食べなくても、食べられる・R
一体どうしてこうなった。ユーリは柔らかいベッドの上に押し込まれた状態で、めったに使わない頭脳をフル回転させて思考した。
普段なら思考することを好まないユーリが、こうまでする理由。それは自分の唯一無二の友達であり、相棒であり、頭脳でもあり、家族であるチトが、目に涙を浮かべてユーリを押し倒していたからだ。
チトその黒い瞳に涙を浮かべ、ユーリの両手首をがっしりと掴み、まるでその場から逃がさないようにするが如く睨みつける。
普段ならまずしないチトの行為は、ユーリを混乱させた。いつものじゃれあいとも違う、彼女の切実な訴えが華奢な体に現れている。そんな彼女の気持ちをスルーするようなユーリではない。
「考えたことあるか……お前と私が一緒に居れる日が、あと何回あるのか」
チトは、ユーリの手首を強く握りしめて己の気持ちを投げかけた。
*
時は遡り、数時間前のことである。
―ッターンッ!―
火薬が炸裂し、弾頭が飛び出る音が周辺に響き渡る。撃ち出された弾頭は、百メートルほど先に置かれた空き缶を撃ち抜く。
「ヒット」
隣でチトが単眼境を覗きこみながら呟く。ユーリはボルトレバーを引いて廃莢。次弾を装填する。
「今日は調子いいなぁ」
「そうなのか」
「うん。撃ったときの手応えと命中したときの手応えがはっきりしてる」
ユーリは再び三八式を構え、発砲。銃声と気持ちいい金属の弾ける音。満足そうな笑みを浮かべて、再びボルトレバーを引く。
「私には分からないよ」
「下手だもんね」
「うるさいな」
ユーリはポケットに入れていた弾が無くなったことに気づき、ケッテンクラートに戻ってもう少し撃とうと、弾薬が入っている袋に手を伸ばす。が、中から一発だけ銃弾が転がる。あとはペラペラの紙切れだけが残ってしまった。
「ありゃ、一袋使いきっちゃった」
「最近よく撃っていたからな。そろそろ節約を考えろよ」
「自決用の弾は残しておくぜ」
「縁起でもないこと言うのやめろ」
「でもさー、どうせ残してもいつか使えなくなるんだからさ。それなら使いきっちゃった方が、銃弾も幸せなんじゃない?」
「弾がどうやったら幸せを感じるんだか」
「命を吹き込む」
「吹き込むのか」
「吹き込んだ方が楽しくない?」
「できたとして、名前とかどうするんだよ」
「えーっと、1号、2号とか?」
「百以上はあるって言うのに」
「まぁでも多い方が賑やかだよ」
ごん、とチトがケッテンクラートに足をかける。その動作が誤差の範囲で意図的に乱暴だったことに、ユーリが気づかない。
「……命を吹き込んでも、楽しくても、いずれ終わりが来るだろ」
そう言うとチトはケッテンクラートに乗り込む。もう行くぞ。彼女の背中からそんな声が聞こえた。
「終わりが来るにしても、それまでは楽しそうじゃん? おしゃべりしてー、遊んでー、ご飯食べてー……銃弾ってご飯食べるの?」
「……命が吹き込まれるなら、食べものが必要なんじゃないか?」
「何食べるんだろう。火薬? ちーちゃん、どこから食べると思う?」
「くだらないこと言ってないで早く乗れ。置いていくぞ」
「あん、冷たい」
ひょいと荷台に乗る。何気なくドラム缶をノックすると、音がよく響く。なるほどこれが中空構造と言うやつか。
「そろそろ燃料も減ってきたね」
「……ここのとこ見つかってないしな」
「お腹空いたなー。ご飯もあまりないしなー」
「早いところ見つけないと。あと何回見つけられるんだか」
チトがエンジンを始動させる。心地よい一定のリズムのエンジン音。例えるなら母親に抱かれているような居心地のよさ。ユーリは早速うとうと眠りへの船をこぎ始める。
「まぁ……なんとかなるよぉ」
うつらうつらと眠りこけるユーリ。お腹が空いたら寝るのが一番だ。
「……ほんと。あと何回――――」
だから、チトが運転席で言い放ったその言葉を聞くことはできなかった。
*
その後チトとユーリは猛烈な吹雪に見舞われていた。あのあと当てもなく車両を運転していたチトは、たまたま屋根のないエリアを見つけた。天気は悪くないし、あそこを突っ切れば建物が多いエリアにショートカットできるだろうとハンドルを切った。
しかし、まるで二人がそこへ来ることを待っていたかのように急激に鉛色の雲が空を覆い、可愛らしい雪がひらひらと舞い落ちる。
それはあっという間に凶悪な吹雪となり、チトとユーリを襲った。
「っっ、なんだよ、この吹雪……ユー、おいユー、まだ起きてるか?」
「お、起きてる……さっぶ……」
「くっそ、なんたってここに入ってきた瞬間に……」
チトは階層都市の屋根がある部分に戻ろうかと思ったが、視界が悪くてどちらに行けばいいのか検討がつかなくなっていた。
一瞬Uターンすることを考えたが、猛烈な吹雪はあっという間に履帯跡を消してしまい、ほんの少し見える範囲でしか自分たちの進路を確認することができなかった。
なら進むしかない。チトはハンドルを切らないように徹底し、ユーリを叩き起こして雪に刻まれる車両の履帯跡の監視を指示。進路がずれていないことを確認してもらい、確実に直進して目的地を目指すことにした。
(くそ……早く屋根のあるところに行かないと、私もユーも氷漬けだぞ)
凍りそうになっているまつげを鬱陶しく思いながらチトは頭を振り、思考を止めないよう自分に言い聞かせながらアクセルを捻る。
(このままだと……二人一緒に力尽き兼ねない……そうなったら、どうなるんだろう)
吹雪の音が耳を包み込む。あまりにもその音が大きいから、ケッテンクラートのエンジン音が聞こえなくなりそうだった。まったくうるさい。そうだ、他の事を考えよう。
チトは考える。命の危機は幾度となくあったが、その先は一体どうなっているのだろうか。痛いのかな? 怖いのかな? そんな考えがチトの中をぐるぐる回る。
死ぬ。死ぬってなんだろう。死後の世界ってなんだろう。神様が居るのかな。そうだな。寺院の神様の世界みたいな明るい場所に行けるのかもしれない。
暖かくて、植物がいっぱいあって、ご飯もあって、本もたくさんあるかもしれない。そうだ、きっと、きっとおじいさんも。
チトの世界が広がっていく。温かい。明るい。寺院みたいな世界だ。
(すごいきれい……そうだ、ユーも……)
チトはその時に気づいた。ユーリが居ない。今自分が居る温かい世界にユーリが居ない。そんな、なんで。
一人にしないで。ユー、ユーリどこ、どこにいるの?
―……ちゃん、ちー……―
ユー? どこ、ユー?
「ちーちゃん、ちーちゃん!」
「っ、ぁあ?」
チトが意識を戻すと、目の前に猛烈な吹雪の壁が立ちふさがっていた。今のは……夢?
「ちーちゃん、ちょっと、ねぇ起きてる? ち、い、ちゃん!」
吹雪の音に混じってユーリの声が耳に届く。ヘルメットを何回も、それも力強く叩かれるおまけ付きだ。それからすぐ、自分が眠りそうになっていたことに気づく。危なかった。ユーリが起こしてくれなかったらどうなっていたか。
しかし、その間にもユーリの拳の力強くなる。これ、半分楽しんでるな。そう思いながらチトは声をやや荒くしながら返事をする。
「なんだ! なんだよ」
「あそこ、ほら見える? 大きい建物!」
ユーリが指差す方向を見ると、吹雪の厚い壁の向こうに薄っすらと大きな建物が見えた。吹雪の中でも見える大きさということは、それなりに巨大で頑丈な建物であることは明白だ。チトは迷わずハンドルを切る。
「あそこに行こう、もう吹雪は懲り懲りだ」
「あーい」
建物に近づくとやはり頑丈そうな作りだった。見上げると窓枠の多くが頑丈そうな板で打ち付けられている。続いて根本を見ると、ポッカリと開いた大きな入り口。ケッテンクラートがまるごと入りそうな大きさだった。
チトはもうひと踏ん張りとアクセルを捻り、速度を上げる。外気温で少しばかり回転数が落ちたエンジンがここぞと唸りを上げる。そのおかげもあって、建物はあっという間に近づき、その中へと滑り込んだ。
「んあぁあ……ついたぁ」
ユーリがヘロヘロしながら荷台から降り立ち、地面に尻もちをつく。チトは運転席で肩の力を抜き、エンジンカバーの上に降り積もった雪を払いのけると、温かいその上に突っ伏す。
「大きい建物があってよかったね」
「ああ……あのままだと私もユーも氷漬けだよ」
「腐りはしなさそうだね」
「保存してどうするんだよ」
チトは固まりそうだった体を起こし、ケッテンクラートをもう少し奥に止め、エンジンを切る。吹雪が止むまでもう外には出られないだろう。いや、むしろ出ないほうがいいに決まっている。ひょうひょうと入り込む雪を見ながらチトは軽く息をつく。
「この建物を探索しよう。もう今日はここで寝るぞ」
「あーい」
*
「わぁい、お風呂だ、お湯だー!」
全裸になったユーリは、波々と湯船に蓄えられたお湯に飛び込む。ざばー、とユーリの体重分のお湯が溢れ出し、床に広がる。
「こら、もったいないだろ! 水は大事にしろ!」
ユーリより一歩遅れて浴室に入ったチトが声を上げるが、もうお湯は流れてしまっている。湯船にはそのまま溶けていきそうな表情で湯船に体を沈める相棒。まったく聞く耳もたずな奴だなとチトは口に出さず毒づいた。
「だって、寒かったしお湯たくさんあるし。最高じゃん」
当たり前でしょ。と言いたそうなユーリ。これはもうなに言っても無駄だなと判断したチトは、体に巻いていたタオルを外す。
二人が探索に入った建物は、もともと宿泊施設だったものを吹雪に耐えられるように改造したものらしく、窓は完全に密閉されて保温性は比較的によかった。
その後探索をすると、ボイラー室と少しの電源が生きていることが判明し、早速状態のいい部屋を探す。いくつかのドアを開けると、二人でもゆったり入れそうな大きな湯船を備えた部屋が見つかった。
祈る気持ちで蛇口を捻ると水が、そしてそれはお湯へと変わり、温かいお風呂が出来上がる。
そうなるとすることはただ一つ。湯船に入り、一刻も早くこの冷え切った体を温めることだ。
「お前が今無駄にした分の水で生死が決まるかもしれないんだぞ」
「でも持っていける水の量なんて決まってるじゃん」
「そうだけど、常に意識しないと別の場所で油断して痛い目見るぞ」
「はぁい」
チトがそっと右足を湯船に入れると、じわりと温かい刺激が足を包み込む。その感覚だけで思わず声を漏らしてしまう。
「んっ、はぁぁっ……」
そのまま左足を入れ、腰をゆっくり落とす。人肌よりもほのかに温かいお湯はゆっくりとチトの体を抱きしめる。肩まだ浸かる頃になると、チトの顔はすっかり蕩けていた。
「あっ、ん、ぁああ、はっ、ぁああああ……」
この心地よさ、声と吐息が我慢できずに漏れる。一瞬だらしないかなと思ったが、湯船の暖かさに包まれてしまったら誰だってこうなるだろうと結論づけ、考えないことにした。
「ちーちゃん顔がとろとろしてるよ」
「気持ちいいからな、そりゃ……」
「んー、いい顔」
むにむに、とユーリはチトの頬を突く。いつもならさっさとやめさせるチトであるが、今回ばかりはすべてがどうでもよく、されるがままであった。
「なんていうかさー。こういう場所見つけるとやっぱり住みたいって思っちゃうよね」
「食料はすぐなくなるからできないけど」
「でも水なら出るよね」
「いつまで出てくれるかわからないけどな」
「ここの場所覚えて、ご飯探しに行って、何日かに一回帰ってくる、とかはどう?」
「それでも限界はあるだろ。それに私達は上に行けって言われてるんだし。ここに住むことはできないよ」
「上、ねぇ」
と、ユーリは上を見上げる。上と言っても白い天井があるだけだから何もないのだが、湯気で集まった水滴がじっと二人のことを見下ろしていた。
「でもさー、そもそも上に辿り着く前に食料も燃料もなくなるかもしれないんじゃない?」
「それは……そうだけど……でも、動き続けたほうが食料や水が見つかるかもしれないだろ。じっとしていたら、死ぬのを待つだけだよ」
「そっかー。やっぱり動いたほうがいいかー」
「そうだよ」
「まぁ、ちーちゃんと一緒なら多分大丈夫だよ」
「その自信はどこから来るんだか」
「ちーちゃんから来ると思う」
「……そうか」
ユーリの言葉に、チトの心はほんの少し揺れる。チトは思った。確かに、一人じゃできないようなことは、二人ならなんとかなる。今まで二人一緒だからこそ乗り越えた事は多々あった。だからこれからも大丈夫だ。
(二人なら……な)
ぽちゃん、と天井にたまった水滴が落ちてくる。締め切っているから吹雪の音も聞こえてこず、とても静かだった。油断するとこのまま眠ってしまうに違いない。だがまぁ、うとうとするくらいはいいだろう。二人は何をするでも、何か話をするでもなく、冷えきった体を温める事に専念し続けた。
*
「ちーちゃん。これ、見た目やばいね」
「ああ……やばい」
二人が見つめるそれは、ガラス容器に入った液体だった。一体何がやばいのかと言うと、何よりもその色である。おどろおどろしい、赤黒い色をしているのだ。
事の発端は、お風呂から上がったあと、ご飯を食べようとチトがリュックを探っていたときだった。いつもならユーリが後ろでせがみに来るのだが、それがない。ふと気になってユーリをみてみると、何やら箱を覗き込んでいた。
「ユー? 何してんだ?」
「いや、この中になにか入ってるなーと思って」
そう言われ、チトもその箱を覗き込んで見る。ガラス張りで何やら機械が動く音が聞こえる。その中に何やら容器のようなものが見えた。
「飲み物かな。これも多分保存するため箱だと思う」
「開けてみよっか」
ユーリが箱を開けると、中にはガラス容器が二つ。取り出してみると未開封のようで、栓のところにはラベルが貼られたままだった。
「なんだろうこれ。なんか『びう』と少し雰囲気似てる気がする」
「見たことないな。ちょっと開けてみようか」
びうの栓とは違う柔らかいタイプの栓を少し苦戦しながらも、二人は開封に成功する。匂いを嗅いでみると、どうやら腐っている様子はなく、むしろ嗅いだことのない心地よい匂いがした。
「ガラスの容器に入れてみようよ」
ユーリはびう、で見た黄金の水を期待してチトを急かす。おそらくそう言うだろうと思っていたチトは、容器を取り出してユーリに手渡すと、ボトルを傾けた。
「うっわ」
「えぇ……」
そうして、出てきた飲み物の色に二人は唖然としたのである。
「これさ、人間の血だったりしないよね」
「いやそれはないだろ。人間の血は こんなに黒くはないし、匂いも違う」
「なんの飲み物なんだろうね」
「一応、裏見たらぶどうって食べ物が使われてるらしいけど」
「なにそれ」
「大昔の果物っていう食べ物の一種だよ。甘いんだって」
「それがこれに入ってるの?」
「書いてるからたぶん」
ユーリはチトから視線を容器に下ろし、ほんの少しだけぺろりと舐めてみる。
「……お。いける」
「いけるのか」
「不思議な味。びうとぜんぜん違う。でも面白いかも」
飲む? とグラスを差し出すユーリ。チトはまだ少し抵抗はあったが、容器を受け取ってちろり、と小さな舌を伸ばす。
「……ほんとだ。いける。香りとか、なんかこう、すごい長い年月をかけたような、そんな感じ?」
「よくわかんないけど、でもまぁ美味しいからいいよね。飲もう飲もう」
ユーリはカップを取り出し、もう一杯を注ぎ込んでチトに渡す。それで宿りの場所を見つけた事に乾杯。しっかりした天井や壁がある建物なんていつぶりだろうか。
おまけに二人の視線の先には大きなベッドがある。風呂にベッド、そして飲み物。まさに至れり尽くせりな部屋と来れば少しばかりハイになるのも無理なかった。今夜はたっぷり疲れを癒そうと、食事にありつく。
「んー、うまい。癖になるね」
「レーションと妙に合うな。気を付けないと手が止まらなくなる」
未知の飲み物、『わいん』の味をしめた二人はするするとそれを口に運ぶ。飲めば飲むほど体がぽかぽかしてきて気持ちがいい。吹雪に襲われ、疲労と空腹で満たされた二人の体は、その未知の飲み物を必死に求めた。
結果、ユーリの思う『月の魔力』がチトを支配するのに、さほど時間は必要なかった。
*
「んっ、んっ……ぷはぁ、美味しい。いくらでも飲めるね」
ユーリは満足げな顔でもう一杯を注ごうとボトルを傾ける。しかしちょろちょろとほんの少しだけ容器に注がれただけ終わってしまう。あれだけ入っていたボトルはすっかり空になって軽くなっていた。それも二本目。
「あーあ、無くなっちゃったね。もうちょっと飲みたかったなー」
「ああ」
「あと何回こんな事できるんだろう。またこんなの見つかるといいね」
「……そうだな」
チトは残っていた最後の一杯を一機に飲み干し、机の上にカップを置くとそのまま立ち上がってベッドに倒れ込む。何気なくその後姿を見ていたユーリだったが、少し気になって自分の分を飲み干し、チトの後に続く。
「ちーちゃん? どしたの?」
うつ伏せになっているチトの顔をユーリは覗き込む。チトはちらりとユーリの顔を見て、布団に声を埋めながら言った。
「……お前の言うとおりなんだよ」
「何が?」
「あと何回できるか、わからないんだよ」
ぬるり、とチトが上体を起こす。その表情は 前髪に隠れて伺えない。
「あと何回お風呂に入れるか。あと何回こんな風に屋根や壁のある場所で眠れるか」
その声が徐々に震えてくるのをユーリは聞き逃さなかった。チトはなにかに苦しんでる。そのなにかを今吐き出しているのだ。
「水も、ご飯も燃料も、あと何回手に入るのか」
チトは顔を上げる。その目元には涙が浮かべて。
「私達が、あと何回一緒に居れるのかも、わかんないんだよ!」
直後、ユーリは肩を掴まれ、ひっくり返される。不意を突かれたユーリは何が起きたか理解できず、思わず目を閉じる。しばらくしてから目を開けると、眼の前いっぱいにチトの顔が広がっていて、その両手首はがっしりと掴まれていた。そこまで確認して、自分はチトに押し倒されているのだと理解できた。
普段ならまずしないチトの行為は、ユーリを混乱させた。いつものじゃれあいとも違う、彼女の切実な訴えが華奢な体に現れている。そんな彼女の気持ちをスルーするほど、ユーリは思考をやめる人間ではなかった。
「考えたことあるか……お前と私が一緒に眠れる日が、あと何回あるのか」
チトは、ユーリの手首を強く握りしめて己の気持ちを投げかけた。
「当たり前のように私達は毎日を過ごしているよな。移動して、ご飯食べて水飲んで。でも、それっていつか終わるかもしれないものだって、ユーは気づいてるのか?」
チトの涙がユーリの頬に落ちる。それは少しだけ暖かくて、そして悲しかった。
「食料も、水も、どんどん無くなってる。もしかしたらもう手に入らないかもしれない。移動するための燃料だって、銃弾だって。なぁ、私達が旅に出た時、今よりもっとたくさんの荷物を積んでいたよな。あれ今どれくらい残ってる?」
ぽた、ぽたと涙がユーリに降り注ぐ。
「ほとんど……無くなってるよな。そうやって私達は毎日毎日、少しずつ何かを失っているんだ。お前は気づいていないだろうけど……私達だっていつか……いつか、お互いを失うかもしれないんだぞ……!」
チトの声がいっそう荒くなる。彼女が一番に抱いていた不安がその一言に込められていた。
「賑やかだと楽しいってお前は言って、確かにそうかもと思った。カナザワやイシイと居たのも少し賑やかで楽しかったよ。でもな、終わりは必ずやって来るんだ。明日にも、ユーリが、私が、離ればなれになってしまうかもしれない……お前はそれをわかってるのか?」
歯を食い縛りながらチトはユーリを見下ろす。その姿を見てユーリはようやく一つの理解をすることができた。
「……ちーちゃん、怖いの?」
「そうだよ!」
首を振りながら、チトは全身でその感情を訴えた。
「何度も私たちは危ない目に遭ってきた。今まで生き残ってこれたのは、運が良かっただけなんだ。だから明日にでも死んじゃうかもしれない。離ればなれになるかもしれない。お前はそういうことを少しでも考えたことあるのか? もし私が先に死んだりしたらって、お前は考えたことがあるのかよ!」
彼女の悲痛な叫びは部屋に響き渡り、壁に数回ほど跳ね返って溶けていく。ぎり、と歯を食い縛り、ほんの少しだけ残った理性で嗚咽をこらえようとするチト。そんな彼女を見つめながら、ユーリはもし明日チトが居なくなってしまったら? と考えてみる。隣に誰も居ない朝。自分で運転する車両。返事のない会話。たしかに、寂しいなと思った。
だが。それを現実的に捉えることはユーリにはできなかった。自分のした想像は想像にすぎず、フィクションである。それが本当になるかならないか、なったところでどうなるのか、考えたところでユーリは「わからない」と答えるしかなかった。
しかし。ユーリは考えることが難しくても応用は利く人間であった。おそらく自分が唯一経験した孤独、ランタンが消えて、真っ暗になったあの寺院。チトに呼びかけてきても返事が来なかったあの瞬間。
ユーリは無意識の内に口にしていた。『私、どうなるんだろう』と。そうか、これがそうなのか。自分があの時口にした疑問。それこそチトの抱いている不安に近いものだったのだ。
しかも、その不安は自分が感じたものよりも長く、重いものに違いない。あのチトがここまで感情を露わにするのは初めて見たと言っても過言ではないからだ。
ユーリは考える。どうすればチトが落ち着くか。どうすれば安心するか。果たして自分の頭でそれが思いつくかどうかわからなかったが、やるしかないのだ。
そして、ユーリは一つの結論にたどり着く。
「ごめんね、ちーちゃん。もし、離ればなれになったら、って聞かれても、今の私にはどうなるかわからないんだ。でも」
ユーリはできるだけ、自分が出せる一番やさしい声で呼びかける。チトの表情が少しだけ柔らかくなり、手首を掴む力が弱くなった。その瞬間ユーリは左手を抜き、そっとチトの頬に手を置く。
「大丈夫だよ」
その一言で、チトの表情がみるみる変わっていった。よし、届いている。私の言葉は届いている。ユーリは本能的に察知する。チトは、大丈夫と言ってほしいのだ。もう一押しが欲しい。こういう時どうすれば?
その時ユーリはチトの言葉を思い出す。『頭が足りないやつは体を動かすんだよ』。そうだ、これだ。
ユーリは上体を起こし、顔をぐっと近づける。不安に満ちた黒い瞳に、自分の姿が写っている。よし、笑おう。瞳の中のユーリがニッコリと笑みを浮かべるのを確認して、そっと小さい体を抱きしめた。
「私はちーちゃんから離れたりしないよ」
ぽんぽんと、ユーリはチトの頭を撫でる。抱きしめてみてユーリは驚いた。チトの体が、自分が想像していたよりもずっとずっと小さかったのだ。
思えば、薄着でチトの体を抱きしめたことが無かった。コート越しに抱き合ったり、くっついて眠ったことは多々あったが、素肌に近い体でこうしたことはなかった。
(ちーちゃん、こんなに小さかったんだ。こんなに小さいのに、怖いことずっと自分で考えてたんだ。すごいなぁ)
ユーリは慰める一方で感心もする。相当辛かったに違いない。
「嘘だ……お前は、いつも何も考えないで、食べ物のことばかりで……どうせ、私より食べ物のほうが大事なんだろ」
ユーリの首筋に顔を埋め、チトは噛みしめるように言う。なかなか痛いことを言われた。しかし、ユーリはいくらなんでもそこまで薄情な人間ではない。
「そんなことないよ。私はいつだってちーちゃんが一番だよ」
「うそだ、しんじないぞ……」
ぎゅう、とチトはユーリの服の裾を強く掴む。どうしよう、少しいじけてしまっている。ユーリはより一層チトを強く抱きしめる。両手をチトの腰に回し、強く、ずっとずっと強く抱きしめる。
「私はね、ちーちゃんが本当に一番だよ。ほら、覚えてる? 神様のところで真っ暗になった時、ちーちゃん返事しなかったでしょ? あの時私、すごく怖かったんだ。今ならはっきりわかるよ。私はちーちゃんが一番大事で、大好きなんだって」
ユーリの喉から、不思議と言葉が溢れてくる。そのすべてが自分の伝えたい紛れもない本音。彼女に届けたい。その気持ちがユーリを後押しする。
「だからさ。そんな事言わないでよ。私はちーちゃんが一番大事だし、絶対ちーちゃんから離れたり、居なくなったりしないよ」
ユーリはチトの手をそっと握り、指を絡める。自分の気持ちが本物であると伝える。
「……ほんと?」
「うん。ほんと」
チトがゆっくりとユーリから離れ、顔を向ける。目がまた少し潤んでいたが、これは不安のための物ではない理解できた。きっと嬉しいのだ。自分の言葉はチトにしっかり届いて、彼女は安心しきったのだ。今のユーリは、チトの気持ちが手に取るようにわかる。
「……じゃあ。私に、勇気をちょうだい」
「え?」
だが。知識の乏しいユーリでは、その後の行動までは予測できなかった。
チトの顔が、すっと近づいて柔らかい何かが唇に触れた。ユーリはそれがなんなのか理解できなかった。それは知識が足りない故の誤算であった。
す、とチトが離れる。少しだけ湿っている、自分の唇に指を当てる。柔らかくて、温かくて、壊れそうな何かが自分の唇に触れた。ユーリはそれがなんなのか理解に時間がかかる。だが、顔が少しだけ遠くなったチトの唇が動いているのを見て、自分が何をされたのかようやく理解した。
「ちー、ちゃん?」
自分が何をされたのか、それがどういう行為なのかユーリは知らないに等しかった。だが、自分の体がさっきよりも火照っていて、ぞくぞくと体が不思議な感覚を訴えてる。
「ユーと……もっと近くに、居たい」
とろりとした目でチトはそう言う。甘えたい。そこにいてほしい。そう訴えかけるような彼女の瞳は、ユーリの心臓の脈拍を一気に上昇させる。
「どう、そればいいの?」
ユーリは緊張しながら返事をする。緊張? 自分が? こんな気持ちは初めてだ。チトの唇が自分の唇に触れてから、自分の体がおかしくなってしまった。
でもどういうわけか、嫌ではない。今はひたすらに喉が乾くような、唇が寂しいような、そんな感覚がユーリを包んでいる。その視線は、無意識の内にチトの唇を追いかけてしまう。
「わかってるだろ?」
見透かされた。チトは艶のある笑みを浮かべる。胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられる。苦しい気がして大きく息を吐く。吐きすぎて苦しいので、もう一度吸い込む。吐き出す、その繰り返し。
どっどっどっ、と自身の心臓ががなり立てていることに気がつく。いけ。わかっているんだろう。そう、誰かに言われた気がした。
ユーリはチトの両頬に手を置く。ふわりとしたチトの頬は、自分と同じく火照りを持っていてとても温かかった。
故に、そんなチトの表情をこう表現した。
「……ちーちゃん、おいしそう」
「たべていいよ」
その言葉が耳に届いた直後、ユーリはなりふり構っていられなくなった。今度は自らチトの唇を塞ぎ、もう一度体がおかしくなるあの感覚を求めにいく。そうだ、これだ。さっき自分に押し付けられた、小さくて柔らかくて温かくて、今にも壊れてしまいそうなもの。
その繊細さがとてつもなくほしかった。ユーリはまだこの気持ちを「愛しい」と表現することはできない。ただほしい、自分の側にほしい。それだけだ。
チトの唇をもっと味わいたくて、自分の顔を強く押し付ける。こつん、と歯がぶつかってしまい、一度離れようとしたが、チトの両手がユーリの頭を押さえつけ、離れないようにする。
チトがじぶんを求めている。この行動はユーリの理性を破壊し始めた。本能で生きてきたつもりだった自分が、我を見失いつつある感覚をユーリは初めて経験した。このまま壊れていったらどうなるのだろうと不安がほんの少し募る。
だがそれ以上に、壊れてしまいたいと言う好奇心が勝っていた。背徳感と言うものだろうか。だが、ユーリにはその気持ちを表現する語彙は存在しない。
『頭が足りないやつは体を動かすんだよ』
そうだよね、ちーちゃん。言えないなら、こうすればいいんだよね。ユーリはチトの唇をむさぼる。何度も口を開き、自分の唇でチトの唇を挟もうとする。だが足りない。全然足りない。もっともっと、もっとほしい。
ユーリはチトにもっと近づきたかった。いや、ひとつになりたかった。どうすればいいのかわからない。いや、考えない、もういい。自分ができることをすべて彼女に押し付けてしまえ。
その時、チトの唇がふっ、と開く。ユーリの体が叫ぶ。「いまだ」と。
ユーリは舌を伸ばし、チトのなかに自分のそれを押し込んだ。小さな歯を抜け、その先はぬるぬると唾液で湿っていて、そこでチトの舌は待っていた。
ユーリのそれが入ってくるのと同時に、チトは自身の舌をくねらせ、まるで誘うかのように振る舞う。うごめくチトのそれを、ユーリの舌が押さえつけ、からめとり、それを味わおうと自分の顔をさらに押し込む
「ん、ふっんむっ、ちー、ひゃ……」
思わず、舌を入れながらチトの名を呼んでしまう。自分の口の中が唾液でいっぱいになっていることにユーリは気づく。どうしたらいいんだろう。そう思っていた矢先、チトの舌がユーリの唇をこじ開け、侵入してくる。
「むっ、んっぐ!?」
驚いたユーリだったが、チトは構わず舌を這わせ、ユーリの中に溜まった唾液を一つ残らず舐め取っていく。その小刻みな動きが、ねっとりと動くチトのそれが、ユーリの体を更に火照らせ、脳を溶かしていく。
その瞬間を待っていたかのように、チトは少しばかり身を乗り出し、口づけをしたまま唇を少し開く。チトの舌伝いに、温かいものが流れてくる。チトが自分の唾液をユーリの中に流しこんでいるのだ。
(あまい……なに、これ……)
あの砂糖をまぶしたお手製のレーションよりも甘かった。美味しい。甘い。もっと、ちょうだい。ユーリはねだるように、舌をくねらせる。
もっと欲しい。もっとちょうだい。おねがい、ちーちゃん。
しかし。ユーリの願いとは反対に、チトは唇を離してしまう。混ざりあった二人の唾液が糸を引いて、ぷつりと切れる。
「ちーちゃん……」
もう一度して。してよ。私じゃわからないよ。ユーリは目でそう訴えかける。
「なぁに?」
チトは意地悪な笑みを浮かべる。まるで、戸惑っているユーリの反応を楽しむかのように。
「どうした、ん?」
「ひあっ……!?」
チトはユーリの耳元で囁く。ぞわぞわと空気が触れて、チトの声がいっそう近くてユーリの体が緊張する。ずるい、こんなの。ちーちゃんばかりなんで知ってるの。
ずるい。
ずるい。
ずるい!!
ユーリはチトをそのまま押し倒した。体格と力ではユーリのほうが上だから、チトは簡単にベッドに押し込まれる。
だが、その目に抵抗の意志はない。むしろ、その蕩けた目は自分の企みが成功したのを喜ぶようであった。
ようであった。が、そんなチトの表情の変化に気づけるほど、今のユーリに余裕はなかった。
「ちーちゃん、ずるいよ」
ユーリはチトがそうしたように、チトの耳元で囁く。びく、と体が少し跳ねる。そうだ、チトがさっきしたことを、こっちで仕返してやろう。
ちろり、とユーリはチトの耳たぶを舐める。チトが甘い悲鳴をあげる。そうだ、こうしてやればいい。ユーリはたっぷりと舌を湿らせてチトの耳をなぶる。
「っ、んっ、ゆっ、ゆー……!」
ふるふるとチトが震え、ユーリの手を握りしめる。ユーリもそれを強く握り返す。もっと私と近づきたい? わたしはここにいるよ。ほら、聞こえる? ユーリは自らの舌をチトの耳の中に入れる。
「っあ、ひっ……んんん!!」
甘い声を出すチトの表情を見たくなったユーリは、顔を上げてチトの表情を見る。息を荒くし、顔を真っ赤にしたチトが薄目でユーリを見つめている。その姿に思わず体が跳ねる。
「……ゆー。きて」
チトが手を伸ばす。ユーリはそれを受け入れて、チトを再び抱きしめる。思い切り息を吸い込むと、ユーリの鼻孔をチトの香りが突く。いい匂い。安心する匂い。大切な人の存在証明。
ユーリはチトの髪の毛に鼻を押し付けて精一杯吸い込む。チトの匂いがいっそう近くなる。湯船に包まれたときよりも、ずっとずっと安心するそれはたまらなく気持ちよかった。
「ユー……」
「ちーちゃん……」
「ユーリ……」
「ちーちゃんっ……」
耳元を行き交う互いの名前。ユーリはチトの顔が見たくて体を起こす。嬉しそうな笑みを浮かべ、その目尻には涙が浮かんでいる。それは寂しさか、嬉しさか。だが、ユーリはその涙を指で拭き取り、顔を寄せる。
「ちーちゃん。ずっと、一緒だよ」
「やくそく……だぞ」
微笑むチト。彼女の不安げな体の強張りは消えていた。ユーリはその首筋に指をそっと這わせ、溶けてしまいそうなチトの吐息を唇で感じ、そのままもう一度唇を重ねた。
*
「あ、たま、が……」
翌朝。布団の中でチトは強烈な頭痛に襲われて目を覚ました。昨日の飲み物を飲んでからの記憶がない。びうを飲んだときよりも圧倒的で強烈な頭痛は、ベッドから動けないほどだった。
「っっ、あぁあー……ユー、ユー居るか?」
「んん……なぁに、ちーちゃん」
もぞもぞと隣でユーリが体を動かす音。よかった、隣にいたか。チトはひと安心して、昨日何が起きたのかを聞いてみる。
「あたまが、すごく痛い……私昨日何してた?」
しばしぼんやりとしていたユーリだったが、少しして意識がはっきりしたのか、目を擦って「なにも覚えてないんだ」と言いたそうな顔になり、実際その通りの言葉を口にした。
「ちーちゃんなにも覚えてないんだ」
「え、なに。私なんかしたの?」
「あー、えーっと」
なんて説明しよう。そんなユーリの表情を見ていると、ユーリの首筋になにかの痕があることにチトは気がつく。
「ユー、首のそれどうした? なんか赤いぞ」
「え。これちーちゃんがやったんだよ」
「私が?」
「まぁ、私もしたんだけど」
一体なんのことだ。私がして、ユーリもした? チトはふと自分の体を見てみる。おかしい、来ていたシャツを着ていない。全裸だ。というか、なんだこれ!?
「え、な、なにこれ。何で私の体に赤い痕が!?」
「えーっとそれは」
説明しようとするユーリをよそに、チトの脳内はパニックに包まれていく。まさかあの飲み物のせいでこんな模様ができてしまったのだろうか。まずい、病気になったかもしれない。しかも身体中にこの痕はある。全身やられてしまったのかもしれない。
「ヤバイぞユーリ、あの飲み物でなにか病気になったかもしれないぞ! 体に異常は、どこか調子悪いところは!」
と聞いて、チトははっとする。今自分が襲われている強烈な頭痛。まさかこの原因があの赤黒い飲み物のせいなのか? だとしたらこの先自分はどうなるんだ?
「あ、ああ……まずい、まずい……どうしたら……!」
「あのー、ちーちゃん」
「のんきしてる場合じゃないぞユーリ、急いで治療法を探さないと!」
「いや、だからちーちゃんこの赤い痕は」
「もたもたするな、早く!」
だーめだこりゃ。ユーリはチトが聞く耳持たなくなっていることを察する。ではやり方を変えよう。その日のユーリは少し冴えていた。
「ちーちゃん、私治療法知ってるよ」
「なっ……そんな、お前が知ってるのか?」
「うん。まず私に向かい合って」
ぽんぽん、とユーリはこちらに来るように促す。チトは半信半疑だったが、やたら落ち着いてるユーリの表情を見て、信じてみようと座る。
「じゃあ目を閉じて」
「な、なにするんだよ」
「いーから。ね?」
「……ん」
渋々チトは目を閉じる。次は一体どうすればいいんだ。そう聞こうと思った瞬間、チトの唇をなにかが塞いだ。
「んんっ??!」
思わずチトは目を見開く。目の前いっぱいにユーリの顔。なんで、なんで、お前何してるんだ!? チトがそう叫ぼうとしたら、口のなかにぬろりとしたものが入り込む。なんで、なんでなんで!!?
チトの理解が追い付かないまま、ユーリはチトの口の中で舌を暴れさせる。昨日チトがそうしたように、ねっとりと、彼女の口のなかを支配していくように、自分の唾液を注ぎ込む。
チトはその動作を受けて驚愕した。これは、自分の想いがユーリと繋がった時にしようと、彼女が寝ている間にこっそりと練習していた秘密の技。結局その練習は、やはり踏ん切りがつかないと諦め、墓場まで持っていこうと決意したはず。
なのになんでこいつがこれを知っている? ていうか、ユーリの唇の感触が明らかに初めてな気がしない。その瞬間、フラッシュバックする記憶。
自らユーリの唇を求める自分。自分の唇を塞ぐユーリ。抱き合い、求めあい、お互いの存在を確かめあうために寄せ合った体。この行為は初めてではないと体が物語っている。まさか、まさか!?
ユーリがそっと離れる。チトは湿りきった自分の唇を押さえ、わなわなと震える。跳ねる心臓。それは緊張だけではなく、昂ぶりも薄っすらと混じっていた。
「そ、んな……まさ、か?? うそ、え、え……あああああ!!」
チトの顔がゆでダコのように真っ赤になる。響く絶叫と絶叫。顔を押さえてチトはベッドを転がり回る。うほー、うける。ユーリはそんなチトを見て、ひとまず病気ではないことを伝えることに成功した(というか忘れさせられた)ので安堵する。
「ほら、病気じゃないでしょ? これちーちゃんが私に付けたんだよ」
「ああああーーーー! 殺せ、いっそ殺せぇ!!」
チトはうつ伏せて絶叫する。
「死んだら私が寂しいんだけどなぁ」
「じゃあお前を殺して私も死ぬ!」
「それはそれで困るよ。まぁ死ぬなら二人一緒がいいとは思うけど」
「私のバカァ! あー、あーーーー!! うーあぁあああ!!!」
耳まで真っ赤になったチトは、これでもかと声を上げる。あまりうるさすぎてもあれだと思っているのか、声はベッドに押し込んで、最小限にとどめている。
そろそろ止めないと、ちーちゃんの喉壊れちゃいそう。そう思ったユーリは、チトの背中に伸し掛かると、ぺろりと耳たぶを舐める。
「うひゃぁ!? ゆ、ユーリお前何して――――!?」
チトが抗議のために体を向けたのを狙って、ユーリはチトの手首を掴んでベッドに押し込む。昨日と逆の立場だった。
「ちーちゃん。私は絶対に離れたりしないからね」
ユーリのその笑顔は、チトが今まで見たことないような優しい笑みだった。どきりと跳ね上がる心臓。緊張とは違う胸の鼓動。チトは自覚させられる。
私は、ユーリに、本気で落とされた。
くしゃりとユーリが髪の毛を撫でる。美しい指がうなじに触れる。喉が乾く。唇がふっと開く。それはユーリにだけわかる、チトの「おねだり」の合図。だからユーリは何も臆することなく、もう一度、その小さな小さな唇に、自分のすべての気持ちをそっと重ねた。
了