その日、国から冒険者組合に海を渡る手当が出される旨が通達された。
どの都市の冒険者組合にも行政官の
「最も大きな幽霊船を二隻海へ出すから、まず第一回目の航海団を編成したい。」
「かしこまりました。」
冒険者組合長アインザックは冒険者現役時代を思わせるスピードで頭を下げた。緊張でガチガチだ。
それに比べて、護衛に天使を引き連れ、ソファで足を組む目の前の神の、その堂々たる振る舞いたるや――。
(生きる世界が違いすぎる…。)
優雅に過ごす相手は神。世界が違って当たり前だ。
「念の為、うちからも何人か
「そうして頂けると助かります。集合場所はどちらに?」
「出発地点はローブル聖王国を予定している。」
「聖王国ですね。――若い冒険者もよろしいですか?」
前回回ってきた防衛点検の話がオリハルコン級以上だった為、念のため確認する。
「人材は一切問わない。強いて言うなら、聖王国の海には
「なるほど、かしこまりました。」
アインザックは書類に丁寧にメモを取った。
これまでは命のやり取りがすぐ側にあった為、海を渡ろうと思う者などいなかった。
それに、渡ってきた者もいない。
恐らく海の向こうは三年前までのこの世界の様に混沌とし、その日を暮らす事に精一杯なのだろう。
もしくは――無限に広がる死の世界――。
アインザックの背に汗が流れた。
「陛下…向こうはどのような場所なのでしょう…。」
思わず聞いてしまう。目の前の人物はこの世界を創った張本人なのだ。
「ん…?それは勿論美しい世界が広がっているはずだろうな。まぁ、余計な事をしている者がいなければではあるが。」
「おぉ…。」
その手を離れる前の、美しい世界を思い浮かべている創造主の様子に、思わず感嘆の声が漏れる。
「――この世界の美しさをお前達にも解って欲しいが…解るだろうかな…。」
どこか遠い所を眺める様な雰囲気だった。
骸の眼窩に灯る火は消え、目を閉じたのだろう。
アインザックは神が冒険者達に冒険に出て欲しいと願う本当の理由がわかった気がした。
冒険者達の目を通して世界の美しさを知らせる事こそが本当の神の望みなのかもしれない。
「陛下は変わりませんな。」
アインザックは思わずふっと笑いを漏らしてしまう。魔樹討伐の際に見た優しく大きな背中を思い出したのだ。
「…変わらなければいけないんだがな。私ももう父なのだから、その称号に相応しい者にならなければ。余りふざけてふらふらもしていられん。」
「は、そうでした。陛下、この度は光神陛下のご懐妊、誠におめでとうございます。」
一番に言わなければいけなかった事だと言うのに、つい神の訪問に浮き足立ち忘れていた。
神官達は誕生祭に向けて準備に忙しくしている。
「陛下ほど偉大な御方もおりますまい。陛下はきっとお世継ぎ様に尊敬される素晴らしい父君になられるでしょう。」
「ありがとう…アインザックさ――んん、アインザックよ。素晴らしい父か。そうなれるよう努力するしかないな。そう言えば、お前は子はいるのか?」
「はい、不肖の息子がおります。のんべんだらりと生活しておりますよ。そろそろ嫁でも貰ってくれれば良いんですが。中々相手も見つからないものですね。」
はぁ、とため息を吐き――なんて話をしているんだと慌てて口を塞いだ。
圧倒的上位者だと言うのに何故か妙に親近感を覚えてしまう。いや、圧倒的上位者だからこそ、守られている感じがして安心してしまうのだろうか。
「そうか、そうか。しかし、愛する者が見つかるまで待ってやるのも親の務めだろう。早く良い相手が見つかると良いな、私も楽しみだ。」
和やかな空気が流れる。アインザックは恐れ入りますとはにかんだ。
「つかぬ事をお聞きしますが、殿下はまだご結婚はされないのですか?」
「ははは、まだ産まれてもいないのに気が早いな。」
「あ、いえ。パンドラズ・アクター殿下はどうなのかと。」
ジッと観察されるように見られ、何かおかしなことを言ったかなと焦る。
「……あれは確かに我が手で生み出した子だが…守護者に過ぎない。殿下と呼ぶのは間違いだ。」
「…何が違うのでしょうか?」
アインザックが首を傾げると、なんと説明したものかと唸ってしまった。
「あれは愛する者の腹から血を分けて生まれてきた訳ではないからな…。守護者達は指先一つで生まれてくるものだ。子は子でも根本的に違うんだが…兎も角、まぁ、そう言う訳だ。」
「…な、なるほど。指先一つで…。」
あれほどの存在を指先一つで。アインザックは物憂げに頬杖をついた手をついつい観察してしまう。
「弟とは言って来たが…あいつがうちの長男なのか…?いや…違うよな…。そう言えばティトもあいつを殿下とか呼んでいた気がする…。」
小さな声で何やらぶつぶつ呟く神はテーブルに乗っているアイスマキャティアを手に取り、口に運びかけるとピタリと止まった。
何だろうと見ていると、ポンっと小さな煙と共に人の姿になり、ようやく口をつけた。
アインザックは不思議なものだと思うと同時に、美しいと思わずにはいられなかった。
天は二物を与えずと言うが、天そのものは二物を持つらしい。
「さて、そろそろ帰るか。馳走になった。」
見惚れていると、グラスをテーブルに戻し神は立ち上がった。
「あ、いえ!お送りいたします。」
アインザックも慌てて立ち上がり、扉に向かう。
「アインザック。」
「は!」
ノブに伸ばしていた手を引っ込め振り返ると、どこかで見た事がある瞳が揺れていた。
誰がこう言う目をしていたんだったかと必死に記憶を手繰るが、思い出せない。
もう少し見ていれば記憶の糸に触れられそうだが――そうも行かない。
「また、
いつもより若く聞こえた気がするその声音に、笑顔で首肯した。
アインズは護衛の天使達を連れて冒険者組合を後にするとナザリックに帰還した。今日の仕事の一つ目はこれで完了だ。
今日残りしなければいけない事は、トロールの実験、アンデッド創造、毎日の執務、フラミーの部屋で行われる勉強会への参加――。
意外とやる事がある。そして今日はこれに加えてもう一つ。
少しばかり重い足取りでフラミーの部屋へ向かうと、扉の左右に立つコキュートス配下の者達が頭を下げた。勝手に扉を開け、中に足を踏み入れる。
「こんこーん、フラミーさーん。」
「あ、アインズさん!」
本に埋もれるフラミーが顔を上げた。
僕達を部屋の隅に追いやっていて、リアルの黒歴史を記しているようだった。
ただ、ヴィクティムだけはその斜め後ろにふよふよと浮いている。
「禁書、進んでますか?」
優しく髪を撫でるとフラミーは唸った。
「うーん…進んでるような進んでないような…。」
「難しいですよね、俺もやらなきゃな。」
アインズはそのまま本の中から、いつもより幾分もおめかししているフラミーを抱き上げる。
応じるフラミーも当然のように腕をブイの字に広げ、アインズの首に腕を回した。
フラミーはまた少し重たくなったようだった。
「はぁ。私がもう少し賢かったらなぁ…。」
「俺ももう少し賢かったらって毎日思います。それより、もう出かける準備は済んでるんですか?」
「はい!いつでもお出かけできます!」
満面の笑みを浮かべたフラミーの髪にしばし鼻を埋めると、その匂いを嗅いだ。これから行く場所へアインズの不安は募る一方だった。
「…フラミーさん、やっぱりやめませんか…?」
腕の中の人は困ったように笑った。
「でも、ドラウさん、せっかく招待してくれましたから。」
そう、フラミーの懐妊を知ったドラウディロンはお茶会をしようとフラミーを誘ってきたのだ。
一年前の一悶着以来文通をしている二人の間には二週に一度は手紙のやり取りがある。
アインズは嫌だった。何も知らないドラウディロンがまた余計な事を言うんじゃないか恐ろしかった。
それに――「
「だから、一緒に来てくれるんでしょう…?」
「そりゃ行きますけど…。」
うじうじとアインズが唸っていると、その腕から、愛らしい声が響いた。
『モモンガお兄ちゃん!時間だよ!モモンガお兄ちゃ――』
アインズはピッとそれを止めた。
「…はぁ…時間だ…。」
「ごめんね、アインズさん。」
申し訳なさそうな顔をされると胸が痛む。
「良いですよ…。フラミーさんが楽しいなら良いんです…。でも、決して俺から離れないと誓ってくれますね…。」
「誓います。」
首に手を回して礼とでも言うように頬へ口づけを送るフラミーの背をポンと叩く。
アインズは<
そして「お前達も来るんだ。」と、エ・ランテルで引き連れていた八十レベル代の六体の天使――
くぐった先は州庁となった城の噴水の前だ。
途端にワッと拍手が響き、アインズは一瞬びくりと肩を震わせた。
城の者総出で迎えてくれたようだった。
「フラミー殿!それに陛下も!」
ドラウディロンがアインズへ――いや、アインズが抱えているフラミーへ駆け寄って来る。
可能な限りの索敵を行いつつ、一歩下がった。
浮いているヴィクティムも辺りとドラウディロンを警戒しているようだ。
「ドラウさん!お元気でしたか!」
「あぁ!フラミー殿も順調そうだな!」
仲睦まじく二人が話し始めると、かつて宰相だった男が駆け寄ってきた。
彼はブラックスケイル州と名をこの地が改めてからは都市長としてドラウディロンの下で働いている。
しかし、皆その者の事は、愛情を込めて今でもこう呼ぶ。
「宰相――変わらないな。」
「陛下方!ご無沙汰しております!そして、この度は誠におめでとうございます!お茶会の席は光神陛下がリラックスしてお過ごし頂けるようにと、城のテラスに準備を済ませております。さぁ、どうぞこちらへ!」
早速先導を始めた宰相はデミウルゴスやシャルティアからの評判もすこぶる良い。
アインズはフラミーを抱いたままその背を追った。
テラスに出されたテーブルには三段のアフタヌーンティーのセットが出されていて、テキパキとメイドがポットに湯を注ぎ、茶を淹れていた。
ジルクニフの所にもメイドが残ったが、ここもやはりメイドはいるようだ。
どちらも名前と肩書きが変わっただけで、これまでと生活は大して変わっていない。ただ、仕事は少し減っただろうが。
「あ、私紅茶はやめてるんです。合わなくって…。」
「あぁ。手紙でそう言っていたから、ローズヒップティーにさせた。安心してくれ!」
執事が一人掛けソファを引くと、アインズはフラミーをそのソファへ下ろした。
執事は次の椅子を引き、アインズが座る。
続いてドラウディロンも座り、三人でテーブルを輪になり囲んだ。
「もう結構お腹も大きくなっているんだな。冬には産まれるんだったか?」
「ふふ、そんな予定ではいるんですけど、ちゃんと予定通りに出てきてくれるのかなぁ。」
フラミーが腹を撫でると、ドラウディロンも椅子から軽く腰を浮かせ、腹に触ろうと手を伸ばす。
――アインズは身を乗り出したドラウディロンの伸ばしていない方の手を取ると引っ張った。
するとドラウディロンの手はフラミーに届かず、ポスンッと再びソファに腰を落とした。
「っあ、あいんずどの…?あ、じゃなくて、へいか…。」
「あ…すまん。ついな。」
「ん、いや、いいんだ…。えっと…行儀が悪くてすまない。」
アインズは流石に警戒しすぎだと首を振る。
ヴィクティムが困ったように笑うフラミーの腹の横に降り、触れられそうになった所を両手で丁寧にのしのしと撫で、小さな声で中へ話しかけた。
「
ヴィクティムは穏やかだがやはり守護者だ。
フラミーとドラウディロンの間にいることに決めたようで、再び浮かび上がろうとはしなかった。
そしてアインズはローズヒップティーに口をつけると呟いた。
「――うまい。」
ナザリックの物では感じない、素朴な味だった。
「あはっ!そうだろう!それはうちの城庭に咲いたものを私が乾燥させたんだ。」
「え!じゃあお手製ですね!すごい!」
ドラウディロンが曇りのない笑顔で栽培と乾燥について説明するのをフラミーはふんふん聞いた。
二人の和やかな会話を聞きながら、アインズはフラミーをぼんやりと眺めた。
確かに友人といる時のこの人はこうだった。
円卓の間や、アウラとマーレの暮らす大樹で、ぶくぶく茶釜、餡ころもっちもち、やまいこの四人でよく話していたのを思い出す。
もう遥か遠い昔のようだった。
「やはり友達はいいな。」
アインズは楽しげに話すフラミーを見ると幸せそうに笑った。