりで永遠の眠りに向かうのだとずっと思っていた。
生命の輝きを永遠に手放そうなどという感情を、理解してくれるものなどけしていないと思っていた。
それが他でもない、オロチが、輪廻を選ばず共に来てくれるとは。
永遠の眠りの中で同じ原子となりたゆたう。
極上の終わり方だ。これ以上はない。
キュウビは、風を、木を、命のきらめきを、捨てるその日に思いを馳せた。
--- AM3:16 ---
あと、もう少し。
後ろに流れていく黒々としたビル街を見ながら、オロチは思う。
あと、もう少し生きたら、終わらせることができる。
苦しみも焦燥も不安も、いつまでたっても上手く処理できない執念も。
もう充分に生きた。
人の命と、復讐のために妖怪になってからの月日、人生の2回分。
できる限りのことをやったはずが、昔も今も変わらず苦しい。
苦しい。苦しい。苦しいことばかり。
その理由もわからないままで、こんな気持ちがこれからも消えないなら、延々と続いて行く転生など、狂いそうなほど嫌だった。
眠りたい。
オロチは思う。
責任もしがらみも全部を手放して、忘れてしまって眠りたい。
再び目覚めなくてもいい永遠の中で。
デジタル時計の無機質な表示に目をやる。
そしてキュウビの端正な横顔。
器用に何でもこなしてしまう、輪廻さえからも軽々と逃れてしまうだろう、恐ろしくプライドの高い妖怪の横顔。
あとどのくらい待てばいいだろう。
生きてきた年数を、オロチは今日も虚しく数える。
この心を持て余す時間を、あとどのくらい過ごせばいいだろう・・・。
--- AM3:24 ---
終わりがあるからこそ、今この瞬間の生は尊く輝き、
終わりがあるからこそ、魂は結ばれることができる。
キュウビは思う。
この命がある限り、魂を入れている器がある限り、
今はただ少しでも多く交わりたい。楽しみたい。
刹那の快楽を、孤独なキミと。
「プロポーズを受け入れる時くらい、できればもっと幸せそうな顔をしてほしいね。」
キュウビは眉間にシワを寄せて黙っている恋人の手を、優しく握る。
「どんな表情でいようと私の勝手だ。」
物憂げな声でオロチが応える。
夜明けはまだ来ない。
「もう少しだけ走ろうか。」
キュウビは軽やかに前を見据えた。
「死が、2人を結ぶまで。」