ナザリック地下大墳墓、第六階層。
ナインズは一郎太、二郎丸と共に歪みの木々が見える場所で、侵入禁止区域を眺めていた。
「この木なら一太とニの丸も登れるよ!」
「ナイ様、でも歪みの木々には近付いちゃいけないって陛下方と父者達が言ってましたよ。」
「大丈夫大丈夫!一本登るくらい!」
明日三歳になるナインズはネジくれて歪む木に手を伸ばし、ひょいひょいと軽い身のこなしで登って行った。十レベルを越えたナインズは普通の人間よりも体も頭も少しだけ成長が早いようだった。
「一太ー!二の丸ー!」
手を振るナインズにミノタウロスの従兄弟は目を見合わせ、蹄を木に掛けて上り始めた。
最初は恐る恐ると言う具合で、蹄が樹皮の上を滑っていたが、うまく歪みに足をかけて次第に登れるようになった。
直立に生える木には一度も登れた事がなかった二人は初めての木登りに夢中になった。
「うわー!すごいや!――二の丸、大丈夫か!」
一郎太は付いてきている二郎丸に振り返った。
「イチ兄、待ってぇ。」
「二の丸、大変だったらそこら辺に座ると良いよ!」
ナインズが二郎丸の近くの幹を指を差すが、二郎丸は首を振った。
「な、ナイ様のおそばに上がります!お守りします!」
「あはは!ぼくはちっとも心配ないのにぃ」
三人は歪みの木のてっぺんに上がり、並んで座った。三人の背は同じくらいになった。一番小さかったナインズもようやく一郎太の背に追い付いたのだ。とは言え、まだまだちびすけ達だが。
三人は随分高くまできたなとゴクリと唾を飲んだ。二メートル半程度だろうか。普通の家のワンフロア分の天井程度の高さだ。
「…ねぇ、一太?」
「なんです?」
「この先はとっても危ないってアウラが言ってたよね?怖いやつがいるって。ぼく、それ見てみたいなぁ。」
一郎太はナインズの顔を覗き込んだ。
「陛下にお願いしてみたらどうですか?」
「行ってみたいって言ったけど駄目だって。九太が見るものじゃないって。ぼく、見たいのに。」
ナインズの視線は広い歪みの木々のエリアに注がれている。
「オレ、ナイ様が見に行きたいなら一緒に行きます!」
「本当?」
一郎太が頷き、二郎丸も頷いた。
「ボクも行きますよ!ボクはいつかこのダイロクカイソウ世界を端から端まで歩くのが夢ですから!」
「わぁ、それ、ぼくも一緒に行きたいなぁ!」
「行きましょう!」
「きっと三人なら怖いものなんてないですよ!」
三人は高い声できゃいきゃいと楽しげに笑った。
「あぁあ、見てみたいなぁ!」
「ナイ様、行きます?」
ナインズは一郎太の問いに悩むような仕草を見せると、大きく首を縦に振った。
「……うん!行く!!」
「行きましょう!!」
「じゃあ、もう降りよ!」
「はい!」
幹の根本に一番近い二郎丸は木を降りようと下を覗き見た。
「っひ…。い、イチ兄、先に降りて。」
「二の丸怖いの?」
「こ、怖くないけど……。」
高いところに生まれて初めて登った二郎丸は一瞬呼吸を忘れた。
「二の丸、手ぇ出して!」
「は、はい。」
ナインズに言われ、二郎丸はすぐに手を差し出した。ミノタウロスの手は人間と同じように五本指だ。
ナインズはポケットに入れてある小さな小瓶を一つ取り出すと、それの蓋を開けた。
「二の丸、勇気の出る字書いてあげる!ぼくもね、お母さまに何回か書いて貰ったんだよ!」
壺の中に指を浸し、二郎丸の手のひらに
文字は一瞬発光したが、ぐにゃりとその手のひらで形を変えた。
「へへ、すごいでしょ。ぼくの魔法だよ。」
ナインズは得意げだが、魔法は正しく発動していない。
しかし、子供同士のお遊びには十分な効果をもたらしたようで――「ボク、降りれる気がしてきました!」
二郎丸はちらりと下を見たが、うまくいくに違いないと思いながら自信を持って木を降りていった。
「じゃあ、オレも降りよっと!」
続いて一郎太も降りる。
ナインズもひょいひょい小猿のように降りていく。
「じゃあ、行ってみよー!」
ナインズの言葉に一郎太と二郎丸は「おー!」と声を上げた。
親達も似たような事を砂漠でやっていたとは知らない。
「バレちゃ怒られるからね、こっそりだよ!」
「こっそりですね!」
三人は今更歪みの木にぴたりと背をつけ、さらなる奥を覗き込んだ。
ナインズがまず近くの歪みの木まで走り、その後を二匹のミノタウロスが続く。
三人は木から木へ走り、入ってはいけない場所に入った事がバレないように身を隠して進んだ。
「ふふふ、おんみつ作戦だよ!」
隠密の意味はよくわからないが、たまにアインズの執務室でお絵描きをしていて聞いた事がある。
夢中になって木から木へと渡っていく。
「ねぇ!ここを全部見たら、次どこに行く!」
「オレは次コキュートス様のところが良いです!」
「ボクは
「
「はい!」
「オレもシャンダールとザーナンに、また会いたいなぁ!」
ナインズは一郎太の語った友達の名前をうすぼんやりと思い出す。
しかし、赤ん坊の頃は結構一緒に遊んだがナインズの記憶からは消え始めていた。
「い、行こう!そこ絶対に行こう!!ここの冒険終わったらすぐに!!」
ナインズがズイッと身を乗り出すと、ミノタウロス兄弟は目をパチクリさせた。
「で、でもナザリックは出ちゃダメだって」
「どうやってこの世界を出られるのかもわかんないですよ?」
二人の言葉にそれはそうだと思うが、ナインズは忘れ始めて来ている、とても良くしてくれていた二人の兄弟を思い出したかった。
「……ぼく、外まで行く道知ってる」
「えぇ!?」
「な、ナイ様それは父者達と陛下方に確認を取らないとまずいですよぉ」
「大丈夫!ぼく、お父さまによく言われるもん!九太はいつかナザリックの支配者になるって!」
「でも、今の支配者は陛下方ですよぅ…」
「大丈夫大丈夫!だってこの森も――」ナインズはそう言って緑の溢れる森へ振り返った。「――あれ?」
しかし、どこをどう見ても緑の森などなく、あたりには灰色の歪んだ木が生えるばかりだった。
地面の砂も、まるで炭の上に骨を砕いてかけたようで、灰色だ。
「な、ナイ様。オレ達どっちから来たんだろ…?」
「こ、こっちだよ」
ナインズは自分の信じる方へ向かってまっすぐ歩いた。
顎にかかるオカッパの髪が邪魔だった。
三人は手を繋いでしばらく歩いた。ジャリジャリと靴音と蹄の音が鳴る以外、全く音もない。
風ひとつそよいではくれなかった。
「ナイ様、本当にこっち?」
二郎丸が尋ねる。ナインズは完全に自分がどこへ向かっているのか分からなくなっていた。
「だ、大丈夫だよ。二の丸、怖くない怖くない」
頭を撫でてやるナインズは不器用そうに笑うと、ふと背中に視線を感じた。
「――え?」
振り返ると、歪みの木にぴったり重なるように、何かがいるのが分かった。
「だ、誰!!」
ゆらりと姿を現したのは、ナザリックで一度も見た事がない生き物だった。
衣服は着ておらず、膝辺りまである長い二本の腕と、二本の脚。それから、まるで骨を皮で直接包んだような不気味な体。
枯れ木のような体は非常に細く、ナインズが引っ張るだけで容易く折れてしまいそうだ。
見上げた先に、頭部はなかった。
呆然と見上げていると、それはぐっと腰を曲げて存在しない顔でナインズを覗き込むようだった。
「あ………あゎ………」
恐ろしさに足がすくむ。
「や、や、やめろ!!ナイ様に近付くなよ!!」
一郎太が二人の間に割って入ると、枯れ木はちらりと鬱陶しげに一郎太を見た。そう、見たのだ。
頭が無ければ目だって存在していない。だが、ナインズにはそれが分かった。
「あ――や、一太は違うんだ!!一太は違うんだよ!!」
もしょもしょの一郎太を抱きしめ、ナインズは枯れ木を見上げた。何が違うのかも分からないが、その視線はフラミーの膝に乗る双子猫を見るデミウルゴスのものによく似ていた気がする。
「ち、ちがうんだよ……。ちがうの…ちがうの……」
そう言っていると、次は腰を抜かしている二郎丸を見る。
枯れ木はもう一度ナインズを見ると、すっと息を吸い、ナインズは二人の手を取って駆け出した。
「走って!!走って!!」
「な、ナイ様!!」
三人は訳も分からず走った。歪んだ木々が頬に引っかかり、ナインズの頬に擦り傷を作った。
「――っつ!」
それでも走った。大丈夫だ。血は出ていない。
これ程必死に走ったことはないと言うほど走ると、最初にナインズの息が切れ、次に二郎丸の息が切れ始めた。
「っはぁ!あぁ!も、もう走れない!!二人は走って!!」
一郎太と二郎丸はナインズの向こうから先程の枯れ木が歩いて来ている事に気が付いた。
「――早く!!行って!!」
二郎丸が一郎太の手を数度引っ張る。
「い、イチ兄!どうしよう!どうしよう!!」
「……二の丸!先に走れ!!」
「で、でもイチ兄は!?ナイ様は!?」
一郎太は地面に膝と手をついてゼェゼェと息を切らすナインズの手を取って力一杯立ち上がらせると、頬に滲見始めた血を拭ってやった。
「ナイ様!!オレにちゃんと捕まってて!!」
「い、いち太ぁ?」
一郎太は戸惑っているナインズをおぶると、一度ぴょんと跳ねた。
「こ、これじゃ走れないよ!一太!!」
「走る!!オレが走ります!!」
一郎太は歯を噛み締めると走り出した。
二郎丸が何度も振り返りながら、その背を押した。
「イチ兄もっと早く走ってよ!!」
「走ってるよ!!」
「来ちゃうよ!!――っうわ!!」
背中を押していたせいで、足元がうまく見えていなかった二郎丸が木の根に躓くと、三人は将棋倒しになった。
ザリザリと体が骨の上を滑る。
「っいったぁ!二の丸ぅ!!」
「ご、ごめんイチ兄。ナイ様平気?」
一郎太は分厚い毛皮に守られ無傷だったが、おぶさっていたナインズの膝からは血が出ていた。
「っひ、っはぅ……!ち、血が…――」
自分の血も他者の血も見慣れていない。
大して痛みはないというのに、自分から血が流れていると言う事実だけで、ナインズは途端に膝が尋常ならざる痛みを持っているような気がした。
「っふぁ……うぅ…わ…ぅ……」
泣いてしまいそうになるのを耐える。
――不意に二郎丸の体が宙に浮かんだ。ナインズと一郎太は二人で揃った動きでそれを見上げた。
「――貴様ら、何をしている」
枯れ木はしゃべった。
その声は明確な怒りを孕んでおり、首の後ろの皮を掴まれている二郎丸はガクガクと震えた。
「ご、ご、ごめんなさい…ごめんなさい……」
「ナインズ様のお膝に傷を付けたなど……どう責任を取る!!ミノタウロスの子よ!!」
ドッと吹き荒れた怒りの感情に二郎丸は股間がじわりと温かくなるのを感じた。
それはしゃー…と音を立てて地面に垂れて落ちていく。
「ご、ごめんなさい!ごめんなさぁーい!!」
恐怖に呆然としていたナインズだが、世界で父より強い者がいるわけがない。父の事はたまにやっつけられているのだから、枯れ木よりもナインズの方が強い。
そうだ、ナインズは強い。この世で一番強い二人の子供だし、訓練ではコキュートスもシャルティアもやっつけられるのだ。
このひょろひょろの枯れ木が、あのコキュートスより強い訳もないのだ!
一郎太の上にひっついたままでいたが、慌てて立ち上がった。
「ぼ、ぼくの二の丸を離せ!!」
枯れ木は二郎丸からナインズへ視線を向けると頭の乗っていない首を左右に振った。
「この者には罰が必要です」
「離せ!!離さないと、えっと、こうだぞ!!」
落ちている骨のかけらのようなものをかさりと拾い上げると振りかぶり、投げつける。いつも一郎太達と湖畔で石を投げている為か、十レベルオーバーの力のお陰か、弾速は程々にあった。
乾き切った骨がコツン、と枯れ木の鎖骨に当たると、枯れ木はよろけて数歩下がった。
「――も、申し訳ありませんでした。御身がどうしてもと仰るならそういたします」
枯れ木は二郎丸を離し、二郎丸はビシャっと地面に落とされた。そこには小便の水溜まりがあった。
そして、枯れ枝の腕はまっすぐ一郎太へ伸び、掴み上げた。
「っうわぁ!!な、ナイ様ぁ!」
ナインズは慌てて一郎太の足を掴んだ。
「は、離せぇ!!お前なんか、お前なんか怖くないぞ!!怖くないもん!!」
「…この者にも罰を与えないので?」
「ぼくの一太だぁ!!お前なんてどっか行っちゃえぇ!!」
枯れ木はびくりと肩を震わせると、一郎太のことも離した。
やはり地面にドサリと落とされ、尻を痛そうにさすった。
「い、いつつつ…」
「一太も二の丸も大丈夫?」
「うーん、大丈夫」「大丈夫です…」
二人を抱き締めるナインズは自分が一番お兄ちゃんなんだからしっかりしないとダメだと自分に言い聞かせた。一郎太はずっとナインズより大きかったが、ナインズよりも半年遅く生まれているのだ。
ナインズは睨みつけるように振り返ると――枯れ木は三人から踵を返し、サクサクと足音を鳴らして歪みの木々の中へ消えて行った。
「……やっつけた……」
「すげぇ!ナイ様すげぇー!」
「やったー!!」
ナインズは左右からミノタウロスの兄弟に挟まれ、抱きつかれると口から小さな笑いを漏らした。
「ふ、へへ…へへへぇ」
「あ!森だ!」
一郎太が指をさす、枯れ木が歩いて行った方には緑の溢れる、いつも遊んでいる森が見えた。
三人は立ち上がると、そちらへ向かってまっすぐ駆けた。蠱毒の大穴に餓食狐蟲王を見に行くつもりでいたことは、三人の頭からすっかり抜け落ちていた。
ついには緑色の草の上に辿り着くと腰を抜かしたように三人揃って座り込んだ。
「ひゃ〜怖かったぁ」
「怖かったですねぇ」
「でも、ナイ様がいたから大丈夫だった!!」
二郎丸が身を乗り出すと、二人の視線はその股間へ集まった。
「二の丸はお漏らししたから全然大丈夫じゃなかっただろ〜!」
一郎太がケタケタ笑うと、ナインズもおかしそうに「うふふ」と笑った。
「こ、こんなの泳げば大丈夫ですもん!綺麗になります!!」
「泳ぎに行こう!今のままじゃ汚いよ!」
「――じゃあ、湖まで競争ですよ!!」
そういうと一郎太は一目散に駆け出し、二郎丸も続いた。
「あ、あ!待って!待ってよー!」ナインズも遅れて駆け出し、少しの癇癪を起こした。「もー!一太のずるっこー!!」
子供達が立ち去った歪みの木々からは、ゾワリとおぞましき魔物達が這い出た。
最近よくこの森を見に来てくれる至高の息子の背を、愛しげな瞳で見送った。
そんな視線にも気が付かずにナインズは湖のほとりにビリッケツでたどり着いた。
「――あれ?お母さまと一太達のお父さま」
湖畔に抜けた所にはフラミーが仁王立ちし、どう見ても怒っている様子の大人ミノタウロス、それからアウラ。
一郎太と二郎丸はどうする?と目を見合わせていた。
「な、ナイ様…。皆怒ってそう…」
「……逃げる?」
「逃げられないですよぉ」
三人は頭が落ちてしまいそうなほどに項垂れながら親達の待つ所まで進んだ。断頭台を登る囚人のように重い足取りで。
もじもじする息子達が目の前までくると、フラミーはしゃがんで三人のことを見上げた。
「ナイ君、どうしてお母さんが怒ってるか分かるよね」
「……入っちゃいけない所に入ったから……」
「そう。ナイ君はお友達を危ない目に合わせたんだよ。もしお友達に怪我させちゃったら、ナイ君はどうするの?ごめんねしても、怪我は簡単には治らないんだよ?」
「……ごめんなさい」
「反省してるんならいいよ。じゃあ、一郎太君と二郎丸君にも、ちゃんとごめんなさいして?危ない所に連れて行ってごめんなさいって。ナイ君も今お膝痛いでしょう?お友達にこんな思いはさせたくないよね」
「一太、二の丸……ごめんなさい……。ぼくが行きたいって言ったから……」
二人はぷるぷるとすぐに顔を振った。
「な、ナイ様のせいじゃないんです!」
「ボク達も行きたかったから!だからナイ様に来てもらったんです!!」
「一郎太君と二郎丸君は優しいんだね。ナインズを許してくれてありがとう。それから、守っておんぶもしてくれて。二人がここでナインズと一緒に育ってくれることを私達はいつも感謝してるんだよ。――<
フラミーが二郎丸を指さすと、おもらしをして濡れていたズボンはスッと乾いた。
「あ!あ!ありがとうございます!」
「ううん。さ、ナイ君座って。お膝見せて」
ナインズは膝を山形に抱き抱えるように座った。
「お水で綺麗にするから、ちょっと沁みるよ」
「…お、お水じゃなくてぼく魔法がいい!」
「魔法はダメ。バイ菌入るから洗うよ」
フラミーの手は空間のポケットに入り込み、するりと水差しを取り出した。
「お母さま!お水じゃなくて魔法がいいです!!」
「ダメだって言ってるでしょう?ほら、お膝洗わせて」
「まほ、魔法…魔法がいい!!魔法がいぃい!!」
ナインズは土を少しザリザリと蹴ると、うわぁーん!と声をあげて泣き出した。何レベルと言ったって、知恵者に勉強を教えられたって、まだたった三歳の男の子なのだ。
「ふわぁーん!!魔法がいぃのにぃ!!」
その様子を見ていた二郎丸は小さくなり、今にも泣いてしまいそうだった。
「い、いちにい…!」
「二の丸のせいでナイ様あんなに…可哀想だろ!」
「だって…にいが遅いから…」
二人がゴニョゴニョと言い争う中、フラミーに何度も頭を撫でられナインズの涙は少しづつ止まり始めていた。
「ナイ君、痛いのは嫌なことだけど、このお膝と、このお膝は、一郎太君と二郎丸君が助けてくれようとした証でしょう?それに、ナイ君が皆を助けた証でもあるじゃない」
両腕をさすられると、ナインズはえぐえぐ言いながら頷いた。
「じゃあ、自分の力で治さないと。これをお母さんが治したら、ナイ君の今日の冒険は無かったことになっちゃうよ?」
「…だって、だって……でも……」
「痛くても泣かないで帰って来られてとっても偉かったんだから、無かったことにしたらもったいないよ。本当はお母さんね、褒めてあげたいことがたくさんあるの。泣かなかったし、皆を守ったし、優しかった。あの森の中で、ナイ君はたくさん頑張ったんだから」
「頑張った…」
「うん。頑張ったよ。偉かったね。じゃあ、もうちょっとだけ頑張れる?」
「頑張る…」
「すごいなぁ、ナイ君は。お友達と作った傷は、いつかあなたのためになる日が来るよ。じゃあ、お膝洗うからね」
水差しから溢れでた清潔な水はじんっとナインズの膝に沁みた。
血の滲みに張り付いてしまっていた骨粉や骨のカケラが洗い流されていく。
「っぅぅぅ……」
「痛いね。怪我したくないね」
「やだぁ」
「もう終わるよ」
「うぅぅー!」
膝から汚れがなくなると、フラミーは清潔な布で優しく押して水分を取った。
白い軟膏とガーゼを取り出し、ガーゼに塗る。
「それ、なんなの?」
「これはお薬だよ。早く治るおまじない」
「魔法なの?」
「魔法ではないけど、痛いのが飛んでいってくれる!」
二枚のガーゼが出来上がると、また新しく血が滲み始めてきた膝にぺたりと貼った。
「…あ!痛くない気がする!」
「そうでしょう?テープで止めてあげるから、もうちょっと待ってね」
井の字にガーゼを止めると、フラミーは立ち上がった。
「はい、できた!遊んでおいで!」
ナインズは恐る恐る立ち上がり、数歩歩くと膝があまり痛くないことを確認した。
「――痛くない。行こう!一太、二の丸!!」
「ナイ様、平気なの?」
「平気!おまじない貼ったから痛くなくなった!」
ガーゼにはじんわりと血が滲んでいるのが見えるが、ナインズはケロッとしていた。
「陛下のお薬だから大丈夫になったんですね!」
「大丈夫!また登れる木探そう!また木の上で魔法しよう!」
ナインズが森に向かって走り出すと、二匹は父達に一度振り返る。軽く顎をしゃくられると、すぐに後を追った。
三人の小さな背は森の中に消えて行った。
「……アインズさんじゃないけど、やれやれって言いたくなっちゃうね」
「フラミー様、申し訳ありませんでした…」
「いいえ。本当にナインズが悪かったんです。あそこに入る事を一郎太君と二郎丸君が覚えたら、いつか二人だけで入って行きたくなる。そうなれば、きっと帰っては来られない。ナインズはナザリックの中ならどこに行ったってシモベが助けてくれるけど、お友達を殺してしまうようなことはしてほしくない。あなた達だって歪みの木々のエリアに入れば出られなくなる」
ナインズの後には赤ん坊の頃からずっと付かず離れず不可視化したハンゾウが付いている。例えそのエリアを守護するNPCがいない場所に踏み込んだとしても、本当に危なくなればハンゾウが助けてくれるはずだ。八十レベルを超える高レベル傭兵NPCなので、よほど危険な場所に入らなければ命を落とすことも、大怪我をすることもない。
一郎と二郎は申し訳なさそうに小さくなった。
もしかしたら、お前達の子供をもっと教育しろと叱られたほうがミノタウロス達の気は楽だったかもしれない。
ナインズだけが悪いはずがないのに、自分達の息子は怒られなかった。深い自戒の念に囚われる。
大切に思う友達が叱られ、痛みに泣く姿を見ていた二人は何を思っただろう。
「フラミー様。一郎太と二郎丸によく言って聞かせます」
「ん、ありがとうございます。だけど、
「……畏れ入ります。寛大なお心に深く感謝いたします」
フラミーは笑うと、登れそうな木を探して森の入り口を駆け回る子供達を眺めた。
「――楽しみだね。どんな大人になるんだろう。皆、きっと優しい良い子に育ちますよ」
そう言って恐縮しているミノタウロスの背をぽんぽん叩いた。
「さて、アウラ。マーレと一緒に待ってる可哀想な
「はい!どうぞお乗りください!」
元気よく手を上げたアウラの隣に、ゆらりとカメレオンが姿を現す。頭を下げ、ぎょろりと上目遣いにフラミーを見る姿がとても愛くるしい。
緊張しているのか木を掴むのに適した足の指で、数度地面を引っ掻いた。
「ありがとうね。歩いて行ってもいいんだよ?」
「いえ!この階層にいる間はご不便はおかけいたしません!」
「じゃあ、乗らせてもらっちゃおうかな」
「はい!是非どうぞ!」
フラミーがクアドラシルに乗ると、フラミーの前にアウラも乗った。
「では、出発進行ー!」
アウラが声を上げると、クアドラシルは滑るように歩き出した。
六本も足が生えているのであまり大きくは揺れない。
快適に進んで行くと、アウラとマーレが暮らす大樹の巨大な根の間に、可哀想な
マーレが頭の乗っていない首をよしよしと撫でている。
「フラミー様がいらしたよー!」
「――っは、ふ、フラミー様!!」
「
クアドラシルから降りながらフラミーが言うと、
「うっ、うぅぅ。ふらみーさま……。わ、私は……ないんず様にどっかに行けと言われ、うぅぅ……。余計な事をしたせいで、私は…私はぁ……」
おいおいと泣き始めると、何もないところからぽたぽたと水が落ちた。
「ご、ごめんなさいね。ナインズは本当、まだ何も分かってないの。本当は
「うぅぅぅ…。しかし、しかし……」
「
「と、とんでもありません…。ですが、私はもうナインズ様に合わせる顔がありません……」
――元から顔はないだろう。
フラミーは一瞬よぎってしまった邪念を大急ぎで振り払う。
「そんなことないですよ!えーっと……どうしたらいいかなぁ…」
どうやったらうまくナインズに謝らせることができるか考える。
彼なりに友達を守ろうとしたと言うところはとても買っているので、ただ意味もなく他者を傷つけたとは思わせたく無かった。それを知るのはまだもう少し先で良いだろう。
それに、
「そうだ!」アウラがいいことを思いついたと手を打った。「――
「小鳥…でございますか…?」
「そうそう!そう言う姿を何回も見たら、ナインズ様も
「……そうでしょうか…。どこかへ行けと言われたのに…なぜまだナザリックにいるんだと言われてしまったら……私は………」
「あ、あの!えっと、ナ、ナインズ様にきちんと謝罪されるのが、えっと、一番だと僕は思います」
マーレの言葉に、フラミーは首を振った。
「
「そうだ…?」
「二の丸!そこ掴んだら登れるよ!」
ナインズが二郎丸をほんの数センチ持ち上げて言う。
「も、もうちょっとぉ!」
「ほら、オレの手とって!」
一郎太も上から手を伸ばし、二郎丸の服を掴んで引っ張り上げようと引きつける。
「うんん――ぁ!届いた!!」
ついに二郎丸は目指していた幹を掴み、なんとか足を引っ掛けて一郎太のいる場所まで登れた。
「ほら、早く早く」
「う、うん」
一郎太が進む後に続き、木の股が分かれているところに足をかけてさらに高い幹を目指し、無事に登ることに成功した。
「ひゃあ〜!この木は難しいよお。つるつるだもん」
「でも登れたじゃないか。ナイ様にお礼言うんだぞ!」
その後をナインズも追いかけ、腰掛ける。
「ナイ様、ありがとうございます!」
「ううん、あそこで練習したからとっても上手になったね!」
「えへ?そ、そうですかぁ?」
「うん!でも、もうあそこには行けないね」
「…行けませんね」
三人は歪みの木々がある方をじっと見つめ――ぞくりと背を震わせた。
普通の森の木の合間を縫って、
「な、なんで!?外に出られるの!?」
ナインズが声を上げると、一郎太と二郎丸はしぃ!と口に手を当てた。
「ナイ様!まだ見つかってないですよ!しー!」と言う一郎太の声は割とでかい。
三人は互いの口を塞ぎあい、幹の上でじっと静かに過ごした。
「ねぇ…ほんとにバレてない…?」
ナインズが小声で言う。
枯れ木のあいつはまっすぐこちらへ向かってきているのだ。
「陛下と父者を呼びに行きますか…?」
などと言っているが、今降りれば確実に見つかるとしか思えず、誰もその意見に乗らなかった。
じっと息を殺していると、枯れ木はついにナインズ達の登っている木の下までたどり着いた。
『ラララ私は木の精〜。ラララ怖いのは気のせい〜』
枯れ木は歌い出した。
「何なの…?」
「さぁ……」
「違う奴かもしれませんよ」
三人はごそごそと話し合う。
枯れ木の周りには強そうな黒い鳥が集まり、ともにカァー!カァー!と声をあげて歌った。
『ラララ強いあの方はどちらかな〜ラララ素敵なあの方はどちらかな〜』
少し調子の外れた歌に、三人はくすくす笑った。
「あいつ、きっとナイ様を探してるんですよ」
「うーん、お話ししてみようかなぁ…」
木の上からナインズが覗き込むと、枯れ木はより声高に歌った。
「決めた!お話ししてみる!二人は待っててね」
最後にナインズが登ったので、一番最初に降りることができる。
途中まで慎重に降りると、ひょいと飛んで着地した。
「ねえ!ぼくに用?」
枯れ木はぐるりと上半身を回し、ナインズを覗き込んだ。
「おやぁ!いらっしゃった!私は木の精、
「サークレットさん」
「そうです。あなたの強さを見込んで、実は弟子にしていただきたいのです!」
ナインズは初めての弟子に瞳を輝かせた。
「え!!ぼくの弟子に!!」
「はぁい!ナインズ様程のお方なのですから、弟子の一人や二人、ねぇ?」
「いいよ!いいよ!!ぼく、サークレットさんの先生になってあげる!!」
「あぁ、ありがとうございます!では、上の二人にも挨拶をしていいですか?」
「一太!二の丸!降りておいで!」
話を聞いていた二人はもそもそと降りてきた。
「お前、ナイ様の手下になるの?」
「えぇ!そうです!」
「……いきなり襲ってきたりしない?」
「しませんとも!!」
頭のない首を何度も縦に振り、固唾を飲んで三人を見た。
「じゃあ、よろしく!オレ一郎太!一太でいいよ」
「ボク、二郎丸。大人は皆ボクをじろちゃんって呼ぶけど、君、大人?」
ミノタウロスの子供二人と握手を交わす。
すると、ナインズも
「サークレットさん、ごめんね。骨ぶつけて。今日から一緒に"地獄の特訓"しようね!」
"地獄の特訓"とは今ナインズ達の中で最もホットな遊びだ。特訓と称してあれこれ登りまくる。それだけだ。
「私こそ……私こそ申し訳ありませんでした……」
何もないところからぽたぽたと涙が落ちていく。
「あー!サークレット泣いてる!泣いてる泣いてるー!」
一郎太は嬉しそうに
「一太、仲間になったんだから意地悪しちゃダメだよ。サークレットさん、もう二の丸に意地悪しないでね」
「いたしません…。誓います……」
「じゃあ、涙拭いて、地獄の特訓にいこ!!」
ナインズは、目がどこにあるか分からなかったが、そっと優しく、涙が出てくる中空を撫でた。
「はい!!」
四人はしょっちゅう一緒に遊ぶようになった。
ナインズが四歳を迎える頃には、彼はゆっくりと会う頻度を減らし、いつしか一緒に遊ばなくなった。
しかし、三人はたまに
――サークレットさんへ
と地面に書き付けて。
子供の頃だけの、不思議な友達のお話だ。
「それでねー、ぼくねー、またれべる上がったかも!」
湯船に腰掛けたナインズは両手でガーゼを覆い、慎重にお湯に入った。最初は少ししみたが、すぐに慣れた。
「そーかそーか。九太はまた強くなっちゃったのかー」
「そー!!お父さまが前に言ってた、ちょーい魔法覚えれるかも!」
「超位魔法は難しいぞぉ。だが、使えるようになったらお前に最古の森に雨を降らせに行って欲しいなー」
「いいよ!ぼくもお父さま達みたいにお天気変える!」
「ふふ、楽しみだなぁ」
風呂で伸びるアインズは嬉しそうに笑った。
いつか忘れられちゃう思い出かもしれないけど、サークレットさんには一生の思い出になったね
次回#144 幕間 未来への布石
5日でーす!