夜。耳と頭のなかをいっぱいに包んでいたユーの声が収まっていく。シーツがくしゃくしゃになったベッドの上、大雑把に体を覆う布団。枕を並べている私達は、少し虚ろな目でお互いを見つめて汗ばむ手を握り、口づけを交わす。じっとりと汗が額を覆っていたが、荒かった息が収まっていき、それと同時に私たちの体は心地よい疲労感に、頭は幸せで満たされていた。
「ユー……愛してるよ」
「私も……ちーちゃんのこと、だいすき」
空いていた右手でユーの頬を撫でると、甘える大型犬のようにユーは目を細める。
窓の隙間から柔らかい月明かり差し込み、彼女の美しい金髪を照らす。光が透き通ったユーの髪の毛が美しくて、つい触れてしまう。少し手が耳に当たったのか、ユーは小さく声を漏らす。
「かわいいよ」
「ん、ちーちゃんったら……」
そう言ってユーは物欲しそうに唇を閉じる。欲しがりだな。私はもう一度その柔らかい唇を塞ぎ、手を後ろに回す。ぎゅう、と抱き締めて、目一杯近い愛しい人の顔を堪能する。
「ユーの全部、私のものだぞ」
「へへ……ちーちゃんのものにされちゃった」
「お前のはじめて全部私のものにしてやった。本当に幸せだよ」
額をこつん、と当てて私はそう言う。しかし、ユーの体がほんの一瞬凍りつくのを私は見逃さなかった。顔を離して愛しい人の顔を見てみると、私が感づいたことを察知したのか、ユーの目が泳いで声が漏れる。
「っあ……」
「どうした、何かあった?」
「な、なんでも……ないけど……」
ささやかな抵抗だろう。自分がもう誤魔化せないくらいにボロを出したことは、ユーが一番理解しているはず。そして私がそれを見逃さないこともだ。
「無理なら言わなくていいぞ」
これは本音。恋人同士でもあまり知られたくないことだってあるし、それなら触れないほうが良い。多少の隠し事があっても、ユーの愛情が本物だということを私は理解している。だからここで彼女が言わなかったとしても、明日からはいつもどおりな日常が始まるのだ。
「…………その、私さ。初めて恋した人って」
だが、私の予想に反してユーは語りだした。少し意外だったので、私はそのまま黙って聞いてみる。
「……私、ちーちゃんが初恋じゃ、ないんだよね」
と、さらに意外なことを言われた。
「私じゃなかったのか。いつのときだ?」
「小学校の、本当に小さい時くらい。ちーちゃんと出会う直前だったかな」
「なんだ、そのくらいの歳なら誰だって恋みたいなものはするだろ」
「恋だけじゃなくて……その、きす、も……」
ぎゅう、とユーが私の手を握りしめる。怒らないで、離さないで。そんな彼女の怯えが伝わってくる。
「黙ってて……ごめん」
目に涙を浮かべ、ユーは言った。たぶん、いつ言うべきか、ずっと悩んでいたんだ。言ってしまえば私達の関係に亀裂が入ってしまうのではないかと、そう思っていたに違いない。
可哀想に、そんな思いを常日頃抱いて私と過ごしていたのかと思うと、少しばかり胸が痛くなる。その一方でお前はバカか、と私は言いたくなる。いや言っておこう。
「バカ。そんな程度で私がお前のこと嫌いになるなんて、あるわけないだろ」
そっと私はユーの目元に溜まっていた涙を拭き取る。彼女の表情が柔らかくなった気がした。
「子供のときの初恋もそりゃ結構だ。でも私たちは今繋がってるんだ。刹那主義のお前が昔のことを気にするなんて、似合わないぞ」
「ちーちゃん……」
「私はいつのお前も愛してるぞ。よく正直に話してくれたな、偉いぞ」
ユーリの頭をそっと撫でる。またこいつは目を細め、安心しきった顔で身を委ねる。ああもう、かわいいな。我慢できなくて私はその額にそっと口づけをする。
「なぁ、ユー。せっかくだからさ、お前の初恋の話聞かせてくれよ」
「え、いいけど……あんまり覚えてないところもあるよ」
「お前の記憶力なんて最初から当てにしてないさ。ちょっと興味あるから、大雑把でも良いから聞かせてくれよ」
「さり気なく酷いこと言われた気がするけど……ちーちゃんがそういうなら」
ユーはゆっくりと語り始めてくれた。
それは、ユーが夏休みの初日に日本に引っ越してきた時だったそうだ。
*
故郷を離れ、日本にやって来た最初の日。引っ越しをしていた。といってもお金持ちの家のお嬢様なユーの一家だったから、引っ越しは業者や使用人がやっていたので、一人でつまらなくなり、ふらふらと公園へとやってきたそうだ。
「あつい……」
不慣れな湿度、そして高温。日本特有の暑さは、比較的温度の低い地域で育ったユーにはひたすら過酷だった。一応親御さんの考慮で薄めのワンピースを着ていたが、それでも暑いものは暑かった。
いつものユーだったら、あちこち探検に出かけるなりしただろう。でも、この日は猛暑日で、ユーリはあっという間にヘロヘロになり、持ち前の冒険心はあっという間に溶けて消え、木陰に座り込んでしまった。
湿度を含んだ暑さは容赦なくユーを蝕んでいく。加えて、全く知らない異国の地でひとりぼっちになれば、恐怖の格好の餌食だった。早くもユーは生まれ故郷に帰りたいと強く思い、うずくまってしまう。
「どうしたの?」
そんな時にだ。ユーにとっての運命の人が、声をかけてきたのだ。
*
「わー、すごい。お姫さまみたいだ。お前どこから来たんだ?」
「え、っと」
ユーは少しばかり困惑しながらも、自分の母国語で答える。しかし向こうは日本語以外の言葉で、はてなと表情が曇る。ユーは失敗してしまっただろうかと不安になる。
しかし、向こうは異国の地から来たお人形さんという更にファンタジーな存在にさらに興味が湧いたようだった。
「外国の人なんだ! どこから来たんだ、言葉はわかる?」
「えっと……えっと……」
「あー、言葉わからないかな。わ、お前汗びっしょりじゃないか」
ハンカチを取り出して、ピッタリくっついた前髪をゴシゴシと拭いてやる。最初ユーは驚いた顔をしていたが、自分は少なくとも親切を受けているのだと理解はできたのか、少しずつ不安は和らいでいった。
*
ユーは小川に連れて行かれて、橋の下で足だけ川に浸かって涼んでいた。日陰の存在はありがたく、水辺もあるからずっと外にいるよりかはマシだった。連れてきた子は、手で「待ってて」のサインを取ると、一旦その場から離れた。ユーはとりあえず涼むことに専念していた。
しかし、ユーにとってここは異国の地。親切にしてくれる人と出会ったとしても、一人にされればそうなるのも無理はない。
探しに行くか、留まるか迷った。けど、バイバイという雰囲気でもなかったし、異国の子供を信じて待つことにした。
「おまたせ! ちょっと探すの苦労して……わ、ちょっと!」
だから、戻ってきてくれたことが心底嬉しくて思わず抱きついてしまう。
ただ、抱きつかれた方は戸惑うのが当然だ。ただ、えぐえぐと泣いているお姫様を見て、きっと寂しかったのだろうと子供ながらに察した。
「ひっく、うっぐ……」
「あー……ごめん。寂しかったのか?」
と聞かれるも、ユーは言葉が出せなかった。それ以前に言葉が理解できなかったのだから同しようもないのだが、ひとまずよしよしと頭を撫でてやることにする。その甲斐あってか、ユーの嗚咽は少しずつ減っていった。
「そのー、とりあえずさ。お茶いる?」
あまり泣いてばかりいられても困るので、水筒を差し出すことにした。
*
「んー、あの麦茶は格別だった」
「暑い日の麦茶は格別だからな。お前は本当に美味しそうに飲むもんな」
「事実美味いので」
「それで、そのあとは何したんだ?」
「人生初の川遊びを経験した」
「田舎の町で男子に混じって橋から川に飛び込んでいるであろう女ランキング殿堂入りのお前に初めてがあったとはな」
「誰だって初めてなんてあるよー」
ぷすー、と頬をふくらませるユー。私はそのほっぺを指で押し込み、口から空気を抜く。
「まったく、わんぱくユーリの始まりを見てしまった気分だ」
「今の私があるのはきっとその子のおかげかも知れないんだ。殻にヒビを入れてくれたっていうのかな。でも引きずり出してくれたのはちーちゃん、って感じ。だからか、どうかはわからないけど」
少しだけ目をそらし、ユーは少し重そうに口を開く。
「その、いろいろと嬉しくて……そのときにはもう、好きだったのかもしれない」
ぎゅ、とユーリが手を握る。たぶん「今好きなのは本当にちーちゃんだよ」って言いたいんだと思う。私は手を強めに握り返して、微笑む。ユーリの顔の緊張がほぐれるのが分かった。
「ほら。気にしないでお前の初恋の続きを教えてくれよ」
「ん……っと。そう、その日はそれで終わりってことになって……」
*
日もすっかり傾き、涼しくなった川辺を歩いて出会った公園に二人は戻った。はじめての事づくしで楽しかったユーリは、ニコニコと釣ったザリガニを見つめていた。と。
「そろそろ5時になるなー」
「?」
ユーリは何を言ってるのか理解できなかった。しかし、近くにあった時計を指さされ、手をバイバイと振られてすぐに理解する。帰らないといけないのだと。
「え……で、も……」
また一人になるのかもしれないという寂しさから、ユーリは思わず手を握ってしまう。そんな彼女の寂しさは、手の震えと表情で簡単に汲み取れた。今にも泣き叫びそうなユーリの顔。しかしうろたえはしない。
「大丈夫だよ、また明日ここで会おうよ」
「あ……シタ?」
えーっと、どう説明しようと考え、近くにあった棒を手に取る。それから地面に今日の日付を書いて、その次の日の日付を書く。
「これが、『今日』だよ」
「キョ……う?」
「そうそう。で、こっちが『明日』ね」
「ア……した」
「明日、ここで会おうよ」
明日の日付を指差し、次に公園の地面を指差す。その動作でユーリはまた明日遊ぼうという意味を理解した。
「あ……した!」
「そう、明日ここで!」
「あした! あした、ココ!」
「うんそう!」
「うん、うん!」
ユーリはまた会えることが嬉しくて笑顔で飛び跳ねる。明日、また楽しいことが待っている。それを思うだけで二人は楽しくて仕方なかった。
「また明日ね」
「マた、アシタ!」
大きく手を振って二人は公園を後にする。ユーリは少しだけ寂しかったが、もう一度「またあした」という言葉を呟いてニッコリと笑みを浮かべる。今日は早く帰ってご飯を食べて、すぐに寝よう。そう決めるとユーリは大急ぎで家に帰っていった。
*
そこまでで話を終えたユーはほうと息をつくと、少しばかり切なそうな顔で目を泳がせる。カチコチと時計の針の音が耳に届いて、次にもぞりとユーが布団の中で動く音。そのまま私の胸板に頭を押し込む。私は何も言わず、月と同じ色をした美しい髪の毛を撫でる。
「お前も結構甘酸っぱい恋してたんだな」
「まぁね。ていうか、ちーちゃん結構冷静だね」
「ルックスのいいお前のことだ、そういうことが一つ二つあってもおかしくないだろうよ。それに」
ユーの顎に指を乗せ、くいと顔を持ち上げると額をくっつける。眼の前に驚いたユーの目、かわいいな。
「私はな、『今しか欲しくない』んだよ」
あっ。といいそうなユーの口元。その返事を待たずに私は彼女の唇を塞ぐ。暖かくて、ふわりとした唇は、私よりもずっと大きくて強そうなイメージとは裏腹に、子犬のように繊細だった。
「ちーちゃん……」
「だからお前の過去に何があろうと私は気にしないよ。だからこそ知りたい。お前が隠していたもの全部」
するりとユーの首筋に手を伸ばし、髪の毛をかきあげる。親指で耳をつー、と撫でて、甘い息が漏れる。ほーら、早く聞かせろよ。指で唇をなぞり、その中に侵入する。ユーはそれを受け入れて、ぬろりと指を舐める。少しくすぐったいけど、面白い。もう少しだけ遊んでみたかったが、続きを聞くために指を抜く
「……いじわる」
まんざらでもない顔で、ユーはそういった。
*
次の日。昨日と同じく暑い日だったが、その日のユーは一味違っていた。
友だちができたと親に話したユーは、それはもう喜ばれた。異国の地で友だちができるかと心配していた娘からそんな報告を聞かされたら嬉しいに決まっている。
なら暑い日でも大丈夫なようにと麦わら帽子と更に薄めのワンピース、水筒と暑さ対策に必要なものを用意され、「少ないが持っておきなさいと」お小遣いも渡された。
そうして意気揚々と公園にたどり着くユー。時間はお昼を過ぎた頃。ワクワクとしながらユーは公園で待ち合わせる。
「おーい」
と、こちらに向かってくる声。入口を見ると昨日の子が手を振りながらこっちに来ていた。
よかった、来てくれた! ユーは満面の笑みを浮かべ、手を大きく振って駆け寄ると、覚えたばかりの言葉で挨拶をする。
「こ、コンにちは」
「おおー、日本語。上手じゃん。えーっと、ぐっどぐっど」
「ほ、ほんと?」
「えーっと、いえすいえす。あいむ、いんぐりっしゅ、りとる、すたでぃ」
と、子どもがどうにか覚えられる範囲の英語で意思疎通を図る。幸いユーもほんの少しだけ英語がわかったから、お互いどうにか気持ちや言葉が伝えられるようになった。
「あ、これもあるぞ!」
取り出したのはポケットに入るくらいの英単語辞書。小学生でもわかりやすく書かれているタイプだ。辞書を開き、伝えたい単語を探して
意思疎通を図る。
「きょうは、おかし、いくよ」
「おかし? たべる?」
「そうそう。いこう」
*
「ほらおぼえてる? イシイ商店」
「ああ、私達の小学校の憩いの場だな。その日の気分次第で閉まるやつ」
「結構適当な頻度で休んでたよねー。あ、思い出した。いしーってわざと間違えて呼ぶと」
「『いしじゃなくてイシイだ』が合言葉だね」
「そうそう、懐かしいな。まだあるかな」
「今度向こうに戻ったら行ってみようか」
*
「おーい、いしー!」
「いしじゃなくてイシイだ」
と、店の奥からメガネを掛けた女性、イシイ商店店長のイシイが現れる。
「お、なんだ綺麗な子を連れているじゃないか。友達か?」
「うん。昨日あったよ。でもことばはあまりはなせないんだ」
「そうか。英語とかか?」
「えいご、も話せないかな」
「英語圏以外の子か……ないすてゅーみーてゅー」
「それでもえいごなんだ」
何やら会話しているようだが、ユーには理解はできなかったようだ。ただ、歓迎はされているようだったので、ペコリと頭を下げて片言の日本語で返事。
「こ、こにちワ」
「おおー。利口じゃないか」
「この子に日本のおかしを食べさせようと思って」
「なるほど。ちょうど再入荷したのもある。好きなのを買うといい」
「イシイがしごとしてる。いつもさぼってるのに」
「お前……本当に小学生か。ふてぶてしさが大人のそれなんだが」
「ならほめるから全部まけて」
「おバカ」
ケチ。と言い返すが、店主イシイは店の椅子にどっしりと座り込んで気にもとめない素振りで言葉を続ける。
「ま、お友達にいいものを買ってあげるんだな」
「はーい。ねぇねぇ、どれがいいかな?」
ユーはキョロキョロと店の中を見て回る。自分の住んでいた街には無かった、ごちゃごちゃとした店内はなぜかワクワクしたようで、とりあえず何があるのかを聞いてみることした。
「これは?」
「これは、ちょこ」
「ちょこ! これは?」
「あー……イシイこれなんて言ったらいいんだ?」
「スナックでいいんじゃないか?」
「それだ! これは、すなっく」
「すなっく!」
どうにかやり取りして、ユーリは欲しいものを決めていく。ユーリの食いしん坊はこの頃から片鱗を見せており、いつの間にか買い物かごがいっぱいになっていた。
「それ全部食べられるのか?」
「すキ、これ! ぜンぶ!」
満面の笑みを浮かべて言うユーリだが、流石にこの数をごちそうするのは気が引けたのだろう。ひいふうみと財布の中を数えてみる。その様子を見て、ユーリはもしかして結構高いのだろうかと危惧した。
ので、自分が持っていたお金を見せてみた。
「これ、おかネ」
「ん? いくら持って……ってええ!?」
驚愕の声。ユーリはこのお金でも足りないのだろうかと不安に思ったが、どうも反応から察するに違うらしい。友達の持ってる硬貨と、自分の紙幣を見比べる。
0の桁が二つほど多かった。その紙幣が、5枚ほど
「おおいよこれ! こんなにもらったことないのに! イシイこれすごいおかねだよね!?」
「いや子どもが持っていい金額じゃないな。下手なカメラのレンズが買えるぞ」
と、やり取りする二人。ユーリはなんとなくお金は足りていることが分かったのでひと安心するが、疑問も浮かぶ。
「ぱぱ、これ、すくない、いってた」
「めちゃくちゃおおいぞ、これ……」
「おおい?」
うんうんと、商店店長と常連チャイルドは揃って頷いた。
*
「そうだ。明日近所でまつりがあるんだけど、一緒に来る?」
駄菓子屋でそこそこにお菓子を買い込んだ二人は、いつもの公園に戻って駄菓子を堪能していた最中だった。
「まツり?」
「えー、えっと、何て言うかな」
急いで辞書をめくり、お祭りの英単語を探す。
「えっと、まつり、まつり……あった、ふぇすてぃばる、あした、ある。いく?」
「まつり? いく、いく!」
「なら、あした。ゆうがた。6じにここで」
「うん! うれしい、たのしい!」
また「明日」という言葉が嬉しくて、ユーは覚えたばかりの単語を並べまくって表現する。誰かがはしゃげば伝染するのが子どもなので、二人で飛び跳ねてハイタッチ。
それからは少しでも単語を覚えようとユーは奮闘した。木漏れ日を浴びながらの勉強は、ユーの中で一番楽しかった勉強だと記憶しているそうだ。
そうして迎えた次の日。その日は夜に備えて、ユーはたっぷり昼寝をしての出発だった。お祭りに行くと聞いた親御さんは、やっぱり大金を渡そうとしたが、ユーリは勉強の成果を出し、ゼロを一桁減らした金額を言ってそれだけを貰ってやってきた。
約束の夕方6時。ユーはそわそわしながら公園で待つ。道路を見てみると、祭りだけあってか多くの人が行き交っていた。既に風船や綿菓子を持ってる人も居て、気になっていたようだった。
「おーい、おまたせ!」
公園の入口から、いつもの黒髪のあの子。ユーリはぱっと笑顔になり、大きく手を振る。
「こに、ちわ!」
「おう。こんにちは。早くいこう、もう始まってるぞ。はぐれるなよ!」
「わ、わ!」
と、有無を言わさず手を掴まれて、ユーは思わず息を止める。息をしたら、驚いた声が漏れそうだったからだ。
もし、その声を出したら気を使って向こうはてを離してしまうかもしれない。そう思ったユーはぐっと、念入りに唇を塞ぐ。気づくと胸がドキドキしていた。それは息を止めたせいか、それとも手を握られているせいなのか。幼いユーでも、どちらなのかは理解できた。
人混みをかき分け、歩くこと数分。人の数は多くなり、ユーは手を強く握る。すると、ユーの不安を感じ取ったのか、ぎゅ、と握り返される。
すると、ユーの鼻になにやら美味しそうな匂いが届く。お腹が空き始める夕方ぐらいに来たものだから、あっという間にお腹の虫が鳴き始める。
「ほら、ついたぞ」
周囲を見回すと、広い場所に出たのか人混みが一気に晴れていく。その先にはずらりと立ち並ぶ屋台。食べ物の屋台、くじ引き、スーパーボール。お祭りには欠かせない出店が二人を迎えた。
「どれからやる?」
と聞かれるが、ユーの頭にその言葉は入ってこなかった。当然だろう。目に飛び込むのは屋台で作られている食べ物の数々。鉄板の上で踊るように作られる焼きそば、くるくると手際よくひっくり返され、美味しそうな焦げ目を見せるたこ焼き。揚げたてほやほやのフライドポテト、唐揚げ。
ユーの食いしん坊スイッチが全開になるに、そう時間はかからなかった。
「どうしたんだ? おなか空いたのか?」
「あれ、たべたい」
ユーは指差す。その先には焼きそば。
「あそこがいいのか?」
「ううん」
首を振ったユーリは、片端から食べたいものを指差す。一つ二つでは足りない、というか食べ物の屋台ほぼ全てに指さした。
「えっと……良いんだけどさ、おかねたりる?」
「あ」
財布を指さすと、ユーは顔色を変える。持ってきた金額は以前よりも桁の少ない青っぽい紙幣。残念ながら全てを堪能することはできそうにない。
「一個か二個にしたほうが良いぞ」
「うぅ……」
その後のことは簡単に想像できるだろう。子供ながらもユーは食に対して徹底的に悩み、空腹を訴える胃袋との相談は長期に渡って繰り広げられた。そうして選びぬいた焼きそばと唐揚げの味は格別だった。
「おまえ、けっこう食いしん坊だな」
「もぐもぐ、もぐもぐ。いい、いい!」
「そういうときは、『うまい』って言うんだぞ」
「うまい? ウマイ、うまい! ウマイので、もっとたべたい!」
「どっから覚えたんだ……?」
と、食べながら歩くユーは、あるものを見て立ち止まる。その視線の先には射的屋。そのなかで並べられている景品を見つめていた。
「どうした?」
「あれ」
ユーが指差す先には白くて細長い、よくわからない生き物を模したぬいぐるみが置かれていた。
「あれがほしいのか?」
こくり、とユーは頷く。見たところ、ぬいぐるみ本体ではなく、横にある小さい箱を落とせばいいらしい。
「よし、やってみるか!」
言うが早いと、二人で店主に数百円ほど払い、コルクの弾と小さなライフル銃をもらう。ユーが見守る中、弾を込めて狙いを定める。
「見てろよー、おりゃ!」
ぱんっ! と音を立ててコルクの弾が飛ぶ。しかしその狙いは右に逸れてはずれ。なんだまっすぐ飛ばないじゃないか。ムッとしながら二発目を装填する。またはずれ。
「なんだよこれー、あたんないぞ」
ムカムカしながら一発、また一発と撃ってみるも全てはずれ。最後の一発になってしまう。
「あー……むりだよこれ」
引き金を引く直前の期待から、一気に絶望へ。子供特有の無力感を祖のみで体感するはめになった。そんな様子を見て、ユーはちょいちょいと指で突く。
「え、やりたいの?」
「うん!」
「むずかしいぞ?」
「うん!」
大丈夫かなぁ。そんな風に思いながら銃を渡す。ユーはにこにこしながら手を伸ばし、引き金を引く。ぱんっ、と空気の音。ぱたりと箱が倒れる小さな音。
「やった!」
「あ、あたった!?」
ユーの放ったコルク弾は、見事ぬいぐるみ用の的を撃ち抜いた。店主が鐘を鳴らし、おめでとうと言いながら謎の白い生き物のぬいぐるみをユーに渡す。
「やった、やった! もちもち、もちもち!」
「おまえすごいな……でも取れてよかったな」
「うん!」
ユーは、心底嬉しそうに白くて長い、謎の生き物のぬいぐるみを抱きしめ続けた。
*
「お前の射撃の才能はそんなところから来ていたのか」
「きっとあれが開花の瞬間だったのかもしれない……」
「今じゃクレー射撃オリンピック候補だもんな」
「世界記録塗り替えてやるぜ」
「っていうか、そのぬいぐるみお前の部屋のベッドに置いているあれか」
「うん。大事な思い出だからね。あれ抱っこしてると気持ちよく寝れる」
「私とどっちが良いんだ?」
「うー……ちー、ちゃん」
「いい子だ」
*
屋台を一周、二週と歩いた二人は、少しばかり祭りの会場から離れた茂みの中のベンチで一休みしていた。ユーの胃袋には、徹底的に吟味した屋台の食べ物が詰め込まれ、加えて最後のお小遣いでりんご飴、そしてぬいぐるみを抱え込み、これでもかというくらい祭りを堪能していた。
「楽しかったなー。それにお腹もいっぱいだし、そいつも取れたし」
「もちもち!」
「ほんと、触り心地良いな」
ユーがぬいぐるみを抱きしめ、えへへと笑った。ちょうどその時だ。
どん! と大きな音。ユーリは思わず体が飛び跳ねたが、目の前が突然眩しくなって夜空を見上げる。その先に、光り輝く一瞬の花。
「わぁ……」
そう、お祭り恒例の花火大会だ。
「きれい……」
ユーは、その時初めて花火を見たそうだ。笛のような音が聞こえたと思ったら、次の瞬間空いっぱいに美しい花が広がる。ずっとずっと見ていたいと心底思う。だが、それは一瞬で消えてしまい、そのたびにユーリの心はちょっとだけ寂しくなる。
「どした?」
「えっ」
気づけば、ユーリは手を握ってきていた。あまりにも自然で、あまりにも無意識で、ユーリ自身も気づかないその動作。思わず恥ずかしくなって手をどけようとしたが。
「手、あったかいね」
そう言われながら、ユーの指に初恋の人の指が絡まる。今思えば相当ませていたと思う。でも、初恋というものは意外と早くやって来るものである。少なくとも、ユーの中で恋心はすでに形になっていた。
「たのしかった?」
「う、うん」
どくん、どくん。ドキドキする。自分を見つめる、黒い瞳に花火が映る。まるで夜空のようにきれいな瞳だ。
「またさ、遊びに行こうな」
「うん……えと、その」
「どうした?」
「あ、りがとう」
「どういたしまして」
満面の笑みで、その人は答える。ユーは胸がいっぱいだった。この人のおかげで、色々なものに触れたし、知れた。そして何よりも一人で怖かった自分に光をくれたその人が、愛しい気がしてならなかった。
いくらありがとうと言っても足りない。なら何で表現すれば良いのだろう。何かをあげる、ごちそうする。しかし子供であるユーにそれはできなかった。
なら。自分があげられるものは唯一つ。
ゴクリと喉を鳴らす。申し訳程度の知識ではあるが、ユーは精一杯の気持ちを込めて。
小さな唇を、そっと差し出した。
*
「ここまで、かな」
「ここまで? 続きはないのか?」
「……まぁ、あれだよ。その日を境に、その子は居なくなっちゃった。用事があったのか、実は夏の間だけ来ていた子なのか、わかんないけど……お互い名前も言わなかったしで、また会うことはなかったよ」
「そうか」
「でも、今はもうちーちゃんしか欲しくないの。これは本当。だから……ちーちゃんが、一番だから」
「信じてるよ、安心しろ。お前は本当に怖がりだな」
私はユーの額に軽く口付け、頭を更に優しく撫でてやる。それが心地いいのか、ユーは目をとろりとさせて蚊の鳴くような声で私を呼ぶ。
「ちーちゃん……」
「愛してる」
そう言って私はいっそう強く抱きしめる。ユーの体の強張りが消えていく。そう、それでいい。お前はよく吐き出してくれたな。
私はユーの寝息が聞こえるまで、精一杯彼女のことを思いつつ、その丸っこい頭を撫で回してやろうと決意する。疲れもあったのか、ユーの頭をしばし撫でていると、すーすーと寝息が聞こえてきた。撫でたら安心する、まるで『あの時』と同じで思わず苦笑いしてしまった。
そう、『あの時』。私が小さい頃の夏休み。髪の毛をバッサリ切ってもらった私は、公園にでかけてうずくまっているお姫様に出会ったんだ。その子は不安げな表情で私を見つめ、驚いて、汗びっしょりで。私は今まで出会ったことのないそいつに興味を持ったんだ。
思えば、あれは一目惚れだったのかも知れない。確信はないけど、でも間違いなく要素の一つであることは確かだ。
疲れはててしまったお姫様はとてもかわいそうだった。私は急いで川に連れて行って、美味しいお茶でおもてなしをしてあげた。
怖いこと、寂しいことがあると見せるその不安げな表情はどの時から変わっていない。
そんな顔よりも、笑顔の方がいいに決まっている。だから私はあのとき『また明日』という言葉を教えたのだ。
楽しかったよ。たどたどしい言葉でも、お互いの意志が通じ合うのは。
楽しかったよ。二人であちこちいって、身ぶり手振りでお互いを知るのは。
まぁ、お祭りの次の日にお盆休みに入って家族で出かけなきゃいけなかったのは不運だったけど。でもあの辺りに住んでいれば小学校は同じだろうと察しはしていた。
そうして迎えた新学期。伸びた髪の毛をお下げにしながら教室に座っていると、そのお姫様は私のクラスに現れた。
一人ぼっちで公園にうずくまっていた、あのときと同じ表情で。
私は思わず声をかけたさ。
でも、「おまえ」はキョトンとしていた。どうして覚えてくれなかったんだろうとがっかりもした。
今思えば子供の頃の記憶力なんて、まぁそんな物なのだろう。ましてや忘却の達人のユーリならば尚更だ。あんなに教えた言葉もすっかり忘れていて、何もかもがリセットされてしまっていた。
また、一人ぼっちになってしまったがために、寂しさに押しつぶされそうな自分を守るためだけに頭を使ったのだろう。
なら最初からやり直そう。まずは改めて友達になればいい。だから私はお前とずっと一緒にいることを目指した。
あの素敵なお姫様の一番近くに居たいから。誰よりも誰よりもお前のことを気にかけた。
私自身の、初恋を実らせるために。
そして、それは実った。今腕の中で幸せそうに眠っているユーリと言うお姫様が確かな証なのだ。
私の初恋を告げたとき、お姫様はどんな顔をするんだろうか。実を言うと、今から楽しみで仕方がない。本当なら今言いたいくらいだ。でも、それはもう少し。初恋の人から、『家族』になるときに私の全てを明かそう。
そうとも知らずに私の胸のなかで眠るお姫様を見つめながら、私は驚いた顔をする愛しいユーリを想像し、ゆっくりと睡魔の海に身を投じていった。
了