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その日、俺は非常に恐ろしい先輩に呼び出された。夏の残滓がまだ少し残っていた10月のことだった。パート練習先の教室はもう暗くなりつつあり、今日最後の夕陽が譜面台を弱々しく懸命に照らしていた。そろそろ電気をつけようか。そんな事を漠然と考えながらぼんやりと練習をしていた。なんら変わりのないいつもの風景。それは、俺がちょうどステップの練習とできなかった座奏の箇所の復習を一区切り終えて自販の飲み物で喉を潤していたときのことだった。マーチングコンテストの全国大会が近づきつつあり、練習も一層激しさを増していたため、10月といえど水分補給は欠かせない。京都府宇治市にあるこの私立立華高校では、マーチングの強豪校であることから練習量が他の高校の比ではないのだ。出れないかもしれないとはいえ、練習は欠かしたくはない。そんな時、同じトロンボーンパートの戸川志保が憐れみとからかいを含んだ表情で太一を呼びに来た。俺に用があるという先輩は神田南という鬼のドラムメジャーと呼ばれる3年生だ。全国大会前のこの忙しい時期に何の用だろうかと俺は疑問に思い首をひねった。不思議に思いながら休憩をやめて教室のドアを開けて先輩の元へと向かった。ドアの向こうに佇む彼女は暗い教室から明るい廊下に出たせいか表情がよく読めなかった。しかし、よく観察すると雰囲気で彼女が俺に怒りを抱いているのは明らかだった。俺は男子なのに身長が150と少ししかないせいで先輩と同目線で喋らねばならないのが少し悔しい。
俺はしばらく言葉を待っていたが諦めて喋りかけた。
「俺に何か用が有るんですか?」
そうするつもりはなかったのだが自然と怒ったような声が口から出た。
「分かってるんじゃないの?」私がここに来た意味。彼女の桃色の唇がゆっくりと音を紡ぐ。沈黙が二人の前をゆっくりと通り過ぎていく。夕方の窓の西日が彼女の頬を優しく照らした。黙っていれば可愛いのになぁという見当違いの感情を抱きながら俺は覚悟を決めて本音の言葉を発した。
「頭では理解してるんです。自分がやっていることがダサいんだってことは。要領よくやる方がカッコいいと思ってて、それでこなしてたらここまで来ちゃったんです。きっかけがあれば俺だって一生懸命に、」そこまで言い切ってふと気がついた。顔が急激に熱くなる。そうだ、俺も努力の鬼のアイツみたいになりたいんだ。
「もういいよ。的場の考えてることなんとなく把握したから。」そこで己の思考は打ち切られ視線は眼前の神田南へと注がれた。
「じゃあ、的場が私に怒られた事にすればいいわ。」そうすれば周りに格好がつくんじゃないの?提案された案は太一にとって魅力的だった。彼は抜け出したがっていたのだ。この妥協と怠惰にまみれた日常という名の檻から。進もう。私立高校の割には汚い扉が無造作にガラリと乱暴に閉めてそこでようやく的場太一は決心した。努力しよう。そしてもっと上手くなって梓やあみかを超えるのだ。俺はモブなんかで終わらない。強い意志で譜面台を開きすっかり冷えたマウスピースを温めようと息を吹き込もうとしたその時、出し抜けに扉から神田南が花の咲いたような笑顔で唐突に扉を開きこちらに向かって言った。
「言い忘れてたけど、私は努力する男の子の方が好きだよ!」一瞬何を言われたのか分からなかった。
数分後に顔が真っ赤な事を志保に指摘されて呆れと心配の眼差しを向けられたのは今更書くまでもないだろう。その後、志保はそれを顔が赤くなるほど叱られたのだと部全体に広めてくれたので助かった。
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