金髪の女性は、藤次の隣の席に座るとメニューをざっと見て何を食べるか考え始める。そして彼女は悩まし気な表情で言葉を紡いだ。
「迷うわね…… ごめんなさい、少しいいかしら?」
「おうとも、何だい。嬢ちゃん」
「オススメは何かしら?」
「それだったら、そっちのボウズが頼んだのが俺とうちの孫のオススメになるな。ちょうど、今作ってるのがそれだ」
吾郎の言葉に、女性は彼の手元を覗き込んだ。すると、彼女の目がきらりと光る。そして、にこやかに微笑みながら、彼女は小さく頷いて言葉を紡いだ。
「なら、私もそれを頂こうかしら。調理中だけど、とてもおいしそうだし、何よりいい匂いがしてお腹が減ってきちゃったもの」
「おう、そうかいそうかい! そっちのボウズといい、嬢ちゃんと言い、料理人冥利に尽きることを言ってくれるじゃねえか。まってな、アンタら二人の飯を、うんとよりを掛けて作ってやるからよ。まってな、そっちの兄ちゃんが注文したもんと一緒に作っちまうからよ」
吾郎は心底嬉しそうに笑いながら、手さばきを速くしていく。素早く手を動かしているが、その一つ一つの行程における精度は一切落ちておらず、熟年の技術を感じさせるものだった。
それを傍から眺めながら、藤次は隣にいた女性に少しだけ申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「フェリーでの件はすいませんでした」
「あら、いいのよ本当に。あの時言った通り、私も少し考え事をしてたからお互い様よ」
「いや、でも第一印象が歩きスマホの人ってなんかあれじゃないですか。やっぱり気にしてたのかなぁ、と」
女性の言葉に対し、彼は眉を下げて困ったように言葉を返す。それを聞いて、彼女は少し目を丸くした後、クスクスと悪戯っぽく笑いながらさらに言葉を返した。
「ふふ、そんなことないわよ。流石に穿って考えすぎじゃないかしら」
「そう言ってもらえて安心しました。えーっと…… お姉さん」
「エレインよ。流石にお姉さんって呼ばれるような歳でもないし…… あ、自分で言ってて悲しくなってきたわ」
エレインと自身の名前を名乗った女性は、自ら紡いだ言葉に遠い眼をしてため息をついた。
その言葉を聞いた吾郎は、不思議そうに首を傾げながら言葉を紡ぐ。
「あれ、嬢ちゃんそっちのボウズと同じくらいの年齢じゃないのか?」
「ちょっと、吾郎! 女の子に歳を訪ねる物じゃないわよ」
流石に、自分の伴侶という事を差し引いてもその言葉の無神経さには語調を強くしたらしく、藤次とエレインの背後からタエの鋭い声が響いた。
突如として響いた鋭い言葉に、吾郎のみならず、二人も僅かに体を強張らせて苦笑を浮かべる。
形のいい頭を撫でまわしながら、己の伴侶に向けて彼は引き攣った顔で笑った。
「は、ははは…… まあいいじゃねぇか。そんな細かいこときにするもんじゃない。そうだろう、ゲン」
「ちょ、おじいちゃん! 俺を巻き込まないでってば!」
被害を拡大させようとした吾郎に対し、ゲンが酷く迷惑そうな声と表情で僅かに身を引いた。まさに四面楚歌と言った様相で、彼は参ったように視線をさまよわせる。
武士の情けか、その情けない姿を出来るだけ視界に移さないようにしながら、藤次とエレインは言葉を交わし始めた。
「あ、そう言えば僕の名前を教えてませんでしたね。並木藤次って言います。エレインさんはどうしてこちらに?」
「えっと…… 知り合いがここのお店の味が最高って言ってて、休暇にかこつけて来てみたの。まとまった休みが久しぶりに取れたから、こう言った長閑なところでゆっくり体を休めたいとも思っていたのもあるけれどね」
「久しぶりのまとまった休みって…… 普段はどんな仕事を?」
「医療関係の仕事をちょっとね…… やりがいのある仕事だけど、休みが中々取れないのよね……」
エレインはそう言って小さく苦笑を浮かべた。彼女は事実として自身の仕事に誇りを持っていたし、やりがいも感じてはいるが、それ以上に休みが取れない、或いは休みが取れないほどけが人や病人が発生する事実にそうならざるを得なかったのだ。
藤次はその表情から、込められた想いすべてを読み取ることは出来なかったが、それでも感じ入るところがあったらしく、小さく目を細めた。
「まあ、やりがいがあるならいいんじゃないですか。それだけ、それに打ち込めるってことですし、命を助ける仕事をするっていうのは、それだけでもすごいことですから」
「そうね…… そう言ってもらえると嬉しいわ」
紡がれた言葉に対し、エレインは小さく微笑みながらそう言った。
なお、そんな風に真面目な会話をしている二人の近く、といってもカウンター越しではあるが、未だに吾郎がタエの小言の雨にさらされている。その中でも、一切調理の手が緩むことが無いのは流石としか言いようが無いが、いい加減疲れてきたのか視線だけで客である藤次とエレインに助けを求め始めていた。
流石にここまでくると、無視するのもかわいそうになってくるので、二人は小さく顔を見合わせた後、ゆるりと言葉を紡いだ。
「そう言えば、あとどのくらいで料理が出来そうかしら?」
「あ、それ僕も気になっていました。もう、お腹がぺこぺこで」
二人が出した助け舟に、これ幸いと吾郎は乗ることにした。
「あ、ああ、もうちょっとでできるから待ってな。ほら、タエもお客さんの前だし、あんまり目くじらをたててくれるな」
「そのお客様に失礼な事を言ったのは、貴方でしょう…… でもまあ、いつまでもぐちぐち言ってても仕方ないわよね」
「……ようやく終わった」
「何か言った?」
「いやいや、何も言ってねぇよ! ほら、ちょうど出来上がった。ボウズ、おまちどう! ついでにおしぼりも渡しておくな。嬢ちゃんの方はもう少しだけ待っててくれよ」
タエの鋭い言葉に吾郎は誤魔化すように大声を出しながら、出来上がった品とおしぼりをを藤次の元へと差し出した。
それを受け取った藤次は、おしぼりで手を拭うと「いただきます」と言って、まず車エビの酒蒸しを一口食べる。瞬間、彼の口の中に豊潤な香りと車エビの甘みが広がり、身のぷりぷりとした感触が噛むたびに伝わってきた。
「おいしい!」
藤次は目を輝かせながら、次々と酒蒸しを口の中へと運ぶ。そして、それなりの量があった酒蒸しをぺろりと平らげてしまった。その驚異的ともいえる食事のスピードに、周りにいた面々は目を丸くしてその様子を眺める。
だが、彼の箸は止まることを知らず、次の獲物へと標的を移した。魚肉を叩いて作られたハンバーグへと。まず、箸をそのハンバーグへと差し入れ、小さく分ける。その一欠けらを口に入れて咀嚼すると、程よい肉汁と、魚独特の匂いを感じさせないために入れられたであろう具材の青物が程よい食感のアクセントを生み出し彼の口の中で混ざり合った。
そこに、一緒に頼んでいたご飯を掻きこみもぐもぐと咀嚼する。米を焚くこと一つをとってもこだわっているのか、しっかりと立っているコメの食感と甘みが口の中に広がり、それがさらに食欲をそそった。
と、そこで藤次はハンバーグと一緒にだされたタレと大根おろしに目を付ける。
「そうだ、これもつけないと……」
熱病に浮かされた患者のような様相でそう呟くと、彼はそれらをハンバーグの上に一緒に掛けた。そしてもう一口、タレと大根おろしを上からかけたハンバーグを咀嚼する。
元から脂身の少ない所を使っていたのか脂っこい感じの無い肉質に加え、さっぱりとした大根おろしと少し濃いめの味付けのタレ。総合的にみるとあっさりとしており食べやすく、さりとて少し濃いめの味付けのおかげでご飯が次々と進んでいく。
そして、最後に残るのはお勧めされていた親子丼だ。一口噛めば、口のんかに広がるふんわりとした卵と、鶏肉の食感がまた素晴らしい。そして、味付けはシンプルな醤油ベースの中に、酒と何かのだしを使用しているのか、旨みと香りが絡みつき、藤次の食欲を駆り立てる。
一品一品の料理のおいしさが、彼の理性を刈り取り、すさまじい勢いですべての料理を平らげていった。
そして、彼が正気に戻った時、その目に移ったのは空っぽになった器だけ。その段になって、ようやく彼は自身が出された料理を完食したという事実に思いあった。
正直なところ、藤次はまだまだ食べたりないと感じていたが、自身の財布の中身を考慮して、ぐっと食欲を堪える。そして、ぱちんと手を合わせて、こう言った。
「ごちそうさまでした」
少し名残惜しさを感じながら静かに両手を合わせ、藤次はそう言って箸を置く。時間にして、数分にも満たない時間で、それなりの量があった料理をぺろりと平らげてしまった。
その様子を横から見ていたエレインはどこか呆れたように言葉を紡いだ。
「食べるの速すぎじゃないかしら…… なんというか、昔の知り合いを思いだすわ」
「そうですか? おいしいとつい箸が進んじゃって……」
藤次は少し照れくさそうに頭を掻いた。自分が大食漢のきらいがあることは分かっていたつもりだが、それを改めて人に言われると恥ずかしいのだろう。
そんな彼の様子をゲンはまじまじと見つめながら言葉を紡ぐ。
「その細い体のどこにそんなに入るの? さっきも食べたばっかりって言ってたのに……」
「そういわれても…… 胃袋としか言いようがない気がするなぁ」
「いや、それにしてももうちょっとふつうお腹がでたりするんじゃ……」
まるで妖怪でも見たかのような視線に、藤次はポリポリと頬を掻いた。そう言われても、昔から大ぐらいなのは変わらないことであったし、それであまり腹が膨れたように見えないのも幼いころからそうだったのだから仕方がない。
本当はまだ食べたりないが、今、まだまだ食べられるといったら、絶対にドン引きされるという自信が藤次にはあった。故に、彼はそっと口を噤んで時が過ぎるのを待つ。
そんなやり取りの最中、料理が配膳されていたエレインも中々の速度でそれらを平らげていた。ゲンはそちらに視線を向けると、また呆れたような表情になる。
「そっちのお姉さんも食べるの早いし……」
「あら、そう? まあ、私の場合仕事の関係上、早く食事を済ませたいっていうのがあるから、多分それのせいね。そっちの彼みたいにたくさん食べているわけでも無いし、常識の範囲内よ」
「そっちのにお兄さん、すごい食べっぷりだったからねぇ」
ゲンはうんうんと頷きながらそんな言葉を紡いだ。それに対して、藤次は少しばかり首をひねる。
「そんなに非常識な量を食べてますかねぇ…… 僕の友人はこの倍以上は軽く食べるんですが……」
「あ、貴方の友人は、もっと食べるのね…… 生物学的に、胃袋がどうなっているのかがすごく気になるところだわ」
そう言いながら、エレインはちらりと彼の食べたご飯の量を思い返す。酒蒸しとハンバーグだけで、計五杯程のご飯を頬張っていた。それも、大盛のものを。さらには、親子丼まで平らげたのである。その倍、という事は大盛のご飯を十杯は軽く平らげると言う事だ。
「貴方の友人はフードファイターか何かなの?」
「将来的に、そう言った道も考えているらしいですから、ある意味正解かもしれません」
大喰らいを絵に描いたような友人の姿を思い浮かべ、藤次は小さく苦笑を浮かべる。その姿はフードファイターと言うより、食べ物を吸いこむ掃除機と言った方がよほど正しいのではないかと思わせるもので、おおらかな性格をしている彼ですら、少しばかり引いてしまうほどのものだった。
「本人曰く、つい食べ過ぎちゃうそうですが、それにしてもあれは…… うん、ちょっと引きますね」
「そ、そうなんだ……」
話を聞いていたゲンは「おおぐらいってすげぇ」と口の中で呟いて、藤次が平らげた料理の皿を下げていく。そんな中で、
「そう言えばお兄さん、さっき具合悪そうだったから、そっちのお姉さんに見てもらったらいいんじゃない? お姉さんはお医者さんなんでしょ?」
「あら、藤次君、貴方具合が悪かったの? 少しだけ見させてもらってもいいかしら」
医者と言う職業柄、病人の疑いがある人間を放って置けないのか、ゲンの言葉を聞いたエレインは目の色を変えてぬっと身を乗り出した。
それに対して藤次は狼狽する。エレインは顔立ちの整った美女と言っても差し支えの無い女性だ。そんな女性に身を寄せられて、ドギマギしないほど女性に免疫があるわけでも無い。
単なる医療行為と分かっていても、ほんのり顔が赤くなっているのは若さ故か、男の性故か。どちらにせよ、藤次が気恥ずかしさを感じているという事に変わりはない。
そんな彼を、定食屋の一家はニヤニヤと笑いながら見つめていた。
なるほどいい性格をしている、などと藤次は現実逃避をしながら白目を剝いてしまう。そんな中でも一切躊躇することなく、エレインは彼の容体を確認していく。
「見たところ、容体にこれと言って変わったところは無いわね。少し血の気が引いた痕跡があるけど、至って健康体だと思う、わ……?」
そこまで言って、彼女は言葉を濁らせる。そして、その瞳を大きく見開いて、藤次の肩をすさまじい力で押さえつけた。
「あ、あの…… エレインさん、どうかしましたか?」
「少し動かないで…… 外部からの…… 元の素養に影響して…… でも、ほとんど影響が出てない…… しかも、これは…… でも、一体だれがこんなことを」
呟かれた言葉の一つ一つの意味は藤次には分からないが、エレインの深刻な声色と表情が、途轍もなく嫌な予感を駆り立てる。その張りつめた空気に、定食屋の一家も何事かと目を見開いた。
どこか重苦しい空気の中、エレインがゆっくりと口を開く。
「貴方は……」
しかし、それはすさまじい勢いで開かれた扉の音で遮られることとなった。
店の中にいた全員がそちらを振り返ると、うつろな目をした男がゆらりと体を揺らしながら佇んでいる。その男の顔を見た藤次は、その両目を大きく見開いた。
先ほどの白昼夢で見た、タエの喉元を切り裂いた男と寸分たがわぬ姿をしていたからだ。
かくして、並木藤次の人生の中で最悪の一日が、緩やかに幕を開けた。