血に塗れた体を庇うようにして、エレインは体をホテルのロビーへと滑り込ませた。は、は、と短い呼吸を繰り広げながら、彼女はマリの両親と自身の肉体を階段の前まで引きずっていき、膝をつく。
痛みで玉のようなを流しながら、彼女は自身の肉体の損傷具合を確かめ始めた。
「左肺損傷…… もう少しずれてたら、心臓いって、たわ…… まず、痛みを止めないと、治療もまともに出来ないし……」
痛みで集中力が乱れれば、霊力を用いた術で治療を施す際の制御に乱れが生じかねない。攻撃系の場合は其れほどの影響があるわけではないが、治癒となどの繊細な術を用いる場合はそうではない。妙な傷の癒着が起きてしまえば、再切開が必要になる場合もある。
左肺を損壊するほどの重傷の痛みを放置できる程、彼女は痛みに強いわけではない。戦闘は出来るが、もとより戦闘職ではない彼女にとって自身が重傷を負うことは少ないので仕方のないことではあるのだが。
そこまで考えたところで、これほどの重傷を負ってもなお痛み止め無しで治癒を施せる男の顔を思い出し、エレインは小さく顔を顰める。
「まったく…… こう言った時にあの問題児を思いだすなんて…… 胃が痛くなってきたわ」
心底嫌そうな声色でそう言った彼女の顔色は悪い。悪いが、痛みを止めることには成功したらしく、損傷した肺の細胞一片一片を繋ぎ合わせ始めた。傷口が燐光を帯び、少しずつ傷がふさがっていくのを感じながら、エレインは努めて冷静に周囲の気配を探る。
狙撃手の追撃は無く、ホテルの入り口及び周辺に操られた人間の足音は無い。だが、すぐにホテルの周りは騒がしくなってしまうだろう。狙撃手の腕は操られた人間が撃ったとは思えないほど正確であったことから、十中八九この島の惨状を引き起こした人間か、その関係者だ。
そうである以上、エレインと言う脅威を放って置くほど相手も甘くはないだろう。むしろ、真っ先に狙撃を仕掛けてきたことから、彼女のことを脅威と認識して既に潰しに来ていたと言っても過言では無い。
「厄介ね…… 私を殺すために相手が人をこっちに差し向けるとしたら…… あの子たちを巻き込まないようにしないと……」
だからこそ、藤次たちの身を案じてエレインは目を細めた。巻き込まれただけの一般人をこれ以上危険な目には合わせたくはない。それが自分のせいでとなると尚更だ。
彼女にとっての優先順位は、生き残ることと知り合った藤次たちを生き残らせることが上位に来ている。彼らとは出会ったばかりと言えども、言葉を交わし、共に時間を過ごした。そんな人間に死なれてしまったら寝覚めが悪い。
「あの子たちと一緒にホテルに入るのは見られたから、一緒にここから逃げるか…… それとも、私が打って出るか…… どっちにしろ、早く動かないとまずいわね…… 私の他に、患者も二人いる事だし」
ちらり、と彼女は地に倒れ伏したマリの両親を見つめる。治療と並行して、二人をどうやって無事に上に届けるかと頭の中でルートをシミュレートし始めた。元から彼女もこのホテルに宿泊する予定だった。だからこそ、その地理は頭に入っている。
「私の部屋は…… こっちの階段から登った方が速いけど…… 306号室はあっちからね……」
だが、その上で問題になるのが、藤次たちが通ったルートと自分が通るべきルートを精査する。
「狙撃されるリスクを取って早く合流するか…… それとも安全なルートを取って少し遅れて合流するか……」
どちらを取るべきか、傷がふさがるまでに考えなければならない。一歩のミスが、現場では致命的だ。そして、この場所にはそのミスを埋めることの出来る相棒がいるわけでも無い。その一歩のミスが死を招くのだ。
だからこそ、クロユリでは二人以上のメンバーを仕事に投入する。だが、この状況で戦える人間はエレイン一人。そして足手まといの一般人が数名。そして何より、彼女は常日頃から現場に身を置いているわけではない。
そのすべての要素が自身の事を嘲笑っているかのようで、エレインは冷や汗と共に深く息を吐きだした。
だが、彼女の思考が纏まるよりも前に、上階からけたたましい金属音が鳴り響く。
とても嫌な予感が彼女の背筋を這い上がり、上方を見上げたエレインは思わず叫び声を上げた。
「藤次⁉」
*****
藤次たちは階下から響いた音に身を強張らせたが、それ以上に彼らを硬直をさせたのは
「まずい…… やつが音につられてこっちに来たぞ……」
吾郎が放ったその言葉に対してだ。
こちらに来る、という事は接敵は避けられないことを意味する。足の悪いタエがいる以上、藤次か吾郎のどちらかが闘わなければ、タエは確実に見つかってしまう。
沈黙は一瞬だった。だが、最後尾にいた藤次は一瞬視線をさまよわせると、決然とした表情になって言葉を紡いだ。
「僕が囮になります」
最後尾からゆらりと前へと身体を押し上げた。その腕を掴もうとタエは手を動かそうとするが、彼女の両手は子供たちと繋がっているため動かすことは出来ない。
「おい、ボウズ……!」
声は抑えているが、そこには鋭さが満ちており、吾郎は藤次の手を掴もうと伸ばされる。だが、その手を逆につかむと、藤次はその手に何かを握らせた。
「僕の部屋の鍵です。いったん下がって、他の皆を守ってあげてください」
そして、そのまま腕だけをするりと引き抜いた。そしてそのまま、吾郎が覗いていた通路の先へと消えていく。
「あの馬鹿…… なんて表情で突っ込みやがる…… くそ!」
だが、それを引き留めることは終ぞできず、そのチャンスを彼は失ってしまった。既に藤次が廊下へと姿をさらしてその先へと歩みを進めた以上、これ以上の長居は残ったタエや子供たちをも危険にさらしてしまう。
「あのボウズの言う通り、俺たちは一旦下に行くぞ。もう、これ以上何をしてやることもできない」
吾郎は苦々し気にそう言うと、今にも泣き出しそうなゲンとマリ、そして不安の滲んだ表情を浮かべたタエが、彼のことを見つめ返した。
「あの馬鹿の覚悟を無駄にする気か……⁉」
その静かな、それでいて鋭い吾郎の一喝に、他の面々はびくりと体を震わせながら階段の中腹まで下がっていく。そして一行が階段を再び降りていく中で、吾郎は先程すれ違う際に見た藤次の顔を思い出し、苦々し気に吐き捨てた。
「あの馬鹿垂れ…… あんな泣きそうな顔をするんだったら初めからするんじゃねぇよ」
思い描いたその表情は、恐怖で引き攣っている癖に、目だけは妙に覚悟に満ちたものだった。とんだお人好しでだと、吾郎は心底からそう思う。そして、あの若者ではなく自身が行くべきだったのだろう、とも。
だって、彼には命を懸ける動機が薄い。付き合いの短い自分たちなど助けようとはせず、逃げてしまえばよかったのだ。そうすれば、自分だけは助かることが出来ただろう。その代り吾郎たちの命が危機に瀕することになっただろう。しかし、普通ならそうするのではないだろうか?
それでも、藤次は自ら囮を買って出た。
そして、廊下を駆け抜ける間際に見せた顔。あんな顔を見せられてしまっては、逃げてしまえばよかったのだという思いが吾郎の頭にこべりついて離れない。自分が今からでも助けに行くべきかという思考が過る。
だが、吾郎まで通路に出て行ってしまえば、藤次の献身のすべてが無駄になるのだ。
「死ぬんじゃねえぞ…… ボウズ」
それは奇しくも、エレインが彼らの背中に残した言葉と同じものだったなどと、吾郎は知る由もなかった。
だが、そこに込められた思いは祈りにも似ていて、揺らぎそうな何かを繋ぎとめるための必死の努力だったのかもしれない。
「こわぁ…… やっぱ逃げとけば良かった」
通路で凶器を持った男と対峙した藤次は、さっそくカッコつけて囮を引き受けたことを後悔していた。目の前の男は、先ほど襲い掛かってきた連中と同じく虚ろな瞳で彼のことを睨みつけている。
その虚ろな瞳に、店内で深々と腕を切りつけられたことを思いだして、藤次の身体はぶるりと震えた。
そんな彼の様子に隙を見出したのか、男はゆらゆらと不安定な足取りで走りながら、藤次めがけて肉薄する。だが、恐怖が限界まで振り切れていたのか、男が走り出すのと同時に藤次もまた走り出していた。
数メートルも離れていない距離は、一瞬にして埋まり、互いの獲物の間合いに彼らは踏み込んだ。
瞬間、男の身体が弓の様にしなったかと思うと、すさまじい勢いでナイフが振り下ろされる。
それを寸でのところで躱し、藤次は男の身体を壁めがけて突き飛ばすようにして、すれ違った。当然、強い力で押された男は強かに壁に体を打ち付けることとなったが、痛みなど感じていないかのように首を巡らせ、再び襲い掛かってくる。
だが、藤次は戦うような真似はせず、そのまま自身が出て来た方と反対にある階段めがけて全力で疾走した。まともにやり合ったら命が危険だ。だからこそ、全力で逃げる。背後から男が追ってくる事を確認しながら。
これなら、あちら側に相手が行くことは無いと、藤次は半泣きになりながらもほくそ笑む。しかも、男はのトップスピードは藤次に劣っているため、一定以上距離を詰められる心配もない。少なくとも、体力が尽きるまでの間は。
これなら、ある程度惹きつけてから逃げ切れるかもしれない。
そんな風に藤次が確信を持った時、それは起こった。
視界に入るノイズ。今見ている視界ではない光景。そして、階段の影から飛び出してきた男に腹部を一突きにされる感触と痛み。そして、背後から襲い掛かってくるもう一つの衝撃と痛み。
そこまで認識したところで、藤次の意識は現実に引き戻された。
時間にしてコンマ一秒にも満たないうちに見せられたその光景は、あまりにも衝撃的で、痛みまで伴う生々しいものだ。彼の意識が一瞬真っ白に染まり、意識を手放しそうになるが、必死にそれを繋ぎとめる。
しかし、幻視した光景は今まさに藤次が向かっている階段で行われたもの。廊下を全力で駆け抜けたせいで、もう数メートルの距離もない。
だから咄嗟に、彼は手に持っていたフライパンをナイフが刺さったであろう場所へと何とか滑り込ませた。
直後、すさまじい金属音と衝撃。
藤次が幻視したように階段の影から男が飛びだし、手に持ったナイフを突き出したのだ。手に持っていたフライパンで防いだため何とか腹部にそれが突き立てられるのを防ぐことが出来たが、それでも手に伝わる衝撃波すさまじく、フライパンが大きくへしゃげていた。
さらには、その衝撃のせいで藤次はフライパンを取り落としてしまう。
「まず……⁉」
そのせいで体を硬直させてしまったのがまずかった。自身の身を守るための盾足りえるものがなくなったことによる精神的動揺を差し引いても、ここでそれはとんでもない悪手に他ならないのだから。
「ぁあ!」
不気味なうめき声をあげながら、男は藤次の腕をすさまじい力で掴んだ。みしりと骨の軋む音が響き、彼の表情が苦痛に歪む。
だが、痛みに呻いている暇など藤次には存在しない。背後からナイフを持った男が突進してきている。
「くそ! どけぇ!」
だが、藤次は諦めなった。火事場の馬鹿力と言うべきそれで、強引に突破を試みる。
そして彼は自身の腕を掴んだ男に突進するようにして、そのまま一緒に階段の手すりを乗り越えた。そして、重力に引かれるまま階下へと落下していく。
まずいと思ってももう手遅れで、藤次はきつく目を瞑った。
「藤次⁉」
その最中、彼の耳朶に透き通るような女性の声が届く。
「なんて無茶するのよ、あなたは……」
そんな言葉と共に、藤次の身体に何かが巻き付くような感触が伝わり、落下動作がピタリと止まった。
藤次が恐る恐る目を開けると、階段の手すりやその途中についているランプなどを経由したワイヤーが彼の身体に巻き付き、宙につなぎとめたのである。
そんな彼の近くでは、ナイフを持っていた男が同じようにして拘束され、じたばたともがいているのが確認できた。
蜘蛛の巣に捕まった蝶みたいだ、とどこか現実逃避染みた感想を脳内に描きつつ、藤次はへにゃり、と情けない笑みを浮かべる。
「助かりました…… ありがとうございます、エレインさん」
そんな藤次の顔を見たエレインは、小さく目を見開いた後、深々とため息をついた。
「思ったより元気そうね……」
エレインもまた、どこか安堵したような声と表情で深々とため息をついた。