エ・ナイウル、光の神殿。
かつて土の神殿だったこの神殿は、スレイン州やザイトルクワエ州の持つ神殿とは些か趣が異なるが、内包する大まかな施設は同じだ。
まずは祈りの場である礼拝堂。それから小さな内回廊に宝物庫、図書室、会議室、治癒室、行政としての窓口、それから神話や神々にまつわる品の展示室、お土産・オシャシン販売所など。他には神官達が寝泊りをする修道院が併設されていて、当然食堂や台所、風呂もある。
ここまでの物は殆どの神殿が備えていて、建築様式が異なるくらいだ。
一昨年の春頃からは神々の下へ送られる亡骸の受け入れを始めた為に、場所によっては霊廟を新しく建てたり、既にあった霊安室を広くしたりしている。
エ・ナイウルの場合なら、地下に霊安室がある。土地に広さが足りず、テラスを取り壊す必要があった為、かつて備蓄室だったものを改装して使っていた。
そんな地下の仄暗い霊安室には今、大量の
そこに神官の姿はない。しかし、地下には啜り泣く声が静かに響いていた。
いたのは一番最初に
血が通わなくなってしまった友の蒼白な体に伏せるように泣いていた。
一日の終わりに多くの遺体は神々の下へ送られる。そうして、闇の神により魂を浄められ、光の神により新たな生を授けられて再びこの世に生まれてくるのだ。
――しかし、そうして貰えない者もいる。
ハーンの友であるクン・リー・ガル・タイは一日の終わりを迎えても、神々の下へ送られることはなかった。彼ら評議国は、信仰が無いため神へ亡骸を渡す事に頷いていないから――。
ほとんどの
「うっ……うぅっ……!クン・リー…!」
評議国が属国となった春。ハーンはいつも通り、沖で漁をしていた時にクン・リーと出会った。
ハーンの漁は袋状の
それまでは何人も一つの船に乗り込み、皆で汗水を垂らして船に網を引き上げていたが、この<
そんなマジックアイテムを手にできるようになったのも、魔法文化が花開いている旧帝国が神聖魔導国に降ってくれたお陰に他ならなかった。
その日、ハーンはいつものように網を投げ込み、船を走らせていた。魚群がどこにいるかわからない中の漁の為、何度も網を引き上げては不漁にため息を吐いて網を投げなおす。これの繰り返しだった。
高額だった網を買ったのでハーンは少ない漁獲量では帰れない。
周りからすっかり仲間の漁船が居なくなった夕暮れ時、ハーンは最後にもう一度だ――と、網を放り投げ、引き上げた。
そして上がって来た網の中に――クン・リーがいた。
彼は驚いたように目を丸くしていて、ハーンも同じか、それより大きく目を丸くした。
ハーンは慌てて謝り、網を下ろしてクン・リーを出してやった。そして、何故リンデ海にいるんだと問い掛けた。
その時の彼の言葉は今でも忘れられない。
「評議国も属国になったからさ、もう俺達兄弟になったみたいなもんだろ。つまり、俺は新しい家族の顔を見に来たってわけさ。」
親も兄弟も友達もいたが、ハーンはクン・リーの言葉が無性に胸に刺さった。豪快すぎるような笑顔を見せたが、何故だか、彼は泣いているように見えたから。
二人はすぐに友達になった。
陸に上がって歩くことが出来ないクン・リーの為に車椅子を神殿で借りて幾日も掛けてエ・ナイウル中を案内した。
暫く重量を感じる網を引き上げる事を止めていたハーンの腕はクン・リーの乗る車椅子を押して筋肉痛でパンパンになり、エ・ナイウルの道が殆ど舗装されていない事に下唇を尖らせ文句を垂れた。
二人は
クン・リーが人間の街を堪能し終えた頃、エ・ナイウルを治めるナイウーアの使いの者に「市壁で入都許可も取らずに海から勝手に入都、入国するなんて」と二人揃ってこってり絞られた。確かにそう言われてみると不法入国だ。
正式な入国手続きを行ったクン・リーは街の案内の礼にと海を案内してくれた。ハーンが海に潜る事はできない為、いつもの漁と景色は変わらなかった。
大して面白くないと思ったが――スケトウダラやイワシの群れ、ブリの群れがいる事を教えてもらい、その日は大漁だった。以来二人は来る日も来る日も一緒になって漁をした。
クン・リーは漁が終わるとハーンの船に上がって眠り、朝になると二人で漁に出る。
二人で荒稼ぎをし、クン・リーは週末には評議国へ帰る。
そんな暮らしを続けていると、いつしかクン・リーの話を聞きつけ、エ・ナイウルの海には沢山の
皆王国――時を経れば神聖魔導国――の民になる事はなかったが、同じ海に暮らす家族だった。
すぐに
最初、ナイウーアは王国民ではない評議国の民に、あまり良い顔をしなかったらしいが、自らの領地がぐんぐん富んで行く様子にいつしかグレーゾーンの民の存在を黙認し、むしろ歓迎するようになった。街の多くの道が舗装され、美しく洗練されていった。
最早エ・ナイウルは
しかし、謎の奇病のせいでエ・ナイウルから
「クン・リー…クン・リーよぉ…。」
物悲しい声がこだまする。
クン・リーと仲が良かった
クラーケンはアダマンタイト級冒険者である"
クン・リーが一番最初に見せたあの笑ったような泣いたような顔を思い出す。
ハーンは果たして自分は彼の友として、家族として相応しい男であっただろうかと短くも濃密であった四年間を振り返る。
「俺、頼んでやるから…。クン・リー…お前も神々の下へ召させて欲しいって…頼んでやるから…!」
二度と笑わない友人――いや、家族の顔に涙をポタポタと落としていると、霊安室の扉が開く音がした。
「――
「む、生きている人間ではないか。」
この
爛れた顔には口元に薄絹のベールが張られている。
霊安室で見る
「
目頭が熱い。今にも溜まった涙がこぼれてしまいそうなのを堪える。
「少し待て。確認が必要だ。」
ハーンは大人しくその様子を眺めた。
そして、すぐに結論は出た。
「――よろしい。では、その男。クン・リー・ガル・タイはナザリックへ連れて行こう。お布施の支払いを忘れるな。」
ハーンは久しぶりに笑顔になった。
「ありがとうございます!ありがとうございます!!」
ああ、願わくば――クン・リーの魂の輪廻は自らの側に。
中からは青白い美しき天女が現れた。皆白い衣装を身にまとい、黒い艶やかな髪をしている。
(………寒い。)
真冬の如き寒さが霊安室に漂う。ガチガチと歯が鳴り始めてしまったのは寒さのせいだけではない。生物として圧倒的に上位に存在する者達なのだと、戦いの経験がないハーンですら、魂が理解しているのだ。
「
「わかったわ。」
天女達は粛々と今日死んだ人々の体を闇へ連れ帰って行く。
ハーンは一瞬我を忘れてその光景を見ていたが、天女がクン・リーの隣の者を運び始めると我に帰った。
「あ、あぁ…クン・リー…!」
ハーンは最後の別れに、下半身に生える碧き鱗を二枚剥がした。
痛いだろ!と怒る声が今にも聞こえそうだった。昨日の昼まで生きていたのだ。
靴紐を抜き、一枚の鱗を十字に縛り、クン・リーの首に掛ける。いつまでも一緒だと、次もどうか自分のそばに生まれて来てくれと心の中で呟く。
ふと、全員の視線がクン・リーに注がれていることに気がついた。
「…連れて行ってよろしいのよね。」
「良い。」
手短なやりとりを交わし、重いはずのクン・リーは軽々と持ち上げられた。
ハーンは最後の一枚の鱗を強く握り――愛すべき家族が消えるのを震える体で見送った。
評議国の
霊安室はごく稀に神の祝福を受けていないアンデッドが沸いてしまう事があるため、入れてもらえない事が多いが、今は神官達があまりにも忙しく、追い出される事なく中で見送りまでできた。こればかりは不幸中の幸いだった。
地下から上がってくると――治癒室のみならず、会議室からも咳き込む声が聞こえてきていた。
神官達が慌ただしくあちらこちらを駆け回っている。
ハーンはクン・リーの鱗をしばし眺めると神殿を後にした。
そして、喉に痛みを感じる。
「…ッグ。ンン……。」
少し泣きすぎたようだ。
クン・リーのいない夜の帳が降りた街は、真夏だというのに薄ら寒く感じた。
アインズは本日のアンデッド作成の為に第五階層に上がってきていた。
ありがたい事にアインズ社の貸し出しアンデッドの需要は高まって行く一方だった。弱いアンデッドと強いアンデッドではレンタル料が違い、最も人気なのは単純労働用のスケルトンだ。
それでも、一日の使用回数制限があるアンデッド作成を使わずにいるのはもったいない為毎日使い切るようにしていた。
(そろそろまた大規模にどっかを手に入れないと
密かな悩みに苦笑する。
余っている
今日はコキュートスがナインズの相手をしてくれていて不在のため、
美女が凍りついた河から大量の遺体を魔法で取り出す様はどこか幻想的だが、「ぅめー」と気の抜けた声が聞こえてくると、そんな感想も消え失せる。
第五階層にはファンシーな氷結牢獄もある為、バロメッツが植えられてからはどことなくテーマパークじみた雰囲気だ。
(……テーマパークナザリック。――アンデッドランド、いや…ナザリーランドでも作るか…?)
それともナザリックハイランド。
アインズがやる気もないくだらない思いつきについて思考していると、ふと視線の端でキラリと何かが光った。
「ん?」
煌めきに近付き、氷の下を覗く。
偽りの太陽の光を反射するものの正体。――それは、
アインズは繁々と
「
人間の死体を取り出しかけていた
「かしこまりました。すぐにお出しいたします。」
「うむ。」
最後の一人だったのか、半端に氷から浮き上がっていた人間は再び氷に沈められた。
死体の取り出しは死体の周りの氷を溶かすと同時に高速で凍結させることによって行われ、まるで氷の中から滑り出てくるように見える。
氷の中から引きずり出された
体から黒い液体が染み出し、着ているものが千切られ、体積が大きく膨れてみるみるうちに姿が変わって行く。
「よしよし。運送屋はいくらいても足りないからな。いつかは人間を乗せて海も渡る航空機としても使いたいし。」
「お前は明日から
生み出された
白き雪原に白き身は溶けて消えてしまいそうだ。
はて、これは何だろうかと骨の首に触れる。
そこには粗末な紐に結ばれた紺碧の鱗があった。
いや、考えてみれば、生み出された時から着けられているものがゴミなわけがないではないか。
喋ることもできない
今生まれたばかりの彼は自らの首にかかる鱗を壊してしまわないよう、そっと手を離した。