「ぬっ…!!ぐ……うぉぉぁあ!!」
その日、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの父王が倒れた。
胸を掻き毟り、痛みに歪んだ顔で、玉座から崩れ落ちた。
王宮付き薬師や神官が駆け付け、凡ゆる手を施したが数時間と持たずに父王は帰らぬ人となった。
「これは…誰かが毒を――」
神官が言うと、パシンッと扇子が手のひらを叩いた。
「皇帝陛下を毒殺など内部の者以外にできようはずがない。それとも、そなたは陛下の食事を作っていた者達や飲み物を運んできた者達が陛下を弑する企てを立てたと…そう仰りたいのか?」
氷のような冷たい声。それは美しい皇后の発したものだった。
一つに結い上げられた金の髪、星をちりばめたように煌びやかなドレス。甘く芳しい香水。そのどれもが皇后の威光を示していた。
執事やメイド、コック達が短い悲鳴を上げる。
「そ、それは…しかし…」
「滅多な事を言うでない。罪を着せられた者は処刑される事もあるのだ。神官よ」
「は……はい…皇后陛下…」
神官が大人しく引き下がる。皇后は薬師へ顎をしゃくった。
「アビゲイル。私の可愛い妹。お前はこれをどう見る?」
「皇后陛下。皇帝陛下は心の臓を患っていらっしゃいましたので、その発作かと」
「おぉ、それは悲しい事よのう」
皇后は痛ましげに自らの口元を扇子で隠した。その下は醜悪に歪んでいたがそれを見る者はいない。
「なんと痛ましい…」「悲しい事故だ…」「偉大なりし陛下…」
辺りにいた貴族達も顔を覆った。
老執事は息子に小さく耳打ちする。
「この事を殿下方とフールーダ様に」
「…わかった。では、俺は行くぞ。父さん」
「急げ。殿下方は乗馬の訓練をされているはずだ」
美しい仕立ての執事服を翻し、執事は走る。父も祖父も、代々皇帝に仕えてきたがこんな事は初めてだ。
まだ事態を知らないメイド達が楽しげに笑い合う廊下は別世界のようだった。
(悲しい事故――そう言うには、あまりにも――あまりにも――!!)
「流石はジルクニフ兄様。何でもお出来になるんですね!」
「この程度、お前にもすぐに出来るようになる。ねぇ、兄上方」
ジルクニフのアメジスト色の瞳は和やかに細められた。まだ十代前半、まだまだ幼さの残る顔付きをしている。声変わりを迎えていない声は鳥が鳴くようだ。
「そ、そうだな。ジルクニフの言う通り」「そう、まさしくその通り」「お前も頑張れよ」
まだ都市の管理にも出されていない兄達、幼い弟妹。
皇后から産まれた第一子、将来を約束された皇子。
ジルクニフは心の中で呟く。
(兄上も兄上も――兄上もダメだな。任せられん。私の理想の治世には不要……とすれば、適当な僻地の管理に送るしかないか)
冷静な評価を下していると、執事のエンデカが走ってくるのが見えた。
「エンデカがあんなに慌てているなんて珍しいな」
ジルクニフは馬の脇腹を足で軽く叩き、エンデカの下へ向かった。
金魚の糞のように兄弟も付いてくる。
「殿下ー!殿下方ー!!」
あまりの必死な様子に、二人の兄が笑う。
「っく、あやつの顔を見ろ。今度少し脅かしてやろうか」
「あぁ、あれは脅かし甲斐がありそうだ」
下らない。
ジルクニフは馬上からエンデカに声をかけた。
「エンデカ!何事だ!騒々しい!」
「皇太子殿下!陛下が、皇帝陛下が――!!」
そうして、エンデカが口にした言葉は一瞬時を止めた。
「――父王陛下が……御崩御されただと……」
今の今までジルクニフが乗っていた馬は何も理解していないはずだと言うのに、慰めるが如くジルクニフの肩に鼻を擦り付けた。
「……は。不慮の事故にございます…」
エンデカは痛ましげな顔をし、額の汗を拭う。エンデカは先日息子が生まれたばかり。まだ二十代後半だ。
「…不慮。不慮か」
ジルクニフが繰り返す。
兄弟は呆然としたり、年の離れた弟を慰めたりと様々だ。
「皇太子殿下…。どうか…お心を強くお持ちください…」
「エンデカ、お前は優しいな」
エンデカの顔に困ったような笑いが浮かぶと同時に、ジルクニフは乗馬用の革の手袋を外した。
「優しいお前には厳しい時代が始まる。心するんだな」
「殿下…?」
「即位と戴冠の準備をしろ。ぐずぐず言っている時間はない。この時のために騎士団を我が物にしてきたのだ」
兄弟達の騒めきはすぐにエンデカにも伝染する。
「し、しかし殿下。御戴冠式の準備は皇帝陛下のご葬儀が済んでからに――」
「それでは遅い。私が新皇帝になったと知らしめる。その為にはただ即位するだけでは足りない」
「殿下!それでは皇帝陛下の喪に服する期間がございません!そのような真似をされてはどれだけの反対が上がるか…!後の支持基盤にも影響が出ます!!」
戴冠式は即位に近い時期に行われるべきだが、煌びやかで大々的な戴冠の儀式は服喪の期間に相応しくない。
「ジルクニフ!いくらなんでも横暴だぞ!そんな事はやめろ!!」
そこにいる一番年上の兄に肩を掴まれるとジルクニフはその手を払った。
(お前の先程の顔を私が見ていないとでも思ったか)
睨み付ける眼光は鷲か鷹のようだった。怖気付くように兄が一歩下がる。
「兄上、私に命令するのか?私に命令できるのは皇帝陛下ただお一人だ」
ジルクニフはふん、と鼻を鳴らした。
「エンデカ、お前も面白い言葉を知っているようだな。反対?支持基盤?私にはとっくにこの手を血に汚す覚悟ができていると言うのに」
「そ、そんな。いけません。殿下!」
まだ背も伸びきっていない少年の瞳には、ただ、決意が映っている。
歩みを進め始めると同時に、小さな手から抜かれた手袋はその場に捨てられた。
兄弟達は呆然とジルクニフの背を見送り、エンデカは追った。
「エンデカ、行くぞ。これから私が述べる信用出来る者と、騎士団を集めろ。母上――いや、皇后の家に相応の償いをさせる必要がある。不慮などと二度と言うなよ。まずはじいとヴァミリネン家、アノック家、カーベイン家を早急に私の部屋に呼べ。」
その物言いは皇后が謀殺したと言う確信を持っていた。
ジルクニフとて、皇后を生かしておけば
皇后は皇帝と同じく
「殿下!!」
咎める声が背に降りかかる。
生まれた時から側に仕え続けてくれている男だ。フールーダ程ではないが、ジルクニフはエンデカの事を信頼している。
振り返ったジルクニフは大きく息を吸った。
「エンデカ!ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスが命令する!!私が述べた信用出来る者と、騎士団を集めろ!!」
往来の支配者の覇気だった。
エンデカは吸おうとしていた呼吸を飲み下した。
まだ即位していないため、ファーロードを名乗る事はともすれば現皇帝への叛逆だ。
「殿……我が陛下……。」
「よろしい。歴史を動かしに行くぞ。」
握り締められた小さな拳から始まる蜂起は後に彼を鮮血帝とまで言わしめる、徹底した粛清だった。
彼は皇帝となってすぐに、自らの兄弟すら何人も処刑した。
バハルス州、アーウィンタール市、旧帝城。
そこの裏庭には鳩がどっさりいて、あちらこちらからクックーと鳴き声がひっきりなしに上がっている。
「サラトニク、鳩は大切にするんだ。私達は神々の様に
鳩の世話係が餌をやる横で、ジルクニフはふにゃふにゃの新生児であるサラトニクに聞かせていた。
乳母に抱かれるサラトニクはしょぼしょぼの目をぼんやりと開いて指をしゃぶっている。
「――ジルクニフ様」
特別可憐でもない声に誘われる。ずっと皇帝陛下と呼ばれていたジルクニフだが、この呼び方にももう慣れた。逆に陛下と呼ばれると胃がギュッとする。
ジルクニフは信頼だけを乗せた表情で振り返った。
「ロクシー、どうかしたか?」
信頼と尊敬で結ばれている正妻は品のいいお辞儀をして見せた。
サラトニクは間違いなく、これまで生まれたジルクニフの側室が生んだどの子供達より賢く育つはずだ。何せ――女にしておくには惜しいと思えるこのロクシーとの間に生まれた子供なのだから。
「どうしたもこうしたも、後何分もしないで光神陛下がゲートを開いて下さるのですから、サラトニクを連れ出したりしないで下さいませ」
ロクシーは「あなたも勝手に何をしているの」とサラトニクを抱く乳母へ厳しい視線を送った。
「サラトニクも一緒に行くのか。フラミー様のお茶会に」
「そうです。早いうちに光神陛下にお目通りするに越したことはありませんので」
「それはそうだな。機会があれば神王陛下にも早くお目通りした方が良い」
跡を継がせるつもりのサラトニクを気に入って貰えなければ、次の州知事にはまるで違う者を据えると言われるかもしれない。下手をすれば次代は
そんなことになってはいけない。
ジルクニフはちらりとサラトニクの顔を見た。ジルクニフと同じ紫色の瞳に、太陽の光を集めたような金色の髪。目元はロクシーにわずかに似ており、ジルクニフよりも垂れているような気がする。
(サラトニク……我が戦友よ。バハルスの為に、お前も私と共に生涯身を粉にして働くことになる。)
命懸けで守り続けたこの場所を神聖魔導国で最も栄えさせた場所にしてみせるのだ。
「――ロクシー、私もそのお茶会に行って良いと思うか?」
「光神陛下がいらしたらお伺いを立てるべきでしょうね。ですが、光神陛下でしたらお喜びになると思いますわ」
無垢であり、裏表のない――表のみの存在。裏は闇の神に凝縮されている。
そんな存在がジルクニフを拒むとは思えなかった。
「じゃあ、フラミー様がゲートで見えたらお前からお伺いを立ててくれ。私は身支度を整えて来る」
「畏まりました。なるべく急ぎでお願いいたします。光神陛下はいつもお時間ぴったりにゲートを開いて下さいますので」
ジルクニフは返事もせず裏庭を後にした。
衣装室に着けば、針子やメイド達がおり、皆昔から変わらぬ態度でジルクニフを迎えた。
「断られなければ神々の地へ行く。ロクシーとサラトニクと共にお茶会だ。相応しいものを見繕え。」
メイド達が良さそうなものを選び、仁王立ちしているジルクニフに当てる。
「エル=ニクス様、三騎士を呼びますか?」
それは近くで様子を見ていた執事のエンデカからの問いだ。
「護衛など連れて行く訳があるか。神の地で害されると思っている、乃至は神々を害そうと思っている、そんな意思表示をして何になる」
「しかし…護衛も付けずにお出かけされては…」
「お前は行った事がないから分からないかもしれないが、神の地ナザリックは馬車で向かうような場所じゃない。それに、毒を盛るような真似をする存在がいるような場所でもない」
見栄えとしては三騎士を連れて行くに越したことはないが、それよりもこちらが全面降伏しているのがひと目で伝わるように動いた方がいい。
特に今回はサラトニクが初めて神の地を踏むのだから、自らの命のみならず、息子の命すら預けている事がハッキリと分かるようにするべきだ。
新たな野望に燃えるジルクニフはメイド達の手が自らの体から離れると早々にその部屋を後にした。
足早なジルクニフをエンデカが追う。
「私も決して神の地に危険があると思っているわけではございません。ただ護衛も付けずにお出かけなど、他の州知事達にかつて皇帝だった身が侮られるような真似は――」
「そんな事はわかっている。お茶会なのだから、セイレーン州の二頭領や聖ローブル州のカルカ・ベサーレス、ザイトルクワエ州のラナー・ティエールがいるかもしれない事くらいな。それでも連れて行かないと言っているんだ。これ以上何かを言うなら、お前は明日から一ヶ月は鳩の世話係になると思え」
エンデカは代々支えてくれているし、信頼もしているが、神々の事に関しての口出しは無用だ。
デミウルゴスが再び
エンデカはまだ何か言いたげだったが、ロクシーがお茶会に出かける際に待つ部屋の前に着くと、ただ黙って扉を開いた。
四年前にジルクニフが命惜しさに神々の素晴らしさを散々説いた為、城に仕える者達の九割九部以上が神々と守護神の善性を信じている。ジルクニフも人間の身でいる闇の神の善性は感じたが。
「エンデカ、心配は有り難く受け取った」
ぽつりと言い残して部屋へ入ると、執事はまだジルクニフが子供だった頃によく見せていた困り笑いを作った。
戴冠の準備をしろと言ってから、エンデカは困ったように笑う事はほとんどなくなった。厳しい時代が来ると言う覚悟を彼も持っていたのだ。
何をしてもできすぎるジルクニフを前に、彼は本当によく困ったように笑っていたと言うのに。
ジルクニフが歴史の歯車を回す時、文官達や騎士団と違って活躍した事はないが、それでもエンデカはいつでも側に仕えてきた。
属国になると言った時も、国ではなくなると言った時も、エンデカの淹れた茶を飲んだ。
神々を信じると言い、諦め顔で笑ったジルクニフを見たエンデカがどこまでジルクニフの
しかし、ここが神聖魔導国になって以来エンデカはまた昔のように困り笑いを見せるようになった。皇帝ではなくなったジルクニフに。
エンデカはジルクニフと共に部屋にはいると、静かに扉を閉めた。
「ロクシー、待たせたな」
「ジルクニフ様。あまりギリギリなので入室を断ろうかと思ったくらいです」
「そう言うな。エンデカが三騎士を付けろとごねたせいなんだからな」
二人は短いやりとりを行い、エンデカへ視線を送る。
彼はやはり困ったように笑った。
部屋には側仕えや文官が複数人いるが、それ以上の会話はなかった。静かに神の地への門を待つ。
神が顔を覗かせる時、扉がノックされるような事はないのだから、常にノックが聞こえた直後の気持ちで迎える姿勢を整えていなければならない。
全員が膝をついた姿勢でじっと静かに過ごしていると、部屋には黒い門が開いた。
踏み出して来た者はメイドだった。支配者のお茶会で一度会ったことがある。ユリ・アルファだ。
「皆様、フラミー様がお見えになります」
一度
「ロクシーさん、お久しぶりです。お迎えに来ましたよ。」
フラミーの声にロクシーが顔を上げる。
「光神陛下、本日もご機嫌麗しく存じ上げます。ご無沙汰しておりました非礼と、迎えのお手数をお掛けしました事をお詫び申し上げます。」
「いえいえ。出産大変でしたね。お体どうですか?」
「はい、サラトニクが産まれて一月が過ぎ、もうすっかり元に戻りました。体重だけは重いままですが。」
ロクシーのほほほ、と言うよそ行きの笑い声が響く。やり取りの中で、ロクシーは自然とフラミーの手へ尊敬のキスを送った。
「ふふ、よく分かります。ところで、ジルクニフさんはロクシーさんのお見送りですか?」
ジルクニフも名を呼ばれ、ようやく顔を上げた。フラミーは枯れ枝のような羽を持つ胎児を抱えていた。
「フラミー様。ご無沙汰しております。お変わりないようで何よりでございます。」
「ジルクニフさんも。」
ジルクニフが手を差し出すと、その上にそっと薄紫色の手が重なった。ロクシー同様、手の甲に尊敬と忠誠のキスを送る。陶器よりもベルベットよりも滑らかな肌だった。
「光神陛下、本日はエル=ニクスも共に御身のお茶会へ伺ってもよろしいでしょうか。」
招待を受けているロクシーから伺いを立てた。ジルクニフが行きたい、などと言うより招待されている者が連れて行きたい、と言う方が常識的だろう。
「あら、もちろん良いですよ。ちょうどアインズさんがジルクニフさんを呼びたいって言ってたところでした。」
フラミーが微笑むと、ジルクニフはその向こうに闇を見たような気がした。
(なんだと…。神王陛下が私を呼び出し…?もっと早くサラトニクの紹介に伺うべきだったか…?)
手紙は出したが、わざわざ機会を設けて子の紹介をするのは忙しい神の時間を奪う許されざる行為だと思っていた。
神王にはナインズの誕生会や、近々訪れるであろう第二子の誕生会でサラトニクを紹介しようと思っていた。
サラトニクは正妻の第一子ではあるが、側室には他にも子供がいるので一々子供の紹介などいらんと一刀両断されると思っていたが、神聖魔導国にとってジルクニフはジルクニフが思うよりも必要な人物なのかもしれない。
これは朗報だろう。
「お伺いが遅くなりまして申し訳ございません。」
「そんな。忙しいのにありがとうございます。さ、お二人ともどうぞ。」
立つように促され、二人だけが立ち上がる。部屋にいる他の者達は膝をついたままその光景を見送った。
まだ数回しか利用した事はないが、この門を潜るときはいつも心の準備が必要だ。
ジルクニフは足を踏み入れ、すぐに視界は草原に切り替わった。草原の向こうには湖があり、胃が痛くなる過去――支配者のお茶会なるイベントを思い出しそうだ。
ジルクニフの心中とは裏腹に辺りは和やかで穏やかな雰囲気だ。
「フラミー様ぁー!おかえりなさいませー!」
背に翼を背負う美女が手を振っていた。
(…セイレーンのヒメロペーか。やはりいたな。)
ジルクニフはヒメロペーとはナインズの一歳の誕生日会で一度だけ話したことがある。
他にもテルクシノエ、ラナー、ドラウディロン、カルカと州知事職の者がてんこもりだった。もちろん皆置いてあるソファから立ち上がっている。
誰一人護衛など付けていないし、連れて来ている様子もない。
ここは政治的な場ではないが互いの州の現在の情報交換も当然行われている。他所の州の実態を知ることができる貴重な情報の場だ。ここに呼ばれていない州知事達を気の毒にすら思う。
側には
「…エル=ニクス殿か。」
ドラウディロンがなんとも言えない顔をし、ラナーが「エル=ニクス様ですねぇ」と嬉しそうに復唱する。
ジルクニフの嫌いな女が勢揃いだ。
「まぁ、エル=ニクス様に――そちらがもしやサラトニク様ですか?…本当に…羨ましい限りです。」
カルカの言葉には妙な重みがあった。
「えぇ。本日は光神陛下にお目通りをと思いまして連れて参りました。光神陛下、遅ればせながら、サラトニク・ルーン・ファールーラー・エル=ニクスにございます。」
ロクシーがよく見えるようにフラミーへ近付く。
ジルクニフは妙にハラハラした。
「サラトニク君、可愛いですねぇ。ナインズも呼んでもいいですか?」
「もちろんでございます。殿下にも是非お目通りを。」
「ふふ、ありがとうございます。――<
神々といると当たり前のように魔法が飛び交う。息子を呼ぶのに
「――あ、アインズさん。今日ジルクニフさんとサラトニク君も来てるんですけど、ナイ君連れて一緒に如何です?」
ジルクニフの心臓がドキンと鳴った。
頭の中で急いで挨拶の言葉を選び出していく。
そうこうしていると、フラミーの
中からは小さな少年が駆け出した。
「おかあた――」と、そこまで言い、ぴたりと止まるとジルクニフ含め、大人達を見渡した。
「みなたま。なざりっくへようこそ。」
ナインズは冬の誕生会の時よりぐんと大人になったようだ。こんなに流暢に喋るなんて。何より歩いている。
丁寧に頭を下げる姿を見つめていると、その後ろには剥き出しの骸が立っていた。
何度見てもギョッとしそうになるが、ジルクニフは落ち着いて膝をついた。周りもそれに続く。
「楽にしろ。皆よく来たな。」
心臓の鼓動のように体を震わせる声だ。
ナインズはフラミーの下へ行きたいのかうずうずしているようだった。
「おとうたま。」
「良いぞ、フラミーさんはお前を呼んでいたんだからな。」
「はぁ!」
嬉しそうに笑うとフラミーへ駆け寄った。
ナインズは幾枚もの翼に迎えられ、何一つ心配事などないような笑顔で笑った。
女神と神の子の様子はまるで一服の絵画のようで、誰もが夢見る母子の姿だろう。
ジルクニフの子供時代とは大違いの光景だ。
生の化身に抱きしめられるとはどのような感覚なのか。
ナインズはフラミーの頬に口付けを送ると恥ずかしそうにキャっと声を上げた。
フラミーはそのままナインズを抱き上げ、サラトニクを覗かせた。
「ナイ君、サラトニク君だよ」
「さら…にく…くん」
「ちょっと難しいかなぁ。サラ君って呼んであげられるかな?」
「さらくん」
ナインズが言うと偉い偉いとフラミーが頬を撫でた。
しかし、ジルクニフは大切な事を付け足す。
「ナインズ殿下、敬称は不要です。サラとお呼び捨てて下さい」
ナインズは「さら…」と呟くとサラトニクへ手を伸ばした。
「ナイ君、優しくね。そっとだよ。そっと。ギュってしたらダメだからね」
かなり入念な警告だった。
「そっと、やさしく。やさしく」
ナインズの手付きは雲を撫でるようだった。
「んぁ……。」
頬を撫でられたサラトニクが嫌そうに顔を歪める。非常に理不尽だが泣いては無礼だ。
「――ナインズ殿下ありがとうございます。サラトニクはまだ御身の尊さを理解しておりませんが、どうぞ今後とも仲良くしてやって下さいませ」
ロクシーがすぐさまサラトニクを揺らし、頭を下げた。
普段は乳母に任せきりだが、その気になればあやすくらいはできるようだ。考えてみれば抱かれても泣かないくらいにはサラトニクもロクシーに懐いている。
サラトニクはむにゃりとあくびをし、ナインズは嬉しそうに笑った。
(あー、心が安らぐ感じがするな。神官達や騎士団が聞いたら羨ましがってキィキィ言いそうな光景だ。もう……帰ってもいいかもなぁ)
ジルクニフはここに来た理由を忘れた。
「さて、エル=ニクス。ここは女の園だ。…良ければ――あちら、水上ヴィラのあたりで少し話でも如何かな?」
ジルクニフはここに来た理由に引き戻された。
「――神王陛下。もちろんでございます。是非」
「それは良かった。」
フラミーとその他に頭を下げ、先を歩く背中について行く。
ふと、目の端にラナーの隣にいた少女が映った。こちらもまた大きくなったが、間違いなくクラリスだろう。
(ラナー・ティエールは間違いなく自らの娘に州知事を継がせるつもりだろう。私もうまくやらねば…。)
ジルクニフはグッと拳を握りしめた。
「サラトニクにいつか州知事の座に就かせたいとやんわりお伝えになって、それで、神王陛下は何と仰ったんです?」
旧帝城に戻ったロクシーが尋ねる。
ジルクニフは頭を抱えた。
「……サラトニクがナインズ殿下と共に学べたら良いと思わないか、と。そう仰った」
「まぁ、それは神の地で…という事ですか?」
「私も最初はそう思った。しかし、ナインズ殿下は然るべき年を迎えたら………あのデミウルゴス殿がいるというのに、家庭教師ではなく神都の学校に通われるそうだ…」
そんなバカな話があるだろうか。
王族――いや、神族ならば、いくら国が定めた義務教育とは言え免除され家庭教師に教わることも悪ではないはずだ。
しかし、ナインズすら国立小学校に通えば、ジルクニフのように家庭教師で充分だと思う者も子供達を小学校に通わさざるを得ない。
ただ一人の例外も認めぬ国民の義務だと言う無言の圧力になる。
取り込まれたばかりの地域――主にアーグランド評議州などは小学校の存在に懐疑的な者も多いらしい。少し前にはリ・エスティーゼの貧しい農村地域で子供に手伝いをさせる為学校に通わせていなかったと言う問題も起きている。
そう言う地域へ向けた圧力なのだとしたら、大いに納得が行く。
「……神王陛下は恐らくサラトニクもアーウィンタールではなく神都の学校へ通わせる事をお望みだ。そうなればサラトニクは寮生活になる。」
これは人質に似ているかも知れない。
「…まだ忠誠を信じてはいただけていないという釘を刺されたわけですわね。」
ジルクニフは静かにうなずいた。
「子供の口に戸は立てられん。小学校に入る時、サラトニクが真っ直ぐに神王陛下やナインズ殿下に付き従がう信仰を持っているかは大きなポイントになるはずだ。なおかつ優秀でなければ州知事はサラトニク以外の者になると思った方が良いかもしれないな。」
「なるほど…。では、余計な一切を耳に入れない方が良いかもしれませんわね」
「その通りだ。もちろん離反しようなど欠片も思っていないが――」それでも仕方がない。
一度女神の離反、闇の神の謀殺を企んだのだ。これでそう簡単に信用される方が気持ちが悪い。
ジルクニフは絶対的な影響力を鑑みて生かしておく方が利になるから生きることを許された。
粛清を行った帝城に残る者は皆ジルクニフ派だし、ジルクニフが生きてトップに就いている為行政に混乱は一度も生じていない。
ジルクニフが忠誠を誓っていれば神々としてもバハルスの管理は簡単だろう。
ジルクニフは忠誠と恭順を示す手立てがサラトニクを人質として神都行きにさせる事で容易に叶うなら、それに越した事はないと分かっている。
休暇には普通の学校では学べない多くをこれでもかと教えなければならないが。
「ロクシー、お前はフラミー様とどうだった」
「こちらは楽しく過ごさせていただきましたわ。光神陛下は最近海をご覧になったそうです」
「海?それで?」
「美しかったと」
「それで…」
「世界は素晴らしい。この世に生まれ、この世で育つことが出来る全ての生に祝福の言葉をお掛けになりたいと」
「……女神らしいな」
ロクシーがフラミーに下した最初の評価は平凡な女だ。しかし、今では超常の存在へと評価は改められている。話せば話すほど、見ているものが現在を生きる者とはかけ離れているのを感じるらしい。
「本当に。また海を見にお出かけされるそうですわ」
ジルクニフは昔父王と出かけた田舎町からみた海を思い出した。
ジルジル、大変な子供時代だったんだねぇ
子供達、早く!早く学校に通ってくれ!