【艦隊これくしょん】「雨」合同作戦誌【合作】 作:ウエストポイント鎮守府
ゆうべには
「
眠たげにベッドの上で目を擦る少女を見て、対馬は──
最近覚えた
「ん……おはようございます。
「臨安です。
「ああ。そういえばもう臨安ちゃんでしたね」
臨安よりもよっぽど上手い発音で呼びかけた丹陽さんは、毎日やってるこの間違えごっこの中でも飽きてないみたい。
いつも通り、とても楽しそうに真っ白い歯を煌めかせて笑う。
「今日もおはようございます」
白い、白い、雪みたいな色のベッドに半身を起こし、臨安を見つめます。
丸くて優しそうなその目は、いつだって変わってません。
日本でも。そして台湾だって。国や名前が変わっても、彼女はいつも前にいる。
…………いや、前にいた。
「どうしました?」
丹陽さんは恥ずかしそうに笑いながら後ろ髪を掻く。臨安は彼女から目をそらし、何でもないですと呟く。
そうですか。
彼女は歯切れの悪い返事にくすりと小さくほほえみ返して、溜息を一つつきました。
「いつも悪いですね。臨安ちゃん」
「……臨安の好きにしてるだけ、です」
わざと頬を膨らませて丹陽さんにそっぽを向ける。
そうですか。今度は少し嬉しそうに、小さく笑う声。
それと一緒に、じっと心配そうに見つめる視線が頬に刺さる。
こそばゆくなって硝子窓から目を離し、臨安はちらりと横目で丹陽さんを伺いました。
ぱちりとまじろぎ。目が合う。瞳がちょっとだけ小さくなる。
落ち着いたブラウンの眼は、臨安より少しだけ大人に感じます。
視線を交わし、全く同じタイミングで
どちらからともなく、こらえきれなくなったように吹き出しました。
「そうだ」
不意にちらりと明るい茶色の瞳が左を。灰色の曇り空を映した硝子窓を向く。
彼女は朝と言うには白みがかりすぎた雲模様を見て瞼を閉じ、思い出したように首を右にかしげてはにかみました。
「臨安ちゃん。今は何時くらいですか」
小動物を思わせるような可愛らしい顔立ち。国が破れて別の国に移されても、その綺麗な栗色の髪は変わりなく美しい。
臨安は慌てて目線を下に落とし、ちっちゃな金縁の腕時計を一瞥します。
「三時を回ったくらい……です」
「……そっか。やっぱり丹陽、寝ぼすけさんみたい」
こんなこと、昔は無かったのに。
ぽつりと悲しげに目を伏せた丹陽さんを見て、臨安は慌てて笑い返します。
「ラッパがあったらよかったですか?」
そうかも。
彼女はキョトンとしながらも、えへへと可愛らしく頬を緩めました。
「昔はラッパひとつで飛び起きてたのに……今じゃもう鈍っちゃって」
「台湾じゃもう
臨安はおどけて眉の上に指を沿わせ、大仰ぶって右に左に周囲を眺めます。
視界の上のほうに纏まった薄桃色の毛先が持ち上げられた後、ちょっとだけ暗く感じる病室が鮮明になる。
純白の綺麗なシーツに包まれた病床とちょっとの調度品以外は何にもない、精練されすぎた殺風景な小部屋。
「大雨の日に演習なんてするものじゃないです」
反省反省。丹陽さんは栗色の髪の毛を掻きながら力なく笑いました。
「艤装が古くなってるのに頑張るから……ですよ。もっと力を抜いていきましょう?」
「……ぐうの音も出ないです。どうにも昔より体力が落ちちゃってて…………」
はあ。懐かしむような嘆息にも、掠れた高音が混ざってしまう。長すぎる夏風邪って訳でもないのに時折掠れた吐息を漏らす丹陽さんは、すっかりやせてしまった小さな手を重ねます。
絵画のように、右手を上に。下腹部を撫でるみたいに置かれた諸手は小奇麗な掛け布団に皺を作りました。
「いつもはわたし、ずっとこの部屋にいるんです。普段は喘息気味だからって」
肺を病んじゃったから仕方ないんですけどね。
ぎゅっと。布団の皺が深くなる。
俯いた丹陽さんの目は悲しそうで、心なしか曇りが濃くなった気もして。
臨安は何も言わず、ベッドに身体を寄せました。
「──でも」
伏し目がちな呟きが逆接に変わる。物憂げな顔立ちがぱっと。花開く。
「でも、今日は散歩しても良いって言われちゃったんです!」
彼女は臨安の手を握ってそう言いました。
身を乗り出さんばかりに上体を起こして、喜ばしげに。
臨安は驚くほど冷たい痩せた手へ親指を這わせ、笑いかけました。
「……じゃあ、一緒に」
小さく震えながらも握り返してくれる右手と、端正な三日月を描く口元と。臨安が少しでも足しになるのなら、と。
「あ、臨安ちゃん。丹陽が今日は元気いっぱいなの信じてないでしょう?」
臨安の少し不安げな表情を見られたのか、丹陽さんは頬を膨らませて怒りました。
ほんのりと朱が入ったほっぺたは、往時から痩せたとはいえまだまだ生気を保っています。
柔らかそうな頬を様々に動かして表情を変える彼女にとって、一番の目安になる場所。
臨安は手を合わせて謝りながら、丹陽さんの身体をちらりと視ました。
彼女が纏うのは真っ白いワンピースみたいなセーラー服ではなく、もっと潔癖な清潔感すら感じられる病院着。
襟元から覗く鎖骨は不健康そうに浮き出ている。
袖まくりしてあらわになった二の腕は、臨安のそれより細く。また白く。
──っ
突拍子もなく、
丹陽さんの愛嬌良く緩んでいた真っ白い口角から、枯れた空咳が溢れ出す。
細めていた目尻を見開いて目の前の布団に突っ伏したかと思うと、げほりと濁りを混ぜて咳き込みました。
血でも吐きそうなほど、痰を吐くこともないまま。狭い気道に喘ぐ丹陽さんは、何度か乾ききった咳を吐き出し、苦しげに噎せる。
棘のささくれ立った気管支を無理やり空気が押し通って彼女の肺で暴れるのが、真っ白な病院着の上からでもよく分かる。分かってしまう。
「…………大丈夫ですか」
「大丈夫。ゆき……丹陽は沈みません」
丹陽さんはそうにへと笑いながら言います。
まるで言い聞かせるように、精一杯の強がりを。
目頭にほんの少しの水滴が浮かんだのか、楽しげに目を細めつつ人差し指でぬぐい取って臨安を向き直りました。
「さ、早く。日が暮れちゃいます」
彼女はよいしょとひとりごちてベッドに腕をつく。今にも折れそうなほど細い腕は、まるで雪に染まったように真っ白。病院着の袖を下ろして
臨安の心配を知ってかしらずか。いたずらっ子みたいな笑顔を浮かべてベッドを下り、水色の院内スリッパを履いて立ち上がりました。
立って歩き出した姿は、何日も寝たきりだったとは思えない程度にはしっかりしていて。でも、艦娘だったとも思えないほど弱弱しくて。
リノリウムの床をスリッパの底が擦る音に混じって
艦娘になんかならずに学校に行っていれば中学年くらいだろうか、その姿は難病を患った悲劇の少女みたいにも見える。
丹陽さんが中学年なら臨安は低学年くらいか。二人並んでみると丹陽さんのほうがちょっぴり背が高くて、お姉さんに見えます。
「ちゃんと歩けますって」
心配しすぎです。
鳥の骨のように細い人差し指を立てて苦笑い。とたん、真っ白い壁を支えにして擦っていた左腕が滑り、空に行き場を失って体勢を崩してしまいました。
「丹陽さん!」
思わず手を伸ばして白衣の脇から抱きかかえます。
背丈がちょっとだけ高い丹陽さんは、予想よりもずいぶん軽い。枯れ木みたいに希薄なのに、腕はしっかりとほんのりとあったかさを返してきて。
抱きかかえた瞬間、消毒液のツンと鼻につく匂いが立ち込める。
病人の匂い。どこかを悪くしたひとの、いやな匂い。
「……」
「どうしました?」
丹陽さんは何も知らず。不思議そうに顔を覗き込んでくる。
臨安はなんでもないと首を振って、その細い腕を肩に回しました。
────
日本に最も近い港の、それも
そんな台湾の北側に面した入り江の港の端っこに、簡単に整備された公園がありました。
コンテナヤードと巨大なクレーンに覆われた商業港の端に、とりあえず市民の憩いのために作ったような公園が。
軍も、政府も。それをどう思って行ったのかは分からない。
何はともあれ、丹陽さんの散歩にはもってこいの場所でした。
「……磯の匂いだ」
公園の一面に敷かれた木甲板を踏んだ丹陽さんは、弱った足でよろめきながら海の目の前に来ました。
薄雲から時折覗く空はどことなく赤く。黄昏と青天の境目がぼやけて消えて。海の深く暗い青に映ってきらきらと乱反射する。
臨安の肩に回していた腕をするりと抜き取ると、不安定に身体を揺らしながら急ぎ足で歩を進めました。
危ない。そう考えて口を開くのも束の間。摩擦の強い木甲板が丹陽さんの靴を絡め取る。
引き摺られた左足が濃い褐色の木板に引っかかって、痩せて弱ったその体を崩しました。
簡単な鉄パイプの柵が前のめりにふらついた身体を受け止めて、後を臨安が袖を掴みます。
「危ない、です」
「すみません……走っちゃいけないのに、つい」
申し訳なさそうに白い病院着の袖口を握った丹陽さんは、思い返したかのようにぶり返した咳に咽せた。
ごほり。血を吐かんばかりに咳きこんでその場にしゃがみ込み、慌てて口を押さえる。
鉄パイプの柵に縋りついた形の黒い影が深青の水面に映り、
冬の乾いた風が細かく水面を揺らして、小波と共に影をかき消していく。
臨安は周りを見渡してちょうどいいベンチを目にとめると、丹陽さんの発作が治まるのを待ちつつ背中をさすりました。
「…………ごめんなさい」
咳の
外見には何も戻すことがなくても、真っ白な喉が苦しそうに上下する。
ごくりと嚥下した唾がささくれ立った喉元に触れたのか、もう一度湿った咳を
「丹陽さん……」
「大丈夫。…………大丈夫、です」
彼女はそれでも、笑います。
昔のように。昔とは違う笑みを。仄白んだ頬を精一杯引き上げる。
ただのそれだけで、引き攣った笑顔の下の憔悴が増したようにも見える。見えてしまう。
臨安は何も言えず、静かに拳を握り締めました。
もう帰りましょう。出かかった言の葉を押しとどめて。
ひとしきり発作が治まったのを確認して、臨安は少し後ろのベンチに向けて腕を引きました。
ごめんなさい。
小さく背中を丸めて、丹陽さんは呟きます。
誰に言うでもなく。──いや、誰もに言っているのか。
臨安以外の、丹陽さんがこれまでに背負ってきた全てに謝っているのか。
「ここ、座りましょう」
首を振って不吉な思考を取り押さえ、丹陽さんに呼びかけます。
上体ごと首を回した途端。より赤みをまして低く沈み込んだ太陽が眼に入る。
薄雲を切り裂かんばかりに差し込む西日に目を細めながら、掌に握り締められた少女の柔肌をしっかりと感じ取る。
弱々しく縮まった雪白の病院着に目をやり、臨安はもう一度呼びかけた。
「……丹陽さん。ちょっと座りませんか」
はっと顔を上げ、驚きを隠そうともせずに口を小さく開けました。
「はい。すみません」
そうして恥ずかしげに俯いて、力なく頷きました。
ベンチは鉄パイプと木材でできた粗末な作りでしたが、一瞥した限り異常はありません。
今にも膝を屈しそうに震える丹陽さんをまず座らせて、その右隣に臨安が座りました。
「……丹陽さん。気分が優れないですか」
「いえ、違うんです」
彼女は血の気の失せた右手を振って否定します。
細く目を伏せて困ったように笑う。その姿は何か、辛そうで。
話なら聴きます。
臨安は丹陽さんの右手を握って、頼み込みました。
その手の冷たさに息を呑みながら。
ふうと吐息を零した白衣の胸がほとんど上下してないことに目を疑いながら。
「────
「……え?」
「昔の諺……みたいなものです。さっきから、この言葉が頭の中を巡ってるんです」
誰かにそう励まされた気がします。
励ましとは思えない文章を懐かしいと謳いつつ、丹陽さんはほっと一つ嘆息しました。
あかね色に染まっても白さが目立つその頬は、病室で見たときよりさらに青白くて。
優しそうに細まった眼に、なにもかもを知っていたような錯覚すら覚えて。
「……丹陽、さん」
「朝には紅顔ありて──」
臨安の声に耳を貸さず、彼女は言葉を紡ぎます。
世の中の無常を詠う古い詩経を。
葬儀の時にしか聴かないような、吉兆とは決して言えない経文を。
「夕べには…………」
橙がかった紫色の唇が、震えた声を発します。
体温が抜き取られる指標というべきか。弱々しく変色した朱唇が小刻みに震える。
それは、冬の寒さに震えているというよりは。むしろ。
「丹陽さん」
臨安はまなじりを決して、丹陽さんの鼻先に顔を近づけました。
「へ?」
色素の薄い光彩が瞬いて、素っ頓狂な声を上げる。
手を伸ばして触れた頬は冷たく。それはきっと、夕凪のせいだけじゃなくて。
彼女が何かを言う前に、臨安は唇を合わせました。
弱音を吐く口を思い切り塞ぎ止めるみたいに。この身体にある生気を、ほんのすこしでも送り届けたくて。
ロマンスもへったくれもないな。臨安は目を瞑り、丹陽さんの薄い脈に心を合わせる。
頬に茜がかった朱色が戻る。掌の中のぬくもりが、ほんのすこしだけ熱を増す。
丹陽さんが小さく呻き、息苦しさを表します。
そろそろかと赤熱した頭で思い切って、丹陽さんの温もりから離れました。
はあ。数十秒ぶりに空気を取り入れた口腔が大きく息を吸い込み、黄昏色の糸が落ちます。
「…………臨安、ちゃん」
夕日のせいか。それともか。
顔を真っ赤にした丹陽さんは、目を大きく見開いて口元を押さえました。
臨安は高く脈動する心臓を必死に抑えながら、もう一度その頬に手を伸ばす。
びくりと震えて避けられたところで、さっきのぬくもりを思い出しながら口を開きました。
「…………無常の風なんて吹かせません。当然、夜半の煙になんて」
『白骨の御文章』──葬儀の時に唱えるお経。その続きを頭の中で読み進めながら、丹陽さんに誠心誠意向き合う。顔を向かい合わせて、その瞳孔を覗き込む。
「なんたってほら、まだ
ことを
言い切った達成感と実際に起こしたことの恥ずかしさに目を回しながら、丹陽さんの言葉を待つ。
「……突然することじゃないですよ」
彼女は口調だけを尖らせて。
──それでも、いつもよりももっと自然に。心から慈しみ、笑って許してくれる。
丹陽さんはおもむろに右手を掲げると、ほんのすこしだけ熱が籠もった唇に人差し指を触れます。
まるで思い返すように動きを止めた後、軽く惚けたふうに息を吐きました。
「幸運……かな」
最後の最後には。
丹陽さんは小さく言い切ると、声ならず、にへと相好を崩しました。
安らかに。やり残したことはないかのように。
「丹陽、さん」
臨安は彼女の手を取り、一言「なんで」と漏らしました。
もう握り返す力も無いのか、臨安の手の中から朱色の熱が少しずつ落ちていく。
頬から、手から、唇から。
真っ白い、病人みたいに不健康そうな色の瞼が重く。丹陽さんの視野を塞ごうと垂れ下がる。
「今日はちょっと……疲れちゃいました」
臨安の肩に頭を預けるように体重を乗せ、大きく息を吐きます。
病院着の胸が薄く上下して、その呼動が左肩を伝う。
ちょっとずつ。でも確実に。酸素を取り込む必要性が抜けていく。取りこぼされていく。
「……自分のことです。だいたいわかります」
なんで。答えなんて求めてないのに。
彼女は小さく、笑います。
幸運だったと。心から。
丹陽さん。
何の意識もすること無く、言葉が漏れました。
「…………膝枕、してあげます」
昔。誰かに頼まれたような気がする。
疲れたのなら、少しでも。と渋々ながら腿を貸した。そんな気がする。
良いんですか。
──か細く、今にも消えそうな吐息が耳朶を打つ。
良いんです。
──力強く。ほんの少しでも気を緩めないようにして、無理矢理言の葉を絞り出す。
「ありがとう……対馬ちゃん」
崩れ落ちるように、栗色の髪の毛が膝を叩く。
まるで。糸が切れたみたいに。
真っ白い──あたかも雪みたいに軽くて綺麗な顔が、仰向けになるようにして映り込む。
「
丹陽さん。
言いかけて、止まった。
瞼の隙間。細く
まだ溢さず、零すため。
食いしばった唇から嗚咽が漏れ出してしまうより前に。
「
そっと手を当て、瞼を下ろしてやる。霜が降りるように力が抜けて、膝へ重みが加わってくる。
安心しきったような顔はうっすらと微笑をたたえたまま。疲れきってぐっすりと眠ってしまっているかのように。
綺麗な寝顔から顔を上げ、
寒空に一羽、飛んでいく
雲の間から覗く夕日は海の向こうに落ちていき、涙が出そうなほどのあかね色が目に痛い。
ぐしと目元を拭って鼻を啜ると、まなこを開いて東の海を臨む。
そうして。遠く東へ消えていく。
海はただ、悠悠とさざめき返すだけ。
「対馬でいいなら……夕べには巫山の雨に。なんて、ね」
もう一度。緩んだ真っ白な頬にキスをした。