それは、少しだけずれた日本の高校のどこかで、   作:AyA Tono N.C.

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#36 わたしの超能力はエクセル(1)

(1-8)

 

 松枝諒太(まつえだりょうた)は軽音楽部に所属する1年H組の男子生徒である。

学力、運動神経、交友関係、教師受けなどは際立って特殊なところもなく、特にそつなく平凡で、H組男子で身長順に並べば真ん中らへんで、御名術はもっておらず、美男子かというとそうでもない。

軽音楽部においてはベーシストで、けれどもともと何か音楽活動に触れていたわけではないので初心者である。

穂村が会話できる西棟の生徒の少ない一人である。そしてその会話内容もごく普通。特殊な点は、ない。

けれどただ一つ、彼をこの学年唯一の(現在は1年生しかいないので、学校唯一の、と言ってよい)特殊性をもった生徒たらしめる要素があるとすれば、それは「人形谷美有と最も親しい男子」ということである。

 

 美有の西棟での評価といえば、1学期が終わるまでに西棟の御名術もちの生徒を全員打破し、降伏させ御名術を放棄させた恐ろしいけれど身体が小さく薄っぺらい美女であって。

頻繁に教員室に出向いて、校長をはじめとする誰かしらに日々抗議しており、また、

 

よくどこかを怪我している。

 

 御名術もちの生徒が彼女以外西棟にいなくなってからは、怪我の頻度は減ったようだが決してゼロではない。

そして、たまに学校以外で見たとしたら、往来でアカペラで歌っている、変な女の子、である。

よく話す相手、トイレに一緒に行く相手はおり、催しがあったときに自然にまとまる女子グループのひとつには確かに属してはいるのだが。

こういった特異性の塊である美有はそういう意味では密接に親しい女友達というものは決してできず、広く浅くの交友関係を築いていた。

彼女は仕方ないとも思う。いわゆる親友とかソウルメイトとかそういった表現をもった関係者をつくることは、きっとできない。

本質的に自分は天然の御名術を持っているせいで他人とは違う存在であるし、人生の目的として人類の代表者になろうとしている、そんな価値観をもっている。将来の夢を聞かれた時に「大会社の社長!」とその実務と責任もわからないまま能天気に宣言する男子とも、これは違う事。

 

 美有の先祖は明確な超能力者であった。

その、250年前に西欧にてその筋では高名な女学者としてその名をとどろかせていたひとりの博士は、呪いの力を行使してこの世の一切を操作する御名術をもっていて、人を生き返らせることと時間をあやつること以外のことは大体全部できたという。

そんな全知全能の力をもっていた彼女は、けれどその御名術の特性として「身体のどこかが地(足場)についていなければならない」というただひとつの欠点があり、88歳のときにメルヴィル・ロザ・レ・ミラーという老婆は客船から落下して死亡した。

美有は知っている。弱点や欠点のない御名術は存在しないのだと。

だから多対一でなければ必ず勝つことができる。自分の御名術を行使してこの学校の1年生の頂点に立とうとして。

 

 けれど。

そう、5月の終わりごろに指摘されたのだ。A組の女子のひとりに。

学年でただひとりの、御名術を持ち出す生徒となるべく、他の御名術もちの生徒すべてnに打ち勝とう、という行動理念がそもそもの過ちである。

なぜなら美有は他の、強引に引き出された黄色い帯の生徒とは本質的に在り方が異なり、学校に入学する前からピンク色の帯をもって御名術を行使してきたのであるから、放っておいても御名術は失われずそのまま高校生活を終わらせることができる。持ち出す、とかそういう低次元な動詞に適していない。

そもそもずっと「ある」ものである。これから先も。だからそもそも、他の養殖の御名術もちの生徒と戦う必要さえなかった。

 

 美有はひたすらに、校長の言葉に騙されてきたと自覚する。

ひとり倒せば、校長室に連れていき、御名術を放棄させ、校長はそして美有に耳障りのよい言葉をかけてきた。

すばらしい御名術です。あなたこそその力を持ち出すにふさわしい生徒。さすがミラー博士の血縁。はるかな高みに登ってください。そうすればあなたはきっと人類の代表者になれるでしょう。

その言葉の群にもはや何の価値もない。

戦う必要がなかった。本来友達になれたかもしれない生徒と、微妙な空気感の関係になってしまっただけだ。きっと憎む者もいるだろう。

これはすべて、この学校と校長に責がある。だが、校長は御名術を消す力があるようなので大っぴらに今すぐ打倒することはできない。

自分の天然の御名術を奪われたらどうするのだ。もう、自分はただの人類のひとりに落ち込んでしまう。

彼女にとって御名術は体の一部である。たかが、通う学校の校長に、例えば自分の四肢のどれかが奪われて使い物にならなくなってしまったら?そんな、馬鹿なことがあるか?この御名術は四肢よりも重要かもしれないのに、自分にとって。

 

 

 そういったドス黒い感情のために憂鬱になり、やさぐれた美有を多少でも支えてくれていると彼女が想う対象が、諒太である。

彼の身の程知らずの一目ぼれは当初迷惑であったが、受け答えをすると気が安らぐことが多かったので、下校時は一緒にいるようになった。

まだ、これは、横にいると、自分にとって、まし。

恋愛対象にできるかというと結構感情的にはきびしいな、とは思う。キス以上は気持ちが悪くてできる気がしない。まあたまには手をつないでやってもいいだろう。

帰り道で歌い出しても引かない、という貴重な友人である。

 

7月8日。

 

1学期の終業式が終わり、美有は右に諒太をおいて帰途を歩む。

しばらくは校長に抗議しにいくこともないだろう。あれは、必要なことだが怒ることについてもパワーが必要なもので、あんまりいつも怒ってるとすぐ老けてババアになるよと母親に言われてはさすがに戸惑う。

夏休み中はどうしようか。隣にいるこれと連絡を取り合ったりしなければいけないものだろうか。どうでもいい。アルバイトなどはした方がいいのだろうか。

いろいろと考えはやまない。実際、彼女は考え事というものが好きではなくて、むしろぼーーーーっとしているのが性に合う。何も考えず家にいつのまにか着いてればいいなとも思う。

考え事はストレスだからだ。

「どぉれぇだぁけ~きーみぃをみつめたならぁ~~~~~~ひとみのま~おくに~ひそむぅ~おもーいを~…さがし…だせて…」

そして彼女は歌いだす。

「あいぃを~きずきあげるーことができる~…だろうぅぉか~~~~…ふぃぃいいい~るぅ~~~そーおないす、ふぃぃいいいいいいる、ぶれすとぅ、へぇぇぇぇぶん~りぃぃぃぃぃぃぃ…」

 

 

 終わったが。

拍手が、来ない。なぜ。

美有は少し怒り、「ねえ!聞いてた!?」、諒太の側を向く。

 

「聞いてっけどさあ」

右側には誰もおらず。そしてその少し後ろに、マサカとゆりがいて。

「…」

A組のふたりは絶句している。おかしい。クラスメイトの男子が、最端のA組の生徒にすり替わった。

「な…な…」

美有はいつ、現れたのかわからない。

「いやなんか、すげえな。マジで。やべえな。キミ。帰り道で西棟イチの有名人がよくでかい声で歌いながら帰ってるっていうウワサは聞いてたけど、そりゃ盛りすぎだろって、そんなやついねえよって。あたしだってチャリンコこいでるとき、つい鼻歌歌っちゃうことあるけどそんなでかい声で歌うとかありえないじゃん、とか思ってたけど、マジで路上で熱唱するんだね。いや、すげえわ。さすが人類の代表者様。あんまり一緒には帰りたくないタイプだな。いや、絶対帰りたくないかな一緒には」

マサカは非常に正直に感想を言う。

美有の顔が紅潮しだして。この歌は、こいつらに聞かせるために歌ったのではない。

不特定多数の前で歌うことは平気だが。特に親しくない程度の仲の人間に聞かれ、揚げ句指摘、評価されてはたまったものではない。

美有の顔が真っ赤になる。なんで、あいつじゃなくってこいつらになってんの。

「人形谷さん、あの、歌うのはいいんですけど、そう、わたしたちに聞かれたからって顔を真っ赤にされたら、こっちまで恥ずかしくなっちゃうっていうか…そんな恥ずかしいなら、逆にどうして歌うのかなって」

ゆりが丁寧に言葉を選ぶ。それが、ますます美有の羞恥を増幅させる。

「なっ!なっ!なっ!なに!!なんなの!!意味わかんないんだけど!加納!?いつから聞いてたの!諒太はどこにいんの!!」

「キミの彼氏もどきなら、忘れ物したから戻るみたいなこと言って学校にかえってったけど、その瞬間キミが歌いだしたもんだから。気づいてなかったの」

「そっ!そんなのわたし聞いてない!なにあいつ!バカじゃないの!あいつがいないんだったら歌ってない!!」

美有は混乱する。マサカとゆりは、だいぶ、どう接していいかわからない。ずれすぎて転回して月の裏側のように見えなくて、触れられない。

「顔赤すぎだろ。お前はタコさんウインナーか」

「うるさいんだよっ!!」

 

 美有は数歩退いてマサカから距離を離す。動揺させて戦いを挑んでくる気なのか。ついに向こうから来たか、と。

周囲は雑居ビルとコンビエンスストア。戦うならば、高低差があるところが好ましい。彼女は。

とはいえそれは杞憂で。そもそもA組のふたりに美有を倒すという目標は、ないのである。

「違う。聞いてくれ、人形谷。キミに意見を聞きに来たんだけど」

「な、なに。なんのこと」

「終業式で、次の学期から来るって言う先生3人があいさつしただろ」

「あ?、し、知らない。ちゃんと、話とか聞いてない」

「キミはいったいあのクッソ長い終業式の間なに考えてたの」

「…別の事考えてたと思う。なんなの」

ゆりが、ごめんね、とマサカと美有の間に入って。

「人形谷さん、記憶にないんだったらちょっと説明しますから、時間いいですか?」

「は、はい、柴崎さんがそう言うなら、聞きます」

「なんだお前、ユッピのいう事は聞くんだな」

 

 そしてゆりは、美有に訊く。

次の学期から新しい3人の先生がやってきます。3人とも壇上で挨拶をしました。どうして2学期の始業式からじゃないかは、補講期間から教え始めるからだそうです。

わたしには。その3人とも、黄色い帯が見えましたけど、人形谷さんはどう思いましたか。

かいつまんで、彼女のいう事はそういう内容だと、美有は理解する。

美有は、そんなもの見てもいない。ゆりはそのままの事実を言っている。美有は、こういった全校集会というものを、はなから全く聞いていない。体育館に集まって、終わるまで物思いにふけっているかぼーーーっとしているだけ。

壇上など見もしない。薄目で寝ているにも等しい。視界の隅っこでなにか黄色く光っているものが見えていたとしても、どうせ校長のだろう、と思っていた。

美有はだから、そんなことを指摘されて動揺する。

教師の、御名術もちだと?

3人も。

 

 マサカが言う。「だから、校長側のやつが3人も増えたけど、これからどうなると思う?って聞いてんだよ。先生に手出しすんの校則で禁止なんだぞ、御名術もちは。こんなこと校則にしてんのうちらだけだろうけど」

「…ちょっと待って。そんなに頭良くないんだから。どういうことが起きるって思うの」

「いやだからさ、あたしらはいっつも、校長に寄り添ってる連中が調子こいたり、関係ない子たちが迷惑に思うのが嫌なわけ」

「それは、先生側に御名術もちを入れることで、東棟でいちいち大騒ぎになってるのを予防するとかじゃないの?まだそっち、御名術もち10人くらいいるんじゃなくって?」

「自分は関係ないみたいに言うなよ」

「だって、こっちはもう終わってるんだもん。けが人続出とか、先生に手を出したとか、ガラスを割りまくったとかは、そっちで起こってる事じゃない」

美有の紅潮がさめてゆく。マサカは、その言葉に反論できない。

ゆりが補足する。「わたしもですけど、マサカちゃんは補講受けないといけないから、その先生たちには警戒しないといけないって思ってるんです。人形谷さんは、補講は?」

「ありますけど、少しは」

「じゃあ…」

「いや、ユッピ、いい。たぶんこいつには相談するだけ無駄だし、なんかあっても自力でなんとかできるよ。こういうのはさ、まず最初に直で先生に聞きに行こう。なんで来たんですかって。目的を聞こう。そんで、あたしたちに不利なことを言いだしたりしたら、そっからみんなで考えてさ…」

別れの言葉も述べず、マサカは美有をすり抜ける。ゆりが、「お気をつけて」と言う。美有は少し険しい顔のままで、動けない。

「エーーーーッ!なにこの居酒屋の看板!『国産のドクロ煮つけ』だって!?ユッピ、見て!国産って日本人ってことだよね?頭から煮てんのかな!?こっ、怖ぇーーーー!!」

「のどくろって魚だよ!」

A組のふたりはいつも通りのテンションで去ってゆく。それは美有にとって毒にも薬にもならない情報で、むしろ自分で見つけて、そして考えて解決したかった。東棟の生徒はいちいち発言や見通しが喧嘩っぱやい。

ああいった不安要素を集約したような意見を聞いては、こちらの行動までおかしくなってしまう。

御名術もちの教師が3人増えたからどうだというのだ。それは自分にとって害になるとは思わない。むしろトラブル続きの東棟のための措置だ、きっと。

校長は卒業時に御名術持ち出しの可否が決まると言った。教師は卒業に関わらない。持ち出すとかそういう事ではない。おそらく、その3人は「生徒指導・御名術版」なのだ。

自分は戦いを終わらせているし、後ろめたいことは何もない。いずれ東棟の生徒と勝負するようなことになったら、適切なルールで、やる。教師の横槍も校長の思惑も要らない。

美有は校長をよく思うことはないが、規範のなかで、やる。それは彼女の定義。

 

 

 下駄箱を通らず靴を抱えて校門から中庭へのショートカットを果たし、諒太はH組の教室に戻り、紙袋で隠し持ってこられた4冊の漫画を机の奥から抜き取る。

友人に貸し出したもので、エロティックな描写が多いので、通学途中に勝った週刊雑誌とは違い、その表紙を見られるとすぐに没収する可能性があった。

またそれを美有に見られても「…そんな漫画読んでんの?」と冷たい視線を受けることは間違いない。忘れ物、と彼が表現したのは嘘だ。帰ろうとすると美有が来たので、紙袋をしまいこむのを見られると詮索されるのは間違いなかったし、彼女に内緒は通用しない。

バッグの奥底に入念にしまい、教室を出る。

同じルートを使い、一番早い方法で美有のもとへ戻ろうとした。

しかし、往復のために中庭方向へと近寄るや否や、見咎められる。知らぬ教師に見つけられ。「君、ちゃんと向こうから出てください。その出入りを許すと、学校に簡単に泥棒が入れてしまいますよ!」、30代も半ばくらいの、青いスーツを来た教師だった。

「す、すみません。忘れ物をして、急いで戻らないといけませんでした。もう、やりません」

「はい。じゃあ、ちゃんとあっちから出て行ってくださいね」

頭を下げ、急いで正しい出入り口に向かう。なんだあいつは、今日来たばっかの教師のくせに、偉そうにしやがって。そう思いながら。

 

「倉嶋先生、ああ、やっと追いつきましたよ」

は、と諒太は振り返る。校長の声が、そこにしたので。

照前校長は外履きを小脇に抱えた素足の生徒を見て、特に表情を変えず、同じことを注意する。「あ…」、「中庭からの出入りや下校は、禁止です。以後、やめてくださいね」。「す、すいません!」。

「校長先生、彼にはわたしが今注意をしました」

「あ。そうですか。では、さようなら」

「は、はい、すいません。さようなら」

諒太は軽い拘束から逃れ。

校長と、新任の教師は彼のことなどもう歯牙にもかけず、そのまま話はじめる。

 

 

「その、例の、人形谷美有という生徒がいるというのは、あそこのH組なんですね?」

「ええ。天然の御名術もちで、先に伝えたように、かのメルヴィル・ロザ・レ・ミラーの血を引いています。5月終わりまでに西棟の御名術をもっていた生徒9人を打倒しています」

「超エリートじゃあないですか」

「はい。しかしながら、大変反抗的で、少々手を焼いているのは事実です」

「…校長先生は、どうされたいのですか?」

「いいえ。ぜひ、この学校で最初に御名術をもって外に出る生徒としては第1号にしたく思ってますよ。彼女にはその資格がある。けれど、あの方の子孫にしては、気高さと尊さが足りていないのです。おそらく東棟の生徒と接して、学校の意思を曲解してしまい、雑念がとても入ってしまっています。きっと、私に相対しようと考えるでしょう。その部分だけ、倉嶋先生に記憶を調整してもらいたいのです」

「記憶を改竄して、よいということですね?」

倉嶋は、ろくろを回すような手つきで両手を顔の前に持ってきた。

彼の帯は、今この場では校長しか見えないけれど、右手の中指と左手の薬指に集中している。

「はい。自分がミラー博士の正当な血縁者であり、彼女と等しい存在にならねばと、そういう自覚を刷り込んでいただきたい。そして、私に対しての無意味な反抗をやめさせ、1学年の御名術もちの頂点に立つようにと、初心に戻していただきたいのです」

「その結果、少し失われてしまう記憶もわずかながら生じますよ。それはご理解ください」

「彼女は若い。また新しく楽しい記憶を詰め込むチャンスは無限にあります」

 

 

 盗み聞きは、もう限界だった。それは精神的な理由で。

諒太は、常に美有の不満や文句を聞いている。校長がいかほどまずい存在であるのか、など。

彼に御名術はない。帯を観ることもできない。

だが、一度美有に恋してしまった限り、今の会話を聞き、強く思う。そんなことは許さない、と。

ようやく美有が、自分をそこそこ大切な存在と、位置づけてくれたのだ。

記憶の調整、だと。そんなことができるのか。いや、できる。この学校には、御名術もちという超能力者が蔓延している。

その結果、彼女との関係が振り出しに戻ってしまったならば?

ようやく、向こうから、一緒に帰ろうと、言ってくれるようになったというのに?

 

 諒太は物音を立てないように、けれど急ぎ足で美有のもとへと向かう。

校長らから離れて、ようやく彼は走り出した。急いで伝えなければと。

だが、その後ろ姿は見られている。

どうしてあの生徒は急に走り出したのかという事と、もう一つは、その打ち合わせが終わるまでに、もう廊下からいなくなって然るべき距離なのではないか、という事。

 

 校長と倉嶋は、鈍くはなかった。

校長は懐中時計を懐から取り出して、それをぱかっと開く。

それは、かつて死去した奄美雄策の遺品であり。

そして諒太は全速力で校門へ向かうが、到達できない。下駄箱まで確かに教室から2分かかる。だが、そんな距離でない。

廊下が伸長してはいないか、諒太はなにか理解の外にある概念を思った。けれどそんな寝ぼけた想像は、事実で。

彼は、下駄箱まで、到着できない。

「もうすぐ蛭間先生が来ます」、倉嶋は、言った。

こつこつと、倉嶋は走りつづける諒太を徒歩で追う。「君、廊下を走ってはいけません!」、そう叱咤しながら。

「み、美有ーーーーーーーっ!!!」

彼はだいぶ離れている筈の彼女の名前を、呼ぶ。

そこで。

終業式中、3番目に挨拶をした、ワンレングスの女教師が教科書のたばを持って、諒太の目前に現れた。

彼女は驚いた様子を見せ、こちらに走っているが近づいてこない男子生徒を不思議に見たのち、倉嶋の指示を、受ける。

「蛭間さん!その生徒を逃がさないで!」

「わかりました」、倉嶋より少し年上の女教師はその荷物を廊下にゆっくり下ろし、しゃがんだまま諒太に対峙する。そしてそのまま床に左手をつくと。

その数秒後、諒太は廊下に顔面を強く打ち付けてしまう。転んだ。その顔面に走った痛みは冷たい床板の硬さではなく、なぜかウレタンに倒れ込んだ時のような、衝撃を吸収されたような感触であった。

彼は。

身体を起こそうとするが、起き上がれない。両足と、両膝と、顔が。上半身も。バッグも、外履きも、粘着質のなにかのせいで、床から離れない。そう、それが足に張り付いたから、転んでしまったのだ。

顔を動かすと、髪の毛が抜ける痛みが起きる。

両手も妙な感触で包まれている。

彼は気づく。御名術をもっていない彼でも、それの行使内容はあまりにわかりやすく、自分がどのように扱われてしまったのか、よく理解できた。彼

 

「オ、オレは、台所の…ゴキブリ?」

 

「校長先生、倉嶋先生、それ以上進まないでくださる?そこから先は、べったべたになります」

「あ、こんなに広く。危ない危ない。助かりました」

女教師、蛭間の手からおよそ8畳ほどの範囲が、粘着剤をしきつめた床に変容している。

諒太は身体を難儀しながら持ち上げるのだが、粘着物質は身体から離れない。ただ単に、彼は害虫扱いされ、倉嶋が近寄るまでに逃げ出すことは、できない。

「蛭間さん、僕の側だけ、ベタベタを消すことはできませんか?」

「倉嶋先生、ごめんなさい。そんな細かいことは私、できないんですの」

「しかたないな。じゃあ何か、敷くものを持ってきてください。上に乗って安全に歩けるものを。この生徒、大事な話を盗み聞きしていたんです。内容の記憶だけさっさと消して帰さないと」

「じゃあ、大きめの厚紙を探してきますね」

蛭間は教科書を床に置いたまま、踵を返して左の階段を登った。

「君、名前は言わなくていいです。でも、これが人形谷さんの耳に入ったなら、幾分面倒になってしまうので、そこの記憶だけは、消させてもらいますよ」

校長は懐中時計を閉じて胸元へしまい、遠巻きに諒太を眺めている。その視線は、残念ながら、生徒へのやさしさと厳しさが、同居している。

「美有ーーーーーーーーー!!助けてくれ!!」

「なんだ、やはり彼女の友達ですね」

「例の生徒がそのへんにいると?」、倉嶋はきょろきょろと見やる。

諒太はそれを心の中で否定する。呼んだって、来るわけがない。自分だけ戻ってきたのだから。美有の性格的に、そうしてしまえば、機嫌を害して先に行ってしまう。待ちなどしない。

だから、その叫びで何かが起こるわけはなかった。何とかして盗み聞きした内容を美有に伝えなくては。だが、それはきっとできなくて。

理解が追い付かないがただわかることは、御名術のゴキブリホイホイに捕まって、記憶を御名術で消されるかも知れない、そういう最低限の恐怖だけは、あった。

「倉嶋先生~、足場、持ってきましたよ」

女教師は陽気に戻ってきた。美術で使用するスケッチブック。それを、ぽいと投げて受け取らせる。倉嶋は、それを1枚、2枚とやぶり、粘着質の床部分に4歩ぶんの足場をつくる。3枚、4枚。

倉嶋は諒太の後ろについた。そして、中腰で両手をおろし、右手中指と左手薬指だけを立てて、諒太のこめかみに、当てた。

彼の指先は、電極である。

 

「諒太」

 

けれど。美有は、学校へ戻っていた。諒太と一緒に帰ると決めたから。今日は、ひとりで帰りたくなかったから。

誰もが下駄箱の方向を振り向くと、そこに、美有がいて。

彼女は、その状況をつぶさに観察する。帯がどこに現れているのか。誰から現れているのか。状況把握まで、5秒。

「人形谷さん!?」、校長が驚いて。

 

「調整!」

倉嶋は、スイッチとなる単語を口にする。

「美有!!記憶!!」

諒太は、最後に絶叫した。倉嶋の指の間に挟まれた諒太の頭が、黄色く光る。

 

 美有は把握する。彼は、頭をどうにかされた、と。

「記憶…」

そして倉嶋が諒太を放して。

「蛭間さん、こっちの足場を元に戻してください」

「ええ、ハイ」

「校長先生、この女子が人形谷美有ですか?」

「まったくもって、その通りです」

「校長先生、お願いです。坂田先生を呼んでいただけませんか?」

「わかりました」

各人の発言が交錯する中、美有は、まず一番近い女教師と目が合った。

そして蛭間はすぐに美有のほうを向いて、しゃがんで左手を床につけた。

美有は解る。その左手に帯が集中しており、その帯は床に膜を張るように、広がってゆく。

この女は、自分を捕獲しようとしているのだ、と美有は理解する。

 

 そしてその場で、美有の手元から腕部、肩甲骨、背骨、頸椎、脳の部位、の順番にピンク色の帯が操舵されるのを、照前校長は見た。

すぐに、美有の手元には、空間に浮かぶ、表計算ソフトの画面のような枠線と文字列が顕れて、美有は床よりもそれに目を向ける。それは、Microsoft Excelの画面によく似た構成と配置をしている。

  

 

 

 

   ◇優先目的        ◇状況改善効果  ◇危険度

1 ここから逃げる      ★★      18% 

2 諒太を助ける       ★★      55% 

3 校長をどうにかする    ★★★     87% 非推奨

4 校長でない男をどうにかする★★★★    67% 

5 女をどうにかする     ★★★★★   39% おすすめ!

6 助けを求める       ★       23% 

 

 

 

 美有はそして。怒気を込めて、叫んで選ぶ。「5番!!」。

 

   左手の壁を蹴って女に飛びかかる工程が必要です。

 

   ◇マニュアル◇ ◇ オート ◇

 

 彼女の目前には選択肢が顕れる。そして。

「…オート!!」

彼女は瞬時に考える。自分の身体能力で、壁を蹴ってその反動でそこにいる女に飛びかかるなど、できるわけがないと。

彼女がオートと言ったから。美有はそこで意識を失い、彼女の脳は、彼女の意思などおかまいなしに、身体を動かす。

まるで魂の抜けた美有は、すぐさま壁に向き、利き足の右を壁に踏み込んで、身体を上昇させた。右足の靴がずれて脱げようとする。左足がその後、壁と垂直に強い蹴りを放ち、美有の身体を水平に、蛭間のもとへと勢いをつけて飛びかからせる形を、つくった。

「はっ!?」

蛭間は声を上げる。そのときすでに、美有の身体があった場所の床は、粘着質に変容しきったというのに。

美有の身体は蛭間にぶつかり、覆いかぶさる。粘着部分を飛び越えて。

もみあったふたりは倒れ、美有はそのときに右足を粘着部分につけてしまったのだが、すぐに靴が脱げて、美有は捕えられなかった。そのときに美有はしたたか右ひじを床に打ち、唇を切った。

「うっ、ううっ!!」

もだえる蛭間の声を聴いて、少しすると美有はそして意識を取り戻した。いつの間にか、彼女の知らぬ間に、知らぬ女は自分の身体の下敷きになっている。

何が起こったのかわからないが、右ひじがとても痛い。そして、口の中に血の味がする。いや、すぐに唇の痛みと同時に地が滴った。

「…ああもうっ、本当にオートは嫌」

美有は粘着質になった床の黄色い部分に触れぬように上体を起こし、右ひじをかばいながら蛭間の左腕をつかんだ。帯が集中している箇所は、そこしかない。そのまま持ち上げ、床に手の甲をばん!と打ち付ける。

「いっつう!!」

けれどそこまでが限界だった。彼女の力は弱く、その左手をへし折るなどそんなことはできはしない。ただ、左手を少し痛めつけただけに、それはすぎない。

その瞬間、美有はその左手を両手でねじり上げ、知らぬ男の教師と校長の方向へと粘着物質が広がるよう、その女の左手をべたりと床につけ、御名術を行使させた。蛭間はパニックになり、帯の集中を消していない。

「諒太!早く、起きて!」

そして倉嶋と校長の目前に、蛭間の御名術が展開した。校長はまだしも、倉嶋に帯を観ることはできなかった。進むことができない、と。

「校長先生、どうか、私どもでどうにかしますので、坂田先生を呼んできてください!」

「わかりました。倉嶋先生、蛭間先生、お願いしますよ」

初老の小走りはそこまで早くはなかった。女教師のパニックも、想定よりも長かった。

 

 美有は諒太の身体を揺さぶって、そこで「美有!」と呼ばれないことを訝しみ、訊く。「あなた、わたしの名前を言ってみて」。

「…」

「…!」

美有はぼんやりした眼差しの諒太を見て、まさか、と思う。

「な、なにがあったんだ、美有。唇、どうしたんだ?」

「…ああ、よかった」

彼女は安堵する。

「なにがどうしたんだよ」

「知らない。教えて。なんでわたしに、助けてって言った?」

「え?…だから、オレが知りたいよ」

「わかったよ、じゃああれは、だれ?」

美有は倉嶋を指さして。

「…あ、あれは、来学期から新しく来た、先生の一人で」

「なにをされたの!」

「い、いやだから、わかんねえって。その女の先生も、そうだったけど?…そ、そうだ!オ、オレ、美有に伝えなくちゃいけない…こと…が?え?あれ?なん、だっけ?」

「…」

記憶。

記憶か。

美有は諒太が叫んだ単語の事を思い出す。そして、そこまで頭の回転の悪くないこの男が、ここまで前後不覚というのは考えられない。

そしてすぐに、今にも起き上がりそうな女教師より身を離し、美有は諒太を促してそこから去ろうとする。

けれど。

 

 

    ◇優先目的        ◇状況改善効果 ◇危険度

1 今すぐ逃げる        ★      8%  おすすめ!

2 教師を今日倒す       ★★★★★  47% 超重要

3 教師を明日以降倒す     ★★     71%

4 教師たちとの和睦をめざす  ★      78% 非推奨

 

 

「47か」

「え?」

「ごめんね、諒太、もう少しわたしを手伝って。なんでも言うこと聞いてあげるから」

「まっ、まっ、まっ、まじで!?手伝う!絶対手伝う!」

「あっ、違う!なんでもなんて言ってない!なんでもするってわけじゃない!エロいのはやだ!ね!」

気分を高潮させた彼の手をぎゅっと握って、喜ばせてやり、彼女は意を決して新任の教師たちを今すぐ倒すことを選択する。

こればかりは、2番を選ばなければならない。彼女の脳内の、未来予知演算装置がそれを推奨している。

彼女は校門へとは向かわない。

むしろ、階段を上がり、いまだ殆ど使用されていない2年・3年生用の教室群の方へ、足先を向ける。




ん?今なんでもするって言ったよね? 小説でエクセルを表現するのは困難なのでそういうもんだと想像して読んでくださいな。
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