何処となく嬉しそうに微笑んでいる老婆に後ろについて、藤次は頬をポリポリと掻きながら緩やかな傾斜の道路を歩いていく。かつり、かつりと言う杖の音をただぼんやりと聞きながら。そうしているうちに、定食屋の暖簾を下げている建物が見えてきた。
「あそこがそうですか?」
「ええ、そうよ。向かい側にキャバクラがあるから目印にすると良いわ。あそこの子たちもうちの常連よ」
「あ、そうなんですか?」
「ええ、お客様は神様ってよく言うでしょ。よそはどうか知らないけど、うちの島じゃ珍しいことでもないわ。地元の漁師さんも、そこで出会って結婚をしたっていう人が結構いるもの」
「ほえー すごいですね! 今度行ってみようかな」
なんとなく、キャバクラといった場所に引け目を感じていた藤次だったが、そう言った話を聞いていると身近に感じてくる。そんな若者の心のうつろいなど、長い時を生きてきた老婆にとっては手に取るように分かるのだろう。クスリと微笑みながら、「若いわねぇ」と言われて彼は顔を少し赤くして頭を掻いた。
「あはは…… お恥ずかしい限りです。それに、まだ未成年なので、よくよく考えたらまだいけないですね」
「人生みな経験よ。若いうちはそのぐらいの勢いがあった方が物事がきっとうまくいくようになるもの」
老婆はニコニコと微笑みながら、そんな言葉を紡ぎ出した。
「あら、大分曇ってきたわ…… 予報では今日は一日中晴れるって言ってたのに……」
「ありゃりゃ、せっかくの旅行ですし、晴れて欲しいんですけど」
そうして話しているうちに、定食屋の扉の前までたどり着いた二人は、引き戸を開いてその中へと足を踏み入れる。
「ただいま。吾郎、お客さんを連れてきたわよ」
「おう、タエ。おかえり! そいつは景気が良いな。今、ちょうど客が佩けて暇だったから丁度良かった。おーい、ゲン。お客さんを席に案内してやりな」
しわがれてはいるが、元気のよい男性の声が響き渡る。髪の無い、形のいい頭をパシパシと叩きながら、吾郎と呼ばれた老人はカカカっと景気の良い笑い声を上げた。
その後ろから、小学生の低学年に差し掛かろうかというぐらいの子供が「はーい」と返事を返しながらトテトテと駆けてくる。ゲン、と呼ばれたその子供は、藤次の元へと駆け寄ってくると、ニンマリと笑ってこう言い放った。
「お客さん、こっちの席にどうぞ!」
そんな元気のいい言葉に、藤次は小さく顔を緩ませてその背についていく。
「小さいのに、おじいちゃんの手伝いするなんて偉いね」
「そう? へへへ、ありがとね、お兄さん」
ゲンは嬉しそうに鼻をこすりながら、藤次の言葉に照れくさそうな言葉を返した。そんな純朴な少年の反応に、微笑ましいものを感じながら、案内されたカウンター席へと腰を下ろす。
ちなみに、藤次は先程食事をしたばかりだが、そんなことは関係ないとばかりに食欲が彼の身体を駆け巡っていた。店の中に足を踏み入れたと同時に感じた料理の匂いが、彼の食欲を大きく掻き立てたのだ。そればかりか、ぐうっと小さく腹が音を鳴らし始める。
その音を聞いたゲンが、笑いながら彼に言葉をかけた。
「お客さん、そんなにお腹すいてるってお昼食べて無かったの?」
「いや、食べたんだけどね? おいしそうなにおいを嗅いでたら、こう、ね? ほら、なんというか、そんな感じで」
照れくさそうな笑みを浮かべ、藤次は目を細めながら頭を掻いた。だが、そんな彼の様子に吾郎は嬉しそうに顔を歪ませる。
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。ボウズ、何か食いたいもんがあるならいいな。少しだけ多めに作ってやるよ」
「あ、ほんとですか? なら、さっき知り合った人に勧められた親子丼をお願いします。そのほかにオススメがあるならそれも頂きたいです」
「そうだな…… 親子丼以外なら、とれたて車エビの酒蒸しだ。うちの自家製のタレに付け込んで食うとこいつがまたうまい! コメが何倍も進むってもんよ!」
「お、良いですね! じゃあその酒蒸しと、追加でご飯を二杯。あとは……」
唇をぺろりと舐めながら、店の壁に掛けてあるメニューを真剣な表情で見詰め始めた藤次は、視線を巡らせて一品一品の名前を確かめていく。そんな獲物を狙う獣のような眼光を光らせる彼の後ろから、無邪気な声が響いた。
「あ、もう一品頼むならマグロの和風ハンバーグがオススメだよ! おじいちゃんの自家製ダレと合わせて食べるとおいしいんだ」
「お、なら、ゲン君のオススメもいただいてみようかな…… じゃあ、この二品と御飯、みそ汁をセットにしていただいてもいいですか?」
背後から響いたゲンの声に目を丸くしながらも、藤次は深く頷きながらその品を合わせて頼むことにしたようだ。その言葉を聞いた吾郎は、ニヤリと笑う。
「おうともよ。ちっと待ってな。すぐにたらふく食わせてやる」
そう言うと、彼は手際よく車エビやマグロを調理していく。その一つ一つの手さばきは美しく、無駄が無かった。その横でゲンがちょこちょこと歩き回りながら、皿を出したり
そんな中、機嫌よく鼻歌を歌って料理が出来るのを待っていた藤次は、ホテルで感じた頭痛を再び感じ、眉間を抑えた。
「いっつ……!」
一つ違うのは、先ほどよりも遥かに痛みの度合いが酷いという事だろう。藤次は椅子の上で体を小さく強張らせた。
その様子にいち早く気付いたらしく、タエが彼の元へと駆け寄って背中を撫でる。
「大丈夫? 顔色が悪いわよ」
「いえ、多分旅の疲れが出ただけだと思いますし、多分大丈夫です」
そう言って、藤次はタエにお礼を言おうと思い振り返り、
「ありがとうございまし…… え――――?」
その表情を凍り付かせた。
彼が顔をタエの元へと向けた刹那、机が整然と並んでいた店内が荒れ、どこか様子のおかしい男がナイフを手に握った状態で、振り返りざまにタエの喉ものを掻き切った映像が彼の目に飛び込んで来た。だが、それもすぐに立ち消え、心配そうにのぞき込んできているタエの顏が浮かび上がる。
「あの、本当に大丈夫?」
一瞬浮かんだ光景に、血の気が引いていた藤次だったが、その言葉で勝機を取り戻した。
「え、ええ! 大丈夫です。本当にありがとうございました」
未だに顔色が悪いが、それでも先ほどよりも幾分かマシな顔色で、彼はそう返す。そんな様子を見て、厨房にいた二人も、気づかわし気な視線を向けた。
「おいおい兄ちゃん。気分が悪いならあんまり無理しない方が良いぞ?」
「そうそう、今から消化のいいものをおじいちゃんに作ってもらう?」
「本当に大丈夫です。そこまで体調が悪いわけじゃ無いんですよ。まあ、こんな時こそご飯をたくさん食べて、もりもり力を付けたいですね。……白昼夢ってやつだったのかな?」
藤次はそう言って、ニコリと微笑んだ。話しているうちに、彼の顔に血の気が戻り、頬に赤みが差してきた。最後に小さく呟かれた言葉は、他ならぬ彼が己自身へと言い聞かせるように紡がれたもので、それ以外の何物でも無いだろうと彼は思う。
最後の呟きは聞こえていなかったらしく、定食屋の一家は安心したように微笑んで、自分たちの作業に戻っていく。
と、そこで定食屋の入り口が開く音が鳴り響いた。食事処という事もあって、藤次はそれを特に気にすることもなく、さっと出されたお冷を口に含む。先ほどの生々しい白昼夢を忘れるために。
だが、彼以外の面々がゆるりと入口の方へと顔を向けたため、藤次の脳裏に先程の白昼夢の光景が浮かび、背筋に冷や汗が流れた。
「いらっしゃい。えらい別嬪さんが来たもんだ」
吾郎のそんな言葉に、藤次は自身の考えがただの杞憂であると知って、入り口に視線を向ける。そこにはどこかで見たことのある金髪の女性が立っていた。
「あれ、フェリーで会った……」
「あの時ぶつかった歩きスマホの人」
思わず藤次が上げた声に、金髪の女性も少し目を丸くして辛辣な言葉を返す。
「お、知り合いかい? なら、こっちで飯を食いながら俺の話し相手になってくれないかい? 食いしんぼうの兄ちゃんと、別嬪さんがいるってんなら飯を作るテンションも上がるってもんよ」
その言葉に、藤次と女性は顔を見合わせた。
「「まあ、そっちの人が良いなら」」
「なら、決まりだな」
異口同音に紡がれた言葉を聞いて、吾郎は面白そうに大笑することとなった。