今年初めての雪が降る今日。
神の子の一歳の誕生日会の警護として、大神殿の周りの見回りを行っていたレイナースは白い息を吐いた。神の子は一歳で女児服から男児服に着替えるそうで、特別な歳を意味するらしい。
「ふぅ…冷えるわね…。」
鎧の上から着ている、足首まであるコートを深く合わせると己を抱きしめるように腕をさすった。
大聖堂の大扉の前から街を眺める。
街路樹には葉のかわりに
神の子の誕生日にはどの親もめでたい日にあやかって子供にプレゼントを贈るようだ。
雑貨屋や本屋は子供にこんなプレゼントはどうだと、それぞれ一押しの商品を並べていた。
雑貨屋は小さな
本屋には子供向け聖書や真実か疑わしいようなモモンの育ちの物語が置かれている。
神都は――いや、世界は平和に彩られていた。
(こんな世界が来るなんて…。)
神が降臨してから生まれた子供達はこの素晴らしい世の中しか知らないのだ。
それはなんて――素晴らしいことだろう。
神官達はいつも「神が生を見限らぬよう、この地を去らぬよう努力し続けなければ」と言っている。
もし神が去るような事があれば、この世は六大神――帝国では四大神だったが――が隠れた時とは比べ物にならない大混乱の日々が訪れるだろう。
「頑張らないとダメね…フラミー様のためにも…。」
「その通りですね。」
そう言う聞き知った声に振り向けば、雪をギュッギュッと踏みしめてこちらへ来る三騎士の一人、ニンブル・アーク・デイル・アノック。
「どうしたの。あなたがエルニクス様のお側に仕えていないなんて珍しいわ。」
「ロクシー様のご体調のために先にアーウィンタールへ帰ることになりましてね。馬車の用意ができるのを待とうと思ったら訓練仲間がいた、という訳です。」
冷たい風にそよぐ金の髪に、深い海を思わせる青い瞳。屈強な意志を感じさせる引き締まった唇。騎士はこうあれかしという典型のような面持ちだ。
レイナースは昔その清廉な容姿が嫌いだったが、今は何も思わない。
夏の終わりに大神殿の中庭で軽く手合わせをして以来、共に数回訓練した昔の同僚に、レイナースは薄く笑んだ。
「そう。話くらいには付き合ってあげるわ。」
「どうも。しかしここは冷えますね。ずっとここに?」
「持ち回りで場所は変わるわ。今は隊長と第三席次が中だから、もう少ししたら私と、裏を見てる番外席次が中になるの。」
「なるほど。帝国四騎士だった時にも似たようなことがありましたね。懐かしい。」
あの頃のレイナースは任務には就いていたが、本当に危険な場面になれば逃げるつもりだった為、自分の脱出経路の確認に一番力を入れていた。
その為、ニンブルの"似たような事"と言う昔話にあまり共感できない。
レイナースが何も言わずに白い息を吐いていると、ニンブルはしばしその横顔を見てから立ち去って行った。
まぁ関係ないし…そう思って再び光を纏う街を眺めていると、ピタリと頬に熱を感じ剣を抜いた。
「何奴!!」
「おっと、危ないな。」
温かそうな湯気が立ち昇るマグを両手に持ったニンブルがいた。
溢れていないか自分のコートを見下ろし、ほっとしたような顔をする姿にレイナースは鬱陶しそうな視線を送り、剣を戻した。キンッと冴えた音が鳴る。
「気配を殺して近づかないで頂戴。下手をすると本当に殺してしまうわ。」
「それは怖いですね。次からは気を付けるとします。どうぞ。」
そう言って差し出されたマグをレイナースは受け取った。
「――あったかい。ありがとう。」
ニンブルは数度瞬きをしてから好ましそうにレイナースを見た。
「訓練の時も思ってましたが随分変わりましたね。」
「ふふ、あなたもあの日のエ・ランテルの奇跡を覚えているでしょう。」
「ははは、覚えてますよ。それそれは肝が冷えた。あんな思いは後にも先にももうないだろうな。」
笑うニンブルが柱に寄りかかる。雪は変わらずに少しづつ積もり、たまに吹く風に舞った。
「私も忘れないわ。フラミー様に全てを変えて頂いたあの日を。美しくして頂いたあの日を。」
感慨深げに呟くレイナースは幸せそうに、この世で最も美味なコーヒーが入れられているマグに視線を落とした。そこにはぼんやりと、美しくなった自分の顔が写っている。
ほぅ、とため息を吐けば吐息は白く染まって流れて行った。その耳は僅かに赤く、寒さからの物なのか、神を想いそうなっているのか分からない。
しかし、「美しく?」と聞き返された声に幸せな気持ちが掻き消える。
「…そうよ。何か悪いかしら。」
ニンブルは、「いいえ、別に」と笑った。レイナースは次の訓練でボコボコにしてやると決める。しかし、相手は自分と同じだけの強さを持つ騎士だ。一方的に痛めつけることはできないだろうが、それができる程に強くなってみせる――。
「重爆は昔からずっと美しかったのに、美しくして貰ったと言うのは少しおかしいような気がしただけです。」
レイナースは訳がわからないものを見るように口をぽかんと開けてニンブルを見た。
そうしていると、ロクシーを連れて帰る馬車がニンブルの前に止まった。
ニンブルはマグの中のコーヒーを一気に飲むと柱から背を離した。
馬車を引く
「な…なんなの…。」
呆然と見送り、パチクリと瞬きをした。
そしてガントレット越しのコーヒーの温もりが温度を失おうとしている事に気がつくとレイナースも一気にそれを飲んだ。
胃の腑から温度が広がって行き、体を芯から温める。
レイナースは空のマグにしばらく視線を落とした。
そして、ずっと美しかったという言葉を心の中でなぞる。
昔あの魔物を倒し、死に際に放たれた呪いを受けた顔は膿を垂れ流す醜い汚物と化した。
世間体を気にした親達によって実家を追放され、婚約者から婚約も破棄され、四騎士になった。
そうして出会ったフラミー。レイナースの全ては救われた。
空のマグを見ていると、大きな腹を抱えたロクシーを連れてニンブルは戻った。
ジルクニフの妻となったロクシーは今身篭っている。もうじき生まれる為、あまり無理のない範囲でと身重な中祝賀会に来ていた。
「あら、レイナース。久しぶりね。」
レイナースはさっとマグを柱かざりの窪みに置くと頭を下げた。
「――ロクシー様。ご無沙汰しておりますわ。御懐妊おめでとうございます。心からお祝い申し上げますわ。」
「ありがとう。本当は私じゃなくてもっと美しい者を正妃にして子を産ませたかったのよ。あなたみたいなね。それにしてもレイナース、本当に綺麗になって。良かったわね。」
そうだ。綺麗にしてもらったのだ。
レイナースはバハルスの知り合いには必ずそう言われる。いつも舞い上がるように嬉しかった。
もう四年も前だが、ツァインドルクス=ヴァイシオンがエ・ランテルを襲撃した時、しばらくエ・ランテルに詰めたが、帝国街に移住して来ていた元帝国軍の多くの者達に久しぶりに会った時もそう言われた。
「恐れ入りますわ。」
これまでは踊る程に嬉しかったというのにレイナースの心は不思議とこれまで程の喜びに満ちることはなかった。
「じゃあね。またアーウィンタールにも遊びにいらっしゃい。」
そう言うと、ロクシーは特別魅力的でもない笑顔を見せて馬車に乗り込んだ。
「じゃあ、また訓練で。」
ニンブルもそう言い、馬車に足をかけた。
「待って。」
はて?と振り返ったニンブルにレイナースは少し悩んでから続けた。「次の訓練の予定を決めていないわ。」
「そうでしたね。また紫黒聖典寮に手紙を出しますよ。」
「解ったわ。」
「次は漆黒聖典や陽光聖典とも手合わせできると良いのですが。」
「――陽光聖典はまだしも、漆黒聖典はたとえ木刀だとしても一太刀受けるだけで死ぬわ。」
「ははは。番外席次さんを見れば分かります。彼女は本当にお強い。」
そう言っていると、馬車の中から「悪いけど冷えるわ」とロクシーの声が聞こえた。妊婦にこの冷えは厳しいだろう。
「申し訳ありません。では、重爆。私はこれで失礼します。」
「私にはそう畏まらなくて良いわ。」
「それはそれは。じゃあ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
馬車の扉がパタリと閉まると、
「ははーん。レーナースはあー言うのが好みだった訳ねぇ。」
「…何が良いのか分からないわね。あんな奴てんで弱いじゃない。」
「私は美女と美男で素敵だと思います!」
好き勝手言う声にドキリとレイナースの心臓は跳ねた。
声の主達は当然紫黒聖典の仲間達だ。
「ちょ、ちょっと!!別にそう言う訳じゃないわよ!!」
「今度こそ逃げられないように暴力体質治しておいた方がいーんじゃなーい。」
「クレマンティーヌ!!だから呪いのせいだって言ってんでしょうが!!」
ケケケと笑うクレマンティーヌを追い回す足跡が大神殿の前に生まれては降り注ぐ雪に消された。
レイナースは素早いクレマンティーヌを追いながら、四騎士だった頃を思い出した。
かつての同僚はレイナースの呪われた顔を一度もどうこう言ったことはなかった。
目を逸らされたこともなかったかもしれない。
大した思い出など一つもないと思っていたが――レイナースは減速していき、遂に立ち止まると笑った。
「ふふふ…はは、ははは!ふふ、はははは!」
突然の笑い声にクレマンティーヌは化け物を見るような目をした。普段レイナースが大声を上げて笑うことなどほとんど無い。いや、下手をしたら初めて見たかもしれなかった。
「ひぇ、レーナ、よーしよしよし、落ち着けー?」
「クインティアが余計なことを言うからまともな筈のロックブルズが壊れたじゃないの…。」
番外席次も若干引いていた。
「そ、そんな。レイナース先輩、大丈夫ですよ!先輩は暴力体質なんかじゃありません!クレマンティーヌ先輩しか殴ったことなんてないじゃないですか!だから…そう!クレマンティーヌ先輩が暴力振るわれ体質なんですよ!」
ネイアの微妙なフォローにクレマンティーヌが「えぇ…」と呟いていると、レイナースは笑っていた息を一気に吐き出した。
「はぁ!フラミー様!バンザーイ!!バンザーイ!!」
何度も万歳万歳と言っていると番外席次はその隣に行き、共に手を上げた。
「バンザーイ。」
万歳万歳と雪を降らせ続ける空に向かって手をあげる二人のフラミー狂は元気いっぱいだった。
「…こいつらはこうなるとダメだ。外と中の警備交代しようと思ったけど…ネイア、中戻るよ。」
「え?良いんですか?」
「良いよ。寒いから戻ろう。」
クレマンティーヌはレイナースの立っていたところに置いてあるマグを回収して、温かい大聖堂に戻っていった。
「ふふ、恵まれているわ!私、やっぱりフラミー様に全てを与えられたのよ!!」
「…知ってる。」
レイナースは美しい生を与えられた事を喜んだ。
そして、あの日に自分に与えられたのは美ではなく、心だったのだと笑い――その声は震えた。
レイナースはガントレットに包まれている硬い手を顔に当てて数度肩を震わせた。
「っぅ……。」
その瞳にずっと涙が浮かんでいるのが分かっていた番外席次は、寒かったがさっさと中と交代しようとは言わなかった。
「ガントレット、冷たいでしょ。」
割と無造作に差し出されたハンカチを受け取ったレイナースの笑顔は美しかった。
「ありがとう。」