夏草海原の者達の夜は早い。
火を滅多に使わない彼らは夜の帳が降りる頃には皆眠るため、大抵は夕暮れが訪れる前に夕食を取る。
コキュートスと手合わせを済ませた者達は興奮するように闇夜の迫る空の下、食事を始めた。
その横で、コキュートスは本日の報告をしようと<
戦士達が興味深そうにコキュートスを眺めている。
コキュートスはまず体に汚れが無いかを確認し、背筋を伸ばしてから
数度のコール音が鳴る間、ソワソワと支配者が出るのを待つ。
そして、その時は来た。
『――私だ。』
「アインズ様、コキュートスデゴザイマス。」
『コキュートス。どうだ?そちらは。騎馬王は止められそうか?』
「ハ。今ノ段階デハマダ難シイカモシレマセン。」
『そうか。今日はどのような説得をしたんだ。』
「希望者ト手合ワセヲシテミマシタ。戦争マデ鍛エニ鍛エテ、ソレデモトテモ敵ワヌト知レバ、攻メ込ム事モ諦メルカト。今日ハ何人カノ若者ガ戦争ヲ無駄ナ事カモ知レナイト悟ッタヨウデシタ。」
傷付けすぎてはいけない相手と手合わせをするのは一郎太と二郎丸、ザーナンとシャンダール兄弟達の特訓で慣れている。
ザーナンとシャンダールはナザリックで管理している生き物ではない為、今はしばらくナザリックに呼んでいない。強くなりすぎると問題が起こるとフラミーが言った為だ。アルベドとデミウルゴスも大賛成していた。
『お前らしいやり方だな。では出張は最長で戦争の予定日か。時間がかかりそうだな。ナインズが寂しがる。』
「ム。コレハ申シ訳ゴザイマセン。」
姿は見えていないが、コキュートスは迷わず頭を下げた。そして、思わず笑みが溢れてしまいそうになるのを抑える。
『昼食の時、今日はどうしてじいがいないの、なんて言っていたぞ。騎馬王の下へ行ったと言ったら、嬉しそうに笑っていた。』
「――オボッチャマ…。」
寂しがるのはナインズよりもコキュートスの方かもしれない。コキュートスは敬愛するナインズを想って空を見上げた。
赤紫色に染まる空はコキュートスの事さえも染め替えてしまいそうだった。
「アインズ様、オボッチャマニモオ伝エ下サイ。必ズヤ止メテミセルト。」
『伝えよう。私も期待しているぞ。お前は対亜人のプロではあるが、手合わせ以外にも説得の言葉を探しておいた方がいい。もし何か困った事があればいつでもデミウルゴスやアルベドに連絡を取ってもいいのだからな。』
「ハ。オ心遣イ痛ミ入リマス。」
『良い。』アインズはそう言うと、む、と声を上げた。
『――もうナインズが来たか。今は話をしているから少し外で待たせろ。――うわ!仕方ない奴め。――うんうん、お片付けだな。分かった分かった。――今?これはコキュートスだ。――うーん、
アインズの向こうにナインズの姿を想像する。
今日の執務の終わる時間を告げにきたのだろう。コキュートスにとってはナインズと別れる時間だ。
ナインズは日々成長している。目まぐるしい日々に、きっとすぐに大きくなり、コキュートスを遥かに超える存在へとなっていくのだろう。
それは幸せなことだ。
コキュートスにとって、これ以上嬉しいことはない。
『――あぁ、
コキュートスは心の中で九太様、と呟く。
支配者達はもう一つ名前がある。デミウルゴスはそれこそが支配者達の真なる名前であると以前教えてくれた。
ナインズのこれも、その真なる名前なのだろう。
支配者達はたまに互いのことを真なる名で呼び合っているが、支配者同士以外がその名を口にする事はない。
特にフラミーの真実の名前は決して口にしてはならないとデミウルゴスが厳重に通達していた。
フラミーの真実の名は何千年も何万年もひた隠しにされ、アインズさえも知ったのはツアーとの戦いの後だと言うのだ。
悪魔と天使にとって名前と言うのは特別な意味を持つ。
名前は存在を構成する大切な要素であり、悪魔が出現するためには名前という楔を世界に打ち込む必要がある。故に、悪魔は偽りの名前を使った場合消滅してしまうこともあるらしい。
デミウルゴスですら完全に偽りの名前を名乗る事はできない。
これだけ名前と言うものが持つ力が強いのだから、フラミーの真なる名前がどれほど尊く、やんごとないものなのかは簡単に理解できるだろう。非常に触れ難いものなのだ。
余談だが、フラミーは冒険者のプラムとして過ごしていた間、自らプラムと一度も名乗らなかった。いつも「こちらはプラムさんです」とモモンに紹介されて過ごし、名乗ることが必要な場合には「村瀬文香」を用いてきた。
フラミーが偽名を名乗れなかった故にそうしていたのか、はたまた偶々そうなったのかは、フラミーのみぞ知る。
アインズも真実の名前を隠していると言うのは、呪いへの耐性を考慮している故と、やはり何か存在の根幹に関わる為だろう。呪いには名前を用いなければ効果が半減するものが多くあり、真実の名前がわからなくては掛けられないものすらある。
守護者のみならず、この情報は僕達にも満遍なく通達され、支配者達が互いを真なる名前で呼び合っていても、真似をしたり、口にする事は禁じられている。
ナインズの九太と言うのも、アルメリアの花と言うのも、同様だ。
『――コキュートス、すまない。待たせた。ナインズが来ていた。』
「フフフ、オボッチャマノゴ様子ガ伝ワッテ参リマシタ。アリガトウゴザイマス。今日ハオ顔ガ見ラレナイノガ残念デス。」
『
「恐レ入リマス。デスガ、ヤハリ良イ報セヲ持ッテ帰リタイト思イマスノデ、暫クハコチラニ留マリマス。」
コキュートスはまだ騎馬王が折れないのかとナインズに残念な顔をさせたくなかった。
『そうか。では、お前なりに納得がいくまでやってみるが良い。』
「ハ!」
『忙しいだろうが、アルベドへの定時連絡はきちんと行え。一日の終わりには私かフラミーさんに連絡するように。――あぁ、ナインズに繋いでも構わないからな。』
コキュートスは自らの
熱い。思わず空いている手でそこを抑えた。
「アリガタキ幸セ。」
『ナインズも喜ぶ。さぁ、私はもう片付けを始めよう。アルベドとリュミエールが痺れを切らして私の代わりに片付けようとしているからな。』
「貴重ナオ時間ヲ頂戴シテシマイ申シ訳アリマセン。」
『気にするな。ではな。』
「失礼イタシマス!」
頭をきちんと下げ、支配者との繋がりが切れる時までそのままの姿勢で待った。
ぷつりと糸のように繋がっていた感覚が切れると、ようやく顔を上げた。
空はもう紫色で、平原の上には月が登っていた。
二つづつ並ぶ四つの瞳に月光が映る。
コキュートスは、なるべく支配者達の気持ちや思惑を理解できるように、支配者達が行うことを行いたいと思っている。
ナザリック程素晴らしくはない世界だが――コキュートスは支配者達のように空を見上げ、心の中で「美シイ」と呟いた。
砂をばらまいたような満点の星が西の空にじりじりと姿を現して行く中、ひとつの足音が接近してくるのを聞き取った。
「――クルダジールカ。」
「コキュートス様!お食事はとられましたか?もしまだで、持ち合わせが無いようでしたら、良ければ我々の食事を召し上がられては如何ですか?どれも美味しいですよ。」
「イヤ、私ハ――」食べずとも大丈夫だと言おうと思ったが、それを発する事はやめた。
フラミーも言っていたが、全ての生が飲食を不要にする指輪を手に入れる事はできない。それをここで使う事は、この夏草海原を必死で守ろうとしてきた戦士達への侮辱になるだろう。
「――イタダコウ。」
「是非どうぞ!あちらでどうですか?手合わせをした者達も、皆コキュートス様と話したいと言っているんですよ。」
クルダジールの長い尻尾が軽く左右に振れる。
コキュートスが歩みを進めると、クルダジールは蹄を返した。代表達が警戒するような視線を浴びせる中、四種族が入り乱れた若者の群れに迎えられる。
コキュートスはふと、離れたところにいる騎馬王の小さな声を聞き取った。
――若者達はあれで良いのだ。
――生き残り、神聖魔導国の民となるのだから、あぁして気に入られる事こそ正解だ。
――強くなり、またこの夏草海原を守り続けていくだろう。
コキュートスは騎馬王を止めるのは相当に骨が折れそうだと思う。
騎馬王の顔は満足げで、真っ直ぐな戦士のものだった。
あれは口で言われても、力を見せられても、戦場へと赴こうとするような気がする。
(……アインズ様ノ仰ルトオリ、何カ方法ヲ探サネバ………。)
コキュートスの瞳は顔の側面についている事もあり、顔を向けずとも相当に広い範囲を見渡す事ができる。騎馬王は見られていることにも、声を聞かれている事にも気付いていないようだった。
クルダジールや、若者達にはまるで聞こえていない様子なので、この距離なら大丈夫だと思っているのだろう。コキュートス程の聴覚を持っていなければ聞き取る事は難しい。
「――コキュートス様は肉食ですか?」
クルダジールからの問いに、コキュートスは意識を戻した。
「私ハ何デモ食ベルトモ。シカシ、オ前達ガ食ベナイ部分デ構ワナイ。」
「そう仰らず。今日の稽古代くらいは召し上がって頂かなくては!」
「ソウカ…?」
「えぇ!さぁ、好きなだけどうぞ!」
クルダジールはコキュートスの隣に座り、瑞々しい草や、大きな変わった実、牛の肉、何かの野菜を平べったく乾燥させたものなどを差し出した。
若者達は何を食べるのだろうかと興味津々にコキュートスを見つめている。
「………デハ。」
手近な所にあった草を摘むと、その口に運んだ。
何故か「おぉ…!」と周りで声が上がり、コキュートスは奇妙な気分になった。
「やはり、草をよく食べることが強くなる秘訣ですか?」
「…イヤ。ヤハリ、強サヲ身ニ付ケルニハ訓練ト体ニ合ッタ食事ガ必要ダロウ。」
「それはそうですね。コキュートス様や側近の皆様は何度も赤子に戻ってその強さを手に入れたので?」
「赤子ニ?イヤ、ソンナ事ハナイナ。私達ハ強クアレト生ミ出サレタ。」
瞳を輝かせていた若者達は一層それを強めると、互いの肩を叩き合って嬉しそうに頷き合った。
「やっぱり!首狩り兎のやつ、馬鹿げた事を。コキュートス様は騎馬王様と同じですね!強くあれと生まれ落ち、そうあろうと邁進し続けていらっしゃる!」
騎馬王とは違う。至高の存在の手自ら生み出された守護者は凡ゆる生き物と違うのだ。そう言いたかったが、コキュートスは否定を返すよりも、騎馬王という男についてもっと知りたかった。
「アレハソウ言ウ男カ。」
「えぇ。本当に…一番尊敬できる方です。」
「――ソウカ。」
その後コキュートスは出されるもの全てをもそもそと食べた。
味はと言えば――BARナザリックで悪魔と肩を並べて飲む酒が恋しくなった。
その夜、騎馬王は
騎馬王はまだ幼い。
あんなに急いでどこへ行こうと言うのだろう。騎馬王は速く走る方法が知りたくて、その群れに向かって一生懸命地を蹴る。
しかし、どれだけ走っても彼らに追いつく事はできなかった。
コキュートスが群れに身を置くようになってから二日目。
まずは
そうしている間、
水場の端にいた
連合軍はじっくりと北へ向かって遊牧を始める。
これだけの人数が群れにいれば、若芽が悪くなりかねないので一つところに留まれるのは一日までだ。
通りかかったバオバブに、まだ冬の頃に巻かれた野牛の皮があった。ここはまだ、春になってから誰も来ていないようだ。
木の全身に丁寧に巻き付けられた皮は日光と雨風に晒されて傷んでいる。
コキュートスも手伝ってみようかと紐を引っ張り、簡単に切ってしまうと皆からブーイングが上がった。
「紐はまた今年使うかもしれないんですから、丁寧に外して下さい。」
クルダジールがそんな事を言うと、騎馬王は笑った。
「ス、スマナイ。御方々モ良ク"モッタイナイ"ト仰ッテイタ。」
「神王陛下と光神陛下はご立派な方々ですね。」
「ソウダ。草原ニハ神殿ヲ建テラレナイダロウガ、祈リハ場所ヲ選バナイ。オ前達モ祈リヲ捧ゲルガ良イ。」
「いやぁ。それはちょっと。」
特別何かを信仰する事もない夏草海原の民にとって、突然祈りと言われてもピンと来ない。
皮紐は丁寧に外され、半年の間腐食が進まないように箱に入れられ、箱ごと木に括り付けられる。一本だけ、真ん中を結んで繋がれた紐はコキュートスが取ったものだ。
木はきちんと寒風から守られたようで、割れているところは一つもなかった。樹皮の剥離もなく、健康そのものだ。
「今日はここにしよう。」
騎馬王の声掛けに皆
コキュートスも手伝い、設置が終わると若者達の訓練を見てやったようだ。
その夜、騎馬王は再び
騎馬王の年の頃は青年くらいで、これなら追い付けるかもしれないと漠然と思う。意気揚々と足を踏み出そうとすると、地面が柔らかくなるような感覚が襲い、地を蹴ろうにもうまく蹴ることができない。
一体何なんだ。この足はどうしたことだ!
騎馬王が馬体を見下ろすと、自分が踏んでいたのは地面ではなく、大量の
騎馬王は慌てて皆の上から離れようと駆け出した。先程までの足の重さは嘘のように騎馬王は速く走ることができた。
しかし、どこまで行っても、騎馬王の下から死骸がなくなる事はない。それどころか、今度は
もがいているうちに、騎馬王は目を覚ました。寝たまま八本の足を動かしていたようで、馬体が疲れている。
「……やれやれ。」
汗に濡れた体で
辺りはまだ日の出前。誰も起きている者はいなかった。ただ一人を除いて。
「――ドウカシタカ。」
音の塊を無理やり声の形にしているような音だが、優しい響きがある。騎馬王はそちらを見た。
満点の星空の下、コキュートスの外皮は黒と星の色になっているように見えた。
「いえ。コキュートス様は眠らないのですか。」
「イヤ、寝テイタトモ。シカシ、目ガ覚メタ。」
「そうでしたか。……何か嫌な夢でも見られたので?」
騎馬王はそれは自分だと思ったが、怖かったねと、もしかしたらこの人となら言い合えるかもしれないという少しの期待を込めてそう尋ねた。
「違ウ。良イ夢ヲ見テイタ。オボッチャマガ私ニ向カッテ笑イ、友ガ主人ニオ茶ヲオ出シスル夢ダッタ。友ハ主人ガ居レバドコデモコノ世デ最モ美シイ場所ニナルト常々言ッテイルガ……トテモ美シイ光景ダッタ。」
「そう、でしたか。では、目覚めてしまったのは残念でございましたな。」
コキュートスは首を振った。
「イヤ。オ前達ガ殺サレテハ困ル。ソウナレバ我ガ君ガ泣ク。夢ヨリモ大切ナコトダ。」
「我らが殺される…?」
騎馬王が疑問を口にすると同時に、コキュートスは音もなく輝けるハルバードを取り出した。
月はもう落ちている。星の瞬きを返すハルバードを握りしめる後ろ姿に騎馬王は一瞬見惚れた。
「ソコノ者。隠レテモ無駄ダ。姿ヲ見セロ。」
騎馬王はゆっくりと体を低くし、馬体に下げてある鉾を構えた。
コキュートスの視線の先。そこから闇に紛れるように立ち上がった者がいた。
全身黒ずくめだ。黒い頭巾を被り、口には黒いマスク。顔はすっぽり覆われていた。
頭巾の額部分にだけは黒い金属が貼られ、頭を守っているようだが、他の場所にはほとんど装甲はない。
草を掻き分けて数歩進んで来ると、足先までよく見えた。ズボンは股上に余裕があるたっぷりとした形をしているが、膝から下は布を巻きつけて体に密着している。豚の蹄のように二つに割れた靴を履いているが、人間のようだった。
「――守護神様。」
大人しそうな女の声だった。
「我ガ国ノ者カ。ココデ何ヲシテイル。名ハ。」
女はその場で膝と拳を地に着いた。
「は。私の名はティラ。暗殺者集団、イジャニーヤの頭領をしております。」
「ソノイジャニーヤガ何ノ用ダ。誰ヲ殺シニ来タ。」
「騎馬王の首を取ってくるように言われて参りました。」
「誰ニ言ワレタ。」
「申し訳ございませんが、守護神様であっても、法廷に上がるまでは依頼者の事はお話しできません。」
「ソウカ。デハ、引ケ。イジャニーヤノティラ。ソウシナケレバ、私ハオ前ヲ再起不能ニシテ神都ヘ連レテ行カネバナラナイダロウ。
騎馬王はコキュートスの隣に着くと、コキュートスに喋る許可を取るように視線を送った。
コキュートスが頷き、許可を得るとティラと向き合った。
「カルサナスよりの刺客。お前にも仕事があろう。戦いならば受けて立とう。」
「――そうしてもらえると助かる。」
「コキュートス様、私は戦争の時まで決して死にません。よろしいでしょうか。」
コキュートスはため息を吐くように、白い息を吹き出した。空中の水分が瞬時に凍りつき、キラキラと星屑を落とすようだった。
「イイダロウ。好キニスルガイイ。」
「ありがとうございます。」
騎馬王は群れから数歩離れると、鉾を体にかけ直し、地面に座った。
「――何の真似?」
「私はお前の接近に気が付かなかった。お前の好きなタイミングで始めてくれて良い。」
「律儀。だけど、仕事のためだからこのままやらせて貰う。」
ティラは腰に下げていた六本の両刃の短いナイフを両手の指の間に持った。
そして、無言のまま座っている騎馬王めがけて疾走した。
距離は短い。まずはナイフの四本を最も無防備な上半身へ向けて放つ。
(――殺気が足りないな。)
これでは存在に気付けなかったわけだ。騎馬王は一気に八本の足を使って後ろへ飛び
無防備に座っていても、少しのタイムラグも感じさせない動きだ。
これまで騎馬王が座っていた場所にナイフが突き立つ。
(全て心臓を狙ったか。)
冷静に状況確認をしていると、ティラは負けじと目前に迫っていた。
手には投げなかった残りの二本のナイフ。
「頂き。」
「まさか。」
騎馬王は腰に下げている鉾の
鉾は飛び出すようにその手の中に収まり、ティラが振りかぶったナイフは止められた。
二人の身長差から言って、ティラが騎馬王を押す事は難しそうだ。
「――毒が塗られているナイフか。」
「ほとんど正解。これはクナイ。毒の魔法が付与されてる。」
刀身からは病んだような緑色の液体がてらてらと滲み出ていた。
「この武器を持った刺客は以前も来たな。」
「そうだよね。誰も帰らなかった。だから、今回は依頼料を弾んでもらって私が来た。」
騎馬王は軽い力でティラを押し、ティラは後方へ飛んだ。くるりと宙を回り、猫のような柔らかな動きで着地する。
「どうやって倒したら良い?大抵は足下がお留守になるものだけど、足下に近付くのは危険だよね。
「上半身を狙って貰うしかないな。」
「裸ん坊だもんね。」
「…まぁな。」
「おじさんの綺麗な体、すごく好み。」
唐突な言葉に騎馬王が苦笑する。ティラはゆっくりと懐に手を入れた。
「――来い、イジャニーヤのティラ。」
「<流水加速>!!」
ティラは一気に速度を上げ、懐から取り出した星形の刃物を幾枚も騎馬王へ向かって浴びせかける。
そして小さな体で右へ左へと不規則に動きながら駆け抜けた。首狩り兎を彷彿とさせる俊足は、並みのものならば追いきれない。
しかし――騎馬王からすれば大したことはない。
騎馬王は天然の鎧に下半身を守られ、上半身はあらゆる技術で鍛え上げられている。
騎馬王は星形刃物を鉾でいくつも叩き落とした。
しかし、夢中でそんな事をしていれば――「隙あり!!」ティラが叫んだ。
これは親切で隙を教えているのではない。追い込まれたと相手に思わせるために発する言葉だ。
騎馬王は二本の足で立ち、三対の足を天高く上げた。一つくらい星形刃物が下半身に刺さっても痛くも痒くもない。
「ッ喝!!」
騎馬王は千キロを優に超える体重の持ち主。立ち上がり、威嚇した騎馬王は、ティラの目には実際の騎馬王よりも余程大きく見えたかもしれない。
一瞬だけ体が硬直しかけたティラだったが、何とか脳からの命令を体に行き渡らせることで飛び上がった。
肺が破裂するほどに息を大きく吸い、両手を口の横に当てる。
「――<火遁の術>!!」
ティラは騎馬王へ向けて炎を吹き出す。炎は騎馬王を一気に飲み込み、ティラは炎の勢いで数秒滞空した。
やったかとティラが思う間もなく、豪風により火は払われた。
騎馬王の手には鉾のみ。豪風は騎馬王が鉾を払った事で起こされたのだ。
「ず、ずるい!」
「すまないな。」
そう言う騎馬王の体は更にひと回り大きくなったようだ。筋肉が膨れ上がり、トッ、と着地したティラに向かって一気に鉾を放った。
鉾はティラの頭巾と頬を切ると、ビッと音を立てて斜めに地面に突き立った。
ティラは頬を血が伝うと、鉾へ振り向いた。鉾はビィンと音を上げて揺れていた。
「………死ぬ。」
直撃すれば頭が吹き飛ぶ一撃だった。
「殺さないようにしているのだから、そう言うな。さぁ、立ちなさい。」
騎馬王が近付き、手を差し伸ばすとティラはその手を取って立ち上がった。
斬られた頭巾はハラリと落ち、金色の美しい髪の毛が見えた。
「良い男。」
握った手を数度上下にゆすり、二人は手を離した。
「変わった人間だな。それより、ティラ。お前の投げた毒のクナイは頂くぞ。」
「構わない。高いものだけど。すごく高いものだけど。」
二度言った。余程高かったのだろう。
「感謝しよう。」
「ちなみに前に来たうちの部下が持ってたクナイはどうしたの?」
「以前の物はイズガンダラ殿――と言う
「もったいなぁい…。」
「私達としては最も意味のある使い方だ。――さぁ、お前はもう十分仕事をしたのだから帰りなさい。痛かっただろう。」
膝をつき、ティラの切れた頬をグィッと拭いてやると、騎馬王はティラのもう片方の頬にそれを塗った。
「……血の匂いがしたら
「途中で
「ありがとう。騎馬王は不自然なくらいに優しい。」
騎馬王は
「私は新しい恨みを作りたくないのだ。若者が未来だけを望んで生きる世界であってほしい。」
「あれ?もしかして今年も戦争はなし?」
「いや、私を含め、老人で攻め入る。カルサナスには言わないでくれるな。」
「ん、言わない。私は秘密主義者。妹と違って口が硬い。でも、あそこは神聖魔導国なのに攻め入るなんて……騎馬王は優しい新世界のための人柱?」
「嫌な言い方だな。例えどれだけ過酷な未来が待っていたとしても、自分のなすべきだと思っていることをなさねばならない生き物もいると言うことだ。」
「…そっか。」
ティラは散らばっている星形の刃物を拾って集めた。
「それもくれないか。」
「クナイか手裏剣どっちかだけ。両方はダメ。とてもとても高い。」
「そうか。ではクナイにするよ。」
騎馬王も落ちているクナイと手裏剣を拾った。
手裏剣をティラに返すと、ティラは投げなかった残りの二本のクナイを騎馬王に渡した。
「これは騎馬王に貸す。イズガンダラにはあげないで。」
「良いのか。」
「生き残っていつか返して欲しい。家が買えるくらい高いから。」
「ふ、ふふ。フハハハ!」
騎馬王は愉快そうに笑った。
「良かろう。私が生き残った暁には、お前にこれを返そう。もし私が死ねば、クルダジールという男がこれをお前に返しに行く。その頃にはここも神聖魔導国。
「クルダジール。分かった。」
ティラは両頬に血がついた顔でうなずくと、数歩後退り、コキュートスへ深々と頭を下げてからカルサナスへ向けて一目散に駆け出した。
ティラは背中に視線が集まっていると思ったが、振り返らなかった。敗者の背中をこれでもかと見せ付ける。
(騎馬王は強い。部下を出して来たのは間違いだった。)
あれは妹二人が加入している蒼の薔薇のガガーランより余程強いだろう。もしかすれば、イビルアイと肩を比べるかもしれない。
武技の一つも使わせることができなかった。
難度にして百三十から百五十。
そう断定させるだけの一喝だった。今も足が震えるようだ。
(化け物おじさん!あんなの暗殺できる奴がいるか!!)
最初に鉾を構えた時に放たれた圧を感じ取った時から、勝つことは不可能だと分かっていた。
それでも挑んだのは金をもらっているからと、あちらの武人としての懐の広さに甘えたからに過ぎない。
騎馬王はティラごときでは殺されないと確信していたが、ティラも騎馬王は自分を殺さないと確信していたのだ。
(それにしても守護神様もいるなんて、一体何がどうしたってんだ?ゴルテン・バッハ上院議員は何をしようとしている?)
夏草海原は神聖魔導国となろうとしている様子だった。そんな相手を正面から戦争で迎え打つのではなく、イジャニーヤにわざわざ暗殺を頼むなど何かがおかしい。
暗殺者が言うことではないが、法に反している気がする。上院議員のやる事ではないはずだ。
(守護神様がいた事は黙っておいた方がいいのかな…。万が一つも騎馬王が生き残る確率が上がるなら、そうするべきだけど……上院議員ともあろう人物が知らないとも思えないか?……え?あれ?じゃあ、守護神様もいるって解ってるところに私は送り込まれた?)
それは明確なる叛逆になるのではないだろうか。しかし、あの信心深いゴルテン・バッハ上院議員がそんな真似をするはずがない。彼は、いや、上院議員達はダンスパーティーを開き、神々の存在を身近に感じ――更に邪竜との戦いを目の当たりにした存在だ。
となれば、守護神が騎馬王の下にいる事は上院議員の預かり知らない、神殿機関か神が直々に手を下している肝入り案件か。
ティラは走りながらあれこれと考えを巡らせる。
上院議員が騎馬王をわざわざ秘密裏に殺したかった理由は何だ。
放っておいて戦争が始まれば、騎馬王と夏草海原連合軍は神聖魔導国軍とカルサナス州軍の前に命を散らせることになる。
騎馬王が今死ねば連合軍は崩壊するだろう。
では、連合軍の命を守るために上院議員は騎馬王の始末を依頼して来たのか?
それがかなり正解に近い気がするが、何か違和感がある。
そう言う理由ならば、わざわざ暗部であるイジャニーヤに依頼をせずに、神都へ上申して国のお抱えの聖典部隊を借りれば済む話なのだ。悔しいが、聖典はイジャニーヤより余程力があると見える。
だと言うのに、この暗殺のことを守護神が知っている様子も無ければ、上院議員達が議会で騎馬王暗殺について話し合った形跡もない。
しかし、依頼料は着手金だけでも凄まじい額だった。とてもゴルテン・バッハ上院議員一人で出せる額ではない。州の税に手をつけていないなら、他にもこの話に乗っている上院議員達がいるはずだ。
一体、この暗殺依頼の裏にはどんな思惑が――。
「っだぁー!やっぱり関わるんじゃなかったかなぁ!」
今更遅すぎる泣き言を言い、ティラは草原の彼方へ消えた。
やっとティラが出たぁ!
元気に暗殺者やってるんですねぇ!