#118 夏草海原
カルサナス州の東。
ティエンタ山脈の向こうには
人の膝程の青い草は風が抜けるたびにさやさやと揺れ、まるで波打つように煌めいていた。
この夏草海原は北西の一部がカルサナスの都市と隣接しており、北東の一部は銀色草原に隣接している。ずっと南下して行けば三大国のうちの一つであったビーストマン州がある。
かなり広大な夏草海原だが、ぎっしりと街があったり、一つの種族が国を築いているような訳ではなく、様々な種族や部族の者達が遊牧生活を行い、穏やかに暮らしていた。
言葉を話す種族で代表的なのは四種だ。
頭から腰までは人間で、その下が馬の体を持つ
喋らないものなら
そんな多くの種族が暮らし、国家が存在しない夏草海原にもルールというものはある。
雨が少ない季節には争わずに池沼を譲り合って使うと言うものや、雪の降る季節には夏草海原に恵みをもたらすバオバブの木が冷えて立ち枯れてしまわないように野牛の皮を巻いてやるというもの、
夏草海原の
夏草海原に暮らす者達は食物を求めて銀色草原へ移動し、春が訪れるとビーストマン州の近くのよく育った
遥か昔は一部のビーストマンも夏草海原に暮らしていたが、ビーストマン達は夏草海原の南に大国家を築き、三百年もかけて連邦中に水道を通して暮らしていた。彼らは海と山に接して川を多くもつ肥沃な土地に住まうワーウルフと戦争をしていた程だ。
夏が訪れると遊牧民達は夏草海原中に散って暮らし、秋が訪れるとジリジリと銀色草原へ向かって皆北東へ上がっていく。
これが夏草海原の一年だ。
そして、今年の春もまた夏草海原は青に染まった。
「バンゴー議長…これは、この街の様子はどうした事ですか。」
「騎馬王殿、実に久しいですのう。六年ぶりか。私は今は議長ではなく州知事です。」
ビーストマンのイゼナ・バンゴーは夏草海原に君臨する誇り高き騎士、騎馬王と言う
"騎馬王"と呼び始めたのは都市国家連合の者だが、今では殆どの者がその
「――去年の春にお立ち寄り頂かなかったのでお伝えできませんでしたが、一昨年の春にビーストマン連邦は神聖アインズ・ウール・ゴウン魔導国へと併合され、今ではビーストマン州です。」
「ここも神聖魔導国に…。いやはや…時は流れるものですな。もう二年と言ったところでしょうか…?」
「さよう。アンデッドがいる街には驚かれたでしょう。五年ごとの"立ち寄りの春"にお見えにならなかったので……よもや亡くなられたかと。」
「いやいや、元気にしております。去年はカルサナスとの戦争を持ち越す事にしたので立ち寄りませんでした。」
「そう…そうであったか…。」
バンゴーは目に見えて安堵していた。騎馬王が顔を出した時にはまるで死人を見たような顔をしたものだ。
騎馬王達、夏草海原の遊牧民達は五年おきの春に旧ビーストマン連邦を訪れていた。戦争へ向けた武器や食料の調達が主目的だ。
「そう易々とくたばりはせんですよ。ははは。」
騎馬王は愉快げに笑ったが、バンゴーは居住まいを正した。
「…騎馬王殿は知っておいでか。去年の春の始まりに、カルサナス都市国家連合の全ての都市が神聖魔導国へとその名を変えたと。」
「――なんですと?」
騎馬王は毛深いバンゴーの顔を驚愕の瞳で見つめた。
「これは古き友への忠告…。神聖魔導国へ手を出してはなりません。」
バンゴーの言葉は何某かの実感がこもっていた。
しかし、騎馬王は何も恐れぬように返した。
「ご忠告は感謝申し上げる。しかし、我々は百年前の"青草の約束"を忘れてはいないのです。」
「ああ…騎馬王殿…。夏草海原の奪われた地は半分取り戻した、そうでしょう。あれからもう百年…。どうか過去の事と全てを忘れてカルサナスを許してはもらえんだろうか…。」
ビーストマン連邦からカルサナス都市国家連合は遠い。バンゴーは去年の春にカルサナスが神聖魔導国となるまで、直接カルサナスと関わりを持った事はなかった。
しかし、それでもこうして騎馬王へ頭を下げる。
その姿を見ると、騎馬王の中には形容し難い感情が湧き上がった。
「…ビーストマンは夏草海原の中でこうして生きる新しい方法を見出したからそのような事が言えるのです。今も夏草海原と共に生きる我らにとって、あの日の屈辱は決して忘れられるものではない。」
「……ぬし、最早戦いの中に生を見出しておるのではあるまいな…。」
「バンゴー殿。我らとて、戦いしか生きる方法を知らぬ訳ではありません。しかし、夏草海原の地は全て取り戻さねば、戦いは終わらない。」
返した騎馬王の瞳の奥には復讐や使命の炎が燃えていた。バンゴーは確かにそれを見た。
「………我らビーストマンは神々の力を見せ付けられた。我らの街を歩く
「存じておりますとも。しかし、それが何か。」
「あれこそが沈黙都市の化物なのです。つまり、神聖魔導国に戦いを挑むと言う事は、沈黙都市が味わった恐怖をその身に受け、必定の死に飲まれる覚悟をお持ちにならなければならん…。我らの王は誠、死の権化よ。去年の夏にカルサナスへ攻め入られなかった事は貴殿の本能がそれを解っておいでなのではないか。」
「去年我らが攻め入らなかったのは単純な話。カルサナスが五年に一度行うはずの競技大会を開かなかったからにすぎません。帝国――いや、今はバハルス州でしたかな。あそこにいる首狩り兎が
「べバード…。べバードは確か、カルサナス全土が神聖魔導国になる半年前にカルサナスを離脱しておったな…。それを起因にカルサナスはずっと経済的な内乱状態に陥っていたそうだし、大会の準備もできなかったのでしょうな。」
「内乱…。やれやれ、本当に懲りぬ者達だ。」騎馬王は呆れたように苦笑した。「――そのまま多く命を落とす者があれば、
騎馬王はこれまで、
彼らとの戦いの歴史は古く、十二の都市国家がまだ十四の小国家であったおおよそ百年前まで遡る。
当時カルサナスは一つの巨大国家の崩壊によって、併合と分裂を繰り返していた。それには当然流血が付き物であり、世は乱戦時代であった。
小国家同士の戦いには夏草海原の者達も駆り出され、多くの
本来カルサナスの戦争に夏草海原は無関係であったが、戦争が進むにつれ、隣接する彼らもカルサナスの戦争へと引き摺り込まれた。
夏草海原に接していた小国家は、夏草海原へその国家を広げ、小国家郡の中でもひとつ抜けた大きな国家へと成ろうとしていた。夏草海原で野牛や
しかし、当然夏草海原の者達は美しき草原への侵略に反対し、断固として譲ろうとしなかった。
一つところに長く住み、
建設を進める小国家の者達にルールを説明しても、小国家にそれを理解する事はできなかった。
――こうあっては戦争しかない。
そう思われたが、小国家は夏草海原と他国家に戦端を二つ持つほどの体力は無かった。それを知らない夏草海原連合軍は戦力を集中されれば負けてしまうかもしれないと震えた。
その時、小国家は夏草海原の者達に約束を持ちかけた。
「共に他の国家と戦ってくれるのならば夏草海原から手を引く」――と。
彼らも戦争に勝つため夏草海原へ侵略して来たのだから、勝てさえすれば良かった。むしろ兵が増える方が望ましい。
約束通りに小国家による乱獲と侵略は止まり、夏草海原連合軍は二年と言う長き時を小国家の者と戦った。
その果て、大議論と呼ばれる討論が行われた。カルサナスは運命を共にする現在の十二の都市国家で連合が形成され、戦争は終結した。
戦士達が手を貸した小国家は解体され、二つの都市国家に吸収された。
当時小国家のトップに立っていた者達は戦犯として裁かれ――
そして、全ては変わってしまった。
小国家との間に交わされた約束は"青草の約束"と呼ばれ、後に守れもしない約束を示す言葉となった。
何故なら、戦士達が手を貸した戦争から帰った時、夏草海原の一部には牧場と街が広がっていたからだ。
何も知らない、約束を交わした小国家とは無関係のカルサナスの亜人達が平和に暮らし、そこで生活を営んでいたのだ。
作りかけの街には置きっぱなしの木材や柵が大量に置かれていて、戦争から逃れてきた彼らはその場所で定住を始めていた。
夏草海原のその一部は海原と言うにはあまりにもお粗末な――不毛の地になった。
移動しないせいで家畜と化した牛たちの糞が大地を汚し、これまで大量発生しなかった虫が夏草海原を覆い、数少ない池沼ではカルサナスの者との諍いが絶えず、
さらに、彼らは囲っていない全ての野牛も自らのもののように振る舞った。その野牛達は戦争からの貧困に苦しんだカルサナスをどれだけ支えただろう。
これらの行いは、カルサナスの戦争に手を貸すために草原を出ていた者達の仲間にも大きな打撃を与えていた。
カルサナス都市国家連合、ティエンタ山脈の側には人間もいるが、夏草海原に侵略してきた相手は亜人である。
戦士級の者達の不在に、女子供はカルサナスの侵略者に追われ、水を譲り合うと言うルールは守られずに渇きに悶えた。限りある水場は柵で囲まれ、野牛しか入れて貰えない。
カルサナスの者はいつも「管理者も国もないのだから正当な行い」だと言って引かなかった。
冬になりバオバブを守るために野牛を殺して皮を巻いていたら、家畜を殺したと暴力的な制裁を受けた。
水辺の減少と、それに伴う生き物の減少は獅子の
その年の水辺を追い出された
夏草海原には尊きルールがあるのだ。
ルールを守れない生き物の台頭は広大な夏草海原を歪めるには十分すぎる。
彼らはビーストマン達と同じく、夏草海原のルールを守り、時にトロールやミノタウロスに拐われて食われながら定住を始めた。遠くまで男が
この悲劇は、たった二年の出来事だった。
夏草海原に帰った戦士達は猛烈な怒りに震えた。
カルサナスの亜人達は空いていた土地で暮らしているだけだと言って引かなかった。いや、彼らとて帰るところがないのだから仕方がなかったのだ。
"青草の約束"を交わした小国家は最早存在せず、二つの都市国家へ説明を求めても誰も責任を取れる者などいない。
もう暮らし始めてしまったのだからとなだめられたが、夏草海原の先住の者達はこの行いを決して許しはしなかった。
双方の感覚には大きな隔たりがあった。
草原に家が建てられた面積は全体の大きさから言えば五十分の一、いや、百分の一にも満たない、小さなものだったのだ。
囲まれていない水場もあるだろうとも言われた。しかし、どこも逃げ出した
広い夏草海原なのだから良いじゃないかと言うカルサナスと、夏草海原側の折り合いがつく事はなく、水辺周辺の徹底した亜人狩りから始まり、夏草海原とカルサナスの百年戦争は幕を開けた。
当時小国家ひとつと戦うことすら恐れていた夏草海原連合軍だったが、小国家同士の戦争に参加した為カルサナスの手の内も、街の内部も全て知っていた。
空から
しかし、カルサナスは運命を共にすると誓い合った十二の都市国家が一丸となり、両者決着が付く日は来ない。
そうして、
――騎馬王。
彼はあらゆる点において、普通の
彼の足は
猛烈なる脚力はどれだけ走っても衰える事はなく、たった一人で五人の
カルサナスの者達は最初に騎馬王を見た時、
戦局はたった一人の鬼子によって大きく左右された。
そして、カルサナスの者達は騎馬者を畏れ、いつしか騎馬王と呼んだ。
彼はあらゆる軍馬を超える力を持つ
死闘の果て、夏草海原の水辺と牧畜化された牛は解き放たれ、侵略された土地も半分は取り返した。
夏草海原はかつての美しさを取り戻し、
しかし――あと半分。
あと半分も取り替えさなければ、夏草海原の者達の気は収まらない。
「――騎馬王殿。命を落とす者を望むようなことは、どうか仰るな。かつての夏草海原の美しさを取り戻した今、あの残りの土地を奪い返すことにどれほどの価値がある…。」
バンゴーの瞳は悲しげだ。バンゴーとて、祖先は夏草海原に暮らしたのだ。今は立場上カルサナスに肩入れしなければならないが、気持ちは夏草海原側だ。それに、荒れ果てた夏草海原を前にビーストマン達が嘆いた日もある。
獅子の
競技大会が開かれる五年ごとの春にはこうして騎馬王のみならず、遊牧の亜人が多くビーストマン州を訪れる。
セイレーンや人間を好んで食べるビーストマンだが、数百年前に夏草海原を遊牧していた時には
彼らはビーストマンが国家を築いた時に――草原に出て来られれば食われる為、二度と夏草海原に来ないで欲しいという下心から――国家の生命線である水道橋の建設を手伝った歴史もあり、ビーストマンは夏草海原の者を少なくとも三百年は食べていない。
共に生きる道は離れたが、それでも、ビーストマンにとって夏草海原の民は同胞のようなものだった。
「バンゴー殿。この恨みとて、カルサナスが早々に夏草海原から引いていれば募る事はなかったのです。今や夏草海原連合軍の怨みは百と一年を迎えた。かつて長いという意味で百年戦争と名付けられたが…本当に百年を迎えるなど皮肉なものです。」
伏せるように座っていた騎馬王はゆっくりと立ち上がった。
バンゴーが見上げるほどに大きな体だ。
「恨みが百年を迎えたと言う事は、あの地に暮らす者達も百年暮らしていると言うことでしょう…。取り返せば祖父母の暮らした地を返せと、再び争いを産む…。彼らはもう水辺も野牛も囲ってはいないのだから、侵略者は夏草海原側となる。そうなれば、出てくるのは神聖魔導国の本隊。その意味が貴殿には分からぬか。」
「……
「お分かりならば、夏草海原は神聖魔導国の支配下に入ることを表明されよ。決して悪いようにはされん。共に解決法も探ってくれよう。」
「我らは国家ではないし、街もない。私がそんなことを表明したとして、何になる。」
「しかし、そなたは事実上夏草海原に君臨しておるではないか。草原を神聖魔導国へ渡し、騎馬王という名を捨てヴェストライアに戻る時が来たのではないか?」
騎馬王は振り返ると呟いた。
「………いはしないのさ。ヴェストライアなどという名の
「
「私はこの戦いのために生まれた。
「戦いに生きる道を見出したわけではないと言った言葉はどうした!」
騎馬王は笑った。
「全てを取り戻したあと、私はようやく生きる道を得られるでしょう。」
「ま、待て!せめて、せめてコキュートス殿にご相談申し上げれば――」
「知らぬ者に相談などできぬよ…。御免。」
騎馬王はいくつもの蹄の音を立て、議場にあるバンゴーの部屋を後にした。
「……分かっておらぬ!何も、何も!!」
バンゴーがダンっと机を叩くと、机は二つに折れて割れた。
引き出しにしまわれていた書類がざらざらと机からこぼれ落ち、バンゴーはそれを見ると眉間を抑えた。
「……コキュートス殿にご連絡をしなければ…。」
騎馬王は議場を出ると、ビーストマンの街、ギルステッドをぐるりと見渡した。
水道橋は今も掛かっているが、どうも水が流れているようではない気がする。水の匂いがしないのだ。
国のトップが変われば全体の生活が一気に変わってしまうこともあるのかもしれない。
しかし、神聖魔導国とは一体――。
先ほどバンゴーに見せられた地図と言い、カルサナスとビーストマン、バハルスを繋いでいるのだから、超巨大国家だということは分かるが、騎馬王にはそれがどれほど広いかなど想像もできなかった。
騎馬王は街にちらほらといる
「騎馬王殿?」
その呼び掛けに振り返れば、金色の毛のビーストマンがいた。
「――"金の立髪"か。」
「懐かしい呼び名です。お変わりないようで。」
ステットラ・ギード将軍はぐるる…と喉を鳴らして牙を剥き出しにした。心を許している笑顔だ。
「…君も私が死んだと思っていたか?」
「えぇ。"君も"ということは、バンゴー州知事にはお会いになりましたか。」
「なったとも。…流石にバンゴー殿も老いたな。」
「そうでしょうか?かの御仁は昔から貫禄はありましたからね、そばに居るとあまり感じません。」
「そうか。平和だな。」
騎馬王の視線の先では争っていたはずのワーウルフがビーストマンと何かの生き物の腿肉を食べていた。
「――それで、騎馬王殿も夏草海原と共に神聖魔導国に?」
ギードの問いに騎馬王は答えなかった。
「私は行く。また夏草海原に近い街で会議を開かせてもらう。」
「どうぞ。これからは五年に一度ではなく、毎年いらして下さい。」
「感謝する。」
騎馬王が議場を離れると、辺りにいた