灰色と青   作:69
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03.霞む春の隅で

 

 朝は新聞を取っていないからテレビをつける。偏った報道だとしても、ニュースから情報を得ることは大切だ。人生の役には立たないけれど、仕事の役には立つ。

 呆とテレビを眺める。朝のニュースは世間的な話題が多い。ひどく和やかで、まるで自分自身が世界に置いていかれているような錯覚さえ覚える。あるいは、自分だけ別の世界に住んでいるみたい。

 

「できました」

 

 女の子の覚束無い声が部屋に染み渡る。カタカタと、お盆に乗った食器が揺れている。女の子の肩みたいな震え。

 小さな机に二人分の朝食が並んでいく。アンバランスに焦げたトースト、ゴキブリの背中みたいな光沢のドロドロのブルーベリージャム、それと女の子の瞳の奥に宿っているのと似たような色の珈琲。

 

「ありがとう。いただきます」

「いただきます」

 

 今日からしばらく、女の子が家事をすることになった。食事を用意するのも、洗濯をするのも、掃除をするのも、全部女の子の仕事。それがこれからの家賃代わり。セックスより大変ですね、女の子は感情の見えない表情で感想を零した。

 トーストは少し固くて苦い。ブルーベリーのジャムでは隠しきれていない女の子の不器用さがそこにはあった。慣れないことをさせて申し訳ないと思いつつ、用意してくれたありがたさを咀嚼しながら噛み締めた。

 朝食を終えてから身支度をして、仕事行きの準備を終える。玄関で革靴を履く僕の後ろに女の子が立っている。どこか懐かしくて、幻想的な構図。

 僕は靴を履いて女の子に振り向く。無気力な瞳。覗き込んだら自分の瞳まで写ってしまいそうで、僕は通り過ぎるように目を逸らした。

 

「行ってくるよ」

「はい」

「家のこと、よろしくね」

「はい」

 

 機械的な反応を繰り返す女の子。思い返せば、ほとんどの場合で、女の子は無機質だ。

 

「じゃあ」

 

 女の子と話していると、言葉の難しさを痛感する。僕はそれがひどく悩ましくて、時々、不安になる。その不安はとても漠然としている。でも多分、それは誰もが当たり前に抱いているもので、ひどくちっぽけなものだ。なのに僕達は、その不安を過大評価し、いつまでも囚われてしまう。

 

「あの」

 

 臆病な二音が、扉を開ける僕の背中をなぞる。その呼びかけは恐ろしくささやかで、躊躇いがちに袖口を引く心もとない指先の感触に似ていた。

 

「いってらっしゃい」

 

 ひび割れて、軋んだ窓ガラスの向こうから日が差すみたいに、女の子の言葉が僕の頬を撫でる。見間違いかもしれないけれど、少しだけ、女の子の口角が上がっているような気がした。

 

 

 

――――

 

 

 

 仮病明けの出勤で、上司からの第一声はお叱りの言ではなく、はたまた僕の体調を気遣うものですらなかった。残念な知らせがあると告げられた時点で僕は簡単な予想をして、伝えられた内容が見事想像と一致した時、またかとため息のような重たい納得が腹の底に降りてきた。

 どうやら、昨日で新入社員が全員辞めてしまったらしい。今年も全滅か。事実、僕の代も自分しか残っていないし、この会社に留まっている方が稀なのではという気さえしてくる。

 結局、人手不足のために今日も残業が確定してしまった。繁忙期でもないのに、慢性的に残業しないと回らない会社なんて、どう考えても危うい。僕もこの流れに乗れば辞められるのだろうか。嗚呼、でもこの思考は主体性がない。流れに乗らなければ動けない僕は、どうしようもなく矮小で臆病な寄生虫のようだ。

 仕事をしながら、女の子のことを考える。ちゃんと家事はできているのだろうか。トースターの使い方にも一苦労していたから不器用に見えたけど、やればできる子なんだろうと思う。贔屓目かな。

 そこまで考えて、違和感。たったの一日二日で情が移ってしまったか。安易に女の子を定義してしまっている。お互いに、都合よく利用し合っている関係だということを忘れてはならない。

 女の子は多分、必要最低限のことだけやって、後はギターを弾いているんだろう。その姿は容易く頭に思い描くことが出来たし、僕は同時にそうだといいと切に願っていた。

 

 

 

――――

 

 

 

 当たり前のようにクタクタになって、当たり前のように終電で帰る。

 鈍色の窓の外を眺める。過ぎゆく暗い街並み。路線の上を走る電車。外を自分の足で歩いている人がいる。羨ましいと思った。僕は電車の中からどこにも行けない羨望を送った。

 電車から吐き出されて、のろのろと駅の改札をくぐる。

 見慣れた帰路。灰色の日常。散り落ちた春の面影。

 風に飛ばされそうな霞む春の隅で、僕はささやかな足音を落とす。暗い夜道に響く硬質な靴音は誰にも拾ってもらえない。それは僅かな余韻を残して消えていくだけだった。

 子どもの頃は、こうして深夜の道を歩くことは出来なかった。けれど、それが今では当たり前のように日常の一部と化している。あの頃は、帰路に着く時にはいつも隣に友人の誰かが居た。確かにあった安心感は今は遠く、暗闇に僕はただ独りだった。

 時折、今と昔を比較しては虚しくなる。なんのために生きているんだろうと、ふとした拍子に考えてしまう。いつだったか、人生は生き地獄のようだと思った。先の見えない不安に押し潰されそうだった。

 見慣れた十字路に差し掛かる。そこにはぽつんと一本の電柱が立っている。付随した電灯が、今は何故だかひどく眩しく映った。

 そこを左に曲がると、直ぐにアパートに辿り着く。錆び付いた階段を上る。階段が軋む音、革靴が薄い金属を叩く音。それらの音に混じって、乾いたギターの音色が聞こえる。理解が及ぶと、思わず口角が上がった。

 自分の部屋に近づくにつれて、ギターの音色が鮮明になる。扉の前に立つと、紙が貼ってあるのが分かる。随分と大きく乱暴な字で、ギターの演奏が五月蝿く迷惑だ、ということが書き殴られている。僕はその紙を乱雑に引き剥がして、ぐしゃぐしゃに丸めて上着のポケットに突っ込んだ。四隅の千切れた紙の端がセロテープと共に取り残された。

 鍵をあけて扉を開く。だらだらと流れる錆び付いた音が僕を出迎えてくれた。

 

「ただいま」

 

 女の子は応えない。女の子は部屋の奥で一心不乱に群青色のギターを弾いている。何かに囚われているように、何かに追われているように。

 僕の声が聞こえていないみたいだ。おそらく実際にそうで、今日だって扉に紙を貼られる前に、先日のように壁を叩かれたり扉の前で騒がれたり、幾つか犯人からの抗議があったに違いない。

 でも女の子には届かない。

 女の子がギターを弾く時、その世界はひどく孤独で、隔絶されている。僕たちは同じ世界に居ない。外の世界の住民である僕らが干渉することはできない。女の子がその鎖された世界の片隅で、気まぐれのように予測のつかない開港をする瞬間を待つしかない。

 部屋の隅に荷物を置いてスーツを脱ぐ。スーツは着ると気が引き締まるけど、脱ぐと逆に気が抜ける。

 女の子がギターを弾いている間に風呂に入る。浴槽には湯が張られていたけどもう冷めていたから、熱めを足して入れるようにした。シャワーを浴びている間にギターの音色は枯れてしまった。けれど、僕の耳の奥には、あの乾いたメロディがこびり付いて離れなかった。

 浴室から出ると、感情の読み取れない表情の女の子が全裸の僕を迎えた。

 

「おかえりなさい」

 

 と女の子は言った。

 

「ただいま」

 

 と僕は言った。

 その何気ないやり取りはひどく郷愁的で、胸に突き刺さる。朝と同じような感覚が僕の心臓を揺さぶった。

 

「いつの間に帰っていたのですか」

 

 女の子の瞳は夜の奥みたいに昏い。本来であれば淡緑色であるはずのそれは、今はひどく濁っている。

 

「ついさっきだよ」

「帰ったのなら言ってくれれば」

「キミの邪魔をしたくなくて」

「そう、ですか」

 

 女の子との会話は続かない。いつものことだ。けれど、今は何故か、それを心地よく受け入れることができた。

 

「夕食を用意します」

 

 言って、女の子は脱衣所から出ていく。僕はくしゃみを零す。そういえば、まだ体を拭いていなかった。

 着替えて部屋に戻った頃にはもう食事が用意されていた。時間から考えて、今作った訳ではないようだ。

 

「いつ作ったの?」

「お昼です」

 

 要するに残り物らしい。いや、それにしては量が多いから、夕食も見越して作ったと考えるべきだろう。片手間のものとはいえ、誰かの手作りを食べるのは久しぶりだ。見た目は正直、良くはない。肉がところどころ焦げていたり、野菜の切り方がアンバランスだったり。けれど、それが寧ろ食欲をそそった。

 いただきます、二人で合唱して夕食を食べる。そろそろ気温が上がってくる時期だ。体を拭くのが遅れた割には、湯冷めしなかった。

 



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