フィリップ・ディドン・リイル・モチャラスは前まで来るとひょこひょこと軽くジャンプをしていた。
巨大な竜達が神と何かを話しているせいで何も見えないのだ。
しかし、この者達の後、人間の中で一番に顔を見せれば必ず自分の存在は記憶に残るだろう。
竜達が去るのを待ちワクワクとその時を待つ。
すると、一匹の七色に輝く竜がこちらへ向いた。
「ドラウディロン、来なさい。ゴウン君の子は素晴らしい。」
ドラウディロンと呼ばれた者はわずかに迷うような仕草を見せてから前へ進んだ。
(っち。何者だか知らんが譲ってやるか。)
竜達の輪の中から柔らかな女性達の笑い声が聞こえたかと思うと――
「貴様は何を言っているんだ!!やるわけがないだろう!!」
――刹那、時間が静止したように感じた。
鳥肌が一瞬で全身を覆い尽くした。
まるで星が降ってきたのではないかというほどの衝撃をもって――恐らく神から放たれたであろう殺意のような気配が満ちたのだ。
皆歓談していたが、呆然とそちらへ視線を向けた。
幾人かがグラスを落としたり、尻餅をついたりする音がした。
静寂の中、「あ…んぁ…!」と幼い泣きそうな声が通った次の瞬間、「<
「
自分の傍をヒュンッと風切り音が鳴ったと思うと、白金の鎧を着た者が踏み出していった。
まるで世界から全ての光が失われたようにすら感じたが、いつの間にか空気は戻り、フィリップには冷静な思考が返ってくる。
(ナインズって…殿下を呼び捨てにするなんてさっきの奴は何者だ?)
場合によってはそっちから外堀を埋めてもいいかもしれない。
鎧がしっしと追い払うと、竜達は「やはり神王の力は継げる」と、あれだけ怒鳴られたと言うのにどこか楽しげに大聖堂を立ち去って行った。
少し狭さを感じさせていた大聖堂が途端に広々とすると、人々は空いたスペースへざわざわと動き出した。
ドラウディロンも戻ってくると、深々と周囲の者達に頭を下げた。
(仕方がないから許してやるよ…。ったく神を怒らせやがって。)
フィリップはあんなに恐ろしい思いはおそらく今後一生しないだろうと確信した。
よく漏らしたり気絶しなかったと自分を褒めたい。
気付けば立っていた神への視線が通っていた。
「皆すまなかったな。少し感情が昂ぶってしまったようだ。決して君達に向けたものではない。楽にしてくれ。」
恐ろしいまでに美しい神は腰に手を当てハァ…と怒りを吐き出し、座ると、その背に隠されていた女神が見えた。
その瞬間全ての恐れは吹き飛んだ。
(おお…美しいな…!)
神の手をさすり微笑みかけ、何か慰めるような雰囲気の女神は、輝いているようだった。
その後ろに控える青い虫の守護神以外――双子の守護神と銀髪の少女の守護神も美しい。
(守護神は国民と結婚する事もあると有名だからな。神都でなり上がれば、神直々にこの守護神達をあてがおうとするかもしれない。神に最も近い所まで行き着けば――女神だって絶対に無理なんて言えないさ。)
神王と女神の間には枷があるらしいという噂がまことしやかに囁かれている。
女神は生の神であるからして、繋がりを持ち精を注がれなくても処女妊娠するのではと言う話もある程だ。
フィリップは熱意が下腹部から湧き上がってくるのを感じた。
(あんな美人を組み敷いて初めてを奪えたら最高だよな。)
神の子を抱き上げようと女神が背を向けると、フィリップはドキリと胸を高鳴らせた。
見えたのは一瞬だが、そのドレスローブの背は、翼を出すため大きく開いていた。左右の翼の間に細いマントがかけられ、動くと時折隙間から背が丸見えになるのだ。
妄想が頭の中いっぱいに広がりそうになり、さすがに股間を膨らませたりはできないと慌てて歩みを進め出した。
すると、ポンっと肩に手を置かれた。
「失礼、貴君はどこの誰かな?新しい地を統べる者か?」
金髪から美しい紫色の瞳を覗かせる男がフィリップの肩を叩いていた。
「んん。自分はフィリップ・ディドン・リイル・モチャラスと申します。」
「モチャラス?聞いたことがないな。いや、失礼。私はジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。バハルス州を預かる者だ。評議員の次には誰が拝謁すると我々の間で話が付いているのだが…どこかの新しい支配者かな。」
――支配者。
何と甘美な響きだろう。
フィリップは思わず口元が緩んでしまいそうになった。
「自分は、そうですね。神都を将来預かることになるでしょう。ふふふ。」
「神都を…?」
周りの空気が変化しているのが感じ取れる。
軽く視線を動かすと、一度見たことがある元王女ラナーとザナック元王子にすら驚きの色があった。
この神主催のパーティーにおいて、今、世界中の権力者達の耳目を集めていると言う実感は悦楽の極みだった。
しかも今話している相手は間違いなく、あの鮮血帝。
(俺は、俺は今、中心に立っているんだ!!)
今日の一張羅は最高に決まっているし、着実に上り詰めている。そう思うと、信じられないような興奮がフィリップを支配した。
(そうだ!俺こそがフィリップ!見ていろ!これから神聖魔導国の中心に立つ者の姿を!)
フィリップが大いに浸っていると、視線が別の方向へ流れて行くのを感じた。
「――おい、最神官長。」
その声にフィリップの胸がどきりと鳴る。
カツン、カツン、と杖が床を叩く音が響き、顔を上げれば、神がいた。
「神都に都知事でも付けるのか?見ない者だが。」
まじまじと覗き込む真夜中の黒を思い出させる瞳の中には、星が散りばめられたような輝きがあった。
王は「いや、聞いてたっけ?」と呟いた気がした。
(こ、ここで気圧されてはいけない!この存在と共に歩む者になるんだ!)
「し、神王陛下!自分は――」
「許可なく喋りんせんでくんなまし。今アインズ様はおんしではなく最神官長に話し掛けた事もわからないんでありんすか?」
それは銀髪の美しい守護神だった。力などなさそうな少女はチラリとフィリップを見て、ふんっと高慢に鼻を鳴らし、真紅の瞳には嘲りの色があった。
「今日はバカな奴が多いねー。」「ほ、ほんとだね。お姉ちゃん。」
双子もフィリップを見下しているようだ。
自己紹介の機会を奪われたフィリップの顔が不快げに歪んでいく中、最神官長だと思われる者が神の前に膝をつき、立つように促される。
神は一々こんな風に跪かれて、立つように指示をするのかと驚く。
「都知事を置くなどの予定は今のところございません。申し訳ありませんがあなた様はどちらの…?」
フィリップは今度こそ自己紹介の時が来たと胸を張る。
「私は――」
「フィリップ!!この馬鹿者が!!」
兄の叫ぶような声が響いた。
フィリップの頭の中には一瞬で「恥をかかされた!」と言う言葉が無数に浮かんだ。
その罵声はまるで父のようで、フィリップのこれまでの人生で溜め込んできた燃料を糧に燻って来た炎を一気に燃え上がらせた。
フィリップは目の前に現れた顔面蒼白の兄を心から軽蔑した。
「皆様失礼いたしました。私達はリ・エスティーゼ州の――」
「兄上!今は私が名乗ろうとしていたところです!」
兄はフィリップを無視し、滔々と自分が何者なのかを語り、フィリップの事まで紹介した。しかし、紹介の文句は「うちの恥さらしの三男」だ。
怒りに顔が赤くなるのを止められない。
神は既に興味を失ったように神の子を抱く女神の頭を撫でていた。
しかし、兄が「朝な夕なに働き詰めで一日二時間程度しか眠れず」と言うと、ハッとこちらを見た。
兄の無能ぶりを叱ってくれるのかと思うとゾクゾクする。
「お前は休む間も無く働き詰めだったせいで、この弟に介助を頼んだと言うんだな。」
「は、はい…あ、いえ、働いたせいと言うのは語弊があるかもしれません。やり甲斐のある仕事ですので、働くことは良いのですが――」
「ダメだ。お前の働き方は間違っている。――ヴァイセルフ!」
「は!!」
転げるような勢いでジルクニフの脇からザナックが飛び出していく。
その向こうにいたラナーの目付きはとても鋭く、黄金の知事と伝え聞く女性の表情からはとても想像ができない程の冷たさだった。
「お前の州はこんな労働を見過ごしているのか。」
「あ、い、いえ。今は体制の変わり目と言うことで大目に見ております。」
「馬鹿者が。」
静かなつぶやきだった。
「時間が足りなければ私はどうしろと言ってきた。ラナー、兄に教えてやれ。」
「…人を足せと仰せになりました。」
「そうだ。人を足して尚足りなければ次にどうしろと言ってきた。」
「アンデッドの補助を受けるように神殿に申し込みに行けと。」
「その通りだ。ザイトルクワエ州もバハルス州もそうして来たはずだぞ。それを何故リ・エスティーゼだけができんのだ。」
「申し訳ありませんでした。通達が行き渡っておらず…。」
「言い訳は良い。既に過労の者が出ている。お前は妹にもう少しやり方を聞け。ラナーはよくやっている。」
王族だった兄妹は神へ深く頭を下げた。
「兎に角、お兄さんは回復しましょうね。」
話を聞いていた女神は立ち上がると、跪く兄の眼前に来て髪にさしていた蕾を引き抜き向けた。
「あ、あの…エ・ランテルで光神陛下に頂いた命だというのに…申し訳ありませんでした。」
「そんなことは良いんですよ。それより、長時間労働は辛かったでしょう。」
「ありがとうございます…陛下…。」
「いいえ、ちゃんと休憩と睡眠を取ってくださいね。」
蕾から光がポンっと兄に降り注いだ瞬間、ふわりと魔法の風が立ち、フィリップはその紫色の背が見えゴクリと唾を飲んだ。
女神に至近距離で何か癒しを与えられた様子は実に羨ましかった。
「それで、弟、フィリップと言ったか。お前は現状の労働体制を変えるべく私に直談判に来たのか?」
名前を呼ばれ、フィリップは満面の笑みを浮かべた。やはり自分は特別な存在だ。
「あ、私は神都で働きたいのです!」
「ブラックなリ・エスティーゼから出たいと思うことは仕方のない事だろう。私にできることはここまでだ。ヴァイセルフ、変われるな。」
「は。申し訳ありませんでした。そちらの兄弟も申し訳ない。」
ザナックが自分と兄へ頭を下げると、フィリップは絶頂しかけた。相手はかつての王族なのだ。
「どこで働こうとお前の自由だ。しかし、今回のお前の働きでリ・エスティーゼは変わる機会を得た。リ・エスティーゼも悪く無いかもしれんぞ。まぁ、あとは好きにしろ。下がれ。」
神は兄の前にいた女神を抱えると席に戻って行った。
席には神が女神を抱いたまま座り、二人はとろけるような視線を互いに送って恋人のように鼻を擦り付けあった。
(…女神は無理か…。守護神も無礼だしな…。)
しかし、フィリップは実に満たされた。
適当な場所まで下がると、フィリップは兄に礼を言われた。
「お前は何も考えていないのかと思っていたが、ありがとう。」
「ふ。良いのですよ。」
フィリップは神都に出てこようと思っていたが、リ・エスティーゼの中で労働時間を取り締まる者として働いても良いかと思った。
そうすればまたザナックに頭を下げさせることができるし、神に労われる事もあるかもしれない。
(ふふ…スレイン州ではどうやらそう言うことはないようだからな。リ・エスティーゼ州にしがみついてやろう。粗探しだ!)
フィリップのチャレンジはまだまだ始まったばかり。
その後の彼がどうしたかと言うと、リ・エスティーゼ州に建つあらゆる神殿に自分を売り込みに行き、面接に通らず憤慨し――歴史の片隅にも残らない平凡な人生を送ったとか。
しかし、神に名前を呼ばれ、労をねぎらわれたと言う事実だけで彼の心はいつまでも満たされ続けたらしい。