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それからしばらく経ち、島についたフェリーのタラップを下りながら、藤次は感嘆のため息をついた。
「ここが大欄島か…… すごいなぁ……」
透き通る海と長閑な自然、美しさと雄大さを兼ね備えた光景が、次々と彼の視界に飛び込んで来たからだ。そして何より、東京住まいの藤次にとっては、空気そのものが澄んでいるように感じられ、胸いっぱいに息を吸いこんだ。
鳥の鳴き声もどこかからか聞こえてくる。その音にも耳を澄ませながら、藤次はこの光景を親友と共有できないことを心底残念だと思った。
「あいつも、来られれば良かったのにな…… でも、過ぎたことを言ってもしょうがないか」
僅かに顔を曇らせながらも、その言葉と共に気持ちを切り替えると、藤次はあたりに視界を巡らせる。フェリーから降りた観光客が、彼と同じように島の自然に感嘆の声を上げながら、写真を撮っていた。
その中には、藤次がぶつかってしまった女性の姿もある。
しかし
「あれ? 時実さんが見当たらないな……」
その中に時実の姿が無く、彼は小さく首を傾げてしまう。
「まあ、僕が周りを気にしているうちに、どっかに行っちゃったのかな。何だか、仕事の話がどうのって言ってたし」
藤次はそのように納得をして、自身の観光へと乗り出すために一歩足を踏み出した。
「ホテルに荷物を置いて、この島の神社にでも行ってみようか」
大欄島のマップをスマートフォンに表示しながら、何処かいい写真が取れそうな場所を探していた藤次は、その中で見つけた神社の地図記号を見つけ、行き先を決定する。
メインとなるような観光地は他にあるが、初日は地元の街並みや生活に溶け込んだ風景を楽しみながら、地形の把握に努めると決めていた。別に観光名所に行くだけが観光地の楽しみ方ではないからだ。
心の底からそう思っている藤次でさえ、フェリーの中で出会った時実が言っていたようなキャバクラに一人で行く勇気は流石に無い。
そこまで考えて、彼は思考の中から失礼な男の影を締め出すべく小さく頭を振ると、ホテルに向けてまっすぐ進んでいった。
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大欄島某所。
薄暗い部屋の中で、二つの影が言葉を交わしていた。その内の一人は、藤次がフェリーで顔を合わせていた時実その人だ。そして彼は、もう一つの影へと向けて、いつものようにどこか人を食ったような態度で言葉を紡いだ。
「じゃあ、時間もないしとっとと仕事を始めようか。時は金なりってね」
「社長、仕事の話ですからもう少し真面目に話を進めることは出来ないのですか」
神経質そうな女性の声が響き、その凛とした声色が部屋の空気を張りつめさせる。だが、そんなことは知らぬとばかりに、時実はその態度を崩さない。
「まあまあ、落ち着きなよアイリス。こればっかりは性分なんだし、どうしようもないよ。それに、何のためにお兄さん、そしてなにより君がここに足を運んだと思ってるの? もう少し落ち着かないと、愛しの彼の為のお仕事が台無しになっちゃうよ」
「っ! 失礼しました、以後気を付けます」
アイリスと呼ばれた女性は苛立たし気に唇を噛みながら、それでも反論することなくそんな言葉を紡いだ。そんなつれない反応に、時実は退屈そうにため息をつきながらぼそりと呟いた。
「あーあ、つまらないなぁ…… そんなだから愛しの彼が振り向いてくれないんだよ。ここで言い返せるぐらいの度量と度胸が無いんじゃ、そもそも目は無いのかもね。これじゃあ、フェリーで出会った少年の方がよっぽどマシってものさ」
その言葉を聞いたアイリスはキッと時実の事を睨みつけた。
だが、次の瞬間
「何?」
彼の身体から発せられた圧倒的なプレッシャーに、彼女の勢いがすさまじい速度で削がれていく。それどころか、呼吸の仕方も忘れてしまったかのように、口をパクパクと動かしながら、全身の汗腺から冷や汗を垂れ流し始めた。
その様相を見て、本当につまらなさそうにため息をついてから、時実はニコリと笑ってアイリスへと語り掛ける。
「そんなに怖がらなくていいよ。お兄さんがこんなことで本気で怒るわけないじゃないか。ジョークだよジョーク。ほら、これで汗を拭くと良い」
そう言って時実はハンカチを差し出すが、アイリスはそれを受け取ることなく、荒い呼吸を落ち着かせてから言葉を紡いだ。
「結構です…… それより、早く仕事の概要を確認させていただきたいのですが、よろしいですね」
「うーん…… まあいいよ。じゃあ、作戦概要の確認から、ね?」
不穏な思惑が、ゆるりと真夏の観光地を包み込もうとしていた。
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何も知らない、知りえるべきでは無かった少年は、ホテルの部屋につくのと同時に猛烈な眩暈に襲われた。長旅のせいで体調を崩してしまったのだろうか、と藤次は思ったがそれもすぐに収まったので、首を傾げながらホテルからしばらく歩いた先の神社へと歩みを進める。
先ほどの眩暈が嘘のような足の軽さに、彼は自分が少し疲れていたからああなっただけだろうと思い、あたりの自然や建物に視線を巡らせながら神社へと踏み込んだ。
神社の中はセミの鳴き声があたりに鳴り響いているが、木々に囲まれているおかげで夏の日差しが和らぎ、清涼な空間が出来上がっていた。そして、木漏れ日が僅かに差し込んでいる光景はある種幻想的ですらあり、セミの鳴き声に交じって聞こえる潮騒の音が藤次の心を穏やかな気持ちへと誘っていく。
「なんというか、神聖な空気っていうのを感じるな…… ここでも一枚、写真を撮っておこうかな」
そう呟いて、藤次はスマートフォンを取り出すと、その光景を写真に収める。
「あ、そうだ。そろそろ撮った写真をあいつに送ろうかな。あいつも来たがってたわけだし」
そう言うと、彼はスマートフォンからSNSを用いて今まで撮った写真を送り、『神社なう』というメッセージも合わせて送った。すると間もなくして、返信が返ってくる。
「え、返信はっや。あいつにしては珍しい」
目を丸くしながらそんな言葉を紡ぎ、藤次はその内容に目を通した。
「えっと何々…… 受験戦争に負けないように、お供え物を備えて神様にお祈りをささげていくと良い……? 余計なお世話だよ、あの野郎」
顔に苦笑を滲ませながらそんな言葉を紡ぐと、彼は何かを探るようにごそごそと鞄の中を漁り始めた。そして飴玉を一つ取り出すと、それを眺める。
「さすがにこれはまずいよな…… 神社のお供えって、基本的に野菜のイメージがあるし……」
先ほどの言葉とは裏腹に、しっかりとお祈りとお供えをしていく気はあるようで、藤次は悩まし気な表情になった。そのことについて、SNS越しに彼が友人に相談を送ったところ、『どんな神様でも、基本的にはお供え物が無いよりはあった方が嬉しいものだから、へーきへーき』と返信が帰ってくる。
「それは、そう、なのかな……?」
少しばかり疑わし気に首を傾げる藤次だったが、意を決したように顔を引き締めると、飴玉をお供えとして供えて彼は両手を合わせた。
「受験戦争に勝ち残れますように」
そんな彼の背後から、老女の声が響いた。
「あら、若い子が珍しいねぇ」
その声に藤次が振り返ると、一人の老婆が杖を突きながらそこに佇んでおり、穏やかな微笑みを浮かべていた。そんな老婆に藤次もまた、笑顔で言葉を返した。
「ああ、こんにちは。実はこの島に旅行に来てるんですが、受験が近いのでそのお祈りに、と。まあ、最初から神頼みと言うのも少し恥ずかしい話なんですが」
「あらぁ、そんなことないわよ。誰だってそんなときは祈りたくなるもの」
老婆は穏やかな口調でそう言うと、藤次の隣に並んで祈り始めた。
「お婆さんは何を祈りに?」
「私はもうすぐ孫が小学校に行くから、そっちでうまくやっていけるようにってね。今、うちの娘と娘婿は出稼ぎに出てるから、こっちにいないことも多いんのよ。あの子も寂しい思いをしてるから、どうにも心配でねぇ…… あら、いけない。ごめんね、年寄の愚痴に付き合わせて」
「いえいえ、聞いたのはこちらですし、別にお気になさらなくても大丈夫ですよ」
一方的に話していたことに気付き老婆は頭を下げるが、藤次はそんなことは気にしていなかったので、慌てて否定の言葉を放った。そして何より、先ほどフェリーでとても失礼で不躾な男と会話をしていたため、彼の心は今現在、海の様に広い状態になっている。
そんな事情を知らない老婆は、彼の言葉を聞いて安心したように微笑んでみせる。
「あら、そう? 亭主にもよくお前は喋り過ぎだって言われるのだけど……」
「それはきっと、ご主人の気が少し短いだけでは……?」
「ふふふ、そうかもしれないわねぇ。あの人、結構そそっかしい所があるから」
二人は和やかに言葉を交わしながら、祈りの為に合わせていた手を降ろした。
「じゃあ、私はそろそろ家に戻るから、お元気でね」
「ありがとうございます。それでは…… あ、いや、ちょっと待ってください」
「あら、何かしら?」
「あの、三丁目にある定食屋がおいしいって聞いたんですけど、そこってなんてお店か分かりますか?」
その言葉を聞いた老婆は、目を丸くして驚いて見せる。そして、すぐに目を細めて微笑むと、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「運がいいわね。その店、多分亭主の店の事よ」
その言葉を聞いて、今度は藤次の方が目を丸くしてしまう。そんな彼の表情を、老婆は楽しそうに微笑みながら見つめるのであった。