リ・エスティーゼ王国やバハルス帝国など周辺国家の四大神信仰と違い、スレイン法国は六大神を信仰している。唯一名の残る闇神、スルシャーナを祀る神殿は今宵も静寂に包まれていた。特別な祭事の日を除き、夜半に神殿を訪れるものなどいない。もしいたとしても精々が浮浪者か野良犬くらいだろう。そんな静けさが。今までも、そしてこれからも変わらぬだろうと思われていた愛すべき静寂が突如として破られた。
光が溢れる。比喩ではない。神殿前の石畳から蒼白の閃光が漏れ出る。隙間を縫うように溢れる光は瞬く間に広がり、やがて限界に達した。
白き柱が煌々と立ち昇る。遅れて轟く爆音が地響きとなり周囲を揺らした。神殿前の広場が蜘蛛の巣状に陥没し大穴がぽっかりと口を開く。まるで爆撃でも受けたかのような騒ぎに次々に近隣の建物の明かりが灯る。立ち込める硝煙の向こう、大穴から少女が飛び出した。凶悪な笑顔を振りまく少女は白銀と黒を靡かせ、あろうことか神殿外壁を垂直に駆け抜ける。あっという間に鐘楼の先、十字架の先端に降り立った。ふわりと、重力を全く感じさせない足取りで。猫の額ほどもない足場に。女は目を細め空を仰ぐ。彼女の卓越した動体視力は暗雲立ち込める空に異物を捉えていた。
巨大な蟲。蜂のような外見の腹の膨らんだ蟲が不快な羽音を響かせながら飛翔している。都外へと逃走を図っているようだ。
「あはははは! 待ってよう! もっと遊ぼうよぉおお!!」
少女は
巨大な蟲が両断される。緑の体液を撒き散らし四散した。
「んー?」
その手応えに少女は違和感を覚える。おかしい。てっきりあの蟲が女たちを運んでいるのかと思ったが中身がない。空っぽだ。とするとあのあからさまな蟲は囮か。
「やるじゃない」
ぺろりと舌舐めずり。虫の残骸が市街地へ落下する。おそらく下は大変な騒ぎになっているだろう。知ったことではないが。後は適当に軍部が引き継ぐだろう。
「お」
ぽつりと毛先に水滴が当たる。雨をこの身に感じるなんていつ以来だろうか。探索系の特殊技術を持たぬ身ではこれ以上の追跡は不可能だ。占星千里でもいれば話は違ったかもしれないが。元より六大神の遺産を護るという使命のため自分はこの場を離れることはできない。それこそ
「……うふふ」
目を瞑り、両手に天の恵みをうける番外席次は女の捨て台詞を反芻する。自然と口元が緩んだ。
『──覚えてなさい!』
そうだ、あの女は最後に確かにそう言った。力量差を理解してなお絶望もせず。むしろ対抗策が、あるいは対抗できる誰かを知ってるかのように。その意味するところを想像するだけで頬が火照り下腹部が疼く。最高位天使はとんだ期待はずれだった。まだあの侵入者たちの方が強かったかもしれない。
「また会おうね、美人さん」
女は上気する頬に手を添え恋する乙女のような笑みを浮かべた。
◇◆◇
(失敗した失敗した失敗した……この私が)
ソリュシャンは恥辱に塗れながら汚水の中を泳ぎ続ける。下水路を抜ければやがて川へ至り都外へと逃げおおせるだろう。本来逃走用にエントマが召喚した蟲は無事役割を果たしたようだ。追っ手の気配はない。
(エントマ、大丈夫?)
(うぅ……あの女……殺す……絶対殺すぅうう)
体内のエントマに問いかける。陽光聖典から奪取した治癒系の
どれほどの時間が経っただろうか。いくつかの鉄格子を越え下水が真水に合流する。降りしきる雨にかさ増しされた水量が生み出す激流は生身の人間であれば即座に命を落とすことだろう。水面にわずかに顔を出し辺りを伺う。あの忌まわしき都市から大分離れたようだ。少し冷静になったソリュシャンは今さらながらに〈
◇◆◇
リ・エスティーゼ王国、王都。窓を叩く礫は止むどころかむしろ益々勢いを増していた。大小十二の塔を持つロ・レンテ城内、現国王の住まうヴァレンシア宮殿は天候と同じくらい重苦しい雰囲気に包まれていた。
「おお……ガゼフ……すまぬ、すまぬ」
「父上……」
「お父様のせいではありませんわ」
国王ランポッサ三世はうわ言のように繰り返す。左右から第二王子ザナック・ヴァルレオン・イガナ・ライル・ヴァイセルフや黄金の姫と称される第三王女ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフらが慰めの言葉をかけるが聞こえていない様子だ。王の眼前には棺に収められた男の遺体。顔は白い布で覆われているが、胴や四肢の損傷の激しさが激戦を何よりも雄弁に物語っていた。
王国領エ・ランテル周辺を帝国兵が荒らし回っているという情報があった。事態を重く見たランポッサは勅命を下す。王国戦士長ガゼフ・ストロノーフは数十人の部下と共にこれを鎮圧に向かった。その後、彼は部下共々行方不明となった。数週間後、ガゼフは変わり果てた姿で無言の帰還を果たした。発見した兵士によれば焼かれ滅びた開拓村に部下たちと共に葬られていたらしい。
「あの時、秘宝を貸し与えていればこんなことには……」
絶望のあまり両手で顔を覆う。悔やんでも悔やみきれない。王国に伝わる四つの秘宝。
◇◆◇
「無事か?」
「ああ……あの子が庇ってくれたからな」
「しかし……これは」
神官長たちは通路に転がる
「魔神をも滅ぼしたとされる最高位天使がこうも容易く……」
「あの子の力は我々の想像以上なのかもしれぬ」
「わずかにしか見えなんだがあの女たちはやはり……」
魔神か、それとも神の降臨か。神官長たちは瓦礫で完全に塞がれた通路に視線を向ける。此度の揺り戻しは最悪の結果に終わったかもしれない。しかし悪いことばかりではない。神人たる彼女の力が証明されたのもまた事実。もし再び
苦悩する神官長の一人、レイモン・ザーグ・ローランサンに〈
「おお! それは真か!」
「何事だ、レイモンよ」
「待て、待つのだ。もう一度言ってくれぬか? この歳になると耳が遠くていかん」
気色ばむレイモンに他の神官長が問いただす。レイモンはそんな同胞たちを制し、必死に耳を傾けた。
『
それは、スレイン法国が待ち望んだ最強の手札を手にした瞬間だった。
第一部完!
次回は王国か、それともあの国か。