下風月 十五日 9:24
よく晴れた日の朝、三人は再び大下水道の入り口に立っていた。
「よーし!行くぞ!」
シルバの気合い十分な掛け声に、二人は控えめな声で「おー」と答えた。
「何だよぉ、二人とも気合不足だぞ!」
みっちーは辺りを素早く見渡し、やはり控えた声で忠告した。
「大人に見つかったら怒られるから静かに!」
至極もっともなことを言われるとようやくシルバは声を下げた。
「わ、分かってるって。」
みっちーは賢くクールだが、昨日の夜は実は興奮して眠れず、神に拾われた男、モモンの英雄譚――特に神の地ナザリックへの侵攻訓練の章を本に穴があくほど熱心に読んだ。
魔導学院の特進科に行き、フールーダ・パラダインに教えを請う者の中にはポーションの製作等に携わったりして神に目見えるタイミングもあるなんて話がある。
いつかナザリックに入る事を許される一人になりたい。
モモンの英雄譚にはナザリックという地について書かれている章の他に、ある森の一角を征服した魔物の話や、破滅を求め死者召喚をしようとする秘密結社の話など数々の冒険が書かれている。
その本はモモンに多額の取材料を払った
素晴らしい話はみっちーを数々の冒険に連れ出した。
そして何だかんだと大下水道への思いを強めた。
両親が寝静まった頃、みっちーはこっそりランタンやマントをリュックに押し込んだ。
そして、皆で食べる昼食のためにパンを一本。
モモンの冒険譚には外で食事を取り床に座って皆で火を囲むことの素晴らしさが書かれているし、冒険に出るならばそうするべきだろう。
全ての準備が終わる頃、父がまだ起きているのかと扉を開けた所でみっちーは隠れるようにベッドに潜り込み――朝を迎えた。もしかしたら、魔物なんかいないと言っていたみっちーが一番楽しみにしていたかもしれない。
三人はしばらく川に続く大下水道入り口近くで、まるで小魚釣りを楽しんでいるような格好をして大人の往来が無くなるのを待った。
その間にぺーさんの綺麗な翼を隠すようにみっちーが持ってきたマントをかける。
服がどんなに目立たないような質素な色をしていても、この翼は目立つだろう。
「みっちーは準備がいいね!僕、思いもしなかったよ。」
ぺーさんがみっちーのマントを掛け照れ臭そうに笑うと、モモンの英雄譚を思い出しみっちーの胸は高鳴った。
あれの十二ページ目の一説にはこうあった。
――紺色のローブを着た色白の
モモンは神王より女神が与えられたマントを、
ひらりとマントが舞うたびに恭しく、やんごとなきその背を撫でつけ、周りの者から隠す――。
今日のみっちーは黒尽くめだし、今日の二人は漆黒の英雄を称してもいいくらいには決まっていた。シルバは森の賢王ということにしておく。
「へへ、まかせてよ。」
そう言って鼻の先を親指で払う仕草は彼なりに研究した男らしい仕草だ。
そうして、誰もいなくなった時三人は大下水道へ駆け出した。
大下水道の入り口は三人の目を吸い寄せるような闇が奥へ続く。
薄暗い雨の日にこっそり入り込んだ時よりも外の明るさに色濃く闇が映し出され、冒険への興奮に体の芯が熱くなるのと同時に、闇への畏れが背をぞっと寒くした。
これは大人からすればなんてこともない事だろう。しかしたった十年前後の時しか生きていない少年達にすれば、地獄の底へ向かうダンテのような、そんな旅立ちだった。
大下水道への侵入はあっという間もなかった。
とにかく大人に見つからない程度の深さまで行かねばと靴音を立てないよう、背を丸くして奥へ走った。
寒さと下水からあがる湿気がコートを通り抜けて身をつまんだが、三人には大した問題じゃなかった。
むしろ暑くすらある。走っているせいばかりではなく、社会から背を向けていると言う背徳感や、誰のものでもない自分たちだけの冒険譚が編まれていく事への高揚感が三人の胸をドンドンと叩いたから。
みっちーのリュックの中には冒険譚を書き綴る為のノートや筆記用具、パンにランタンに父親のペティナイフ、魔法はまだ使えないが念のために持ってきた学校で全員が買う授業用の細い
次第に外の光が細く小さくなると、三人は一度その場で止まった。
「ハァ、はぁ…!第一関門クリアーだ!」
「やった!!僕たちまた冒険に出たんだ!!」
「待って!今ランタンを出すから!」
みっちーはリュックを一度下ろし、光量が落とされまばらに設置された
「――あった!」
神が降臨する前、まだ今ほど
その時代には皿に植物油を注いで縒った紙を浸し火を灯していたりもした。
もちろん今でもそうしている人もいるが、みっちーの家は割と裕福なのでランタンはそう滅多に使わない。
その為――「あれ?うんと…ここに油を入れて……。」
「みっちー、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫…。だけど、暗くてよく見えないみたい。」
みっちーがまごついていると、神都より田舎から越してきた――神都に並ぶのはエ・ランテルくらいのものだが――ぺーさんは自分が持ってきたマッチを擦り、ポッと小さな火を灯した。
「ここだ!見えたよ。みっちー、ここに油を入れて。」
「もちろんわかってたさ!はい。その火、そのままここに点けて!」
ぺーさんは言われた通り、ランタンに火を入れた。
「あちっ。」
「平気か?」
急ぎカラカラとアンティークのような音を立てる蓋を閉め、灯りの上に渡る橋のような取手を握った。
「ふふっ、できたぞ!」
「オレも蝋燭は一応持ってきたから、それがすっかり消えちゃったら蝋燭に変えよう!」
「消える前に変えなきゃだめだよ!」
「言葉の綾だよ!」
三人はまるで王冠を手に入れた王様のように、いっとう良い音を鳴らす笛を手に入れた鼓笛隊のように得意げになり、奥を目指した。
「こないだはこの辺まで来たかな?」
「もっと奥だったような気がするなぁ。」
シルバとみっちーはほとんど変わらない景色をキョロキョロと見渡した。
帰りは水の流れを辿り、流れて行く方へ向かうだけなので簡単だが、あの日と同じ道を辿ろうとするのは難しいだろう。
「見て、これは僕が引っ越してきた時に皆が作ってくれた神都の地図なんだけど――」
そう言いぺーさんが広げたのは手書きの地図だ。
この文房具屋はろくな品揃えがないとか、人の家の庭を通る大神殿への最短ルートだとか、銅貨一枚で買える一番美味しい菓子パンのある店だとか、青果精肉家畜市場に
「――あの日、僕らはここから入って、しばらくまっすぐ行ったよね。その後確かに曲がって、雨がザアザア流れ込んできてたのも見た。」
ぺーさんの指が地図の上を滑るのを二人はふんふんと眺めた。
「あの雨水の流れは他の穴よりも凄かったよね。きっとあちこちの雨水が合流して流れが激しくなってたんだよ。下水は道に沿って作られてる。つまり、細い下水が大きな下水に合流する場所――」
そこまでぺーさんが言うと、みっちーは声を上げた。
「大通りだ!!全ての道は大聖堂表大通りに続く!!」
「僕も表大通りに向かっていくのが正解だと思った!」
二人がパンっと手を叩き合う。しかしシルバはなんとも納得いかないような顔をしていた。
「でも、あれだけ遠くまでオレ達行ってたかな?」
そう、下水の出入口と大神殿は今ぺーさんが開いている地図の端と端。かなりの距離がある。
礼拝に行く時は歩いて行くには少しばかり遠い為馬車やバスとして行き交っている
「じゃあ、他に雨水が合流しそうなところってどこ?」
「うーん、中くらいの通りかなぁ。こことか、こことか。」
シルバが指をさしたのは小学校、有名個人塾、冒険者組合、――魔導省。
「何しても表大通りに向かう途中だ。じゃあ、これを頼りに行ってみよう!」
三人はいよいよ自分たちが冒険者らしい気がし、ゆっくり胸を張って堂々と歩いて行った。
地図を回したりひっくり返したりして進んでいると、たまに
以前入った時はこの辺で棒切れを拾ったが、今日の三人は本当の武器を持っている。
ランタンを掲げるみっちーは二人に振り向いた。
「ね、武器は何持ってきた?」
シルバはこれでもかと得意げな顔をし、肩掛け鞄を開いた。
「オレはね、ペティナイフでしょ。製図用のコンパス、それから分度器!あと
「コンパスは針がついてるからまだ分かるけど、分度器なんてどうすんの?」
ぺーさんはシルバの手の中から半円形の定規を取り、まじまじと見るとシルバはにやりと笑った。
「ははーん、さてはぺーさんは蒼の薔薇を知らないな。」
「蒼の薔薇?」
「人間のアダマンタイト級冒険者だよ!手裏剣って言う武器を使うローグがいるのさ。だから、これを――っこう!!」
シルバが思い切り突き当たりの壁に向けて分度器を投げると、「っあヤァ!!」と声が響いた。
「えっ!?」
「なんだ!?」
「誰だ!!」
三人はそれぞれ武器に手を掛けた。
「いつつ…――皆しゃん…バドゥルが言ってた
みっちーが持っているランタンをかざすと、薄暗い世界から姿を見せたのは――この寒い中膝まで下水に足を浸した、べったりとした髪の不気味な老人だった。
一瞬ワックスでも塗っているのかと思ったが、ほうれん草のような髪の毛は触手のようで、うねうねと蠢いている。
驚きが落ち着き、深く呼吸をすると三人が嗅いだことのない悪臭が漂ってくるのを感じた。
そして、それが
「うえー。嫌だな。」
シルバが小さくそう言うとぺーさんは肘で小突いた。
「…若く見えるが、人間の歳はよくわかりゃん。十一時のお約束でひたが早かったんでしゅねぇ。とにかくこちらですじゃ。お役人様。」
汚らしい老人はまるで王にするように深く頭を下げ、三人は少し気をよくした。
「どうする?」
「…子供ってバレたら怒られるし…着いてく?」
「でもくさいよ…?」
ごそごそと話し合いをしていると老人はザブザブと下水脇の道に立つ三人に近付き、顔を覗き込んだ。
黄色い目は白い睫毛が覆い、ひん曲がった鼻はその身に纏う花模様の刺繍が施されたチョッキにあまりにも似合わない。
「………どうかされまして?」
「っあ、いや。行くとも。」
シルバが大人のようにそう言うと、二人もうんうんと頷き、嬉しそうに笑った不気味な老人は進み始めた。