#91 幕間 奈落の王の帰還
春の訪れは全ての者が待ち望む。
大地が息を吹き返すのを肌身に感じ、森にはこれまで冬眠していた動物達が溢れた。
固かった蕾は柔らかくなり、春を
色とりどりの花は蜜蜂を呼び、復活した
女達は花を摘み、男達は海へ出て魚を獲る。
鳥達は幸せの歌を歌い、花芽や実を食べた。
ビジランタ大森林に生きる誰もが春を喜んだ。
そんな中――闇に閉ざされた国で。
「姿を見せずに不満を持つ者達の支援を行いなさい。それと、ある人物達を追い立てるんです。城や軍事拠点から出さないように。」
デミウルゴスがそう言うと、低位の悪魔達はうなずき一斉に飛び立った。
召喚されたモンスターは召喚者と大雑把な知識共有が行われるが、敵味方の区別程度の為にきちんと口頭で命令をする必要がある。
(さぁ……これで見付かると良いのですが……。)
デミウルゴスの明晰な頭脳は様々な状況を考慮し、数十パターンもの展開を計算し、今回の目的を果たすよう修正案も用意している。
多少の計画の狂いはデミウルゴスの導き出している式に則っている為容易に軌道修正できる。
(アインズ様ほどの知者であれば…こんな真似をしなくともすぐさま見つけられるのでしょうが…私などまだまだですね。)
羊の大量回収も含め、至高の主人に後片付けを任されたこの地でデミウルゴスは空を往く主人の僕を見上げた。
数日前。
「再来週には煌王国の裁きも終わりとなりますが、あの地は市長に据えられるようなまともな人材が見つかっておりません。」
デミウルゴスの呆れたような物言いはアインズの胸を刺した。
自分は決して王や神に相応しい人材ではないのだ。
「そ、それは問題だな。神都から常駐の人材を送るのも避けたい。運営できる者がいなければ最古の森のアルバイヘームからその手のものを出させて全てを任せるしかないだろう。」
あそこにはある程度優秀な者たちが多くいたのだ。
アインズがそう言うと、アルベドが口を開いた。
「恐れながら、タリアト・アラ・アルバイヘームは降ってはおりますが、依然として最古の森やその周囲で大いなる影響力を持っております。竜王亡き後絶対王者として五百年間君臨してきたその影響力は計り知れません。私はこれ以上
「アルベド、あれが影響力を持っていると言うことは、裏返せばアインズ様とフラミー様のお力を広める良い駒にもなると言うことです。アインズ様のおっしゃる通りアルバイヘームに任せる――というのもあの不敬な国では良い手だと思いますがね。」
デミウルゴスの返しにアルベドは少し不快げだ。
「あなた、今君臨されているのがウルベルト・アレイン・オードル様でも力を持たせておくのに賛成したかしら?」
「アルベド、私はウルベルト様でもアインズ様でも同じように円滑に世界征服が行えるようそのお手伝いをしたでしょう。それとも、この私がアインズ様の治世だから手を抜いているとでも?」
「そこまでは言っていないわ。ただ、私達が全力で動くことで、より良い結果を差し出せるはずじゃないかと思っただけよ。」
デミウルゴスは顎に手を当て数秒考え、アルベドと視線を交わし直してから居住まいを正した。
「アインズ様、羊の大規模収穫の痕跡を隠すのにしばらくあちらへ行きますので、ついで――と言っては何ですが、人材探しをしても宜しいでしょうか。」
「ふむ」と頷き、アインズはゆっくりと椅子にもたれ掛かる。訓練し続けた主人らしい、そして支配者に相応しいであろう堂々たる態度で、だ。
「デミウルゴス、そしてアルベドもだが、お前達二人の知恵はこの私を凌ぐ。」
「そのような――」「まさか――」
言いかけた二人をアインズは軽く手をあげることで押し留めた。
「私はそう思っている、と言っているのだ。そのお前達が行き着いた答えだ。全てが完璧に進み、素晴らしい形で終わりを迎えるだろう。行け、デミウルゴスよ。相応しい者を見つけ出すのだ。」
デミウルゴスは自信に満ちた顔をし、頭を下げて部屋を後にした。
第九階層を行き、出かける前に挨拶をしなければいけない主人の下を目指す。
これまで支配者の下にいたのだから、決してその姿は乱れていない。しかし、デミウルゴスは目的の扉の前で再度身嗜みを確認した。
コキュートス配下の者達に目礼をすると、デミウルゴスは戸を叩いた。
すぐに開いた扉から顔を出したメイドに告げる。
「フラミー様に出発前のご挨拶を。」
「かしこまりました。少々お待ち下さい。」
扉の隙間からはきゃあきゃあと至高の世継ぎの楽しげな声が聞こえる。
デミウルゴスは思わず微笑んだ。
一度扉が閉じ、再び開いた時、中では輝く翼を背に持つ大天使――であった悪魔の王がいた。
王者達の子は今日も元気にぽてぽてと歩いていた。
その前に進み、何の躊躇いもなく片膝を落とす。
「デミウルゴスさん、またお出かけなんですね。」
「は。御身とアインズ様に最良の結果を捧げられるよう、行ってまいります。二週間私はナザリックを離れますが、御身のスケジュール管理は引き続き行いますので、何かございましたらいつでもご連絡下さいませ。」
「ありがとうございます。――ねぇ、デミウルゴスさん?」
「はい。」
フラミーは少し遠くを見た気がした。
「少し前にね、皆の夢を見たの。」
「皆――でございますか?」
「そう。ウルベルトさんや、皆の夢。」
デミウルゴスは創造主の名前にわずかに沸き立った。
今日は二回も創造主の名が聞けた。しかも、二度目はフラミーの口から。それだけでデミウルゴスの鼓動は早まるようだ。
「――楽しかった。ウルベルトさんにも、皆にも見せてあげたい。この綺麗な世界。」
デミウルゴスはうなずいた。外はナザリックほど素晴らしくはないが――フラミーがいればどこでも素晴らしくなるし、望むのならば素晴らしくするべきだ。
「御身の願いは必ず叶えて見せます。この原生の姿をとどめ、支配を進めます。」
「ありがとうございます。じゃあ、行ってらっしゃい。」
フラミーがデミウルゴスに手を振ると、歩いていたナインズはフラミーに手を振った。
「ナイ君、お母さんじゃなくて、デミウルゴスさんにお手手振って?」
「えみえみ?」
「そう。でみでみに、行ってらっしゃーいってね。」
ナインズが振り返り、手を振るとデミウルゴスは深々と頭を下げ、その部屋も後にした。
裁きを受けしアリオディーラ煌王国には動く者はいない。
その国は太陽の光が届かないため、都市の植物達は花を咲かせることも、実をつける事もなく、静かに色を失っている。
そこには鳥一匹おらず、まるで全ての生が死に絶えたような様子だった。
しかし、耳を澄まして見れば全ての家、全ての通りには地獄の苦しみに悶える声がこだましていた。
「おゆるじを……おゆるじを……。」
中には苦痛に慣れる者もいるため、そんな時にはその身に生えている太い蠍の尾を突き立ててやり、更なる苦痛を重ねた。
万一死に臨む者がいれば、
しかし――『今日で私の役目も終わりか。』
素晴らしい五ヶ月を過ごした。人間達もそれはそれは悔い改めただろう。
国中の蠍イナゴ達は弾かれたように醜悪な顔を上げると、途端に飛び立ち、奈落を目指した。
風呂の栓を抜いた時に、排水溝に向けて水が渦まくかの如く、国中の空に立ち込めていた黒雲が奈落へ吸い込まれ始める。
それに乗ってイナゴ達は奈落へ帰還して行った。
天を穿つ黒い竜巻きは巨大で、最古の森からもその様子は見えた。
「…ついにアバドン殿が帰られるのか…。」
タリアトは今日に合わせ、人間の奴隷達の解放を行った。
彼らは昔ここに木を切りに来た木こりだ。別に拐ってきたわけではない。
人間達は際限なく木を切り、やれ薪だ、城門だ、それが終われば領土開拓。とにかく木を切ることにうるさい生き物だった。
人間の奴隷達にはそれこそ罰を与えていたのだ。
一時は奴隷を解放することで、
黒い竜巻きは次第に小さく細くなり、ついには消えた。
全ての片付けが終わると、
辺りにはようやく温かな春の日差しが届き、まるで何事もなかったかのような澄んだ空気が満ちた。
ただ、五ヶ月間光合成できなかった植物たちは、イナゴに貪られなかったとは言え厳しい寒さもあり酷く痩せ細っていた。
街路樹や庭木はそれでも良いが、農作物への打撃は生活に直結するため、飢饉すら覚悟する必要があるような有様だ。
人々の身からも次第に呪いは解け始め、皆驚愕に染まった瞳で自分の手を見た。
痛みで体を丸まらせていたせいで酷く体は凝っているし、もがいていたせいで傷だらけだ。
しかし、皆が痛みと苦しみのない自分の姿に喜び涙を流した。
そして、誰かが通りへ躍りでる。
その格好は膿や排泄物に塗れていて、かつてであれば直視することなどできなかっただろうが、今は皆が同じ格好だ。
「――城へ……城へ行くぞ!!」
それに応え、うおおおと雄叫びを上げる者はそこら中にいた。
膿を落としたり、べったりと着いた汚物を洗ったり、伸びっぱなしの髪や髭を整え人間らしい格好になると男達は行進した。
一方女達は家の片付けに忙しく過ごした。
家は方々にあのおぞましい虫達が侵入する為の穴が開けられている。殆どの家はぼろぼろと穴が開き、そこから雨水が侵入した形跡もあるため、相当に痛んでいた。
皆が、新たな木材と国からの支援が必要だと――そして、何より今回の説明を求めるため王城へ向かった。
王城には多くの民が押し寄せていた。
城の門でぐったりと座り込む番兵達に、あの天使の行進があった日――裁きが始まった日に何があったのだと詰め寄った。
――そこで聞いたものは、民の心を滅茶苦茶にかき乱した。
抑えきれない怒りは空気を震わせるように広がった。
哀れな番兵達は怒りの矛先を向けられ殴り殺された。
民達は
番兵達も民と同じく無関係だったというのに。
彼らはここを出入りしていた冒険者達の様子から推察した事を話したに過ぎなかったと言うのに――。
「…王を引き渡すわ。」
極寒の瞳で告げたのは
「ロッタ…すまなかった…。お前に相談していれば――」
大将のグラルズは後ろ手に縛られた王を見ながらそう言った。
「グラルズ閣下。私は閣下を尊敬しておりましたし、閣下の頭脳としてやって参りました。ですが……それが決して許されぬ事だとは相談されずともお分かりになっていたはず!今回の件は裁きが終わったからと言って、とても見過ごせるものではありません!共に苦しんだ民には何一つとして罪などなかったと言うのに!!」
ロッタとグラルズの横で煌王は大量の脂汗をかきながらそれを聞いていた。
「………たい。」
「なんです。」
煌王がぼそりとなにかを呟くとロッタは激しい怒りを込めて睨みつけた。
「…ここから…離れたい…。」
「言われずともそうして頂きます。国民への説明責任を果たすため。おい、王を民へ差し出せ。」
既に城の玄関からは折り重なるような怒号が聞こえてきている。
煌王はロッタの指揮下に入った軍人達に立たされると、恐怖に顔を歪め、自分の腕を左右から掴む二人を見た。
「さ、さ、差し出すだと!!」
「民の怒りを治めるためにはそれしかありませ――」
「嫌だ!!それくらいなら地下牢に入れろ!!地下牢にぃ!!」
王は口角に泡を飛ばしながら狂ったように地下牢へと叫んだ。
無様な様子はロッタや周りの軍人達をただただ苛立たせた。
「――
ロッタは美しく、いつも優しかった
「ロ、ロッタ。ですが、
そう告げたのは第五王女だった。
「フィリナ様。命は取り戻――」
「取り戻せば良いと言うものではない。神王陛下にも言われました…。苦しみも憎しみも、復活したからと言って消えるわけではありません。そして、決して取り戻されない命もありました…。」
最古の森へ
「ふぃりなばっかり……!ふぃりなだって知ってたくせに……ふぃりなばっかり楽して……!!」
毒吐いたマリアネにフィリナは信じられないものを見るような目を向けた。
「わ、私だって共に裁きを受けたのです!!」
「あんたのは裁きのうちになんか入らない!!私は…私はぁ…もっど酷い目にあっだのよぉ…!!」
マリアネが泣きながらそう語ると、聞いていた軍の一人がダンッと足を踏み鳴らした。
「誰もが苦しんだんだぞ!!」「第一王女も連れていくぞ!!」「引き摺り出してやる!!」
軍人達は王と第一王女を掴んだ。そして引き摺り、城の玄関へ向かう。
「い、いやあぁぁああ!!離してぇぇええ!!裁きは終わったのにぃいぃい!!」
マリアネの絶叫が広い城の廊下に嫌に響いた。
「…お姉さま…。」
フィリナは数歩進んだが、ロッタはそれを止めた。
「我慢を。軍の者達とて気持ちは民と同じです。我々も民なのですから。」
「…はい…。」
「とは言え――フィリナ様。あの様子ではじきに民は二人を殺し、王族に連なる全ての者と、全ての軍人、城仕えも殺そうと動き出すでしょう。」
「………なぜ?」
「一部の軍人と王族以外は何も知らず共に裁きを受けた…。ですが、民がそれに納得できるはずもありません。」
フィリナは目に涙を溜めゆっくりと顔を左右に振った。
「う、嘘です…そんな…。」
「これからは軍に属していたり、城に仕えていたと知られれば暴力的な私的制裁に合うでしょう。今回の作戦に何一つ関わらなかった者も。」
辺りにいる兵やメイド達の顔は絶望に染まっていた。
「で、では…皆鎧やお仕着せを脱いで逃げては――」
「…城にある使用人リストや軍に所属する者のリストは今急ぎ始末させているところですが…駐在所や訓練場のリストは始末しきれないでしょう。リストを燃やすように伝令を出そうとしましたが、馬も伝書鳩も逃されていました。
「そんなの…そんなの…。」
信じたくないとフィリナは何度も首を振り、グラルズは疲れたように息を吐いた。
その後すぐにロッタの話した地獄は訪れた。
裁きの正体を知った者達が軍部を炙りだせ、庇う者を殺せと声を上げた。
あらゆる軍の施設は急襲され、抵抗すればするほどに人民の軍部への怒りは増す一方だった。
そして、ついに軍人のリストは怒れる民の手に渡った。
その家族すら攻撃の対象にならんとする程の怒りを前に、城の門は堅く閉じられ、沈黙した。
全ての行いが裏目に出る。
ろくに食料のないその地で、城には食料の備蓄があるはずだと、それを城にいる人間達は独り占めしようとしていると、再び火に油を注いだ。
そして生贄のように引き渡された煌王と第一王女マリアネは城の壁に晒され、あらゆる暴力をその身に受けた。
息も絶え絶えになると、マリアネは「ようやく死ねるんだ」とどこか清々しい顔をしたらしい。
が、その晩忽然と二人は消える。
裸に剥かれ、一部内臓も見えるような状況だった為誰かが助けて匿っているはずだと国中の家を捜索した。
しかし、どれだけ探してもどこにも二人はいなかった。
――となれば、行き先は城しかない。
人々は一層城に殺到した。
そして、城の備蓄がなくなろうとするある日。
「――ロッタ。私も出よう…。私を差し出す事でまた民の怒りの矛先を作れる。」
「グラルズ閣下……。…では、せめて拷問されぬようその首を落としてから――」
ロッタが腰に佩く剣を抜くと、フィリナはあの日の女神の言葉を思い出した。
――もっと違う出会い方をしたかったですね。さようなら、シャグラ・ベヘリスカ。嫌いじゃありませんでしたよ。
「や、やめて下さい!!もう二度とこんな事は繰り返しちゃいけません!!」
ロッタはフィリナを忌々しげに睨みつけた。
「……ではフィリナ様が行かれますか。」
「ロッタ、やめろ…。」
「閣下…。」
キンッと剣が戻されると、頭を抱えていた一人の兵が呟いた。
「…シネッタ軍師と大将閣下がいるんだから…民くらい制圧できるんじゃないのか…?」
それを聞いた者達はわずかな希望を見出し顔を上げた。
「…近くの施設に篭城している者達とは
「できるんじゃないか…?」
「
「そうだ…。そうじゃないか!」
「オーガの群れとだって俺たちは渡り合ってきたんだ!!」
「そうすれば大将閣下だって死なないで済む!!」
「皆飢えから逃れられる!!」
次々と兵達が立ち上がる様子に、ついにこの時が来てしまったかとロッタとグラルズは静かに目を見合わせた。
鎮圧できる自信は、ある。
民に向けて剣を抜く覚悟だけがなかった――が、生き延びられる可能性を前に兵達はやる気に満ちていた。
フィリナはやめてくれと叫んだが、男達の雄叫びを前にかき消された。
今度こそ止めなければいけないのに、フィリナにその力はなかった。
「……やるか。」
「…はい。私に良い考えが。」
二人は立ち上がり、城にいた隊長や小隊長クラスの者を呼び出した。
対
そして、城の扉は開けられ、戦争が始まる。
その様子を楽しげに眺める悪魔達は微笑んだ。
自動的に牧場補給の痕跡も消えて行った。
「不敬な二人もナザリックに送れましたし――後はこの内乱を治めた者に市長になっていただきましょう。さぁ、誰がその身分にふさわしいか楽しみですね。」
適切なタイミングで手を差し伸べ、国の管理下に落とし込む事に決めたデミウルゴスはしばらく余興を楽しんだ。