それは、少しだけずれた日本の高校のどこかで、 作:AyA Tono N.C.
その男子生徒は田島裕典という、E組在籍の御名術をもたない普通の生徒だった。
特に女性を軽率に扱うとか乱暴な性格であるとかそういう要素もなかった。むしろ、男女問わず交友関係は広く、対人にかかわる礼儀とか正しいマナーとかそういうものは持ち合わせている男子生徒。
だけど、今朝どうしてその小さな女子生徒―凛々守の近くに荒々しく走りこんで、かすった勢いでその華奢すぎる女子を転ばせてしまったかというと、ほんのはずみに過ぎない。友人たちとふざけあって小学生のように往来を走り回るというのはその日の彼にとっては非常に珍しい偶然で。
さらに言うなら、自分がかすめてしまった女生徒がそののち転んでしまったことも、気づいていない。さらに、もしも彼がそれに気付いていたならば、必ず凛々守には謝罪をしただろう。田島という男子生徒はそういうごく当然のことができる、普通の性格である。
後方を顧みなかったことだけが、今回の彼の不運を決めつけてしまうもの。
「ですから―。あなたとぶつかってしまって…。て、手首をひねってしまったんです」
その日の6限目が終わって少しして、田島裕典は天里凛々守と向かい合っていた。校門を出たすぐの場所で、彼女は待っていたようだ。
彼からすると、確かに今朝そういうことがあって、見てはいないものの心当たりがあることだけれど。だから彼は、「あっ…そうなの、そんなの気づかなかった。だとしたら、ごめんね」、そういう返事はしたけれど。
凛々守はうつむいて、とても小さな声でそれだけを言うと、口をつぐんでぴたりとも動こうとしない、いや、小刻みに足が震えている、ような。
田島は煩わしさを感じた。そんなこと、あったかもしれないけど事実かどうかちゃんとわからない。次に、この小さな女、それだけを言って終わってしまい、何を次にしてほしいのかわからない。何を言いたいのかわからない。もっと謝ればいいのか?保健室に連れて行けばいいのか?自分が?どうして?むしろ、その手首を見るに処置はされているように思う。
これが例えば、他の生徒ないしは教師が自分のもとにやってきて叱責をしにきた、というなら話は簡単だ―。すみませんでした、その子に謝りに行きます、でよい。
さらに、その女生徒は雰囲気が異様で、その少女の周囲が暗く感じるくらい、雰囲気がなぜか重い。あまり長時間一緒にいたいとは思えない。
唇が欠けていたり、左のこめかみ付近の髪の毛がなかったり…そのような指摘できかねる見た目の箇所があって、そのやりとりを見ている彼のクラスメイト、友人は彼を傍目で見るが近寄ろうとしない。なんか、裕典のやつが変な女につかまってるぞと。その注視のせいで気分が悪くなる。早くどうにかしたい。なんでこんなやつが、俺のとこに来たのか?と。
彼は訝り、そして、
謝罪の念というものを、終わらせる。
「ねえ、俺がぶつかったなら悪かったけど、どうしたらいいの?もっと謝れとか、治療費払えとか、そういうことになってくるとすぐ返事できねえんすけど!だって、俺自覚ないし、あんたは何を目的に俺んとこに来たのかわからないし―」
「…も、目的なんて、ないです。でも、今日の朝、あなた、は、わたしとぶつかってしまったんです」
「だから!」
ここで。凛々守の言葉には虚偽がある。
彼女に目的があるとすれば。そして、田島がこれから許されるためには。彼女に、心から罪悪感をもった謝罪をしなくてはならなかった。
だから彼女の帯は励起する。
凛々守はしゃがみこんで。
「ああ…ううっ…こわい…こわいよ…男の人こわいよぉ…」
泣き出すその姿を見て、もう相手にしていられないと不快感をあらわにした田島は、「うぜえ、知らねえ!」とその場から踵を返す。
わけのわからない気持ちの悪い女につかまった。相手できない。まさか、明日も来たりしないよな?
彼はそこで、ほんのわずかの罪悪感、ひょっとしたら自分のせいで怪我をさせてしまったかも―という、思いを。
そのマリア像は不意に田島の背後に現れ。右手で田島の頭をがしと掴んで、その爪が神の生え際に食い込む。
「痛ッ…!?」
誰だ、田島はその手を振り払おうと体をよじるのだが。
ざん、という音がして、すぐに彼の四肢の皮膚は水分を失い、乾燥し、干からびてゆき…。
「こわい…こわい…」
苦悶の声も上げられなくなった田島はゆっくりと校門の壁面に体を擦り付け、路地に沈んでゆく。
マリア像はそれをし終わると、しゃがみこむ凛々守のまわりをきょろきょろと無表情で確認し、倒れこんだ田島の姿を他の生徒に確認されるとすぐに、その黒い手で凛々守の手首をつかみ、走り去るべき方向を指さした。
「…」
凛々守は手を引かれるがまま立ち上がり、彫刻がその手を引っ張って、走らせる。
その彫刻は―御名術もち、あるいは、帯が見える者にしか、視認できない。
つまり、その異常性に気づいた平常の生徒は、いない。校門の壁で横たわった男子生徒に気を取られ、小柄な女子については走る後ろ姿を見たくらいか?
平常の生徒でない、そちら側の生徒については…
「どっ、どっ、どっ!どうしよ竹内君!い、今の見た!?あ、あ、あ、あ、あれって!!」
「…!?」
従士郎は久しぶりに、身震いをするまでの恐怖というものを感じ、その御名術の要諦を見極めようと、気を強く持つことさえも、正常な彼の意識は拒んだ。
校庭のケヤキの一本の側面に脚立を立てかけ、枝葉の陰に隠れて彼女の帰宅方向を見極めようとしたかっただけだった。その時点では。
ゆりと従士郎が、凛々守の下校時から尾行できるぎりぎりまでついて行ってみよう、と無鉄砲に計画し開始から5分とたっていない。二人とも、詩津華の説明ではまったく人格が見極められず、せめて性格のうわべだけでもわかれば…その程度の目的であったというのに。
「どうしよう!どうしよう!ねえ!!竹内君!?」
「とっ、とりあえず、あの男子を助けるのが先だ!」
田島は皮膚がボロボロで、脱水症状となっていた。
呼吸は弱々しくしてはいるが、いつ止まるかわからない。真面な意識は見込めない。
その御名術行使がもう2度、3度と行われたのならば、確実にミイラのような死体ができあがるのではないか、という彼女らの見込みはあながち間違ってはいない。
少なくとも凛々守の御名術行使は、彼の全身の水分の2割は奪った。
学校前に救急車が駆けつける騒ぎとなって。
従士郎は、ゆりに震えた声で訊く。「あの、美術館にあるような像が、天里凛々守さんの帯の塊で、あると…!?」。
「うっ。うん」、ゆりは顔が蒼白で。「人形谷さんに説明されて、あれが、帯だってことが、わかった…」。
「人を殺す御名術だよ。あれは」
「そ、そんな…」
「僕も人のことは言えないけれど…どんな御名術でも、使いようによっては人を傷つけることは可能だ。でも」、従士郎は袖で汗をぬぐいながら。残暑ともいえない涼しい曇りの日、二人は冷や汗まみれで。脈が強く拍動している。
「黄瀬さんに、伝えなきゃ」
「それがいい。僕は、天里凛々守さんを追う勇気が、出ない」
レイジが向き直って言う。「見ましたか。あれが天里凛々守さんの御名術ですよ。干からびるんです。君たちにはマリア像は見えなかったと思いますけど。どうして、彼を下校までにあの子に謝らせに行かなかったんですか。一歩間違ってたら死ぬんですよ、あれ」。
矢敷と山屋はそんな非難さえ耳に入らない恐慌状態で、生徒会に与えられた狭い一室の窓辺で騒ぎ立てている。お互いに、女一人にぶつかった程度で何を、そのくらいにしか思っておらず、レイジの助言、指示をやんわり無視した。今は互いにどっちが言わなかったからだ、とか罪の擦り付け合いをしている。彼らは、言おうと思えばすぐに田島に言いに行って嫌々でも謝罪をさせることができた関係性があった。
そして里江がようやく口を開いて。
「あ…あの女子に、乱暴に触れちゃいけないってのは、ああいうことだったのかい!?」
「そうだね。この周期の間、少しでも彼女が嫌悪した男は…女は、どうなのかな?カラカラにされてあんなひどい目に遭ってしまう…だから真っ先に俺は言ったのに。今、御名術もちの連中を巻き込んで騒ぎを起こしたら、彼女はその環境に嫌悪感を抱いて…里江君。君もあのマリア像が見えたでしょ?あれは、ほとんど天里凛々守さんを保護する防衛システムになってるんだよ。騒ぎは起こしちゃいけない…あれの周期が終わるまで」
「周期が終わると、どうなる…?」
「あのマリア像が現れなくなるだけ。そして…現れなくなった期間も、まあ…半年くらいかな?その間に彼女は嫌悪感を抱いた相手のことをちゃんと覚えているから…半年後にまたマリア像が現れるようになって…その連中はミイラにされてだ…それの繰り返しさ」
「そ…そんな!いつか、死人が出るぞ!?レイジ君!」
「ひょっとしたらもう出てるんじゃないですかね」
里江は硬直した。レイジは、やはり機械的に事実と知識だけを語っている。
「周期がはじまる前までに、彼女を傷つけた男がいないわけがないですから。E組の彼だけで済んでるはずがないっていうか…ねえ」
そして左に座っている女のほうへと。彼女は、この場がはじめてで、居心地悪さと遠目から見たマリア像とその被害の凄惨さのために口をずっと開かずにいたが。
「あの子のことを冷たくしていなくって、本当によかったと感じてる」
彼女は、C組の初芝芽維。即ち、凛々守と同じクラス。陸上部、御名術もち。
「そうなんですか?」
「暗い子でよくわっかんないから、親しくはしてないけど、うちのクラスの他の女みたいに露骨に無視はしてないつもりだから…」
「ああ、無視してる子たちいるんですね。早めに優しく接するように提案したほうが」
「うん。そうする」
そしてレイジは少しだけ感情豊かに…声を高く、微笑んで。彼には珍しい仕草だった。
「初芝さん、君のことだけは俺はあんまり詳しくなかったんですけど、君が天里凛々守さんに普通に接してくれる子のようでよかったです」
「なに?レイジさん、天里さんと知り合いなの?」
「少しだけね」
「そうなの…」
はっとした里江は眼鏡を直してから。「こ、今回の集まりは、こちら側の御名術もち3人が集合できたってことで、本当にいい機会ができました!」、おさまらないパニックをよそに無理やりやろうとするような態度だ。
レイジは。「初芝さんのこと、人形谷美有さんも評価してるんですよ。C組の御名術もちはみんなすごいって」。
「うちね、あんまりそっちは嬉しくないの。よくわかんないし。足が速いって言ってくれたほうがずっとわかりやすい」
「そんなもんですか?」
「比較の対象がさ、富島とあの天里さんでしょ…ふたりともクラスじゃ浮いてっから」
「やっぱそうなんですか。やはり、御名術は隠していたほうが幸せになれますよね。俺のしてたことが正しかったんだって、わかりますから」
里江は同調して、「そうだね!やはり隠していてもらってよかった!」。
「この3人で、東棟の例の5人をどうにかしようって考えてるんでしょう?」
「そういう話だそうです」
「5人っていうか、4人だぁね。一人は加納真砂可の金魚の糞だから」
「それでも、使いこなしてるあの連中に対抗できるかどうかは、いまだこっちが不利…」
「ケンカしなきゃいけないんでしょうか」
「そういうことになる可能性もあるってこと」
「加納真砂可、穂村景虎、竹内従士郎、伊崎風雅。全員バケモノらしい」
「うちね」、里江とレイジの会話に割り込む形で、芽維は顔を突き出した。「不意打ちすりゃあね、全員に勝てるよ。絶対に。5秒間触れればね、どんな奴だってうちの前じゃ無力なんだから。御名術使えなくさせられるんだよ」、自信満々に言った。
レイジは少しの間だけ考え込んで。
「それって本当だったら凄いことだと思うんですけど」
「本当だよぉ?ただね。きっと、連続でやり続けたらばれるから、生徒会の君たちの協力が必要ってことだよ?」
「どんな御名術なんですか?」
「言えないよ。秘密にしてた方がいいってのは、レイジさんだよ、言ったのは」
「…」
そして芽維は、左手親指と人差し指で円をつくった。マネー。そう、それ。彼女の求めるもの。
「お金?お金が必要なんですか?」
レイジは機械的にだが、きょとんとした顔を演出したように周囲には見える。
「生徒会のお支払い…前金。10、まんえん」
「はぁ…」
「レイジさんも請求したらいいのに」
それを聞いて、里江は慌ててレイジを取り繕おうとする。「いえ、俺は金で動きたいわけじゃないですから。これは、興味ですから」。胸をなでおろす。
大声で、矢敷と山屋は「警察を呼ぼう!」と何を意気投合したか、叫んだ。その対象は凛々守の行いに対してのもの。
それに、
「警察って、警察になにを伝えて…なにができるってんですか」
「証拠不十分…高校1年生女子が、どーやって違うクラスの男子をミイラにしたって?」
レイジと芽維は、これまた彼らも意気投合して同時に、「御名術ってそういうもの!」と騒がしい二人へと言い捨てた。
9月4日。
「加納さんに黙っていることはもうできないと思って。わたくし、隠していたことをお伝えしに来ました。もちろん、天里さんのことです」
それは2限が終わってすぐの休み時間、A組教室前の廊下で。
その申し出について、マサカはとても明瞭で慥かな視線をもって、詩津華の瞳の奥を見つめた。
そして詩津華は思う。嘘は全くつけないと。この視線はそれは強靭で、真摯で遊びがない。
だから彼女はそれに負けぬよう、目を背けずに彼女の瞳を見返しながら。
「中学校に上がる前でした。わたくしと天里さんはそのころは、どちらかの邸宅でふたりで遊びまわるくらいの関係ではあったんです」
「ああ」
「ある日、わたくしの父と、取引先の会社のひとたちが集まってリビングで非公式の会議をしていました。非公式だったから、とても乱暴な言葉づかいで。内容は…その…半ば、地上げのようなものでした。汚らしい金の話であるとか、反対していた人たちの人権や尊厳とかを無視した物言いで。わたくしたちはそれに聞き耳を立てていたのです。その場には天里家の誰かもいたはず。私はショックを受けました。けど、天里さんはきっと私以上にショックを受けたと思います。その後、会話もしなくて、食事もとらなくて…」
マサカは。
15度程度。首を右に傾けた。詩津華の目を見つめたままで。
「はあ」、そう呼吸と同時の相槌を打った。
「思えば、あれが彼女の男性恐怖症の一端の原因なのかもしれません。彼女はその時から、目に光というものをなくしていったんだと思います。何か、すべてのものを遠ざけて興味をもってくれないような態度とか。あの陰のある性格は、それが原因かもしれません」
「はあ」
「聞き耳を立ててみようとか言いだしたのは、わたくしなんです。わたくしがあんなことを提案しなかったら、ああはならなかったかもしれない。彼女の性格や本質について、どうしてもわたくしが言いづらくなってしまうのは、この、わたくしのせいなんです…」
「嘘だ」
マサカは刃物のような、冷酷で鋭利な言葉をすぐに詩津華に刺した。
「え…」
詩津華は。思いがけず、そこで目をそらしてしまい。
「黄瀬。キミは自分の身を守るための嘘をついている」
そして詩津華は、嘘なんてついていません、と言う事ができない。
気の弱い子にとっては、一切の悪意がなくともたとえば近くで大きな声を出しているだけでかなりの恐怖。ここが、若いリア充が理解できない割と重要な箇所。