人差し指で床をこすると、キュッという子気味のいい音がして、僕は濡れ雑巾から手を放す。
弦巻邸は広いから、その掃除は黒服さんたちが数人がかりで協力して行っている。
将来は黒服さんたちの仲間入りをと志す僕も、職業体験にと手伝わさせてもらっているんだけれど、これがなかなか大変で骨が折れる。
まずは簡単なことからとやってみてこのざまだから、やっぱり黒服さんたちはすごいなっていう憧れと、僕もまだまだだなっていう落胆が入り混じった複雑な感情になる。
まあ、いきなり上手くいくだろうなんて思っちゃいない。
幼いころからずっと、時間をかけて努力してきた。僕が非凡な人間じゃないことくらい自覚している。
「そろそろかなぁ」
壁に掛かった時計の短針が五を指していて、僕は一人呟いた。
今日も昨日に引き続き、僕は学校から一人で帰宅した。
昨日のいざこざが原因ではない。
そのことについては今朝こころが「なんのことかしら?」って言ってたから関係ないはずだ。こころが忘れっぽい子で助かった。若干棒読みだった気もするけれど、多分僕の気のせいだろう。
だったら、今こころは何をしているのかっていうと、正直全くわからない。
送られてきたメールには『今日も先に帰っていてちょうだい!』としか書かれていなかったし、こころの行動は読めないことで有名だ。
それにしても……落ち着かない。
僕とこころが中学と高校に分かれてそれなりに日がたつというのに、こころがいない時間にはなんだかそわそわしてしまう。
こころを見ているとはらはらするのに、同時に安心もする。
もしかすると、僕は変な奴なのかもしれない。
「ただいまー!」
うぐぐと唸る僕の耳に、聞きなれた元気な声が届いた。
***
「ふぇぇ」
私、松原花音は最近嵐に巻き込まれている。
昨日は売るはずだったドラムで路上ライブをさせられ、今日はお城みたいな家に連れてこられた。
それもこれも、断り切れない意気地なしの私が悪いのだけれど……。
「さあ、行きましょう! 花音に会わせたい人がいるの! バンドの手伝いをしてくれる人よ!」
太陽みたいな笑顔で、こころちゃんは私の手を引く。
高校では異空間だなんて呼ばれているけれど、底なしに明るくて行動力があって、私とは真逆で、私なら絶対無理だと言って投げ出すようなことを簡単にやってのける。すごい女の子。
昨日だって私に勇気をくれて、才能がないって諦めていた、やめるつもりだったドラムが少しだけ楽しいって思えた。
もしかしたら、こころちゃんなら私を変えてくれるかもって思った自分がいた。
でも……私にはまだ勇気が足りない。もう一度人前でドラムを叩けと言われて、上手くできる自信がない。
そんな私の悩みなんてつゆ知らず、こころちゃんはずんずん進んで、おうちのドアをがちゃりと開けた。
「虎太郎! 花音を連れてきたわ!」
玄関先で待っていたのは、虎太郎と呼ばれた男の子だった。
「ふぇぇ」
聞いてない。聞いてないよこころちゃん。その会わせたい人が男の子だなんて……。私ちゃんと話せる自信ないよぉ……。
「おかえり……こんにちは」
相手の男の子、虎太朗さんもこころちゃんから何も聞いていなかったのか、一瞬だけ驚いたように見えた。でも、すぐに落ち着いた表情で挨拶をしてくれた。
緊張しいな私と違って大人びてるなぁっていうのが彼の第一印象。
私より背も高いし、きっと私よりも年上だろうな。この家の人だろうし、こころちゃんのお兄さんとかかな? それにしてはあんまり似てない気もする。
「こ、こんにちは……おじゃまします」
それに対して挨拶さえちゃんと返せない私……情けない。
「花音さんって、こころと二人でライブをしたって言ってたあの花音さんだよね?」
「その花音よ」
「……なるほど」
一人落ち込む私をよそに、こころちゃんと虎太郎さんは話を進める。
こころちゃん経由で私がライブをしたことが伝わっているみたいでかなり恥ずかしい。
変な人だって思われたかも……。
「……それで、今日はうちで何をするのさ」
「顔合わせよ! バンドに入ってくれることになった花音を虎太郎に紹介しようと思ったの!」
「……花音さんはこころが強引に加入させたわけじゃないんだよね?」
「あたりまえじゃない! ね! 花音!」
「ふぇぇ?」
思いがけない質問が飛んできて、私は動揺してしまう。
ちゃんと伝えなきゃいけないのに……確かに強引に誘われて、最初は嫌だったけれど、今はやれるかもって思ってますって。これじゃあこころちゃんが悪者だ。
「え……えと……」
二人の視線が突き刺さる。
こういうときにはっきり口に出せないのが私の良くないところだってずっと前からわかっているのに、私はちっとも進歩できない。
「私……こころちゃんとなら、変われるかもって……」
小さな、ほんの小さな声しか出なくて、こんな声じゃ誰にも聞こえるはずがない。
何も言えなかったら、はたから見たらやめたいって思ってるように見えてしまうのに……。そうじゃないのに……。
「……なるほど」
虎太郎さんが呟いた言葉は私には聞こえなかったけれど、その表情は喜んでいるように見えた。
「まあ、とりあえずやってみましょう。やってみたら、楽しいかもしれないですし」
虎太郎さんはさっきまでとは打って変わって、まるでこころちゃんみたいな強引さでそう言った。
にやりと笑うその笑顔も、こころちゃんを彷彿させて、太陽みたいに暖かい。私に勇気をくれる笑顔。
「私……やってみたいです!」
私を縛る鎖が解けて、声高に言った。
「ほら、言った通りでしょう?」
「絶対強引だったでしょ……」
得意げに言ったこころちゃんに、困り顔で言い換えす虎太郎さんを見て、私は思わず口が動いた。
「太陽が二つあるみたい……」
言い終えて、笑った。緊張はもう解けていた。
「やっぱり、花音は笑顔の天才ね!」
「……だねぇ」
こころちゃんと虎太郎さんも笑っていた。
この二人となら変われるって、そう思えた。
「ところで、虎太郎さんはこころちゃんのお兄さんなんですか?」
まず初めにと、思っていたことを口に出してみた。でも、これはいきなり地雷を踏んでしまったらしい。
こころちゃんは頬を風船みたいに膨らませて、虎太郎さんは苦笑いを浮かべている。
「どう見てもあたしの方がお姉さんじゃない!」
「そ、そうだね……」
どうみても逆だよ、こころちゃん……。
内心そう思ったけれど、私は口をつぐんだ。
***
あれから、こころちゃんが拗ねてしまって、結局何もせずに私たちは解散した。
虎太郎さんから教えてもらったけれど、彼とこころちゃんは兄弟というわけではなく、わけあって小さいころから弦巻家で一緒に暮らしているらしい。
虎太郎さんは中学三年生で、だからこころちゃんは怒ってしまったみたいだ。
学校では見られないこころちゃんの可愛い一面を見られて、なんだかうれしい。
ベッドの上で一人悶えていると、携帯の通知が鳴った。
誰だろうと見てみると、画面に表示された名前は今日連絡先を交換したばかりの虎太郎さんで、すぐにロックを解除する。
『迷惑かけるかもしれませんが、こころのことよろしくお願いします。これからバンド頑張りましょう。
あと、僕は年下なのでさん付けしなくて大丈夫です』
絵文字のない、彼らしい真面目な文章に微笑みながら、メッセージアプリを開いて、友達リストに乗っている『虎太郎さん』を『虎太郎君』に変更した。
変わりたいって、変わろうって、心の底から思えた。
私は自分を表現したいんだ。
これからの想像に胸を膨らませながら、私は部屋の電気を消した。