灰色と青   作:69

1 / 3
01.灰色から脱獄

 なんのために生きているんだろう。

 帰りの最終電車で、真っ暗なガラスの窓に映る自分の疲れ切った青白い顔を眺めながら、そんなことを考えた。

 毎朝、弁当の具材みたいにぎゅうぎゅうに詰められた満員電車に揺られ、出勤する。やっとの思いで辿り着いた会社で、錆びた歯車のように働き続ける。当たり前のように残業をして、最終電車に乗って帰る。酒や汗の臭いでむせ返る車内から吐き出されると、また明日と言わんばかりに当日運行終了の旨を知らせる電光掲示板をぶら下げた駅のホームに迎えられ、無機質な毎日に嫌気がさして憂鬱になる。

 次第に、変わり映えしない日々の中に灰色を感じるようになってくる。見慣れた景色が、ひどく色褪せて見えてくる。

 生きる意味とか、そんなご大層なものは求めていないが、これからも無味乾燥な人生を送ると思うと、なんとも言えない抵抗感を覚えた。

 

 まばらな人の流れに沿って駅を出る。ぽつぽつと革靴の音を落としながら、できるだけぶっきらぼうに歩く。ガードレールの下でうずくまった黒猫が、金色の瞳を光らせて、にゃあと鳴いた。

 深夜の帰り道、空を見上げる。ビル群に切り取られた夜空は、地上の光に侵食されて自然的な美しさを損ねていた。

 同期は皆、仕事を辞めてしまった。SNSで様子を見るに、転職してからとても活き活きしていることがわかる。僕はそんな彼らを自分と比較し、勝手に落ち込む。そのあと、自分に嫌気がさす。辞める勇気が無くて、縋り付いているだけの僕には、彼らと比較する資格もないはずだと気付いていた。

 学生の頃は、まだ将来に期待があった。それはとても漠然としていたものだったけれど、少なくとも不安ではなかった。根拠のない自信が、鎧のように心を覆っていた。

 けれど、そんなものは幻想に過ぎなかった。青い春の全能感を信じてひた走った先に待っていたのは、まっさらな灰色だった。

 

 夜の色に塗りつぶされた住宅街は、まるで死んでしまったかのように閑静だ。ぺこんと鳴る靴音がやけに響く。小心者の僕は、できるだけ慎重に歩くことを心がけて、足の指先にキュッと力を入れた。

 月がそっぽを向いているせいで、足元は暗くおぼつかない。先には一定の間隔で電柱が立っており、電柱の半ほどに付いた街灯が根元を照らしている。今はその頼りない光源が唯一の救いだった。

 のろのろと歩いていると、やがて十字路が見えてくる。十字路の横にも電柱が立っている。ここを左に曲がれば、もうすぐ僕の家だ。

 ぼんやりと歩きながら電柱を見つめる。すると、その見慣れたはずの電柱に違和感を感じた。電柱そのものではなく、電柱の下の方。電柱の下に、ぽつんと人が立っている。見るからに女の子だ。

 風が吹き抜ける。四月とはいえ、深夜の風は驚くほど冷たい。運ばれてきたその風に、冷えた手を背中に突っ込まれたような感覚をおぼえ、身震いした。

 視線の先の女の子は、まるで主人の帰りを待つ忠犬みたいに洗練された佇まいをしていた。けれど、くしゅんと晒した可愛らしいくしゃみから、勝手に親しみを抱いた。

 十字路に差しかかる。街灯に見下ろされた女の子の姿がハッキリする。凍った水面のような色の長い髪に、目を見張るほどの美貌。夢にまで出てきそうな美人だ。でもその佇まいから人形と間違えてしまいそう。

 女の子は、白いシャツの上に、灰色のカーディガンを羽織っている。それだけでは寒そうだ。ひらひらと揺れる膝丈のチェックスカートが生き物みたいに蠢いて見えた。

 女の子の横に黒い大きなケースが並んでいる。あれは多分ギターケースだ。それと3泊4日くらいの大きさのキャリーケース。女の子の髪の毛とよく似た色。

 ふと、腕時計に目を落とす。時刻は深夜の1時を回っていた。そういえば、明日も仕事だったなと、場違いなことを思い出した。

 そんなことを考えていると、僕はすぐ近くに居る女の子を周りの風景と同じように認識した。あるいは、女の子を認識しなかった。

 

「あの」

 

 歪んだ拡声器を通したかのような無気力な声が、僕の意識を下手くそに引っ張って、女の子のことを再認識させた。

 僕はまず、その声が自分に向けられたものか疑った。辺りを見渡す。ただ暗かった。視線を戻すと、女の子の周りだけ街灯に照らされていて、やけに眩しかった。隣の黒いギターケースはボロボロだった。

 

「えっと、僕?」

 

 自分を指さしながらそう返すと、女の子は「はい」という二文字をあっけらかんに零して、項垂れるように頷いた。それから、沈黙が僕達の間を歩いた。それは女の子が意図したものだった。女の子は、口にする言葉を選別するように思案していた。ひどく慎重な沈黙だった。いつか、本で読んだことを思い出す。沈黙は時に詩的だ。

 

「いきなりで、驚かれるかもしれません。でも、よろしければ私のお願いを聞いて欲しいんです」

 

 女の子は丁寧に前置きをする。あるいは、それは注釈めいていた。

 

「うん」

 

 僕は冷静だった。先程まで、仕事の疲れで頭にモヤがかかっているような気分だったのに、今この瞬間、なぜか僕の思考はクリアだった。

 

「タダでとは言いません。それに、できる限りでいいんです。私を、あなたの家に泊めていただけませんか」

 

 言って、女の子が頭を下げた。花緑青の髪がゆらゆらと揺れている。女の子の言葉は、なんの質量もないはずなのに、真正面から僕の胸を強く叩いたような気がした。

 けれど僕は冷静だったので、真っ先に新手のキャッチセールスかと疑った。

 

「どういうこと?」

 

 女の子の髪の毛が深夜の風に揺れる。寒さで身震いする。女の子はまだ頭を下げている。

 

「帰る家が、ないんです」

 

 女の子の言葉がアスファルトの上に落ちる。それは落ち葉のように乾いた音を立てて転がった。

 頭の中で同じ言葉が少しノイズがかって再生される。帰る家が、ないんです。

 

「そうなんだ」

「はい」

「お金もないの?」

「はい」

 

 僕は冷静だった。正直なところ、女の子の言ったことが嘘か本当かは、どうでもよかった。そんなことは問題ではなかった。

 

「いいよ」

「えっ」

 

 ようやく、女の子が顔を上げた。死にかけの若葉みたいな瞳が揺れている。ひどく朧気で、頼りない。吸い込まれてしまいそう。

 

「なんで頼んだキミが驚くのさ」

「少し、意外で」

「初対面なのに、意外も何もないでしょう」

「それは、そうですが。ただ……」

「ただ?」

「不用心だなと、思いまして」

「あぁ、そうかもしれない」

 

 仮に、女の子が金目のものを盗むのが目的だとして、僕はそれでも構わなかった。

 

「でもそれは、キミが気にするところではないよ」

「そうですね」

 

 女の子は曖昧に頷いて、慣れた手つきでおそるおそるギターケースを背負った。なんともアンバランスな仕草だった。

 

「ついておいで」

 

 別に、キャッチセールスでも窃盗でもなんでもいいと思った。思いつきではなかった。むしろ渇望ですらあった。灰色から脱獄できるのなら、なんでもいい。

 

「はい」

 

 女の子が、何度目かの二文字を送り出した。

 

 

 

――――

 

 

 

 どうぞ、と言って扉を開けた。お邪魔します、女の子の控えめな声が暗闇に飲み込まれた。

 手探りに明かりを付ける。薄白い人工的な光が、狭苦しい玄関と短い廊下を照らした。廊下の途中、左側にはトイレと風呂のそれぞれの扉がある。右側には洗濯機と冷蔵庫、ミニキッチンがある。

 

「ごめんよ、狭くて」

「いえ。気にしません」

 

 廊下の先には10畳のワンルームがある。家具は少なく、生活に必要な最低限のものしか置かれていない。

 これが僕の暮らしている部屋。ひとり暮らしの1Kは、女の子が一人入り込んだだけで、幾分か華やかになり、どこか狭苦しくなったような気がした。

 荷物を置くスペースはあったけれど、女の子が寝るスペースを確保するのは難しいなと思った。

 

「シャワーでも浴びるかい。それともキミはお湯に浸かりたいのかな」

 

 問いかけると、女の子はそれまで守ってきた無表情のまま、いえそこまでは、と遠慮した。でも肩がふるふると震えていたから、僕はバスタオルを女の子に押し付けて、そのまま脱衣所に押し込んだ。どれだけ外にいたのだろう。

 少しして、バスルームへの扉が開く音がした。やがてシャワーの流れる音が立ち始める。僕はふっと息を吐く。

 女の子がシャワーを浴びている間、僕は晩御飯を準備する。パスタを茹でて、インスタントのソースをかけるだけだから、すぐにできた。

 テーブルには二人分の皿がギリギリ乗った。そういえば、誰かが自分の家に上がるのは久しぶりだ。昔はよく、同期と仕事の愚痴を零したりしていた。けれど、彼らはもういない。考え事をしながら自分の分を食べているとすぐに食事が終わった。食器を片付けて、冷蔵庫からアルコールの単缶を取り出す。ひと思いに酒を呷ると、刺激的な喉越しが孤独を押し流してくれたような気がした。

 女の子がバスルームから出たのが分かった。ややあって、脱衣所の扉が開かれる。髪に湿り気を残した女の子が、裸のまま僕の目に飛び込んできた。湯上りの頬は赤く色づいている。後方に、綺麗に畳まれたバスタオルが見えた。

 

「着替えが、キャリーケースの中にあって」

「そう」

 

 慎ましくもハリのある胸。お腹から腰にかけてのくびれのライン。濡れた薄い陰毛。細い手足は触れただけで折れてしまいそう。女の子の裸体は、有名な女神の彫像よりも美しく見えた。それは脳髄に直接語りかける無形の絵画だった。

 

「テーブルにご飯置いてるから、食べてね」

 

 どうしてそんなことまで、ポツリと聞こえた女の子の声は、先程までの乾いたものではなく、湯上りのせいか湿っていた。

 

 

――――

 

 

 

 僕がシャワーから上がると、女の子は灰色の上下セットのスウェット姿で綺麗な正座をしていた。ラフな格好は似合わないなと思った。

 テーブルを見ると用意した食器がなくなっていた。稼働する食器乾燥機を見て、どうやら食べてくれたらしいと分かった。

 壁にかけたアナログ時計が規則的な音を立てている。時刻は深夜の2時を回っていた。動き始めてから一切の休みもなく働き続ける秒針に哀れみの視線を送った。

 

「もう寝るよ」

 

 声をかけると、女の子は無言で頷く。沈黙は詩的だ。

 部屋にはベッドが一つだけある。シングルサイズだから、そんなに大きくはない。クローゼットの中に来客用の布団はない。女の子の寝場所どうしよう。

 悩んでいると、服の裾を引っ張られる。それはひどくささやかな呼びかけのようだった。

 応じて振り向くと、ちょうど女の子がスウェットを脱いでいるところだった。蠱惑的な裸体が至近距離にある。魅力が牙を向いて僕の心臓に噛み付く。血が溢れ出るように心拍は加速した。

 

「何をしてるの」

「お金も払わず泊めてもらう訳ですから、相応の対価を。言うなれば家賃です」

「そう」

 

 眠気でぼんやりとした頭は、面倒な思考を放棄した。女の子が僕の首に巻き付くように腕を絡める。小さくも柔らかい唇が押し付けられ、口内におずおずと入り込んだ舌先から甘い快楽が流れ込み、ゆっくりと体内で渦を巻いた。

 僕はいつものようにリモコンに手を伸ばして、部屋の電気を消す。そうすると自発的な暗闇が訪れ、ようやく一日が終わるのだと自覚する。ベッドに倒れ込むと、スプリングが軋んで悲鳴のような声を上げた。

 


 ▲ページの一番上に飛ぶ
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。