有給を取って仕事を休み、西の方へと車を走らせた。
冬の寒さにオロチが指を悴ませているので、温泉の出る地に2人で行くのもいいと思ったのだ。
「平日だから日をまたがないで宿に着きそうだよ。」
明後日からの三連休にはきっと混み合うだろう東名高速も、今はスムーズに車を走らせることができ、仕事帰りにそのまま遠方に向かうという弾丸ツアーには夜の道を突っ走る小気味良さがあった。
「おまえ、休暇を取りすぎていないか。仕事は大丈夫なのか。」
助手席から外を眺めていたオロチがちらりとこちらに視線を向けた。
「時速百㎞以上で日常から遠ざかっているのに、ここまで来て心配事かい。有給休暇は労働者の権利だそうだよ。せっかくの権利を毎年放棄ばかりするのはつまらない。だいたい僕は人の世での仕事を楽しんでいるけれどたかだか二泊三日程度の旅行もままならないような働き方は性に合わないし、それに」
「わかった。わかったから。」
オロチは慌ててキュウビを遮った。
そのまま、ふっと息をつくと、スピーカーの点滅を指で何度か押す。
でたらめに選ばれた曲が流れ出し、車体は冷気を切り裂いて疾走していく。
23時少し前に目的の宿に到着した。
チェックイン後に和室に荷物を運ぶと、オロチは室内を見渡し、ケータの家ではお目にかかれない畳に触れ、楽しげに指を走らせた。
キュウビはメガネの奥の目を細める。
「外で遅めの夕飯にしようか。」
豊富な湯量が湧き出る地で、源泉かけ流しの湯に24時間いつでも入ることのできる宿だった。格式ばっていないごく気楽な安宿であり、夜遅くのチェックインにも、間を空けず外へ繰り出していく客にも、従業員は一様に鷹揚だった。
短い旅の場合、キュウビはそういう、自分を流れては消えていくもののひとつとしてしか扱わない場を好んだ。
外に出て大通りを横切り小路に入ると、個人の営む小さな宿が2つ3つと連なる程度の道は、温泉街といえど閑散としていて車もあまり行き交わない。凍る大気に冴え渡る夜空には幾多の星が瞬き、どちらからともなく手をつないでゆっくりと歩いた。いつもの町では手をつなぐなどありえないのだから、見知った顔のいない旅先というのはやはり非日常だ。
赤提灯のレトロな居酒屋がそのうち目に入ったので、背の低い引き戸を開けてみる。
こじんまりした店内だった。テーブル席はふたつあり一組が既に座っていたため、隣を避け奥座敷に入る。そこにも若い男がふたり向かい合って飲んでいて、ひとつ隔てて隅の席についた。
寒かったのだろう。店の女性が持ってきた熱いおしぼりを、オロチは握り締めた。
「ご注文どうぞ。」
「私は熱燗にする。」
オロチが事も無げに言うと、店の女性は一瞬目を丸くした。
五十路にはとうに入っていると思われる引っ詰め髪のその女性は、髪を明るい茶に染め全体に厚化粧で派手派手しい口紅をひいていた。眉間や口元の深いシワが刺々しい印象を放つ。
「お嬢ちゃん、からかわれると困るわ。うちは未成年飲酒はお断りだよ。あんたはこっち。」
この時刻にオロチのような見た目の者が入店してきただけでも訝しげに思っていたのだろう。
女性はグイとオロチの前に品書きを押し出し、ソフトドリンクの欄をとんとんと指し示した。
オロチがムッとした顔つきになる。
それに目もくれないで女性がキュウビのほうに顔を向けたので、キュウビは苦笑しつついくつかの注文をした。
「それと僕は焼酎。」
「はいよ。お嬢ちゃんは飲み物決まったの?」
「私はお嬢ちゃんでは…」
「で、何ジュースなの?」
「…りんごジュース。」
畳み掛けるような女性の口調に渋々オロチが返答すると、女性は満足げに頷き、大股で出て行った。
「なんだ、あいつは!」
女性が出ていった途端に目尻を赤くして憤るオロチを、まあまあとキュウビは宥める。
キュウビもオロチも人間に化けていたが、オロチの化け方は双竜こそ変哲のない水色のマフラーとなって胸元におさまり服装も多少変えているものの、それ以外は人に可視となるだけでアヤカシの時と何ら変わっていないのだ。つまり今のオロチはどう見ても未成年であり、周囲の人間にも当然そう受け取られていることになる。問題は当の本人にその自覚があまり無いことだ。
「酒の注文を断っただけでなく、この私をお嬢ちゃんだと…!」
これも本人にそう自覚はないが、長くゆるやかに揺れる髪に縁取られた白い肌のせいで、強い眼光を湛えた瞳をしていても気の強そうな少女と受け取られてしまうことが少なくなかった。
キュウビはくっくと喉の奥で笑いながら、座敷で手足を伸ばし、長い運転で固くなっていた体をほぐす。
「どうやれば一度に多く殺せるかって考えるんだよ。」
いきなり物騒な台詞が耳に飛び込んでくる。
キュウビとオロチが思わず後ろを振り向くと、ひとつ隔てて座っている若い男2人が話し込んでいる。
「電車でさ、乗り込んだ瞬間に乗っ取るのが一番手っ取り早いって。当然こっちは武装して。乗客は泡食って腰抜かすな。」
芝居がかった笑い声をたて、声を潜めながらもどこか周囲に聞いてほしいような演説調の口ぶりで一方の男が喋るのを、もう一方が薄ら笑いを浮かべつつ「それ、いいね」などと言いながら頷いている。
「丸腰の奴らをさ、持って行った武器で片っ端から…」
「お兄ちゃん達、おかわりは?」
男2人のグラスが空になっているのを目ざとく見つけ、先ほどの女店員が声を飛ばす。
2人はびくりと身をすくめた。
どうする?もう1杯いく?俺、あんま金ねぇし。
仕方ねぇ、そろそろ帰るかぁ・・・。
ブツクサ言いながら腰を上げた男2人はお勘定、と低い声でレジに立ち、あいよっと店の女性に威勢よく返されてまた肩をすくめた。
「勉強がんばるんだよ。」
女性が釣銭を渡しながら声をかけると、2人の男は2人ともが照れくさそうに頭を揺らす。
さみーなぁとぼやきながら男2人が外に出たのを見届け、オロチが険しい目でキュウビに言った。
「おい、私たちも出るぞ。」
「え?なぜ?」
「先ほどのやつらの会話を聞いただろう!他の人間に害を成さないようにあの2人を手分けして見張らなければ・・・」
「あのねぇ、あのくらいのことあの年頃の子たちなら吐いちゃうことあるよ。」
キュウビは容姿端麗の顔にかかる前髪を軽くかきあげ、のんびりとお通しの皿の絵を眺めた。
「見たところ二浪か三浪はしてる万年浪人生だろ。ちょっとストレスたまってるだけだって。ニキビ面の可愛い若輩者だよ。ごくフツウ。そこまで嫌な気配はしなかったの、キミだってわかるだろ?」
「…」
色をなしていたオロチだったが、キュウビの言葉にそれもそうだと感じたのか、暫くすると浮かしかけていた腰を落とし、黙ってしまった。
「お待たせ。お嬢ちゃんはジュースね。」
タイミング良く飲み物といくつかの料理が運ばれてくる。
目の前に置かれたジュースにオロチが憮然としたが、皿を置きながら女性店員が観察してくるので、仕方なしといった風情でグラスを手に取り、オロチはそれをグイと飲んだ。
「うっ、おぇっ」
途端に吐き出し、液体がオロチの衣服を濡らす。
「ああ、何やってるの。」
女性が慌てて布巾でオロチの服を拭こうとすると、オロチはその布巾をひったくった。
「ジュースは嫌いなんだ!」
「あんた、じゃあなぜ頼んだの!」
声を上げて言い返してくる女性に、オロチの目がギリギリと釣り上がった。
「おまえが!頼めと言ったんだ!!」
「まあまあ…」
再び苦笑しながらキュウビが止めに入る。
「すみませんね、連れは口が荒くて。」
「いーえ、いいんですよ。あんたも大変ですねぇ。」
女店員は呆れたような様子でオロチを見やり、それでも代えの布巾と熱いお茶を持ってきてくれた。
「キミ、バカじゃないの。さっきの子たちにも、あの女性にも、人間の一挙一動に左右されて。」
口角をあげ皮肉めいた笑みを向けると、オロチにジロリと睨まれた。
厨房で黙々と働いている男と、あの強い物言いの女性は夫婦という雰囲気でもない。
どういう関係なのだろうか・・・。
きっとあちらも、僕とオロチの関係を訝しんでいるのだろう。
キュウビは楽しげに焼酎を飲む。
ひとり酒を飲むキュウビを再び一瞥すると、オロチは湯のみに指をあてた。
出された料理はどれも味が良かった。店に他の客がいなくなるまで、何杯かをキュウビは飲み続けた。(オロチは恨みがましい顔をしながらお茶を飲んでいた)
上々の気分だったが、ただ、勘定を済ませて外に出ると小雨がぱらついていた。
冬の雨は時に雪よりも体に沁みる。
仕方ない、と歩き出そうとした矢先に店の戸が中から開けられた。
「降ってきたようだから、これを使いなさい。」
先ほどの女店員が傘をグイとオロチに差し出す。
「…私たちには必要ない。」
「そんな細っこい体で風邪でもひいたらどうするの。ほらっ。どうせボロ傘なんだから返さなくてけっこうだよ。」
「しかし、それではおまえの…」
「ほら。今夜は冷えるから。」
女店員は強引にオロチに傘を握らせると、再びガラガラと戸を閉めてしまった。
「…」
「せっかくだから使おうか。」
キュウビはパチンと音を立てて開いた年季の入った傘をオロチにかざした。
飾り気の無い女物の傘は骨が何本かひどく曲がってしまって全体が色褪せており、みすぼらしいことこの上ない。ただ、気配からあの女性が長年愛用していただろうことが伝わってくる。柄の部分に名前を記した小さなシールが付いていた。
使い込んでいる傘を行きずりの者に渡すなんて、とキュウビは思う。店を振り返ったが、扉は閉ざされたままだった。
オロチはそっとキュウビに身を寄せると音も無く歩き出す。
黙した横顔が何かを思っている。
まったく…
キュウビは笑う。
人間の一挙一動にいちいち左右されて…
くたびれた傘に雨がシトシト音を立てた。
宿に帰るとすぐに浴場に向かった。
思ったとおりオロチは温かい湯を喜んだ。
のぼせかかるとバシャリと音を立て足を湯船の外に豪快に投げ出したりして、胸をそらし天を仰ぎ、気持ち良さげに頬を染めている。白い肌が湯で色づいていく様を見るのは目に楽しかったが、無造作にはしゃいでいるようでいて背や腰に見た目の年齢に適さない色香があり、いまに他の客が入ってこないかと気になってしまう。
未だ小雨は止まず、しかし露天風呂に浸かりながらであればさほど雨は気にならず、深夜の貸切状態となった浴場で、時折口付けを交わした。
清潔に布団が敷かれている部屋に戻ると、「湯冷めしないように」、キュウビはオロチを腕におさめた。オロチのまだわずかに濡れた髪はなでれば蛇のようにキュウビの指にまとわりつき、肢体は腕の中で身じろいだ。
キュウビの目が自分を見ていることを確かめ、密やかな笑みを湛えた唇を指でなぞった後、オロチが首に腕を回してきた。
「こんなことをして、私たちは滑稽だな。」
首を傾げてオロチがつぶやく。
「人の世も妖怪の世も、はたから見れば大体のことが滑稽かもね。」
キュウビは腕の中のオロチの身体を持ち上げた。
「僕は昔から、滑稽なものが好きだ。」
キュウビの言葉にオロチは薄く笑んだ。
そのまま布団に乗り上げれば、絡み付いていた髪はするりとほどけ、布団の上に舞っていく…
明け方まで戯れ、そのまま長く布団で過ごし、昼過ぎに少し辺りを散策し帰ってからまた湯に浸かったりしていると、冬の短い陽光は早くも陰りを見せ始めた。
「口縄坂に行ってみようか。」
キュウビは歩いていける距離にある、坂の名前を口にする。
古くからある蛇行する坂で、上まで登るとこれもまた古くからの小さな森があり、眼下に街を見渡せる。
人間には観光スポットとしての人気はさほど無かったが、妖怪に好まれる場所というのはあるものだ。徐々に日暮れていく中、坂の下に到着すると、人気の無い深閑とした石畳の道をキュウビとオロチはひっそりと登っていった。ところどころが階段になっており、まわりは寺院がひしめいている。
各寺院に纏わる言い伝えや仏道の教えを口にしながら行くと、聞き入っていたオロチがやがてぽつりと、おまえは賢い、と言った。
賢くて、たくさんのことを知っている。
「口数は少ないけど、キミの発する言葉もなかなかのものだよ。」
キュウビは笑って返した。キュウビにとっては、活字から引っぱってきただけの浅薄さがない、真っ直ぐなオロチの言葉にこそ、虚を突かれることも多かった。
やがて口縄坂の天辺につくと、そこだけは寺院もなく静かな森が佇んでおり、振り返ると辿ってきた石段の向こう側に町が見える。特に大きな娯楽施設も無く日が沈めば宿の客も酒を飲むか寝入るかしかない町は、静かだった。陽はとうに沈み、そのうえ霧がかっているというのに、町は不思議な明るさを放っている。
「いい場所だね。」
「ああ、すごく…」
風をあびてオロチは目を見張る。
冷気が森全体から発せられているようでとても冷えたが、あたりには良い気が満ちていて風とともに身体に沁み込んでくる。
周囲に人目は無く、オロチの体は自然に浮かび上がり、その身をアヤカシに変え、北風の中をヒュウヒュウと舞った。
風 風の音 森のざわめき 夜の寂しさ 遠い 遠い星
オロチは両腕を広げくるくると身体を回転させながら、小さい森の上を飛ぶ。
この寺院だらけの地に沈み込んだ数多の人々の祈りと思いが、今となっては浄化され清涼な風となって吹き荒れる。その風はオロチの身体に入り込み、自身の抱える暗い情念さえも軽くなっていくような錯覚を覚えた。
背の高い木の枝についと止まり、オロチは人の姿のまま地上にとどまっているキュウビを振り返る。
この場所からもキミの金の瞳が瞬いているのが見える。
見上げながらキュウビは思う。
オロチの髪は風になびき、霧の夜に艶かしく動いている。
空を舞っていたキミ
人から妖怪になった日以来、変わらない若い肉体
呼吸する胸 躍動感
キュウビは息をつく。
信じられないな
数奇な運命をかいくぐり、道を切り開いて進んで行く強いキミが、
基本的には死を求めているということを
キュウビはオロチの心を探ろうとしたが、そこにはいつもと同じ荒涼とした原野のような気配があるだけだった。
まるで心が無いかのように。
下り坂で、何か土産物でも買おうかとキュウビは提案する。
町の中心部まで歩けば土産物を売る店の一つや二つはあるだろうし、まだギリギリそういう店の開いている時間だと思った。
何かほしいもの、ある?
聞いてみると、オロチはしばらく思案した後、傘、と答えた…
閉じる間際だったらしい洋物屋に滑り込むと、いくつかの傘が売られている。
オロチはその中の、薄い水色の無地のものを選んだ。
「もしかしてあの女性に贈るの?」
「そうだ。かまわないか。」
「もちろんかまわないけど、昨日の傘だって返すつもりなんでしょ?」
「…ああ。私が持っていても、うまく使えない。」
キュウビは肩をすくめる。
オロチの選んだ柄の細い華奢な傘は昨日の女性に似合わないとも感じた。
あの女性の行動って、もしかしてキミがあの女性の生き別れの娘に似てたとかかね。
軽口を叩こうとしたが、かろうじてやめておいた。
昨日の赤提灯の店は今日は休みなのか中に人の気配はない。
引き戸は開いたため、細く開け、オロチはそこに傘を差し込んだ。
長年使った思い入れのある傘と、新しい傘、雨のたびにどちらかを選べばいい。
オロチはしばらく傘の上に指をとどめていたが、やがてそっと離した。
「私はこの地が気に入ったから、何年かしたらまた来ようと思う。」
「ふっ、言うと思ったよ。恩も恨みも律儀に忘れない。面倒だねぇキミって。」
「いつもの町から飛んで来るにはここは遠すぎる。おまえの車に乗っていく。」
「ああ、いいよ。一緒に行こう。」
キュウビは口角を上げて微笑み、ゆったりと手を差し出した。
オロチは横目でキュウビをちらりと見ると、顔をそらし、しかし手を伸ばしてキュウビの手に自分の手を重ねた。