IS<インフィニット・ストラトス>―Deus Ex Machina 作:ネコッテ
周囲から上がる無数の警報。眼前で敵が武器を構えている。私は戦っていた。孤独な少女のために、世界を敵に回して。戦力比はざっと5:1。多勢に無勢だった。その戦力差を前に、私はほとんど成す術がなかった。敵の攻撃。咄嗟に回避運動を取る。だが、激痛で体が思うように動いてくれない。途切れそうになる意思を繋ぎ止めるだけで、精一杯だった。
これまでか。そう思ったとき、私を守るように蒼い傘が開いた。
驚く私の前に、天空より赤い髪の女性が静かな風と共に舞い降りてくる。
今思えば、あの時に気づくべきだったのかもしれない。
<サイレント・ゼフィルス>の専属操縦者のローズマリーが私の姉だと。
――私にはあなたを庇う歴とした謂れがある。
あの言葉はそういう意味だったのだ。
目を覚ました私の目に、見知らぬ天井が映った。
「あれ……?」
私は国家代表と戦っていたのではなかったか。――いや、違う。いまは学園の臨海学校に来ていたんだった。ここはその宿泊先だ。どうやら、生々しい夢を見ていた所為で、現在と過去、夢と現の感覚が曖昧になっていたようだ。
現状を把握した私は、気怠さを感じながら身を起こす。
「ん?」
精神的な倦怠感に、しばらくぼ~としていると、背後に人の気配を感じた。
私の背後にいた人物は、黒い髪の女性だ。清楚な佇まいで静かに正座をしていた。部屋がほの暗いこともあって、どこか不気味な光景だ。私は思わず『ひっ』と悲鳴を上げた。
「し、篠ノ之さん、何をしているのですか?」
私は柳の下で佇む幽霊よろしく私の背後に座っていた篠ノ之さんに言う。
篠ノ之さんは確か隣の二十三号室だったはずだけど。
「実は、これいってアリスに頼みたいことがあって、参った次第だ」
「参った次第だ、って」
危うくこっち参ってしまうところでしたよ。私、お化け苦手なのに。
ともあれ、私は乱れた浴衣を整え、正座する篠ノ之さんと向き合った。
「それで、早朝から私に何を頼みたいのです?」
篠ノ之さんは真剣な面持ちで、畳の上に正座し直した。
「実は昨日の晩、一夏と話したのだ。そこで、あいつの想いを聞いた。それを聞き、私はあいつの力になりたいと心の底から思った。――だが、今の私は未熟だ。とりわけISに関しては、素人に毛が生えたようなものだ。そこでだ、アリス。ぜひ私にISの稽古をつけてほしい。たのむ! この通りだ!」
篠ノ之さんは、深々と頭を下げて畳に額を押し当てた。
「それは構いませんが、私でいいのですか?」
教えるのは一向に構わない。でも、私ではなくラウラの指導を受ければ、一夏と一緒に訓練できるから、篠ノ之さん的に良いと思うのだけど。
「私はお前がいいのだ。――戦う理由を訊いたとき、お前は言った。『私が戦う事で救える命がある。その為に戦っている』と。その言葉に、私は感銘を受けた」
感銘か。篠ノ之さんの言葉に、私は感慨深いものを感じた。
その言葉は<国境なき医師団>にいた母の言葉なのだ。母はもう亡き人だけど、母の残した言葉がこうやって影響を与えている事に、偉大さというか、そういうものを感じてしまった。
「この通りだ。私はお前からISの技術だけではなく、その生き様を学びたいのだ」
篠ノ之さんは床に穴を空けそうな勢いで、額を畳にこすり付けた。
この勢いだと、了承するまで顔を上げないだろう。そういうところはとても頑固だから。
「わかりました。引き受けましょう」
篠ノ之さんは勢いよく顔を上げた。
「本当か!?」
「ええ」
特段、断る理由もなかったので、私は了承した。むしろ、歓迎だった。
役職上、身を危険にさらす機会が多い私は、いつ死ぬかわからない身の上だ。私が死ねば、母の
「では、これからよろしくお願いしますね」
「はい、よろしくお願いします。お師匠様」
正座で三つ指を突き、頭を下げる篠ノ之さんに、私は苦笑をした。
「その呼び方はやめてください。今まで通りでいいですよ」
「しかし、父から師は敬えと」
「構いませんよ、同い年なのだし。もっとフランクに行きましょう」
「そうか? アリスがそういうなら、わかった。では、私のことも箒と呼んでくれ」
「わかりました。そういえば、いつからココにいたのです?」
現時刻は、まだ6時を過ぎたところ。まだ起床時間前だ。
一体いつ頃から、私の隣に居たのだろうか。
「4時だ」
「4時ですか!?」
思わず吹き出しそうになった。
箒は2時間も私の側で起きるのを待っていたのか。どうりで、変な夢を見る筈だ。
♡ ♣ ♤ ♦
箒と別れたあと、私は朝食を取るため、旅館の広間に向かっていた。
隣には同屋ののほほんさん。ただし、表情はのほほんじゃなく、ぷんぷんだ。
「どうしたんですか、のほほんさん」
「ぎっちょん、昨日さっさと寝ちゃうからつまんなかったー!」
ああ、昨日の晩は、任務の疲れからすぐ寝てしまいましたからね。
そのせいで、のほほんさんが楽しみにしていたガールズトークをできなかった。
「そう怒らないでください。お詫びに朝食のメニューを一つあげますから、ね」
「え~、ほんと~!?」
のほほんさんは一瞬で破顔した。こういう時ののほほんさんは、食べ物で釣るに限るのだ。教えてくれた虚さんに曰く『本音は食いしん坊なので、食べ物を上げれば大概は機嫌がよくなります』ということらしい。
私は“ぷんぷんさん”から“のほほんさん”に戻った布仏さんと共に広間の戸を開ける。
広間には既に朝食の準備がなされていた。メニューは白飯に味噌汁、塩鮭、味海苔、納豆と、純和食だ。膳の前では、既に大勢の生徒がついていた。席は自由のようだ。
「あ、ぎっちょん、かんちゃんの隣、空いてるよー」
「あ、ほんとですね。――簪、おはようございます。隣いいですか?」
私たちに気づいた簪がやや眠そうなに顔を上げた。
「……あ、アリス。おはよう。うん。いいよ」
「では、失礼して」
簪に許可を貰い、私とのほほんさんは、簪を挟む形で席についた。
私は朝食の味海苔をのほほんさんにあげつつ、昨日の出来事について感謝を告げた。
「そういえば、昨日は本当に助かりました」
昨日の夜、私はあわやローズマリーに連行されそうになったところを、簪に助けてもらった。彼女がいなければ、私はこうして朝食を取れていなかっただろう。
「……ううん。わたしの方こそ、アリスにいっぱい、してもらったから。それにアリスがいなかったら、荷電粒子砲も完成させられなかった。あ、ありがとう……」
「いえ、それほどもありませんよ」
むしろ、荷電粒子砲の件に関しては、千冬さんの方が大きく貢献している。
すると、納豆ご飯を食べていたのほほんさんが『わたしは?』と自分を指差した。
「……ほ、本音も協力してくれて、ありがとう」
簪の礼に満足したのほほんさんは、納豆ご飯を頬張りながらグっと親指を立てた。
あれ、私の記憶だとアイスキャンディーを食べていた記憶しかないけど。まあいいか。
「それはそうと、ロリーナ――ベロニカの件ですが、OKしてくれましたよ」
「ほ、ほんと!?」
「ええ。是非、手伝わせていただくわ、と。ただ忙しい身なので、全ての作業工程に参加できないそうですが、可能な限り協力してくれるそうです。――よかったですね。きっと開発も捗りますよ。私もあなたへの借りを早く返せそうです」
すると、簪は嬉しげな表情から一転、どこか不安げな表情で箸を置いた。
「簪、どうしました?」
私が様子を窺うと、簪は不安げにこちらに視線を寄越した。
「……アリス……<打鉄弐式>の開発が終わっても、わたしと友達でいてくれる、よね?」
「どうしたのですか、急に?」
「……その、<打鉄弐式>が完成すれば、あなたがわたしを手伝う理由、なくなるから……」
確かに、私がこうして<打鉄弐式>開発の手伝いを買って出たのは、学年別ペアトーナメントでの借りを返すため。その借りを返せたら、私が簪を手伝う理由もなくなる。その時、私が去ってしまわないか、不安だったのだろう。
「……わたし、友達少ないし、作るのも苦手だから。……その、ずっとそばに居てほしい……」
どこか切実な簪に、私は考えるまでもなく告げた。
「もちろんですとも。どこにも行きませんから、安心してください」
私が不安に震える簪の頭をぽんぽんと叩くと、安心したように「……うん」と頷いた。
「でも、ずっとそばにいてほしいだなんて、なんだかプロポーズされた気分です」
私の何気ない言葉に、簪は手から箸を取りこぼした。
その表情は膳に乗せられた梅干しより真っ赤だ。
「……プ、プロポーズ!? ……ち、ちがう、わたしはそういう意味で言ったんじゃ……」
「もちろん、わかっていますって」
「……で、でも、アリスが、そう受け取ったなら、責任、取る」
「ふふ。では、私がお嫁に行きそびれたら、貰ってやってください」
「……ふふ、うん……」
簪はどこか嬉しそうに食事を再開した。心成しか箸の動きも軽やかに見える。
それから私たちは今後の作業スケジュールの話をしながら食事を進めた。
♡ ♣ ♤ ♦
朝食後、俺たち専用機持ちは実習用に持ち込んだ機材をトラックへと運んでいた。これが終われば、あとは学園のバスに乗って帰宅するだけになる。すこし名残惜しいが臨海学校もこれにて終了だ。
(それにしても大変な二泊三日だったな)
<福音>の件で、行うはずだった訓練プログラムは全てパー。本当に海水浴を楽しんだだけになった。それに対して千冬姉は酷く頭を悩ましていた。そりゃそうだよな。ここまで悉く学園行事が潰れたのだから、教師陣は頭が痛いに違いない。
それもあって、俺はロリーナさんの話を千冬姉に切り出せないでいた。
唯でさえ、千冬姉の周りは問題事でいっぱいなのだ。そこに身内の心配までさせてしまったら、いくら千冬姉でも潰れてしまうかもしれない。それが怖くてなかなか切り出せなかった。
(でも、今の俺には頼もしい仲間がいるしな)
アリス、箒、セシリア、鈴、シャルロット、ラウラ。誰もが頼もしい面々だ。そんな彼女たちが一緒にいてくれるなら、どんな困難にも立ち向かえる気がする――とまでは言わないが、精神的にかなりの支えになっていることは確かだ。
それにアリスが所属する<デウス・エクス・マキナ>という組織の存在も大きい。もし俺たちでどうにもならなくなった時は、千冬姉や、束さん、ロリーナさんの、大人の力を借りよう。
そう決意し、最後の弾薬箱をトラックに積み込む。
その後、俺は<白式>を解除し、自分の組のバスへ向かう。車内では、既に全員が座席についていた。どうやら、俺が最後のようだ。俺は適当に空いていた席に腰を下ろした。席についたところで、俺は喉が渇いていることに気づいた。
「しまったな。旅館の購買で何か飲み物を買ってくればよかった」
今から下車して買ってこようか。
いや、そろそろ出発時間だし、みんなを待たせるのはな……。
(仕方ない、休憩所のサービスエリアまで我慢しよう)
と、決めた時、ミネラルウォーターの入ったペットボトルが目の前に差し出された。
「はい、どうぞ」
「お、サンキュ――って、え!?」
ペットボトルの差し出し主を確認し、俺はきょとんとしてしまった。
俺の前に立っていたのは、金髪と澄んだ碧眼が綺麗な外国の女性だ。長身で手足はすらっと長く、まるでモデルのような美貌を誇っている。また、着ているカジュアルスーツがカッコよく、ルージュの口紅が色っぽい。
その女性は<福音>の専属操縦者で、アリスの元上官のナターシャ・ファイルスさんだった。
「こんにちは、勇敢なナイトくん。昨日の夜はお世話になったわね」
ナターシャさんが色っぽいルージュの唇をやんわりと曲げて微笑む。
それに思わず視線を奪われそうになるが、なんとか堪えて答えた。
「あ、い、いえ。それよりどうしたんですか? こんな場所に」
「実はあなたに昨日のお礼を言いにきたの」
ナターシャさんは色っぽい表情を改め、優しい表情でいった。
「母のために戦ってくれてありがとう。心から感謝するわ」
そうだった。ナターシャさんは現職のアメリカ大統領の娘だったんだ。
それを思い出して俺は急に緊張し出した。いや、緊張しない方がおかしいだろう。
「いえ、その、任務でしたから」
緊張でちぐはぐなになった俺に、ナターシャさんがクスっと笑った。
「そう。じゃあ、これは私からの勲章ということで」
そう言って、先ほどのミネラルウォーターを俺に手渡す。
丁度、喉が渇いていた俺は遠慮せず、そのミネラルウォーターを受け取った。
「ありがとうございます」
俺が礼を言った時には、ナターシャさんは『じゃあね』と踵を返していた。そして、バスの下車前にヒラヒラと手を振って俺たちの前から去っていく。その後ろ姿はまさにランウェイを歩くモデルのようで、軍人には到底みえなかった。
「ふぅ~」
ナターシャさんを見送ったあと、俺は貰ったペットボトルのキャップをひねった。
ちょっとキャップが緩い気がしたが、構わず口をつける。
「ぷは~……」
喉が潤され、思わず一息つく。
そんな俺を、箒とセシリアがなぜか険しい目で見てきた。なんだ、どうした?
「おい、一夏、それはなんだ!?」
「は? ただのミネラルウォーターだろ?」
「違いますわ。一夏さんが口をつけた場所の
「え?」
セシリアに指摘され、俺は初めてペットボトルに付着した“赤いもの”に気づいた。
これは口紅? しかもこの色はナターシャさんがしていた口紅と色が似ているような……。
「あっ……」
まさか俺はナターシャさんと間接キス、を……?
同時にナターシャさんの色っぽい唇が脳内再生されて、俺は湯沸かし器みたいに沸騰した。
「おい、一夏、何赤くなっているんだ!」
「わ、わたくしとした時はそんな反応しませんでしたのに!」
「お、おちつけってふたりとも」
そう宥める間に言い訳を探すが、動揺で何もでてこない。そもそもこの展開だとどんな言い訳をしても無意味な気が……。いや、ともかく、このままだと身が危なそうなので、俺は頼りになる教官殿に助けを求めた。
「すまん、ラウラ、助けてくれ……!」
「ふむ。仕方ない奴だな。――二人とも、そう声を荒げるな。間接キスぐらいなんだ。直接したわけではないのだから、大目に見てやってはどうだ? 嫉妬深い女は読者に嫌われるから節度が必要だと、クラリッサも言っていたぞ?」
『ぐ……』
ラウラの一言がグサっときたのか、箒とセシリアが言葉に詰まった。
読者ってのはよくわからんが、クラリッサさん、いいこというじゃないか。
「た、助かったぜ、ラウラ」
「うむ。これで遠慮なくナターシャ・ファイルスのペットボトルをペロペロできるな」
「し ね え ー よ !」
「しないのか? 思春期の男は女の私物に性的興奮するものだと、クラリッサが言っていたぞ」
「それは極めて特殊なヤツだ! 俺はそんなことをしたことも、思ったこともない!」
前後撤回。
ラウラにこんな知識を教えたクラリッサという女性をとっちめたくなった。
だがしかし、事態はそれどころじゃなくなっていた。
なぜかラウラの言葉に即発された箒とセシリアが、しおらしく自前のペットボトルに口付けして差し出してきたのだ。目には“上書き”とか書いてあるんだけど、どういうこと?
♡ ♣ ♤ ♦
賑やかな少年少女のやり取りを聞きながら、ナターシャ・ファイルスはバスを下車した。降りた先には嘗ての部下――アリスが待っていた。アリスは寄りかかっていたバスの側面から体を離した。
「お久しぶりです、ナタル」
「あら、アリス」
歩み寄ってきたアリスをナターシャは歓迎するように抱きしめた。そして、その頬に熱烈なキスをかます。擬音にしたなら『ぶちゅうー』という具合のキスだ。それは最早、愛情表現というよりセクハラに近いキスだった。その証拠にアリスの頬にはくっきりキスマークが残っている。
「あ、相変わらず、愛情表現が過激ですね、ナタル……」
「貴女も相変わらず、元気そうなで嬉しいわ」
「はい、見ての通り、何とか生きています。ナタルも元気そうで」
「まあ、今日が元気でも、明日はどうかわからないけどね」
ナターシャが苦笑し、アリスも苦笑する。彼女たちは軍人だ。命の取り合いをする職業である以上、明日の身の保障はどこにもない。明日、戦場で命を落とす事だって有り得る。それが極端な例だとしても、彼女が数時間前まで生きるか死ぬかの瀬戸際にいたのは確かだ。
「そう思うなら軍なんかやめればいいのに。ナタルなら再就職に困らないでしょ?」
軍人の再就職は難しい。アメリカホームレスの3割が元軍人であることからもそれが窺える。だが、それは男性に限ってのことだ。女性優遇時代の現代に於いては、女性が就職に困る事はすくない。
「モデルとかどうです?」
「悪くないわね。イーリはバカにするでしょうけど」
ナターシャにつられ、アリスも笑った。イーリス・コーリングは着飾った女性をみると、すぐ毒を吐きたがるのだ。どうも幼少期、貧しかったのが原因らしい。彼女は経済的徴兵者だった。
「そう言うあなたは、今どうしているの? フリーランス?」
「まあ、そんなところです」
「そう。――ねえ、私の部隊に戻ってくる気はない?」
ナターシャの誘いに心が動くも、アリスは首を横に振った。
「いえ、気持ちは嬉しいですが」
「エイミーのことなら、誰もあなたを責めていないわよ?」
「知っています。でも、他にやらなければいけないことができましたので」
「そう」
アリスの返事に、ナターシャは優しい笑みを見せた。
エイミーでの一件以来、アリスは戦うことをやめ、自分の殻に引きこもった。その彼女が新たな剣を手にし、戦場に帰ってきたのだ。それは、彼女が新たな目標に向かって歩み始めた証拠。その歩みを止める事は誰にもできない。例え元上官で、恩師であっても。
「でも、何かあったら迷わず帰ってきなさい。いつでも歓迎するわ」
その言葉を保障するように、もう一度、包み込むようなハグをする。
アリスはナターシャに身を預けた。そして心の中で声そっと思う。
――ナタルが、私の本当の姉さんだったらよかったのに。
もし彼女が本当の姉だったら、胸の裡にある得体の知れない感情に苦しむこともなかっただろう。
しかし、そう願ったところで、血の繋がりは簡単に絶てはしない。
それでも“今だけは”と、アリスはナターシャに身を預けた。
それから一頻り甘え、アリスはナターシャから離れる。――が、すぐさま引き戻される。
「ナタル?」
「ああ、やっぱり名残惜しいわ。ねえ、本当に戻ってくる気ない?」
「ええ、気持ちは嬉しいですか」
と言っているにも関わらず、ナターシャはアリスをズルズルどこかに連れて行こうとする。
そんなナターシャの後ろに、ぬっと人影が現れた。同僚のイーリス・コーリング曹長だ。
「なにやってんだ、お前は……」
イーリスがチョップを落すと、ナターシャは涙目になった。
「いた~い。ちょっと何するのよ、イーリ」
「そりゃ、こっちのセリフだ。大統領の御令嬢が、人前で女を拉致ってんじゃねーよ」
「だって、部隊にガサツなマッチョ女しかいなから、潤いが欲しいのよ」
「おう? ガサツなマッチョ女ってあたしのことか? あたしには潤いがないってか?」
「ええ、そう言っているのよ」
そう言って、睨み合うイーリスとナターシャ。
いつしか見た光景が蘇ったみたいで、懐かしくなったアリスから笑みが零れた。それに釣られるようにナターシャとイーリスも笑い出す。そして、一頻り笑い合うと、イーリスはアリスを見た。
「さて、あたしらはいくわ。元気でな」
「はい。時間ができたら、またシュワルツネッガーの映画でも見ましょう」
まだアリスが部隊にいた頃、休日はイーリスの家で、シュワルツネッガーの映画を見て過ごすのが通例だった。別にマッチョな男性が好きというわけじゃなく、宇宙の捕食者だろうが、未来の液体金属だろうが、終末のサタンだろうが、たっぷりの火薬と銃弾で解決してしまうシュワルツネッガー映画の様式美が、彼女たちのお気に入りだった。
「おう、楽しみにしとく。5・1チャンネルのサラウンドスピーカーを買ってな」
「はい、では」
イーリスが『よし行くぞ』とナターシャの肩を叩く。最後にナターシャが告げた。
「元気なあなたに会えてよかったわ。ちゃんと立ち直れたのね」
「ここにいる仲間のおかげです」
「そう。良い友達ができたようで、お姉さんは安心したわ」
そういってナターシャは、今までのやり取りを静かに見守っていた千冬に視線を移した。
気づいた千冬が顔を上げ、車内の様子を視線で示す。
「まったく、余計な事をしてくれたな。おかげで帰路が騒々しくなる」
「これは失礼しました、ミス・ヴァルキリー。ちょっとしたお礼のつもりだったのですが」
「それで、この後どうするんだ?」
ここからは米軍の管轄。千冬の関知するところではないが、ナターシャの動向に千冬は僅かな関心を示した。<福音>の暴走は意図して行われたものに間違いない。今回の一件に関与した者である千冬してみれば、ナターシャの動向が気になるのも無理からぬことだった。
「もしかして、<福音>を暴走させた者を追うつもりか?」
ナターシャは強く頷いた。
「ええ。あの子を狂わせ、母を貶めようとした連中を私は許しません」
明確な敵意を以て、ナターシャが水平線に視線を馳せる。
千冬には『たとえ相手がこの世界の支配者でも』と決意を表しているようにみえた。
「では、私はこれで」
「ああ。気をつけてな」
ナターシャは一礼して踵を返し、イーリスと共に千冬の前から去っていく。
ふたりを見送ってから、アリスが千冬に言った。
「あの、織斑先生、化粧水か何かありませんか? これを落したくって」
そう言って、ナターシャがつけた真っ赤なキスマークを指差す。
「ラウラに見つかったら、折檻されてしまいます」
そういうと、千冬は笑いながら自前のバックからメイク落としの化粧水を取り出した。
「聞こえる、ルイス?」
「ええ、聞こえるわ、ロリーナ」
「<銀の福音>のAIユニットから<彼女たち>に繋がりそうな暗号化プロトコルコードを手に入れたわ。<福音>が《第二形態移行》したから、システムがオーバライドされていたけれど、なんとかこれだけはサルベージできたわ」
「彼女に頑張ってもらった甲斐があったというものね。暗号の解読にはどれくらいかかりそう?」
「暗号化には桁数の大きい素因数分解によるRAS暗号方式が使われているわ。普及している暗号方式だけど、信頼性は高い。アルゴリズムの解析には世界最高性能のスーパーコンピューターを使用しても数世紀を要するわね」
「でも、解読できれば<彼女たち>の支配ネットワークに侵入できるはず。<彼女たち>の支配に終止符を打つための、大きな足掛かりになるわ」
「ええ。でも、<彼女たち>から解放された時代を担うのは私たちじゃない」
「そうね、次世代の担うのは私たちじゃない。私たちの子どもたち。そのためにも、私も娘と向き合わないといけないわね。例え憎まれているとしても」
あとがき
どうもわたしです。このたび、無事になんとか第3巻の部を書き終えることができました。
これも作品を長きにわたって、読んで下さった読者さんと感想を下さった方のおかげです。
さて、役者がそろったところで、ようやく物語は後半戦に突入します。相も変わらず拙い作品ですが、もうしばらくお付き合いください。
では最後に、これを読んでくださっているあなたと、いつも楽しいメッセージを送って下さるNAXさんに最上級の感謝を捧げつつ、失礼させていただきます。