春のうららかな日差しが届くある日。
二足歩行の狼――ワーウルフの若き王、黒く長い毛に覆われるルキースは都市を守る防壁の上に立ち、遠く広がる美しき大地に集まるビーストマン達を眺めると首を傾げた。
「引いていったと思ったら、今度は妙に少ないじゃねーか。」
「は。普段の半数…二万程度かと。」
「舐めてやがるのか、
手を組まれれば厄介だ。
ビーストマンがセイレーンの魅了を手に入れればこの人数相手であっても押し負けかねないだろう。
「普段通り守りを固め、我々とビーストマンの侵入を食い止めようとしているはずです。」
「ビーストマンとのやり取りがこっちを油断させる為の八百長じゃない保証は。」
側近はムム、と悩むとズボンから出ている尻尾をぺたりと足の間に下げた。
「調査隊を出します。」
「そうしろ。あ、そうだ。川を塞いで
側近が急いで立ち去っていくのを見送ると、ルキースは今までのビーストマンとの戦いを振り返る。
何百年も続いてきた因縁の戦いだと言うのに、最近になってビーストマンは突然引いていった。
特にここはワーウルフ王国とビーストマン連邦の距離が一番近い重要地点だ。
今すぐ追撃しようと言う者達、見え透いた罠だと言う者達、月が出る夜に追撃しようと言う者達に分かれ、会議は何度も開かれたが、結論が出ないまま、手をこまねいていたらこうして再びビーストマン達は現れた。
ちなみに、月を待とうと言う者がいたのには訳がある。
満月が昇る夜、ワーウルフ達の毛は銀の武器でしか傷付けられないほどに硬くなるのだ。
ただ、ビーストマン達も当然無策ではなく、満月が近くなると錬金術銀という、塗布すると爪や武器が銀と同じ効果を持つようになる特殊なアイテムを持ち歩くようになる。
しかし、民間人にまで行き渡っているとも思えないので、子供から雌まで力のあるビーストマン連邦に乗り込むならば、やはり満月の夜が良いと思う者もいるわけだ。
(やっぱりこうして現れたっちゅーことは、結局罠だった訳か…?)
ルキースは当然すぐの追撃派だったが、父である前王は慎重派で、父にまだ強い忠誠を感じている部下達のためにも自分からどうこうしようとは言わなかった。
王となり日の浅いルキースに皆が付いて来たいと心から思うまでは辛抱だと思っていたが――今回ばかりは無駄に兵を失わずに済んだかと安堵する。
早く武勲を上げ、皆に強き王としての印象を与えて引っ張って行かなくては。
「セイレーンと手を組んでいない二万程度なら臆病なビーストマン達くらい粉砕できるか…?」
顎の毛を撫でながらルキースはわらわらと整列していくビーストマンを眺めた。
昼間に浮かぶ春の月は上弦。あと七日もすれば満月だ。
「…この二万を七日で破って…満月の夜には相手さんの街に入れたらいいんだがなぁ…。」
若き王は集まり出した自分の兵士達へ手を掲げた。
ギード将軍は約束の日になっても一向に神聖魔導国からの軍が到着する様子がない事にさすがに焦りを感じていた。
半分は受け持ってくれるはずだったというのに。
「ヒプノック、どうだった。」
「ダメですね。来てる様子はありません。」
「…担がれたか…?」
ギードの瞳に刃の輝きが宿る。
眼前には迎え撃とうと、こちらの倍近い数のワーウルフ達が出てきている。
神王に既に作戦を見破られ、支援隊など来なかったら――もしくはワーウルフと手を組んでいたとしたら、いつもの半数で来たのは大きな間違いだ。
念の為、撤退の準備もしておかなくては。
「今回の作戦は破棄することも検討しよう。」
この数でぶつかればかなりの死者が予想される。
「わかりました。ではその旨通達して参ります。」
ヒプノックがくるりと背を向け、小隊長達に伝達に向かおうとすると、ビーストマンの持つ街の方角から、神聖魔導国の旗を掲げた馬車がたった一台向かって来ているのが見えた。
「…あれにデミウルゴス殿が乗っているんだろうか。」
「わかりかねます…。」
二人がごそごそと相談していると、馬車は二人の前で止まり、思わず息を飲んだ。
馬車には巧緻な金細工が施され、夜の海を切り出して来たような黒い車体を上品に彩っている。
ビーストマンの手ではとても作り出せないそれは、いっそ大きな宝箱と呼んでも差し支えのない程のものだ。
しかも、引いて来ていた馬は見たこともない馬型のゴーレム。
「…本当にブラックスケイルという場所はうちよりも劣る街だったんだろうな…。」
ギードの視線にはなんとも皮肉めいた色が浮かんだ。
まるで「お前を信用して行かせたのは間違いだった」とでもいうように。
「そ、そのはずでしたが…。」
ヒプノックの困ったような声が返される中、馬車の扉が開く。
降り立ったのは淡いが照りのある青の体の巨大な異形。
背に生える不思議なクリスタルのようなものが、今日の透き通る空に浮かぶ太陽の光を反射させて複雑な輝きを地に落とした。
「アインズ様、フラミー様、戦場ニ到着イタシマシタ。」
深い声音は母の心臓の音のようだった。
「そうか、ありがとう。コキュートス。」
神王が姿を見せ、続いて神王に大切そうに手を引かれて神王妃も降りて来ると、ギードは何度も瞬きをした。
「…神王殿と神王妃殿も立ち会われるので…?」
こちらとしては暗殺が一度に終わる為ありがたいはずだが、やはり罠ではないかと疑ってしまう。
約束はデミウルゴスと援軍だったのだ。
別にデミウルゴスもこの王を討つ為に討伐したかっただけなので本来ならばこれは都合が良いのだが――罠ではないなら、友好国としてやっていこうと表面上は言い合っているのに如何なものかと思ってしまう。
「当然立ち会うとも。ワーウルフ達は今日我が軍門に降るのだからな。それに私達はこうして出掛けることが好きなんだ。」
はははと楽しげに笑う様は勝利を確信している。
(…一体なんなんだ…。この状況、勝てるわけがない…。)
つい忌々しげな顔をしてしまう。
この王は圧倒的支配者としての風格を纏っているが、実際に怖いのはデミウルゴスだけだ。
あの男から放たれていた殺気は尋常なものではなかった。
取り敢えずいいチャンスなので目の前の王と王妃を殺してしまおうかと思っていると、神王はバサリと肩にかかっていた臙脂色のマントを翻した。
「さぁ、我が軍勢を呼ぼう。<
神王の背後に以前一度みた謎の黒い染みが現れる。
その門からは約束したデミウルゴスが踏み出し、さらにそこから姿を見せた者達は――
――全てが静まり返った。
ただ、異様な空気が辺りを支配する。
静まり返ったその地で、沈黙がキーンと音となって全ビーストマンの耳に届いた。
喉からは焼き付くようにヒリヒリと痛みを感じる。
「これが我が国の軍だ。」
絶句した観客に、神王はどこか誇らしげにその者共を紹介した。
上空には数人のセイレーンが飛び、くるりと翻ると自国へ向かって飛び帰った。
陸と海の間に建つ白亜の平屋造りの宮殿の一室。
海へと直接繋がる扉があり、部屋の半分は水の中に浸かっている奇妙な部屋だ。
数段の階段が水面へ伸びる前には玉座のように絢爛たる椅子が二脚置かれていた。
そこにはそれぞれ、美しいという言葉では足りない絶世の美女達が座っていた。
一人は海より深い濃紺の長い髪から水を滴らせ、耳は大きな皮膜を張り鰭のようになっている。一見すると飾りを付けた人間だが、そのヘソから下はびっしりと輝く鱗に覆われ、二股に分かれた長い尾鰭を持つ。尾鰭は軽くトグロを巻くようにしていて、海蛇が二匹ついているように見える。背鰭を持ち、首には三筋の切れ目のようなエラ、手の指の間には水掻きもあった。
もう一人は柑橘のような橙色の柔らかな髪をハーフアップにし、翼のような耳を覗かせている。やはり一見すると人間だが、その下半身はふっくらとした羽毛に覆われ、ふくらはぎから下は猛禽を思わせる硬質な皮膚がのぞく。生えている黒い鉤爪は三日月のように湾曲し、人間程度であれば容易に引き裂いてしまうだろう。背には大きな翼が生えていた。
二人の持つ全てが麗しかった。
輝くような皮膚、香るような髪、唇は蕾のようで――いちいち取り立てて言うなら、美文辞典が優に一冊編まれるほどである。
「大量のアンデッドがいて、あまりの恐ろしさに帰ってきたですって?これだから男は軟弱でいけない。」
「では死体が山のようにあったの?とっても珍しいわ。」
二人はそれぞれ、自分達の前に平服する顔を青くした男の上半身を持つ
「は。そ、それが、伝説のアンデッドが…いや…そんなはずは…そうだったらあの場で立っていられる者がいるはずが……。」
ぶつぶつと独り言を言っていると、魚の尾がパチンっと床に叩きつけられた。
「ヒメロペー様が死体はあったのかと聞いているのよ。」
「まぁテクルシノエ様。待ってあげましょう。」
ヒメロペーはやわらかな翼でふわりとテルクシノエの背を包んだ。
この国では男は時に女に食われることもある。
魅了の歌の力も女の方が強いため、男の身分はあまり高くない。
「し、失礼いたしました。これまでのように死体は持ち帰って食べているのか遺体は無く、綺麗なものでした。しかし、ビーストマン達の数はわずか二万。いつもなら四、五万は出ておりますし――二万か三万はワーウルフに殺されたのかもしれません。そうなれば、例え死体がなくともアンデッドが湧いてしまうのかも…。」
それを聞くと二人は驚愕に顔を染めた。
「お前、あの者共の力の拮抗が崩れたとでもいうの?」
「まぁ…。貴方、それが何を意味しているか分かっているのかしら。」
「…いえ…。」
「ワーウルフがビーストマンの数の暴力をくだし、こちらにのみ矛先を向け、これまでビーストマンと戦っていた軍も合わせた大軍を送ってくるような事があれば、いつかはこの国は落ちるのよ。」
「満月の夜には魅了の歌も届きにくいわ。ビーストマンとの小競り合いが無くなっては私達は喰われるのみ……。」
三人は海へ開く扉の向こうに視線を投げる。
真昼の上弦の月に目を細めた。
満月まであと七日。
セイレーン聖国の死刑台へのカウントダウンは始まった。