竜王国がブラックスケイル州と呼ばれるようになり数週間。
冬の匂いが混じるようになった風に吹かれながら、デミウルゴスはコキュートスと共に黒き湖を眺めていた。
「これだけ大きな生簀をいただけるとはね。」
エリュエンティウで交配を行った稚魚を抱え、この世界の命が一つも存在しない水場に放した。
ずっと地上に良い生簀がないかと探していたが、生態系を守ると言う至上命令がある為、これまで天空城から魚が持ち出される事はなかった。
「コレガアレバ
「居着いてくれれば、ではあるけれどね。」
天空城は拠点維持システムによってある程度気候を操作されている。
魚達が管理されることの無いこの空の下で生きられるのかはまだ分からない。
小舟に乗った
花と水草が浮かび、黒き水底にその形の陰を落とす。
アインズの焼き付けた漆黒に染まる水底はアダマンタイト級冒険者が叩いたとしても壊れないのではないかと思われるほどに硬く、とても植物を植えられるような様子はない。
しかし、そのおかげで土が水を吸わずにこうして生簀になるのだ。
湖底に所々散りばめられるように存在するガラス状の部分が水面越しに光を反射すると、その度にデミウルゴスは眩しそうに宝石の目を細めた。
「ところで、
視線の先では人間の倍はあるように見える大柄な二足歩行の生き物達が、湖に向かって手を掲げていた。
その手からは魔法によって生み出される水がドドド…と無限に送り出されている。
雨だけでは足りず、まだ水位が低い為だ。
「アレハ
「なるほど。後で蜥蜴達と挨拶させておいた方が良さそうだね。」
聖王国を襲い、数を減らされた亜人達も今はコキュートスが面倒を見ていて――と言ってもたまに不満がないか聞いて回る程度だが――立派な神聖魔導国民だ。
強き者に従う亜人はたまに欠伸をしながら水を流し続けた。
暫く様子を眺めていると、二人は支配者達の出す濃厚な気配を感知し、サッと身なりを確認する。
コキュートスは全裸だが埃で汚れていないかなど確認すべき点は多くある。
守護者達は並ぶと軽く頭を下げて二人を待った。
「アインズ様、フラミー様。イラッシャイマセ。」
「アインズ様、この度は素晴らしい生簀を誠にありがとうございます。」
草花がぼんやりと浮かぶ美しい黒き湖を背にする守護者の下に着くとアインズは軽く手を振り、頭を下げる二人に直るように促した。
「あぁ。これは埋めなくて正解だったな。お前達も気に入っているようで何よりだ。」
アインズは雨の止んだ日に双子と再びここを訪れたが、水が溜まっている様子に生簀を欲しがっていた忠臣を思い出し埋め立てをやめた。
いつも出突っ張りでよく働くデミウルゴスに何でもいいから欲しがっているものをと与えたが、想像より気に入っているようだった。
デミウルゴスの一週間は実にハードだ。
パンドラズアクターと共にミノタウロスの王国へ魔導国羊達の牧場指導講義に行く日。
コキュートス達と魚の研究をする日。
デミウルゴス牧場に行く日。
聖王国の面倒を見に行く日。
ジルクニフの教育に行く日。
ドラウディロンの教育に行く日。
そして、最後に休日。
一応休日は与えているが、上記のどこかしらに出かけ仕事を行なっているようで、基本的に休んでいる様子はない。
「わぁ。なんだかとっても綺麗なところになっちゃいましたね!」
フラミーが嬉しそうに湖を眺める姿は美しかった。
髪が秋の風に運ばれるように流されて行く。
「恐レ入リマス。今後モット整備ガ進メバ更ニ美シクナルカト。」
「違うよコキュートス。――フラミー様がいらっしゃる今、ここは世界で一番美しい場所になりました。」
「ム。ソレハソウダナ。」
デミウルゴスは相変わらず息をするようにフラミーを褒めた。
今日も主人を眺める瞳の色は変わらない。
またそんな事言って、と照れるフラミーは幸せの只中のようにふわりと笑った。
ここの所のフラミーはずっと上機嫌だ。
アインズが用済みになった元女王をようやく切り捨て、デミウルゴスは心底安心した。
これでフラミーが泣くことは――減るだろう。
しかし、人の身の時に迫るアルベド、骨の身の時に迫るシャルティアと、敵はまだまだいる。
支配者は支配者の思うようにするべきだからしてフラミーを守れるのは――デミウルゴスは気を引き締め直した。
「それにしても珍しい亜人がいるじゃないか。あんな奴がいたか?」
「ハ。聖王国ヲ襲ワセタ者達ノ中ニオリマシタ。御紹介イタシマスノデコチラヘドウゾ。」
アインズがコキュートスに連れられ亜人の下へ行き話を始めると、フラミーとデミウルゴスは草や花を撒く
「これだけ広いなら、生簀にするだけじゃなくって半分くらい水上都市とか作れたら良いですね!」
「素晴らしいお考えです。ビーストマンの国を丸ごと飲み込んでいるだけあり、ここは国や街を築けるだけの広さも、ある程度安定した気候も揃っております。きっと御身の望まれる都市を作り出しましょう。」
湖は相当広かった。
歩いて一周回ろうとすれば何時間もかかるだろう。
「デミウルゴス様、ここに国があったのですか?」
共に乗っていたザリュースは作業の手を止めていた。
「そうですよ。アインズ様がここを創り変えたんです。」
「そ、それで、ビーストマンという生き物は今はどこに…?」
その顔はいつもより青い気がした。
「ビーストマンは私の庇護の下幸せに暮らしていますとも。時には他の種族の者と協力し合いながら。それが何か?」
「それはそうですよね。ははは。何でもありません。」
ザリュースは止まっていた手を再び動かした。
ビーストマンは人間との異種交配組と、純然たるビーストマンに分けて飼育している。
ミノタウロス達は人間と混ざったビーストマンの方が好きなようだが、亜人達には純血の方が好まれることが分かっている為だ。
いつしか天空城から回収してきた植物もなくなると、小舟は岸に着けられた。
ドヤドヤと
「如何なさいましたか?フラミー様。」
「あ、へへ。私、お船初めてだったから、もうちょぴっと、なんて。」
そういうフラミーは照れ臭そうだった。
「初めて…。また御身の…初めてを…。」
昔初飛行も共にしたデミウルゴスは一瞬だけ悩むと、船に片足を掛け直し、「子供みたいでやんなっちゃうね」と笑う至上の存在に手を伸ばした。
「お付き合い致します。私が漕ぎましょう。さぁ、お手を。」
パッと顔を明るくしたフラミーはデミウルゴスの手を取り、船に足をかける。
「お気をつけください。」
手袋をする手に支えられながらフラミーが座ると、デミウルゴスも乗り込み、タプリと船は僅かに揺れた。
船が水と、満遍なく撒かれた植物達の間を進む中、フラミーは湖を撫でるように水へ手を浸した。
「綺麗ですね、ほんと。」
「御身がいらっしゃればこそでございます。」
「ふふ、またそれですか?」
デミウルゴスはせっかく
「何度でもお伝えいたします。この世界は御身がいてこそ美しいと。」
「至高の存在って、すごい。」
フラミーはクスクス笑うと一つ花をすくい、揺れる船の上でよろけながら立ち上がった。
「あ、危のうございます。」
デミウルゴスが両腕を伸ばすと、フラミーはその肩に片手を付きスーツの胸ポケットに花を刺した。
「お返し。」
デミウルゴスは胸の花――いや、心臓に触れた。
岸辺にいるアインズはそんな二人の様子をやきもきしながら眺めた。
早く想いを伝えて振られてくれ。支配者は割と酷い男だ。
「父上、宜しいので?」
ミノタウロスの国と湖の距離を計りに来たパンドラズ・アクターが船とアインズを交互に見ていた。
「…フラミーさんは私とドラウディロンが結婚しても良いと思ってくれた程の人だぞ。私が息子と船に乗ってるだけのあの人を許せなくてどうする…。」
「では私がお邪魔を。」
父のためウキウキと何かを始めようとする埴輪を取り押さえるとアインズは黒い点を見つめた。
これは自分自身だ。
「お、お前…まさか……。」
「何か…?」
パンドラズ・アクターが可愛らしく小首を傾げると、アインズは必死に何かを見極めようとした。