*****
「さて、これからどうしましょうか……」
エレベーターの縦穴に逃げ込んだエレインは、小さく息を吐きながらワイヤーを頼りに、壁に張り付いている。
「とりあえず、ワイヤーを張り巡らせたから、上から何が落ちてきても絡めとれる準備は出来たけれど…… 根本的解決にはなっていないわよね」
そう言った彼女の視線の先では、その言葉通り、蜘蛛の巣を思わせるようにワイヤーが張り巡らされていた。
だが、守りを固めたところで状況が好転するはずも無く、むしろ相手に次の手を打つための時間を与えるばかり。
「いつまでも穴熊を決め込むわけにはいかないわね…… こういう時はやられる前にやるのが常道だけど、それには相手の位置が分かっていないのが痛い。私を囮にして相手を釣りだすにしても、藤次の身の安全は保障されない。ウイルスは今尚私たちの身体を蝕んでいる。流石に、これだけ並べたてられると、少しきついわね」
状況を確認するためと、自身の精神を落ち着けるために、独り言をつぶやきながら彼女は皮肉っぽく笑った。
きっと、一人でなら彼女は逃げきれる。民間人の犠牲を厭わなければ、相手を逆に追い詰め、捕縛することも高確率で可能だろう。
だが、それは彼女には出来ない、仕事、と言うのもあるが、それ以上に彼女の心情がそれを許さなかった。
「でも、そうも言ってられないか…… 救い出せる命があるなら、手を尽くすのが医者の務めってね」
命にかかわることに関して、出来ないことならばともかく、出来るかもしれないことを放り出すのは医者を志したエレインにとって、許しがたいことであり、そして屈辱だ。
そして、相手も彼女を殺すまでは操った民間人に対して、それ以上の危害を加えていないところを見るに、それを分かったうえでギリギリのラインを攻めているのだ。
自縄自縛によって、エレイン自身が首を括る羽目になるのを狙って。
彼女の思考がそこまで至った時点で、何かが焦げるような臭いがあたりに充満し始めた。それとほぼ同時に周囲の温度が上昇し、階下からせり上がってくる。
「はは、なるほど。文字通り炙り出すつもりね。絶対これ、性格の悪いジョロウグモみたいな女の仕業。間違いないわ」
エレインは少し口汚く事の首謀者を罵りながら、数瞬の間思考に耽る。
そして、何事かを決心したかのように頷くと、彼女はハンカチを取り出し藤次の口と鼻を覆うようにワイヤーで巻き付た。煙を吸いこんで、呼吸に障害が出ないように。
「ちょっと熱いけど、我慢してね」
エレインはそう言うと、目を細めて煙の立ち上ってくる階下へと飛び降りた。
****
ちりちりと焼けるような感覚が皮膚を焼いている感覚。それが藤次にとって微かに感じることの出来た感覚だった。
それと同時に、肌を焼くような熱の中で誰かに背負われている温もりを感じ、薄ぼんやりとした意識の中で彼が瞼を開くと、その視界いっぱいに金糸の様にさらりとした金髪が広がっているのが見える。
自分はどうなったのか。
マリやゲン、吾郎やタエはどうなってしまったのか。
そんな疑問が藤次の脳裏をかすめるが、失血のせいでうまく思考が纏まらずに、再び彼の意識はゆっくりと閉ざされていく。
そんな中で、彼は確かに幻視した。してしまったのだ。
自分のものか、それとも他者のものか。血に染まり、包帯を巻かれた己の手と、悲し気に自分を見下ろしてすすり泣いている誰かの姿を。
その光景が歪んでいく中で、藤次が意識を失う前に感じたのはすさまじい浮遊感であった。
*****
アイリスはホテルを狙撃できるような位置にある民家の二階に身を顰め、手持ちの端末から送られてくる情報と、自身がカーテンの隙間から様子を伺いながら、エレインが現れるのをじっと待ち続けていた。
そんな彼女の視線の先では、火が放たれたホテルからもくもくと煙が立ち上っており、いたるところから火が噴き出している。
「穴熊を決め込むのもそろそろ辛くなってくるでしょう? さあ、何処から出てくるつもりですか?」
ホテルの内部にいた人間は、エレインと藤次以外すべてがアイリスの支配下に落ち、彼女の手駒として今はホテルの周囲を包囲するようにして佇んでいる。その中には、二人がよく見知った顔もあり、虚ろな瞳に燃え上るホテルを映していた。
そこに一切の人間らしい感情は無く、唯々操り人形としての役割に徹している。いや、そのように強要されているといった方が正しい。
そんな中、遂に状況が動き出した。
二階の壁がバターの様に切り裂かれ、煙と粉塵が内部からあふれ出し、うっすらとその中に人影を捉えた。その瞬間、アイリスは即座にその方向へとライフルを向け、狙いを付ける。
そして、煙の中から現れた存在に瞠目した。それは彼女にとっての標的ではなく、まるで射出されたといって良い程の勢いで空中に放り出された藤次だったからだ。
彼を撃っても意味は無い。むしろ、手駒となるであろう人間を減らすことになるし、何しろエレインにとっての荷物であるはずの彼を殺すのは得策ではない。
しかし、そんな藤次を放り出すような真似をエレインがするとは考えづらい。まだ完全にウイルスの進行が進んでいない状態、つまりまだ操られていない人間を放り出すような事をするような相手ではないと、アイリスは情報として良く知っていた。
だからこそ、彼女の頭にこんな疑問が過った。なら、エレインは何をたくらみ、何処へ行ったのだろう、と。
そんな思考をアイリスが浮かべた次の瞬間、最も炎の勢いが強い一階の壁を切り裂き突き破るようにしながら、エレインが姿を現した。
「こっちよ! さあ、私を見なさい」
彼女はそう言って、妖艶にほの暗い笑みを浮かべる。
それと同時に、アイリスの視線は吸い寄せられるようにそちらの方へと滑っていった。
最も可能性として少ないと考えていた場所からの出現に加えて、二階の壁をわざわざ切り裂き藤次を囮として射出するという型破りな行動に、アイリスの表情に一瞬動揺が走るが、それをすぐに収め、即時狙撃の体勢へと移る。
「ちっ!」
だが、艶然と微笑むエレインの表情を見て、ぐらりと頭の中がかき回されるような感覚に陥り、彼女は舌打ちをしながら引金を引き絞る。
瞬間、彼女の手にしたライフルから音速を遥かに超える速度の弾丸が撃ちだされたが、タイミングをずらされたことによって、その一撃は容易に躱されてしまった。
そして、はっきりと弾丸の飛んできた場所を視認したエレインは、獲物を前にした猟犬が如きスピードで一直線に走り始める。
「くそ…… やりづらいですね。流石はインキュパスと倩兮女の混血児なだけはあります。強烈な視線誘導に、精神干渉…… 普段は抑えているようですが、箍を外した…… いいえ、外してしまったようですね」
忌々し気にそう呟きながら、彼女はライフルを自身の肩に担ぐと、狙撃位置を変えるため、反対側の窓へと駆け出し、そこから飛び降りた。
二階の高さからではあるが、彼女はそれを感じさせない程に見事な受け身をしながら着地し、それと同時に自身の霊力をぶわりと励起させながら、無線機に向けて静かに呟く。
「各自散開。標的を誘い込んでから、十字砲火を浴びせなさい」
*****
ホテルから飛び出したエレインは、即座に放たれた弾丸を躱し、その軌道と自身の能力、というよりも生まれ持った性質の影響下にある者の中から、的確に下手人の位置を割り出して見せる。
「そこか…… 待っていなさい、生まれてきたことを後悔させてあげるわ」
そう呟き、彼女は人外の膂力をもってして一気に駆け出した。
その速度は、人間が出せる限界を超えており、操られた人間はやや反応が鈍い。その半数以上が彼女の動きをとらえきれず、するりと横を抜けられていく。
だが、一人に対して相手は数十人以上いる人間。それも、肉体の箍が外れ、常時よりも遥かに強い膂力を持ったものたちだ。
数をもってして壁となり、反応し動き出した人間が、エレインの行く手を阻むようにして囲いが厚くなる。
「生憎、この程度は時間稼ぎにもならないわ、よ!」
彼女はそう言うや否や、跳躍し、手を伸ばしてきた男の肩に足を掛けると、放出しながら再度跳躍。
勢いよく宙へと飛びあがったエレインは、先ほど狙撃手に対しての囮として利用してしまった藤次を両腕で受け止め、目を伏せながら小さく「ごめんなさい」と呟いた。
相手が彼のことを彼女にとっての足かせとして認識している以上、撃たれない可能性が高いであろうという計算ではあったが、それでも危険に晒した事には変わりはないのだから。
だが、そんな罪悪感に浸っている暇などは無く、エレインは素早く頭を切り替えると、藤次を抱えたままくるりと宙で一回転し、軽やかに着地して見せた。
それでもホテルを囲うようにして展開していた人間たちとはまだまだ距離が近い。
それを理解している彼女は、藤次を左肩に担ぐように抱えなおし、右手でワイヤーを繰って、襲い掛かってきた相手を転倒、或いはその手足の腱を断ち切って最低限の制圧行動をとりながら、そのままホテルの周りを囲っている柵へと飛び乗ってそのまま敷地の外へと飛び出した。
そこで、小さく舌打ちをしながらエレインはこう呟く。
「撃ってこない……? 精神干渉の影響を受けた視線も感じないし、視線誘導の効果をうまく振り切ってかくれんぼってところかしら」
つくづく用心深い相手だと実感し、彼女は心底厄介だとため息をつく。そんな様子でありながらも、油断なく周囲を警戒し、視線を巡らせながら一直線に狙撃手が居るであろう場所へと駆けていく。
そう、一直線に、だ。道も、民家も、それを囲う塀も関係ない。
それらを時に飛び越え、時に切り裂きながら、エレインは最短距離を通って相手との距離を詰めて行く。
だが、操られた人間が手にしていた凶器、或いは石などが豪速で飛来し、彼女は忌々し気に顔を顰めながら民家に飛び込んだタイミングで素早く物陰へと身を滑り込ませた。
飛来したそれらの凶器は、人間の箍が外れてしまった腕力によって投擲されたものであり、その一つ一つがちょっとした弾丸並みの威力を持っている。
しかもそれらがかなりの精度でエレインの背中めがけて殺到したのだ。
彼女だけならいざ知らず、藤次を抱えているこの状況で、それらをさばき切ることは難しく、物陰に身を隠すという方策を取らざるを得ない。
そんな状況に、彼女は苛立たし気に声を荒げながら、藤次を守るように体を丸めて、それらをやり過ごす。
「ああもう! これだから視線を集めるのは嫌なのよ…… 既に操られている人間に精神干渉のほうは効かないみたいだし、これじゃいい的だわ」
彼女はインキュパスと倩兮女の混血児である関係上、男女問わず視線を強制的に集め、精神に干渉してしまうという体質を持ち合わせてしまっている。
エレインは生まれつきそうだった。
だからこそ、自身の影響下にある存在はすぐに分かる。すぐに分かってしまう程、彼女はその体質に幼いころ振り回されていた。
幾人かの存在との交流を経て、エレインはそれを抑え込む術と心構えを身に着けることが出来たが、今は治癒の術やワイヤーを繰るのに神経を注ぎ込んでいるため、それが出来なくなっているのだ。
それ故に、彼女は今視線を集めやすく、隠れても発見されやすい状態になっている上に、視線を集めるという特性上、相手が飛び道具を扱う際、その命中率が上がるというおまけつき。
操られている人間は既に精神を完全に掌握された状態であるため、彼女の体質による精神干渉が入り込む余地が存在しなくなっているため、彼らに対してはほぼほぼデメリットしか存在していないという訳だ。
囮として動く時ならいざ知らず、お荷物を一人抱えた状態でそれはあまりにもまずい。
惹きつけてしまう攻撃は、そのまま藤次の命を危険に晒してしまう。だから、先ほどの彼を投げ飛ばしたエレインの行為は、ある意味で最も確実に命を守るために必要な行動でもあったのだ。
「シーソーゲームは好きじゃないのに…… 本当に厄介な相手ね」
彼女は忌々しげにつぶやきながらも、投擲の間隔が緩んだ瞬間に、ワイヤーを伸ばして飛び込んだ屋内にあった小さな鏡を絡めとると、それを傾けて周囲の様子を探る。
「あはは…… うそでしょう……!」
そして、エレインは、半ば悲鳴に近い声を上げながら、藤次を抱えてホテルとは対角線上の方向へと弾かれたように駆け出した。
彼女が見たもの。それは、アサルトライフルを構えた男が、その銃身に取り付けられたグレネードランチャーの引金を引き絞る光景。
反射的にエレインが行動を起こした次の瞬間、彼女の背後で耳をつんざくような爆音が響き渡った。