眠る前にも夢を見て   作:ジッキンゲン男爵

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#142 宵切姫

 小さな文机の上には、山のように大量の手習いを終えた紙が積まれ、ふとした拍子に崩れて落ちた。

 それと同時に、眠りかけていた宵切姫は慌てて時間を確認した。

 時間は未明。仕事が始まるまで後三時間。

 以前なら、まだ眠くならない時間だが、今ではもうこの時間ですっかり眠くなる。

 

「――いけない…。まだこんな時間なのに眠ってしまっていたのね…」

 いつから眠っていたのだろう。この一週間、一日二時間ほどの睡眠でやり過ごし、日中はイル=グルに付き従って何でもこなした。いや、うまく出来ない事ばかりだった。それでも一日も早く仕事を覚えるために必死に食らいついた。

 

 夕暮れ時、仕事が終わるとイル=グルを除いた他の従者達はどこかへ帰っていった。海蜥蜴人(シーリザードマン)達も同様だ。

 ここに部屋を与えられている宵切姫はカタレィオの下へ走る。カタレィオが汚した場所を綺麗にして、カタレィオを連れ、眠ろうとする象魚(ポワブド)の間を抜けて魚舎を出る。

 カタレィオに食事を取らせるために小さな橋のかかる川を渡って近くの森を回る。

 カタレィオは生の草も枯れかけの草も美味しそうにむしゃむしゃ食べた。その傍で、宵切姫は虫を捕まえて鳥籠に入れたり、魚を捕まえたりした。魚は毒針で刺す事で何とか取れた。

 カタレィオが草を食べ終わると、川に立ち寄りたっぷりの水を飲ませてやる。その隣で自身も水を飲み、寒さに震える体を洗い、壺一杯の水を汲んで城に戻る。

 

 もしかしたら、明日や明後日は忙しくて来られないかも知れない。毎日そう思って必死にカタレィオの世話をした。いくらラクダが一週間飲み食いしなくても生きられるとしても、宵切姫は手を抜かなかった。

 城には色々な食べ物が置いてあり、小麦だけは朝晩食べて良いとイル=グルに言われているので、小麦を厨房から少し分けてもらう。本当なら挽いて粉にし、振るって水と油で捏ねて焼いてチャパティにしたかったが、贅沢は言っていられない。まだ何も働けていないのに、与えられているばかりなのだ。

 取ってきた魚や虫を食べ、夜になって目がよく見えるようになってくると部屋で必死に手習いをした。

 

 朝はイル=グルと他の従者と共に評議会に出席して議事録を取るのを学んだり、手紙の書き方を聞いたり、他の竜王の下へ白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)に用事がないかを聞きに行ったり、そちらの従者と意見交換をする。――と言う名目の下、神におかしなちょっかいを出したりしていないか確認する。

 

 イル=グルが二年後にいなくなった後を継げるようになるため、宵切姫は常に付き従う。だが、評議員のいる場所では決して許可なく口を開いたりしてはいけないと言われているため、何か分からないことがあったとしても、じっと辛抱し、まだよく覚えていない文字で書く事と、聞く事に集中した。

 

 午後には神殿で祈りを捧げ、細々とした雑務を行う。フロスト便の集配所に立ち寄って午前中に書いた手紙を出す。

 城に戻ってくると掃除を行ってから、遅めの昼食を他の従者達と共に取る。メニューは種族によってそれぞれなので、色々な食べ物が置かれているし、昼は小麦以外も食べていいと言われている。――しかし、宵切姫にとって真昼間は一番眠い時間だ。そこでイル=グルの昼食が終わるまでの三十分で仮眠を取る。つまり、彼女の食事は日に二度だ。

 

 その後イル=グルが速記でめちゃくちゃな議事録を丁寧に書き直すのを見させてもらったり、真似したりして過ごす。これに意外と時間が掛かる。

 評議員でなければ分からないような難しい言葉もあり、時にイル=グルでも辞書を引いて内容がおかしくなっていないか確認を怠らない。ここのタイミングで片手間に文字を教えてもらえる。

 そして、少しの時間この国の法律や法令について教えてもらえる。

 

 それが終わると、イル=グルは一人でツアーの下へ行き今日の議事録を提出し、他の従者と手分けをして城の隠蔽に問題がないか確認したり、必要な一部の永続光(コンティニュアルライト)を灯して夕暮れに備える。

 

 日が暮れる頃に従者達は帰って行く。イル=グルは保護観察を言い渡されているのでそのまま城の一室で過ごす。時に薬を煎じたり、街まで飛んで友人の下へ行き今の世の中の流行り病について尋ねたりする。評議員であるリシ=ニアと外で食事を取ることもある。

 昼食は他の従者達と共に取れるが、朝と晩はイル=グルも宵切姫と同じく、自分で食事を調達する必要があるためだ。

 と言っても、買い物に行けるイル=グルの食事は優雅だ。

 朝はどっさりの雛菊を閉じたコカトリスの卵焼きと、ナッツのパイ、シナモン入りの豆乳。

 夜はミモザのふかふかサラダと、豆のスープ、豆乳に蜂蜜を入れた甘く芳しい飲み物。それから、果物をたくさんと、ちょっぴりのラム酒。

 

 宵切姫も、イル=グルに買い物のできる場所を教えては貰ったが、この竜王の城から街まで出て戻ってくる時間が惜しいので行ったことはない。カタレィオに乗って行っても往復で二時間コースだ。

 賃金は一週間分を前払いして貰ったが、まだ何も働いていないので使うことは憚られた。何より奉仕する事が当たり前だと言うのに何かを受け取ることなどできるはずもなかった。魔人(ジニー)との物々交換しか経験のない宵切姫に、金という価値観はまだ難しいと言うのもあるかもしれない。

 

 さて、宵切姫は片付けて寝直すか、寝てしまった分を取り戻すために今から少し手習いをするか悩んだ。

 今日はとりあえず一週間と言われた最後の日なのだ。

 

「……やらなくちゃ」

 

 宵切姫は外が白み始めた中、必死に文字を書いた。

 仕事の時間はあっという間に訪れ、片付けをすると着替える。

 父の用意してくれた衣装は何枚も重ね着るものなので、それを一日一枚、毎日大切に着た。

 いつ竜王に目通りできても良いよう、竜王の従者として相応しいよう、いつでも綺麗にしておこうと思い、汚い格好にならないように気を付けた。

 

 急いでズボンに足を入れると、足を覆う硬い外皮がズボンにひっかかる。

「あぁ…、急がないといけないのに…!」

 引っ掛かりを外し、それの上に上等な――あまりにも上等な衣装を一枚羽織る。

 この地は砂漠から考えると日中はとても涼しく、夜はほとんど冷え込まない。

 氷点下の夜と、タンパク質が変性する程の暑さの昼を当たり前としていた宵切姫は、暑さ寒さには強かった。それはラクダのカタレィオも同じことだった。

 

 服を着ると、髪を丁寧に整えることも忘れない。

 そして鳥籠に閉じ込めておいた虫を朝食に口へ放り込む。この森に住むカブトムシという生き物の幼虫は砂漠では味わったことのないクリーミーさで、柔らかく、芳醇な木の香りのする素晴らしい虫だった。

 砂漠長虫(サンドワーム)が集落に紛れ込んでくると、戦士団の他にも集落中から人が出てきて皆で退治をしたことを思い出す。その後、砂漠長虫(サンドワーム)の肉は砂を避けて皆で食べるのだ。あのご馳走は素晴らしかった。

 

 だが、この鳥籠には本当ならば鳥を飼ってみたかった。宵切姫の代わりに風になって、落夜と崩夜の下へ飛んで欲しかったのだ。いつか落ち着いて、ここの仕事に慣れたら、きっとどこかで鳥を捕まえて飼おう。

 

 昨日とった虫が全てなくなると、宵切姫は部屋を飛び出――したい気持ちを抑え、竜王の従者に相応しい優雅な足取りでイル=グルの部屋へ向かった。

 扉を叩くと、すぐにイル=グルは出てきてくれた。

 彼はいつでも煌びやかで、パッと目を引くほどに美しく着飾っている。

 宵切姫の衣装も捨てたものではないが、もっとアクセサリーがあっても良いかもしれないと思う。その方が、このイル=グルの後任として相応しい気がしたから。

 

「おはよう、宵切姫」

「おはようございます!イル=グル様」

 

 イル=グルは宵切姫と共に、登城した従者達が集まる部屋へ向かった。

 城に住み込んでいるのだから、そこに一番に訪れるのはこの二人だ。

 朝は冷える――とイル=グルが言っているので――火打ち石にナイフの背を滑らせて火を起こす。

 シュッ、と擦ると火花が散り、火種となる枯草に点火できる。最初は小さく燃えている火種を両手で包み込み、顔より少し高い位置に上げて下から息を吹きかける。

 何度も吹くと、小さかった火は少しづつ大きくなり、次第に手で持っていることも難しくなる。

 それを暖炉へ入れ、薪を積む。

 薪も種になる枯れ草も、海蜥蜴人(シーリザードマン)達が象魚(ポワブド)の世話の合間に取りに行ったり買ってきたりしてくれるものだ。

 ちなみに彼らが家畜ではないと言うことはイル=グルから何度も言い聞かせられた。しかし、宵切姫は海蜥蜴人(シーリザードマン)を見るたびに美味しそうな頬肉だなぁと思わずにはいられなかった。

 

 炊事だけは万全の宵切姫は手際良く火を起こすことに成功すると、少しだけ煤の着いた顔を拭った。

 イル=グルが席につくと、そのそばに宵切姫も座る。他の誰かがくれば立って過ごすが、朝には一日何をするのか教えてもらうため、この時間だけは座らせてもらっている。

 

「今日はとりあえず一週間と言った最後の日だと覚えていよう?」

「はい!本日もよろしくお願いいたします」

「うむ、それなのだが、今日は七日に一度訪れる安息日。つまり、休みぞ」

 宵切姫は、かならず週に一度休みを取らなければならないと砂漠で聞かされていたことを思い出した。

「あ……そ、そうでした。申し訳ありませんでした」

「良い良い。それより、ぬしは一週間よくやった。我はずっと見ていた」

「あ、ありがとうございます!」

 一週間、初めて褒められた。宵切姫はまだ何も出来ていないが、少し涙ぐんだ。

 

「で、ぬし。ぬしはその勤勉さをいつまでも失わず、夜行性であるぬしからすれば昼夜逆転のこの生活を続けられるだろうか」

「続けられます!私はこれ以上ないほどに充実しております!」

「ふーむ……」

 イル=グルは悩むようだった。今日宵切姫が使い物になるかならないか決めるのは彼で、竜王に報告をするのも彼だ。

 

「治癒屋の端くれとして我はぬしに言わなければならない事がある。――ぬしの今の生活では我の仕事を継ぐ前に倒れるであろう。食事も昼は食べていまい。一日二度しか食べぬようではないか」

「そ、それは……大丈夫です!私達蠍人(パ・ピグ・サグ)は、本来であれば週に二度の食事でも生きていける種族です!」

「それは生命活動を続けられる食事であろ?ぬしはここにきた時より一週間で痩せた。ぬしもそう思わぬか。それに、睡眠時間も足りぬ。やはり、最初からアーグランド州で育ち、アーグランド文字を書ける者よりも学ばなければいけない事も、知らなければいけない事も多すぎる。今のままでは意味もなく命を落としかねん。ここは一つ、故郷(くに)に帰り――」

「イル=グル様!!」

 全てを言わせる前に宵切姫は立ち上がった。

 勢いに任せて椅子は倒れ、焚き火が弾ける音が響く室内を騒々しくした。

 

「私は、私はヴァイシオン様のため三十年間の時を生きて参りました!この地でヴァイシオン様のお役に立つよう、必死で……必死で勉強して参りました!私が砂漠で学んできた炊事などの殆どは意味のないものでしたが、でしたが……でしたがぁ……!」

 宵切姫はそこまで言うと顔を両手で抑え、肩を震わせた。椅子も倒れてしまい、床にぺたりと座りこむ。

 

 イル=グルはその背をさすり、どれだけ願っても、生まれというものは選べないものだなと、生の神を思った。

「イル=グルさまぁ、私、きっとお役に立ちます……。生まれてから一度も手を抜いたことはございませんでした……。文字も法律も必ず覚えると誓います……。すぐにでも使い物になるようになります……。他の従者の皆様が驚くほど、きっと……きっと……」

「宵切姫、ぬしは何故そこまで白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)にこだわる……」

「ヴァイシオン様は……ヴァイシオン様は私達蠍人(パ・ピグ・サグ)魔人(ジニー)の神です……。ヴァイシオン様は自分は神ではないと仰いますが、さらに上位の神々を我々蠍人(パ・ピグ・サグ)のララク集落へお連れくださり、ララク集落に新たな加護を授けて下さいました……。それは魔人(ジニー)達のスルターン小国も同様です……。ヴァイシオン様は真実の神ではなくても、私達にとっては神そのもの。あの方は全ての蠍人(パ・ピグ・サグ)魔人(ジニー)の父です……!私達は心からヴァイシオン様に感謝し、愛しているのです……!なのに……うぅ……。私は、私は……!」

「そうであったか…。ぬしらは白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)に救われたのだな」

「はい……。だから、どうしても……私はこちらでお仕えし、お役に立ち、恩返しをしなくては……!」

 語っている間、宵切姫の涙は止まらず、ずっとぽろぽろと溢れていた。

 

「ぬしが役に立ちたいと思っても、実際に役に立てるかどうかは別の話だと言う事は、わかるね?」

 イル=グルは子供に言うように優しく尋ねた。

「……はい………」

「そして、もし白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)が迷惑だと言えば、受け入れるしかないと言う事も、わかるね?」

「……………はい…………」

 イル=グルは数度その背を撫でてやると立ち上がった。

 

「宵切姫、今からぬしには荷物をまとめる時間を与えよう。いつも議事録をお持ちする時間にまたここに来て、共に白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)の下へ行こうぞ。その時には来た時と同じように、全てを持って来るのだよ」

 宵切姫も鼻を啜ると立ち上がった。

「……かしこまりました」

「……うむ、うむ。ぬしが一週間、誰よりも良く頑張ったと言うことはお伝えしよう」

「ありがとうございます…」

 

 頑張ったが、役に立てたことはあっただろうかと一週間を振り返る。

 イル=グルの翼の付け根を少しマッサージした。インク壺と紙を用意した。火をおこした。

 それだけだ。子供でもできるし、イル=グルも手伝われなくても出来たことばかりだった。

「では、また夕暮れどきに」

 イル=グルが静かに立ち去って行くのを、宵切姫はひれ伏すように頭を下げて見送った。

 

「……荷物を纏めなくちゃ………荷物を………ぅ……ぅ………ぅわぁぁぁあ!!うわぁぁあああ!!ヴァイシオン様ぁ!!申し訳、申し訳ありませんでしたぁぁあ!!ふわぁぁぁあん!!」

 廊下で宵切姫の泣き声を聞いたイル=グルは辛そうにため息を吐き、一度自分の部屋に戻った。

 

 毎日提出されたアーグランド文字の手習いの結果は、お世辞にも綺麗とは言えない。アーグランド文字は複雑で、二つや三つの文字を組み合わせて、一つの文字として読ませたり、同じ言葉でも幾通りも書き方があったり、女性が書くのに相応しい言葉や、男性が書くのに相応しい言葉、それから文の中でのみ使われる言い回しなどが多く存在する。リ・エスティーゼ州で使われている文字や神聖魔導国の公用文字とは違って文字同士も繋がっているので、慣れなければ読むことはとても難しい。

 

 それをたった一週間で学ぶことなど不可能だ。

「よくやった。よくやったが――使い物になるかと言うのはまた別の話ぞな」

 提出された手習いの紙をそっとまとめる。ここで過ごした一週間は彼女の中で辛い思い出になるかもしれないが、いつか振り返ろうと思った時に彼女が再びアーグランド文字を見られるように。それから、故郷の仲間にどれだけ頑張ったのか分かってもらえるように。

 

 きっと、彼女は故郷の仲間の気持ちを背負ってきているのだ。そんな仲間達に軽蔑されてしまわないように。

 

 イル=グルが最初に渡した基本文字の一覧は何度もなぞりすぎて穴があいてしまったのを知っているので、新しい表を作って一緒にまとめてやった。

 二つ綺麗に穴をあけて紐を通す。こうしてみると、辞書のように厚くなっていた。

 後で渡してやろうと決め、他に何か渡せるものがないかイル=グルは頭を悩ませる。

 辞書などはこの城の持ち物なので勝手にくれてやったりはできない。

 

 ――そうだ。

 いつも羨ましそうに見ていたこのネックレスをやろうか。人魚(マーマン)が海の中で水火と言う特殊な火を使って作り上げるこのネックレスはアーグランド州でしかほとんど手に入らない。

 自らの首から外すと、それも宵切姫の頑張りの証の上に乗せる。

 

 夕暮れが訪れる事がこれほど憂鬱なのは初めてだった。

 

 イル=グルは、竜王の中では白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)は群を抜いて優しいと思う。

 白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)の代わりに評議会に上がるようになるまで竜王などあった事もなかったが、竜王は太古からの多くの知恵を持つ神のような存在故、まさしく神のように君臨していた。

 ただ、イル=グルはそれに不快感を抱いた事はない。

 

 彼らも、この場所に付き合ってくれているのだ。彼らは一人でだって生きていける絶対的存在だと言うのに、共に評議員として肩を並べ、自分の十分の一ほども生きたかどうか分からないような生き物と言葉を交わしてくれているのだ。

 彼らは何百歳と生きる。

 同じ尺度で物を語れと言う方が難しい。

 八十歳の大人が八歳の子供に自分と同じだけの事を要求しなかったり、自分よりある意味劣った存在だと思ってしまうことは当然なのだ。

 

 その点、ここの主人たる白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)は今を生きる者達の目線でよく色々なことを考え、本国との調整を行ってくれている。宵切姫が神と呼びたくなる気持ちもよくわかる。

 評議員のリシ=ニアは、評議国が属国になってしまった時に白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)の事を厳しく評価していたが。

 白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)と言えば、従者達以外で姿を見た事がある者の方が珍しい――竜王くらいしか目通りも叶わぬ天上の存在だった。

 

 だが、あの時(・・・)イル=グルに手を差し伸べてくれた。「イル=グルには不自由かもしれないけれど、僕が責任を持って監督する」と言ってくれた。

 その実、従者として金を払って雇い、他者からの攻撃を受けないようにここで守ってくれている。

 保護観察中とは言え本当は城に住み込む必要はないのだ。

 

 しかし、イル=グルはまだ帰れない。

 

 ケル=オラ事件の罰はあまりにも重く、近くに暮らしていた者や親族郎党処刑された。

 近くに暮らしていただけで処刑されてしまった者の家族や友人は、ケル=オラも刑を受けるために居なくなってしまった中、攻撃する先をイル=グルしか見つけられなかった。監督不足だと石を投げられた。毒粉を庭先に撒かれるなどの脅迫めいた真似もされた。

 神聖魔導国に入っていればここまでの制裁は受けなかっただろうと――人魚(マーマン)の治癒費の事もあり――世論は一気に神聖魔導国派へと移り、評議国は国としての地位を失った。

 

 今ではケル=オラ事件のおぞましい制裁の後も片付けられ、一年経ってようやくイル=グルへの八つ当たりは減って来た。

「神聖魔導国へ入るきっかけを与えた人に何をする」「隊を任された人が違えばもっと酷い罰になっていたかもしれないんだぞ」「この人に責任があるなら、ケル=オラの近くに何年も住んでいながら歪んだ思想に気付かなかった近隣住民にも責任がある」と言ってくれる人が増えて来たためだ。

 

 後二年もすれば、イル=グルへの被害はすっかりなくなるだろう。

 

 白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)も本当は思うところがあったかも知れない。蛾身人(ゾーンモス)のせいで、と。

 しかし、彼は「天災にぶつかったと思うしかないね」と言うだけだ。

 たった三年の契約だが、イル=グルは一番大変な仕事を他の従者達から全て回してもらい、恩返しに励んだ。

 宵切姫の気持ちは――よくわかる。

 

「……白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)なら……」

 イル=グルは少しだけ考えたが、首を振った。

「もしや」などと言う雰囲気を出し、自分の態度から無駄な希望を持たせてることになっては宵切姫が可哀想だ。

 宵切姫にくれてやれる僅かなものを風呂敷に包んでやると、窓辺で葉巻を一本吸った。自分で調合しているものだ。

 

 いつも仕事後にここで一服していると、宵切姫が走ってカタレィオの下へ向かうのが見えていた。

 カタレィオに食事を取らせ、川で洗濯をし、魚を取り、水浴びをして壺いっぱいの水を持って城に走って戻る。

 夜の間はぼんやりと彼女の部屋に明かりが付いていた。彼女は夜目がきくらしく、ほんの少しだ。きっと、蝋燭一本とか、手習いを済ませた紙を捻って油皿に入れて灯していたとか、そんなものだろう。

 

 ほう、と良い香りの息を吐くと、いつもの様に宵切姫がカタレィオの下へ向かうのが見えた。

 とぼとぼ、と言うよりはいつものように走っている。

 

 休みとは言え、象魚(ポワブド)の世話はあるので海蜥蜴人(シーリザードマン)達は来ているため外はある程度賑やかだ。

 宵切姫は魚舎に入ると、すぐにカタレィオを引いて出て来た。

 そして服を全て脱ぐと冷たい川に入り、カタレィオを一生懸命洗った。海蜥蜴人(シーリザードマン)が慌てて象魚(ポワブド)を引いていき、城と彼らの働いている場所から宵切姫が見えないように座らせた。

 

 イル=グルは思わず笑ってしまった。異種族とは言え、娘の裸を見ては悪いと気を使ったのだろう。

 宵切姫は自身とカタレィオの水浴びを済ませると、カタレィオを連れて城に走って戻って行った。

 あの大荷物は載せ直すだけでも重労働だろう。

 来た時にも何も手伝ってはやらなかった。

 大変だったろうに――。

 

 イル=グルはここにいても気が滅入ると、窓を開けた。

 そのまま窓から飛び立ち、街へ繰り出した。

 部屋には甘い葉巻の香りだけが残った。

 

+

 

 夕暮れ。

 

 宵切姫は荷物を乗せたカタレィオを引き連れて、来た時と同じ、異国情緒に溢れた美しい出立ちで現れた。手には、次に目通りが叶う時に渡すと言って大切にしていた酒壺。

 廊下で会うと、イル=グルは持ち帰るためにまとめてあげた物を宵切姫に渡した。

 

 宵切姫は何が入っているのかと風呂敷を広げ――

「こんな……いただけません」

 イル=グルのネックレスを困ったように見つめた。

「それを見せて、皆によくやって来た褒美を貰ったと言うと良い」

 イル=グルはそう言って受け取らず、宵切姫は結局イル=グルのネックレスを貰った。

 

 二人は城の階段をいくつも降りた。日中に綺麗に洗ってもらったカタレィオからはお日様の匂いがした。

 山の中が丸ごと城になっているため床は硬い岩盤を削り出して作られている。きっと、昔岩顕巨人(ガルン・トルン)が掘ったのだろう。

 ――いや、竜王達は想像を絶する秘密の魔法を持っていると言うので、魔法で生み出したのかもしれない。

 

 階段を降りきり、巨大な扉の前に着く。

 一番小さな扉を開き、イル=グルは飛び立つ。

白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)、一週間の成果をご報告に上がりましたぞ」

 声をかけ、その目の前へ続く階段に降り立つ。

 

 ツアーは一度クァっと巨大な口で欠伸をすると、猛風を吐いた。

「ふぅー…。もう一週間か。それで――どうだった(・・・・・)のかな?」

 イル=グルは一度階段の下にいる宵切姫を見下ろした。

「よく学びました。寝る間を惜しんで頑張っておりました」

「それで、どれほど使い物になったのかな」

 巨大すぎる瞳に射られ、イル=グルは蛾身人(ゾーンモス)が一瞬生み出す事ができる竜の幻覚などおままごとだと思った。

「……残念ながら、あまり役には立ちませんでした」

「ふーむ」

 大きな手でカカカカカ、と寝そべっている床を叩く。絶対王者の風格だった。

 

 宵切姫は壺を持つと、階段の下から二人を見上げた。

「…私も、上がってよろしいでしょうか……」

「構わないよ。ただし、上がる必要もないのにここに上がった者はこれまで片手で数えられるくらいしかいないと言う事は知っておいてくれるかな」

「はい。私は、御身に渡したい物があるので、上がらせていただきます」

「そうかい」

 宵切姫は美しい衣装を引きずり、転ばないように気をつけて階段を上がった。

 

 イル=グルの隣に座ると、壺を差し出した。

「どうぞお受け取りください。ヴァイシオン様の為に作った砂漠の恵みでございます」

「ありがとう。嬉しいよ」

 感情は大して乗っていないが、他の竜王ではそうも言ってくれないだろう。

 宵切姫は心底嬉しそうに笑うと、胸元から紙を一枚取り出した。

「お受け取りいただけましたこと、私こそ感謝申し上げます」

「うん。それで、もう良いかな」

「いえ……。ヴァイシオン様、私、お手紙を書いて参りました」

「アーグランド文字でかい?」

「はい!」

 震える手は、直接渡すことすら無礼であると思っているようで、イル=グルに差し出された。

 

「ど、どうか…イル=グル様……。これを読めるかご確認ください……。そして、ヴァイシオン様に……」

 イル=グルはすぐにそれを受け取り、目を通していく。

「――うん。――うん。――…………うん」

 すぐに手紙を読み終わり、綺麗に畳み直すと絶対者へ差し出した。

白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)、御目汚しかもしれませぬが、読めないほどではありませぬ」

「そうかい」

 いつも議事録を置いていく場所にそっと手紙は置かれた。

 

 ツアーはそれを眺め下ろした。

 目が細かく左右に五回ほど動くと、読み終わったのかフッとその手紙を吹き飛ばした。

 風は宵切姫の顔にもあたり、座っていると言うのに一瞬後ろに倒れそうになった。

「もしあの字で議事録を持って来られたら疲れてしまうね」

「申し訳ありませんでした」

「いいよ。もう行きな」

 宵切姫は伏して頭を下げ、イル=グルも残念そうに息を吐いた。

 そして、宵切姫を立てせる。

「さぁ、行こうぞ。宵切姫」

 

 宵切姫の目にはたっぷりの涙が溜まり、何か一言でも発すればすぐにもこぼれ落ちてしまいそうだった。

 感情の爆発を必死に耐えているのが一目で分かる。

 

「宵切姫…。あまりここにいてもご迷惑になろう…」

 イル=グルが背をさすると、宵切姫の瞳からはついに涙が溢れた。

 

 ツアーはうん、と顔を持ち上げると告げた。

「………もう一週間学べばもっとうまく書けるようになる。また一週間頑張ることだね」

 宵切姫とイル=グルが驚きの瞳で絶対者を見上げる。

白金の竜王(プラチナム・ドラゴンロード)…?」

「イル=グル、君は嫌かな。また一週間宵切姫の教育をするのは」

「い、いえ。とんでもありません。彼女は何でもよく頑張りますから」

「そうかい。じゃあ、また一週間頼むよ」

「かしこまりました」

 イル=グルがぺたりと床に四つの手をついて頭を下げる。宵切姫は呆然とツアーを見上げていた。

 

「……もちろん、帰りたいなら別に帰ってもいいよ」

 

 その言葉にハッと我に帰った。

「は、い、いえ!!やらせていただきます!!次は、次はもっとたくんさんの言葉を、もっと美しく書いてお渡しいたします!!」

「そうかい。僕達が使うのはアーグランド文字だけでなく、公用文字もあるからね。よほど頑張らなければいけないと思うよ」

「やります!!世界中の文字を書けるようになって、きっとヴァイシオン様のお役に立ちます!!」

「やる気は変わらないんだね。さぁ、もう下がって良いよ。――あぁ、イル=グルは残ってくれるかな。休みなのに悪いね」

「いえいえ。では宵切姫、先に自分の部屋へ行って荷物を片付けて来なさい。後で、約束の山まで飛んで連れて行こうぞ。今日は冷えるから、きっと雪も見られよう」

「はい!!失礼いたします!!ヴァイシオン様、イル=グル様、ありがとうございます!!」

 宵切姫は二人に向けてべったりと伏してから小走りで階段を降り、カタレィオを連れて出て行った。

 

「――イル=グル。君があんな顔をしたらこう言わざるを得ないじゃないか。仕事を頼みにくくなる」

 ツアーは苦笑混じりに三年だけの部下に告げた。

「はは、いや。これはこれは。失礼いたしました。ですが、宵切姫は本当によくやっております故、私が出た後、きっとお役に立つでしょう」

「どうだかねぇ。まぁ、本当に使い物にならなかったら追い出すよ。一般常識も、まだ全ては身についていないんだろう?」

「まだです。ですが、きっと育てて見せましょうぞ」

「また来週、使い物になったか聞くよ」

「私くらいのものには後二年で育つと思いたいものですな」

「それは流石に無理じゃあないかな……。まぁ、他の従者の手伝いに回すと言う手もあるからね。君が今やってくれている仕事は再び数人に分けて、それの補佐をさせる事になりそうだ。今君はよくやってくれすぎているよ」

「ありがとうございます。そう言っていただけると何よりです」

 イル=グルは笑うと、「それでは」と告げてツアーの大広間を後にした。

 

「はぁー……」

 ツアーは宵切姫を思いつきで連れ帰ってしまった事を少し後悔した。

 今一番有能な男が落ち込んで使い物にならなくなっては困る。

「……この慈悲深さはフラミーに聞かせたいな」

 ツアーは伝言(メッセージ)転移門(ゲート)か、何か来ないかなと思いながら目を閉じた。

 

 

 それから一週間後、ツアーは宵切姫の契約をまた一週間更新した。

 宵切姫の書く文字も前よりは見やすくなっていた。そして、また渡された手紙をフッと吹き飛ばしたらしい。最初は五行だったが、二度目は七行あった。

 

 ちなみに、最初のたった五行、苦労して書かれていた手紙はこうだ。

 

 ――慈悲深き我が竜王。

 ――あなた様のおかげで宵切は素晴らしい一週間を過ごせました。

 ――どのような思い出よりも、ここで過ごせた日々は輝いておりました。

 ――帰ることになったとしても、宵切はあなた様の慈悲深さを忘れることはないでしょう。

 ――どうかいつまでもお健やかに。

 

 字そのものは読みにくかったが、一週間と言う期間を考えれば及第点だろう。

 それに、ここに置いて欲しいとか、帰りたくないとか、縋り付くような事が書いてあればすぐにでも追い返そうと思っていたが、どこまでも前向きだった。

 慈悲深いと二度も書かれているし。

 

 

 その後、宵切姫はイル=グルが辞めてしまう頃にはアーグランド文字と公用文字を何とか習得した。

 イル=グルは辞めてしまうその日まで、毎週カタレィオを従える宵切姫を伴ってやって来ては、使い物になったかどうかを聞かせた。

 そして、ツアーは毎週別れの手紙をもらうたびにふっと吹き飛ばした。

 

 手紙は全て同じ場所に積み重なって行き、捨てられるようなことにはならなかった。

 

 宵切姫は夏季休暇と冬季休暇の度に、必ずディ・グォルス州のララク集落に帰った。

 迷惑がられながらも、カタレィオを連れて乗合馬車(バス)に乗り、何日もかけて帰った。そして、必ず約束した日の前日には城に戻って来た。

 

 彼女は変わらず寝る間を惜しんで勉強したが、食生活はとても改善された。買い物に行く余裕もできたし、金の使い方も覚えた。たくさんの本を買ったり、国営小学校(プライマリースクール)の教科書を買ったり、宵切姫の部屋はいつしか図書室のようになった。

 

 与えられる賃金は半分返していたが、たくさん貯めて本棚をいくつも買った。

 その時にはそれはそれは満足げに部屋を見渡したらしい。

 

 ツアーの代わりに評議会に出席すると、宵切姫は評議員として働き始めたイル=グルにちゃんと食べているか、寝ているのか毎回聞かれた。

 イル=グルは最後まで宵切姫の良き教師として多くの相談に乗った。彼女の首にはイル=グルがくれたネックレスがない日はなかったそうだ。

 

 そうして歳を重ね、宵切姫は昔書いた手紙を手に取ると、恥ずかしそうに笑ったらしい。

 

 六十歳を迎える頃には各地にある多くの文字を覚えていた。公用語とアーグランド文字しか読み書きできない者が多い中、彼女は本当に有能だった。

 

 ツアーが最初に辞めるように約束をした六十の歳になった時、彼女はイル=グルに教えを乞うていた頃のように、多くの荷物をラクダに載せてこの広間を訪れた。カタレィオはもう死んでしまっていた。彼の死肉はツアーに捧げられた。このラクダはカタレィオの子だ。

 

 そして、お世話になったと深く頭を下げ、本当の別れの手紙を差し出した。

 

 ツアーは有能な彼女にもう少しここで働いていかないか尋ねるが、宵切姫はそれを断った。

 同時に、自分と入れ違いで五人もの宵切姫がここに来るようにきちんと言ってあるから心配しないで欲しいと幸せそうに笑った。休みに必ずララク集落へ帰っていたのは、次の宵切姫を育てる為だった。

 

 確かに三十年前に会った魔人(ジニー)の大司教は「生贄を必要とされた際にはいつでもそのように仰いくださいませ」と言っていた。本当に用意はしていたのかと苦笑する。

 

 部屋は今の宵切姫の一部屋で十分だと言い、彼女は宵切姫としての役目を終え、集落へ帰って行った。

 集落で迎えられる彼女は蠍人(パ・ピグ・サグ)にも、魔人(ジニー)達にも歓迎された。

 

 子供は持たない人生だったが、素晴らしい一生だったと笑い、七十五の歳でこの世を去る。寿命よりも早い幕切れだ。

 

 優しくも美しい姫は、たくさんの妹と弟の子供達と、それから、読み書きを教えてやった集落中の人々に見送られた。

 

 その遺体は砂漠の掟に則り、虫や鳥が食べ、いつしか砂に覆われて消えた。

 宵切姫の葬儀に、イル=グルを伴って現れたツアーは竜の身で立ち合い、「とても助かったよ。ありがとう」そう言って帰って行ったらしい。

 イル=グルは二度と目覚めぬ彼女の胸に、彼がかつてまとめてやった手習い帳が乗っているのを見ると、少しだけ泣いた。

 

 

 さて、五人もの新しい宵切姫は、姫だと言うのに男が二人いたそうだ。ただ、去勢しているため一部屋で十分だと笑った。

 五人の宵切姫達もやはり、あの酒を持って来たそうだ。

 彼らもツアーのために三十年よく働いた。一人目の宵切姫と遜色のない働きを初日から見せ、休暇に帰った彼女がどれだけ必死に頑張ってくれたのか、ツアーには手に取るようにわかった。

 そして、彼らも六十になる日、ラクダにたくさんの荷物を積んで、ツアーに別れの手紙を渡して帰っていった。

 入れ違うように次は二人の宵切姫が来てくれた。

 その子達は最初の宵切姫を知る最後の宵切姫だ。集落で宵切姫からたくさん学んできてくれた。

 

 ツアーは、多彩に文字を操り、この城の多くのことを行ってくれた宵切姫達が残した手紙をひとつも捨てなかった。

 

 そして、何百年の時を重ね、何十人もの宵切姫と共に過ごしても最初の宵切姫への感謝を忘れなかった。

 

 宵切姫の最後の手紙には、もちろんこう書かれていた。

 

 人は決して忘れられないようなことがいくつもある生き物でしょう。

 それが良い思い出ばかりの私はきっと、幸せ者なのだと心から思えるのです。

 

 ツアーは笑った。




宵切姫ちゃん……よかったね……(;ω;)本当にツアーが大好きだったんだね…

次回#143 閑話 子供の頃の友達
3日に書き上げます!
よーし!今日から奇数の日に二日おきであげちゃうぞお!
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