眠る前にも夢を見て   作:ジッキンゲン男爵

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Lesson#6 ルーン魔術とミノタウロス

「じゃあ、日が暮れるまでには帰って来てね?」

「はい!」

 フラミーがナインズの髪と瞳、顔の亀裂に幻術を掛ける。

 どんな魔法も掛ければいつかは解けるもので、幻術も例外ではない。あまり遅くまで外にいればナインズはナインズの姿を取り戻してしまう。

 これまでは朝起きて一番に掛けてやっていたが、昨日は少しギリギリだった。今日からは身だしなみを整える直前に掛けてやることにする。ナインズは身だしなみに拘るたちなので、黒髪の状態で納得がいくまで髪を梳かした。

「行ってきまーす!」

 ナインズは鞄と今日の体育に使う服を持つとフラミーの部屋を飛び出した。

「行ってらっしゃーい」「気を付けろよー」

 両親の声を背に、七階層へ向かう。

 七階層に上がる前の場所にはきちんとナインズが温度耐性の指輪をしているか確認するため、ナーベラルが立っていた。

「おはようございます。ナインズ様」

「おはよー!ん!」

 ナインズは自分の手を見せ、ナーベラルに道を譲られた。

「確認いたしました。どうぞお気をつけて。もし下等生物(ガガンボ)共が不敬な真似をすれば、いつでも私が始末に参ります」

「ありがとう!勇気出るよ!」

 そう笑うと七階層へ上がって行った。

 七階層では小さな悪魔達がナインズを出迎え、キィキィと鳴き声をあげている。

「皆おはよー!」

 悪魔達に導かれ、鏡へ向かう。

 鏡の前ではすでに一郎太が待っていた。

「ナイ様ー!」

「一太おはよー!」

「ナイ様、昨日の本のこと父者達に話しておいたよ」

「あ、それね。僕の勘違いだったんだぁ」

「そうなんですか?」

「うん!」

 二人は悪魔達に見送られて鏡をくぐった。大して何も置かれていない部屋だが、一応勉強用の机は二つ置いていてくれている。そこで勉強したことなどないが。

 温度耐性の指輪を屍の守護者(コープス・ガーディアン)に預け、二人はおぞましくも可愛らしい鏡の守護者に手を振られて部屋を後にした。

 廊下には相変わらずズラリと神官達がいた。

「おはようございます。殿下、一郎太君」

「おはようございます!最高神官長さん、これ、昨日の夜に借りちゃったの。返すね」

 ナインズはアインズから返すように言われた本を鞄から取り出した。

「そうでしたか」最高神官長は本を受け取り、タイトルを確認するとニコリとナインズに微笑んだ。「殿下、読まれましたか?」

「うん、前書きだけお父さまに読んでもらった!また借りるかも」

「いつでもお気軽にお声掛けください。ご用意いたします」

「ありがと!じゃ、僕たち行くね!」

「行ってらっしゃいませ」

 二人は今日も学校へ向かった。

「キュー様、あの本なんだったの?」

「僕のこと好きな人が書いた本だったんだ!」

「不完全って悪口書かれてたのに?」

「うん!皆不完全なんだって。僕がいつか完全になると、不完全な皆が…えっと…なんか良いらしい!」

「へぇ〜。難しいですねぇ」

「ふふ、どんな人が書いたんだろうなぁ!」

 ナインズはまさに著者本人に本を返したとは思いもせず大神殿の遊歩道を出た。

 今日も賑わい始めた大神殿表参道の大通りを行く。

 果物の朝市の前を通り、パン屋さんの角をまがる。

 学校が近付いてくるとエルが角でナインズ達を待っていた。

「エルー!」

「キューター!一郎太ー!」

 二人はエルに駆け寄り、校門へ向かった。

「二人ともおはよう。今日は初めて外で体育があるね。どんな事をするんだろう」

 前回は骨や肉と言った基本的な共通の肉体を学ぶ座学で、外には出なかったのだ。

「大きい子も小さい子もいるもんねぇ。僕、走るのは結構自信あるな」

「教室に着いたらロランに聞いてみましょう!ロランが兄者に聞いてるかもしれません!」

「そうだね!僕、まだあんまりロラン君と話したことないや」

「良いやつですよ!」

 ガヤガヤと賑やかな玄関を潜り、階段を上がった。

 三人が教室に入ると、何人かの生徒達が振り返った。その空気感は昨日の昼食から戻った時の雰囲気に似ていた。何か、よそよそしい様な、話しかける事を躊躇うような、とにかく気持ちのいい空気ではない。

「…何だ?」

 一郎太が首を傾げる。

 ロッカーに鞄と運動用の服を置きに行くと――一郎太の手が止まった。

 ナインズは鞄から一限目に使う国語の教科書を出している。

 一郎太はロッカーの中に入れられていた見覚えのない絵をグシャッと丸めた。

 その絵は人間を――いや、ナインズとエルを一郎太が食べているものだった。

 なぜ。誰が。

 そう思っているとクスクスと笑い声が聞こえて来た。その笑い声はまたしても、ナインズを侮辱したあの声だ。

 一郎太は荷物をしまうと笑っている者の方へ向かった。

「あれ?一太?」

 ナインズが目で追うのを感じた。

「おい、これ、お前達が書いたのか」

「いやぁ?分かんないよ。チェーザレ、分かるかい?」

「分かりません。カイン様」

「許さないぞ。キュー様をこんな風に描いて」

 一郎太が言うと、二人は一瞬きょとんとした。それは、いくら従者の子とは言え、自分が侮辱された事よりもナインズへの中傷に腹を立てる様子が少し異質だったからだ。

「一太?どしたの?」

 ナインズが近付いてくるが、一郎太は絵を見せなかった。こんなものはお目汚しになる。

 朝の教室はどんどん子供が登校してきて、賑やかさを増していく。

 昨日話すようになったばかりのリュカも仲の良い二人と登校してくると、思わぬ二組が対峙していたのでロッカーに寄らずに真っ直ぐそちらへ向かった。リュカの席はちょうどカインと呼ばれた子の後ろだ。

「キュータ、おはよ。どうしたんだ?」

「あ、リュカ。おはよう。一太がちょっとね」

 一郎太は二人を睨みつけ拳を握りしめた。

「うわぁ〜、ミノタウロスは怖いなぁ。もしかして、証拠もないのに僕達を殴るつもり?」

「証拠?一太、やめな。どうしちゃったの?」

「く……貴様達、オレは――オレは――」オレはナザリックに移ることを許された、大賢王の血を引く一郎・エル・サビオ・シュティーア・クレータ・シンメンタールの息子、一郎太・ダ・ワイズ・シュティーア・クレータ・シンメンタールだぞ。アインズやフラミーと志を共にした祖王は人間の地位を家畜から奴隷まで引き上げ、その時の功績を認められて父王の一郎は誰もが憧れるナザリックで暮らせるようになったのだ。

 ――と。

 一郎太は言いたいことを飲み込み、背を向けた。

「"オレは"何だ?言えば良いじゃないか。変なやつ。なぁチェーザレ」

「はは、カイン様。ミノタウロスは野蛮だけど、気は小さいらし――」とチェーザレが言うと、バンッと大きな音が教室中に響いた。

 ナインズが手を二人の机に置いていた。

「僕の一郎太がなんだと言った」

「あ、いや…」

「もう一度でも言ってみろ。僕の一郎太を侮辱すれば許さんぞ。そもアインズ・ウール・ゴウンの名の下に統治されるこの地で、種族をあげつらって他者を蔑むなど国民としての自覚が足りん」

 その言葉は妙な重みと迫力があり、チェーザレはゴクリと唾を飲み下した。

「わ、分かったよ。悪かったよ」

 ナインズは睨みつける眼光を緩めると、一郎太の背を押した。

「行こ、一太」

「き、キュー様…」

 二人はそれぞれの席に戻って行った。

「…なんだよスズキの奴。ミノタウロスはそもそも神聖魔導国に入ってないじゃんか」

「ね、ねぇ?そうですよね?カイン様」

「そうだとも。チェーザレ、お前は悪くないさ」

 二人がごそごそと話すと、リュカは昨日キュータに約束した事を思い出した。

 一郎太をミノタウロスだと言う理由で怖がる人には認識を訂正するように言うと。

「な、キュータは一郎太と一緒に育ってるんだぜ。一郎太は野蛮じゃないよ。人食わないもん」

 カインとチェーザレは振り返ると後ろの席のリュカに笑った。

「リュカ、知ってるかい?ミノタウロスは一度でも人を食うとその味が忘れられなくなるんだ。どうしても食べたくなって、もがき苦しむんだってさ。そして、最後は必ず人間を食べる。だから、口だけの賢者が人間を家畜から奴隷に変えた時、バハルス州じゃすごくたくさんの人攫いがあったんだよ。僕の実家があるバハルス州じゃ有名な話さ」

「…それで?今はそんな事もないんだろ。だってミノタウロスの王国は友好国じゃん」

「確かに友好国になってから人攫いは一切なくなったらしいけどね。でも、一郎太はまだ食べていないだけで、何かの拍子に食べたら途端に化け物になるんだよ。それはたった一滴の血でもさ!ミノタウロスの王国が神聖魔導国に入れてもらえないのは、罪のある生き物達だってこと。エルミナス様は慈悲を掛けてるけど、そんな一郎太が神都の学校に通うなんてちゃんちゃらおかしいね」

「でも、神聖魔導国にいれば人を食べる機会なんかないじゃんか」

「分かんないぜ?親がミノタウロスの国から密輸するのか、ミノタウロスの国に帰るかすればいくらでも食べられるんだから。友好国のくせに、向こうじゃまだ平然と人間を食ってんだ!」

 二人の前に座っていた空の人(シレーヌ)の女の子、ペーネロペーが短い悲鳴をあげた。セイレーンも食う食われるを体感してきている種族だ。

「……カインさぁ、あんまり神都でそう言う事言わない方がいいぜ。ペーネロペーもさ、一郎太は怖くねぇよ」

「う、うん…。そうよね」

「ふ、僕は事実を言ったまでさ。僕の従者のチェーザレに怒るなんて僕に怒るのと同じだからね。それがお門違いだって事を理解してもらいたいよ」

「カインがチェーザレを大事に思うのと同じように、キュータも一郎太を大事に思ってんだよ」

「…リュカ、君もわからない奴だな。昨日までは僕の意見に賛成だったのに」

「賛成なんかしちゃいないよ。聞いてただけ」

「…ふーん」

 リュカは椅子に座ると、ちらりと一郎太を確認した。

 カインは一郎太に聞こえよがしに喋っていたから。

 

 一郎太は小さな耳をピクピクと振るわせていた。

「――一郎太、気にしない方がいいよ」

 エルミナスは一郎太の背をさすった。カインの話が聞こえていたから。

「オレは人なんか食べない…。もし間違えて食べても、オレは絶対にもっと食べたいなんて思わない……。大賢王は一度だけ知らずに人肉を食べて、あまりの美味しさにひっくり返ったんだ…。だけど、人を食べちゃいけないって陛下方が天界でお教えになってたから、大賢王は二度と人肉を食べたりしなかった。すごく苦しくて、人の肉の味を死ぬ時まで忘れられなかったって言うけど、それでも大賢王は食べなかったんだ」

「……大賢王は素晴らしい王だったんだね」

「うん。世界にどれだけ大賢王の発明が溢れてるかも知らずに……」

「大賢王って、ここの大陸で有名な口だけの賢者のことだよね」

「そうだよ。本当に賢者だったんだ。口だけの賢者って言うけど、大賢王は誰も知らない神々の知識をたくさん持ってた。だから、大賢王の閃きが無ければ、数々の生活魔法道具は生まれなかったんだ」

「私も神都に来てから、たくさんの魔法道具に囲まれてよく分かったよ。ここはとても便利な場所だ。上位森妖精(ハイエルフ)は大抵皆魔法を使えるから、生活魔法道具は必要としないけど、そうじゃない種族が暮らす場所には多くの恩恵を与えているよ。私もまだ使えない魔法はたくさんあるから、生活魔法道具があって本当に助かってるんだ。私のように大賢王に感謝してる人はたくさんいるはずだよ」

「……そうだよな」

「うん、そうだよ」

 一郎太とエルは拳を作り、こつん、と当てた。

 エルも差別と偏見に苦しんで来た一人だから、一郎太の気持ちがよく分かる。

 そして、一郎太が「家畜のくせに」と自国の意識を一切持ち込もうとしない姿に強い尊敬の念を抱いた。

 二人はこの学校で、隣の席がお互いだったことに感謝した。

 

+

 

「なぁロラン。体育ってどんな事すんの?」

 今日の昼食はロランも誘って男子四人と女子四人だ。

 ナインズ、一郎太、エルミナス、一郎太達の後ろの席のロラン。机を挟んでオリビア、レオネ、イシュー、ロランの隣のアナ=マリア。割と大所帯だ。

「お兄ちゃんの話では最初はストレッチして駆けっこだったって。どれくらいで走れるか記録されたって言ってたよ。僕は走るの苦手だからなぁ。やだなぁ」

 ロランは今日のトマトのキッシュを口に詰め込みながら言った。

「オレは走るの好き!ね、キュー様!」

「うん。僕も走るの好きだなぁ。僕達しょっちゅう走ってるんだ。一太の弟の二郎丸と一緒にね!」

「一郎太君なんかすんごい足速そうだもんねぇ。その点、キング君は大変そう」

 オオサンショウウオのキングは二足歩行では歩く事しかできない。かと言って四足歩行も腹をずりずりと擦っているので遅い。ちなみにそんなキングのお腹には制服が汚れないように革が貼られている。

「キング、寮から通ってるらしいけど毎朝大変そうだもんね。地面にぺったり伏せて歩いてると、たまに踏んづけられそうになるから一生懸命立って歩いてるんだって」

 ナインズが言うと、ロランはへ〜と声を上げた。

「キング君の体ってほとんど黒に近い茶色だもんね。制服のローブも黒でパンツもグレーだし。ローブは一応一年生は模様が青だけど、見えなくて馬車に轢かれたりしたら危ないなぁ」

 ちなみに二年生は白、三年生は黄、四年生は緑、五年生は赤、六年生は紫だ。模様は裾やフードにだけ入っている。来年六年生が卒業すると、新一年生が紫になる。

「あ、でもキングって口の中は真っ白なんだよ!前に笑った時に見えたんだ」

「え!そうなの!今度見させてもらおうかなぁ!オリビアはキングの後ろだから良いね!」

 ロランにそんな事を言われると、オリビアは食事の手を止めた。

「……キング君の後ろなんてやだもん。ロラン、エル様の後ろと変わってよ」

「え?そんなこと出来ないでしょ」

「……分かってるけどさ」

 オリビアの機嫌が悪くなると、ナインズは向かいに座るオリビアの手を取った。

「…オリビア、キングは怖くないよ。だから、そんな風に言っちゃダメなんだ」

「でも…キュータ君……」

「キングのちっちゃい目、見たことある?とってもつぶらで可愛いんだよ」

「……うん」

「オリビアは勉強家でしょ。きっと、キングの良いところも知れるよ。だから、悪く言わないで」

「ごめんね…」

「いいよ。オリビアがキングを好きになれるように、僕が協力するから」

「ありがとう。キュータ君って王子様みたいだね」

 ナインズがパチクリと目を瞬かせていると、一郎太がふふん、と鼻を鳴らした。

「キュー様が王子様なのは当然じゃん?それにしても、キングの何が怖いんだ?ローランとベルナールもキングのこと怖いのか?」

 レオネとイシューが口を開こうとすると、ロランが首を振った。

「ううん、僕はキング君のこと怖くないよ」

「ちょっとロラン!ロランじゃなくて、ロ・オ・ラ・ンでしてよ!一郎太さんも紛らわしいからレオネって呼んで下さいまし!」

「ははは!また間違えてんの!」

 イシューは大受けだった。

「あ、ごめん。レオネな」

「ロランもちゃんと聞いて頂けませんこと!本当毎回嫌んなっちゃいます!」

「何だよレオネ。レオネだってよくトマがローラーンー!って僕を呼ぶと反応するじゃんかぁ」

「それはトマ君の言い方が悪いんでしてよ!」

「トマじゃなくてレオネの耳が悪いんだろ!」

「何よ!ロランだって耳悪いくせに!今も間違えたのはロランじゃない!」

 言い争う二人の間で、イシューは何とか笑いを止めるとレオネとロランの間に入った。

「はいはい、わかったから落ち着いて!落ち着いて二人とも」

 しかし、二人の耳には入っていない。

「一郎太君は僕との方が仲が良いんだから、僕に話しかけてると思うじゃないか!」

「思いませんわ!ローランとベルナールと言ったのですから、イシューとわたくしに決まっていましてよ!」

 二人がぐぬぬ…と争うような視線をぶつけ合っていると、とん、と白い手が机に置かれた。

「皆さん、何をそんなに言い争ってらっしゃるの?」

「あ、クラリス」

 クラリスはナインズに優しく微笑むと続けた。

「お食事中にいけませんわ。どなたかのお耳を汚すような真似は慎まなくては。ねぇ、一郎太様、エルミナス様」

「そーだな。ロラン、そう怒んなよ。もうレオネの事、オレはローランって呼ばないからさ」

「ティエール様の言う通りだね。ロラン君もレオネも、せっかくのご飯なんだから」

 二人はぷいっと顔を背け合った。

 クラリスはその様子に、実に品よく苦笑した。人を不快にさせない苦笑だ。

「あらあら…。――ところで、キュータ様。御身は次の授業、確か体育でしたわね」

「あ、うん。どうして知ってるの?」

「うふふ。ロラン様のお兄様、デニス様は私と同じクラスですもの」

「そうだったんだね。意外と学校って狭いんだなぁ」

「そうですわね。私の席は窓際ですから、無礼かとは思いますが、皆様のお姿を上から拝見させていただきます。それでは、また何かの機会にご一緒できるのを楽しみにしておりますわ。」

 クラリスは花のように微笑むと、食べ終わった食器を持って返却口へ行った。

「……ティエール様って本当に素敵な方だね」

 エルがぽやぽやとクラリスを見送ると、レオネは少し頬を膨らませた。

「わ、わたくしだってお淑やかにできますもん」

「いや、クラリスはあー見えてこえーよ」

 一郎太が言うと、皆首を傾げた。

 特に疑問を持ったのはアナ=マリアだ。

「………どうして?聖書に載ってるラナー・ティエール様みたいに素敵なのに」

 一番の読書家は聖書の中に出てくるラナーとクラリスを重ねていた。

「いや、まぁ。怖そうだろ」

「………ちっとも。一郎太君、たまに変わってるね」

「…どーも」

 一行は食事を済ませると、食器を返却して一度教室に戻った。

 運動用の服を持って更衣室へ行くのだ。

 更衣室は一階の、ナインズ達の教室の真下だ。

「――あれ?」

 一郎太は自分のロッカーにしまったはずの運動用の服が見当たらず、教科書を退かしてみたりした。ちなみに運動靴もないが、蹄のあるミノタウロスに運動靴はそもそも不要だ。

「一太ー!行くよー!」

「あ、はぁーい。おっかしいなぁ」

 ナインズとエル、ロランが教室の入り口で待っている。

 一郎太は自分の席の周りを見たり、隣のロッカーを確認のために開けてみたりした。

 しかし、持ってきたはずの運動用の服はなかった。

「一太、どしたの?服は?」

 痺れを切らしたナインズがくると、一郎太は一瞬悩み――笑った。

「オレ、どっかに服忘れてきたみたいです」

「忘れて…?そんな事ないよ。朝ロッカーに入れてたの、僕見たもん」

 ナインズも一郎太のロッカーを覗き込み、左右隣のロッカーを開けたが一郎太の服はどこにもなかった。

「おかしいね。誰かが間違えて持って行っちゃったのかな…?」

「……とにかく、もう更衣室に行きましょう。教室には無いから」

 一郎太が手ぶらで廊下に出てくると、エルとロランは首を傾げた。

「あれ?一郎太、着替えはどうしたんだい?」

「んー、無くなった。ま、どっかからか出てくるだろうから良いよ。オレこのまま走れるし」

「えぇ?一郎太君、よく探したの?」

「探したー。ま、ここにいても仕方ないからさ、行こ行こ」

 一郎太は三人の背を押しながら、何となくこれは誰かが間違えて持って行ったとか、そんなことでは無いと思った。

 少し、階段を降りる足が重くなる。

(…オレは大賢王の子孫だぞ。こんな事でへこたれると思うなよ)

 一郎太はフンっと荒い鼻息を飛ばした。

 その気になれば、上着だけ脱いで走ることもできる。この体にはたくさんの赤毛が生えているのだから破廉恥ではないだろう。

 一階に降りて更衣室に辿り着き、エルとロランが先に入る。

 一郎太は先の二人がナインズより先に中に入ったのに、扉を開けて待たないなんて少し不敬だなと思ったが、口にはしなかった。

 ナインズが扉を押さえようとすると、すぐにそれを変わる。

「キュー様、どうぞ」

「ありがと〜」

 こうしていることは当たり前だが、ナインズはいつでもお礼を言ってくれる。

 一郎太も最後に更衣室に入ると――中には一郎太の訓練用の服が泥水を滴らせて窓辺に置かれていた。

「――これ、一太のだ」

 ナインズがそれを手に取ると、ナインズの手が泥に汚れた。

「キュー様、汚れちゃいますよ。すみません」

 一郎太がすぐにナインズから服を取ると、ナインズは先に着替えをしていた男子達を睥睨した。その手を一郎太は急いで拭いた。

「これ、誰がやったの」

 誰も分からないようで首を振ったり、近くにいる子に知っているか尋ねたりした。

 その中に、リュカを見つけるとナインズはもう一度同じことを尋ねた。

「リュカ、これは誰がやったの」

「ごめんキュータ、俺たちもさっき来たから分かんない。それ、一郎太のだったの?誰のだろうって皆話してたんだぜ」

「そうだったんだね…。僕の一郎太の服、汚された」

「先に校庭に出てる奴らが知ってるかもしれないから、とにかく着替えて聞きに行こうぜ」

「うん。――一太、ごめんね。僕が<清潔(クリーン)>一つ使えないせいで、綺麗にしてあげられない……」

 <清潔(クリーン)>と言えば第一位階の魔法で、ゼロ位階の生活魔法とは比べ物にならない難易度だ。

「良いよ。キュー様は何も悪く無いから。気にしないで。オレこれ洗ってくる」

「一太……本当にごめんね。僕がこんななせいで……」

「平気!オレは制服で走れるし、本当にキュー様は気にしないで!」

 一郎太が更衣室の外に行くと、ナインズは手を握りしめた。

「……… 自分や誰かを守るためなら……力を使っても良い……」

 そのフラミーの言葉はナインズの心をとても軽くした。不思議と身軽だった。

「キュータ、私も<清潔(クリーン)>を使えなくて…ごめん……」

「キュータ君、僕も…」

 エルとロランに言われると、ナインズはすぐに首を振った。

「ううん。僕に力がないのがいけないんだ。エル、ロラン、ありがとう」

 そう答えると、空いているロッカーに制服のローブとカーディガンを投げ入れ、大急ぎで着替えを始めた。

 靴を脱いで放り込み、ズボンなど畳む間も惜しんでロッカーに押し込む。

 運動用に持たされたズボンと長袖のシャツを大急ぎで着込んだ。

 ぎゅうつく靴に足を押し込み、魔法のかかっていない靴の履きにくさに少しだけ苛立った。

「――くっ。この」

 何とか押し込むと慌てて紐を結ぶ。

 紐の結び方は何度か練習したが難しい。普段はメイド達がやってくれているのだ。

 手こずっているとエルがそっと解いて結び直してくれた。

「焦らないで、キュータ」

「エル、ありがとう。でも、ごめん!僕先に行くね!」

「あ、キュータ!」

「僕たちも行くよ!キュータ君!」

 ナインズはロッカーを叩くように閉めると更衣室を飛び出した。

 美しい黒い髪が揺れる。

 廊下にある水道で一郎太が服を洗っているのが見えた。

 先に着替えを済ませたリュカがズボンを洗うのを手伝ってくれていた。

「一太!一太ー!」

「ナ、キュー様?もう着替えたの?はっえー!」

 一郎太はどこか呑気にそんなことを言った。

「一太、それ貸して!」

「え?それって、服ですか?」

「そう!」

 一郎太はナインズが触れても汚れないように、もう少しごしごしと服を洗った。

 リュカもズボンをよく絞るとナインズに渡した。

「ほい、干すの?」

「乾かす。でも、ここじゃ乾かせない」

 ナインズの返答に、リュカは廊下を見渡し、確かにここでは干せないかと思った。

「一太も早く貸して」

「は、はい。すみません」

 一郎太は適当なところで洗うのをやめると、ギュッと絞ってナインズに服を渡した。

「行ってくる!!一太は待ってて!!」

「え!ナイ様!?」

 ナインズは駆け出し、リュカはナイサマ?と首を傾げた。

「リュカ、行くぞ!キュー様を追う!!」

「え、あぁ。そうだな」

 ナインズと一郎太はぐんぐんスピードを上げ、リュカは顔を真っ赤にしながらそれに追いつこうと走った。

 その後を着替えを済ませたエルとロランも追った。

 ナインズが校舎を出ると、何も知らないオリビア達がナインズに手を振った。

「キュータくーん!」

 いつもなら手を振りかえすが、ナインズは木の枝を探すのに必死だ。キョロキョロと当たりを見渡した。

「あれ?キュータ君聞こえなかったのかな?」

「聞こえましたでしょ?キュータさんー!こちらでしてよー!」

 レオネも声を上げる。ナインズはチラリと二人を見ると、軽く手を挙げてくれた。

「ほら、聞こえてるじゃありませんの」

「……なんで私のこと無視したんだろ」

 オリビアはむくれた。

 イシューがよしよしとオリビアの頭を撫でる。

「ま、キュータも何か忙しそうだからさ。ね?」

「それはそうだけど…」

 ナインズは本当に忙しそうだ。着替えも済ませていない一郎太と、着替えを済ませた他の男子が追って出てくると、枝を一本見つけて喜んだ。

「…男の子って本当ああいうのが好きなんですわねぇ」

「ふふ、なんかキュータ君可愛い」

 ナインズは枝を持って土のある場所まで出て来ると、まだ濡れる一郎太の服をもう一度よく絞り、広げ直してパンパンっと数度水を切った。

「おや〜?一郎太の服がびしょ濡れじゃないか。それじゃあ授業は無理だね。ミノタウロスの国に帰った方がいいんじゃないかい!」

 その声はカインのものだ。ナインズはカインを一度睨みつけたが、無視して服を肩に乗せた。

「キュー様!濡れますよ!」

 追いついた一郎太がナインズから服を取り返すと、ナインズは木の枝をズンっと地面に突き刺した。

「キュータ、そんな棒一本じゃ服は干せないぜ」

 リュカが言うが、ナインズはスッと息を吸った。

「――水の流れよ。L(ラーグ)

 ナインズは持つ枝で地面に水のルーンを刻んだ。刻まれた文字は金色に光っていた。

「――太陽の力よ。S(シゲル)

 二文字目が書き込まれると、一郎太はナインズが何をしようとしているのか悟る。

「キ、キュー様!良いよ!本当にオレ大丈夫だから!」

 ナインズはいくつもの丸と光の軌跡のような線を書き込んだ。それはまるで水が蒸発していくときの一瞬を切り取ったかのよう。

「――分離させろ!!O(オシラ)!!」

 最後に三文字目が刻まれ、ナインズは三文字を一つの丸で囲んだ。

 一郎太の手から濡れた服を奪い、魔法陣の中に放る。

 ガツンと枝で魔法陣を叩くと、陣はドッと輝き――すぐに何ごともなかったかのように光は消えた。

「――へ?」

「何?」

「何やったの?」

 ざわめくクラスメイトが寄ってくる中、ナインズは地面に置かれた一郎太の服を取った。

「一太、お着替えしておいで」

 パン、パン、とはたくと、乾いた土が服から落ちた。

「……ナイ――」

「僕はキュータだよ。さ、行っておいで。僕はここで待ってるから」

「――は、はい!キュー様!!」

 一郎太は乾いた服を手に取ると更衣室へ向かって走っていった。

「すげぇー!今のなんて言う魔法?キュータも神との接続できたんだ!」

 リュカが言うと、エルが呟く。

「違う…。位階魔法じゃない……」

「へ?じゃあなんなんすか?エル様」

「キュータ、君は位階魔法は使えないんだよね」

 ナインズは手に持っていた枝を放り捨てると頷いた。

「うん。僕はまだ位階魔法は使えないんだ」

 ロランがナインズの足下を覗き込む。

「これ、何?初めて見た。教科書に載ってる?」

 ナインズはルーンの魔法陣をサッと足で消した。それは見られることを危惧するよりも、ナインズの手を離れた後にも効果を宿していたりすると事故が起こる為だ。

「載ってるよ。最後の方に少しだけね。ルーン魔術ってやつ」

「……ルーン。神の生み出した文字……」と、エルが呟く。

「え?ルーンってそう言うのなんすか?聖典とかすごい冒険者が持ってる武器についてるって聞いた事がある気がするんですけど」

 リュカがエルに尋ねる中、ナインズは三人に背を向けた。

 まっすぐカインとチェーザレの下へ歩いて行った。

 ザリッと靴が音を立てて止まる。

 ナインズは自分に言い聞かせる。喧嘩をしてもいい。言いたいことを言っていい。誰かを守るために使う力は悪くない。

「お前達が僕の一郎太にあんな真似をしたのか」

「証拠は?僕達、別にそんな真似しないけど?なぁ、チェーザレ」

「そうですよねぇ?カイン様はそんなに暇じゃないんだよ」

「……濡れていた一郎太の服を……一目で一郎太の物だと分かったお前達以外に!誰が一郎太の服を汚したと言うんだ!!」

 ナインズの怒号が響くと、治癒室から女の神官が飛び出して来た。もともと授業で子供が転んだ時に回復できるよう出てくるつもりだったので反応が非常に早かった。

 授業の準備をしていた担任のバイスも何事かと走って来る。

「す、スズキ君!シュルツ君!何を争っているんだ!」

 ナインズはこいつの名前はカイン・シュルツかとカインを睨んだ。

「バイス先生、カイン・シュルツ君は一郎太の運動服を泥まみれにしました」

「な!なんて不――」と、女神官が言いかけると、ナインズは手を挙げてそれを遮った。

「一郎太の物の管理不足は僕の管理不足でもあります。ですが、故意に自分の従者にそんな真似をされては困ります」

「シュルツ君、この話は本当かな」

 カインは数度何かを言おうとするとふん、と顔を背けた。そして、その先の光景に口角を上げる。

「嘘だよ。だって、見てよ先生」

 カインが示した先には着替えを済ませた一郎太がいた。

「――あれのどこが泥まみれなの?とんだ濡れ衣だね」

「シュルツ、お前……どこまで卑しい奴なんだ」

「卑しい?僕はバハルス州ランゲ市の市長の子だ。その昔鮮血帝と呼ばれていたエル=ニクス様に粛清されなかった貴族の子なんだよ。言っておくけど、僕の名前はカイン・シュルツなんかじゃない。カイン・フックス・デイル・シュルツだ。称号の名前も持たない市井(しせい)の子に卑しいなんて言われたくないね」

「では人の上に立つだけの志の高さを見せてみろ!お前のやっていることは下劣だ!!僕の一郎太の一体何が気に入らない!!」

 女神官が頷く。バイスはカインの言う通り、確かに汚れていない一郎太の服とカインの様子に困り果てているようだった。

「別に。気に入らないなんて言ってやしない。君達こそ、僕の何がそんなに気に入らないんだい。昨日も池にいるだけの僕達に一郎太は怒鳴りつけて来たよね」

 そうなのかと教師がナインズを見る。

「スズキ君、本当かな?」

「本当です。ただ、それは一郎太に代わってもう謝っただろう。僕は君みたいに自分のやった事を隠したりしない。嘘もつかない。それが身分を持つ者の責任だ」

 その言い分は、生粋の武人であるコキュートスと、ナザリックでも一位二位を争う頭脳を持つパンドラズ・アクターからの気高い教えがナインズの中で脈動するようだった。それから、一応恐怖公の教え。

「ふーん。謝るって、許されるまで謝ったことにはならないんだけど?朝も一郎太は僕に絡んで来たしね」

 女神官が手元のメモに何かを書き付ける。

 ナインズはギリリと拳を握った。

「……じゃあ、もう一度謝ったら一郎太への嫌がらせはやめてくれるの」

「さあね。嫌がらせなんてしたことないから分からないよ」

 そうしていると、着替えの済んだ一郎太とエル達が来た。

「バイス先生、神官様!」

「――エルミナス君、一郎太君」

 女神官は教師が上位森妖精(ハイエルフ)のハーフに軽く頭を下げた様子に片眉を上げた。そして、その銀色の髪と尖った短い耳に納得した。ハーフでも耳の長さは大して変わらない子もいるが、この子の耳の長さはほとんど人と同じで、ナインズの黒髪の中に隠されるものと酷似していた。

「バイス先生、カイン君は一郎太をミノタウロスだから人を食べるとか、野蛮だとか、差別的な事を言うんです。私は朝聞きました」

「エ、エル様…!」カインが締め付けられたような声をあげた。

「エル様の言う通り。俺も聞いたぜ。こいつ、ずっとミノタウロスのこと悪く言ってんだ、先生」

「リュカ!お前だってミノタウロスの事に関しては相槌を打ってたくせに!!」

「だーかーらー、聞いてやってただけで一つも賛成はしてないだろ」

「…っく!そもそもスズキと一郎太がエル様にまとわり付いているのが悪いんだ!皆エル様には色々聞きたいんだよ!!」

「聞けば良いよ。僕達は別にそれを邪魔しようなんて思ってない」

 そう言いながら、ナインズは一郎太にまだ少し付いている土を叩いて落としてやった。

「思ってなくても邪魔なんだよ!エル様に魔法教えてもらって使えるようになったお前達が、エル様のこと利用しようと思ってるのなんて分かってんだ!!」

「僕は確かに昨日エルに魔法を教えてもらった。でも、それはエルを利用しようなんて魂胆じゃない。僕達は――友達なんだよ。だから助けを求めたんだ」

 エルは嬉しそうに頷いた。

「キュータのおかげで、私は本当に学校が楽しいよ。いつでも何でも聞いて欲しい」

「ありがとう、エル」

 バイスは子供達のやりとりを見て安堵にも似たため息を吐いた。

「ふぅ…。シュルツ君、エルミナス君とお話をしたかったら、まずはお友達にならないといけないね。じゃあ、皆仲直りできるかな」

 ナインズは即座に首を左右に振った。

「シュルツが罪を認めないと、それはできない」

「スズキ君…そう言わずに…。一郎太君の服は確かに少し砂が付いてるところもあるけど、そんなに汚れていないんだから。それに、やってないって言ってる人を罪人みたいに決めつけちゃいけない」

「バイス先生。これはひどく泥まみれだったのを洗って乾かしたんです。先生が僕を信じてくれないのは、僕がキュータ・スズキだからですか」

 ナインズがまっすぐバイスを見つめると、バイスは首を振った。女神官もバイスをじっと見ていた。

「違うよ、スズキ君。先生は君に意地悪したいから言ってるんじゃない。先生は皆が大好きなんだよ?だからね、絶対にそうだと思ったとしても、事実何か悪い事をしたところを見ていないなら、罪人だなんて決めつけちゃあいけないんだ」

 納得いかなかった。

 絶対に犯人はこいつなのに。

「……僕は僕の下にいる者を護らなくちゃなりません。一郎太の事は僕が一郎太の父と僕の父から任されているんです。このままで済ませることはできません」

 バイスは困ったなぁ…と頭をかいた。やったやってないの水掛け論に加え、証拠はなし。汚れもなし。打つ手なしだ。

 一方、ここまでじっと話を聞いていた一郎太は少し照れ臭そうに笑った。

「キュー様、良いよ。ありがとう。オレはそう言って貰えただけで十分」

「――ほら、一郎太君もこう言ってるんだから」

 バイスがここぞとばかりに一郎太の言葉に乗る。

 ナインズは悔しそうに一度目を瞑った。

 あんな奴本気を出せば殺せる。圧倒的優位な絶対者は――ナインズだ。

 ナインズは葛藤した。

 本当に嫌だと思ったら殺せる。いつだって殺せる。

 だが――

「一太……解決できない僕を許してね」

 刃物を持たされ、いつでも治療できる、医療費はいくらでも出すと親に言われて、本当に人を刺せる子供はいない。

 だが、何かがあったときに、両親は絶対に自分の味方だと知っていると言うのは、子供にとってこれ以上ないほど重要な事だ。

 一郎太は破顔した。

「当たり前ですよ!オレはキュー様のために生まれてきたんだから!!」

「ありがとう。一太は僕の大切な兄弟だよ」

「へへ、帰ったら二の丸に自慢してやろっと」

 二人が抱き合い、背を叩き合うと女神官はぐすん、と涙した。

「――さぁ、じゃあシュルツ君も謝って」

「なんでですか。やってないのに」

「泥まみれにした云々はやってないかもしれないけど、一郎太君を悪く言ったことは確かなんだろう。謝りなさい」

 カインは実に忌々しげな顔をすると「ごめん」と一言言った。

「……わかったよ。許してやるよ」

 一郎太が言い、バイスはナインズにも何か答えを求めるように視線を送った。

「僕は許さない。二度とするな。次はないと思え」

「スズキ君!またそう言う事を言って!」

 ナインズはこの先生は嫌な奴だと思った。

「スズキ君も疑った事謝って」

「……ごめんなさい。だけど、僕が<魅了(チャーム)>か<支配(ドミネート)>を使えるようになったら、君にそれをかけて今日の日のことを問いただす。それだけは覚えておいて」

 バイスはほとほと困り果てたとばかりにパチン、と自分の額を叩いた。

「使えるようになんかなるか。第四位階だぞ」

「なるさ。僕を見くびるな」

 二人はバチバチと視線を交わすとフンっと顔を背けあった。

「……はぁ。今日の事を知ってる子がいたり、自分がやったと言う子がいたら後で先生のところに来る様に。じゃあ授業始めるぞー。神官様、ご心配をおかけしました」

「いいえ。ですが、どの子にも平等に願いますよ」

「当然です」

 女神官はメモをローブのポケットにしまうとその場で皆を――ナインズを見守った。

 ナインズとカインの間の雰囲気は最悪だ。遠巻きに眺めていた生徒達が続々とバイスの周りに集まりだす。

 バイスは一度「おほん」と咳払いをした。

「今日は足の速さを計ります。誰かと競うためではなく、定期的にタイムを計って、体がちゃんと成長しているのか確かめるのが目的です。それから、生まれ持った異能(タレント)の発現を確認すると言う、他の授業にも共通する課題もあります。じゃあ、まずは準備体操からしよう。先生の真似をして!」

 バイスが飛び跳ね始めると、一郎太はエルとロランに告げる。

「な!準備体操って、大賢王が言い始めたんだぜ!」

「へぇ!医学、だっけ?医学が発達してるだけあるね!」

 エルが言うと、近くから不愉快な声が聞こえた。

「何が大賢王だよ。口だけの賢者が」

 ナインズはすぐにそちらへ喧嘩腰な視線を送った。当然その視線の先にいるのはカインだ。

 飛ぶたびにピアスと髪が揺れる。

「――あれ?キュータ君って、耳が……?」

 そうロランが飛びながらナインズを覗き込む。ナインズは頷いた。

「あ、うん。エルとお揃いだよ」

「え?」

 エルも飛ぶナインズを見ると、その耳はチョンと尖っていた。ジャンプする度に髪の毛が揺れ、微かに尖った耳が見え隠れしている。

「……キュータ、君ってもしかして――」

「そこー!お喋りしないでちゃんと先生のやり方見てー!」

 四人は慌ててバイスを見た。

 一通り準備体操を済ませると、バイスは喧嘩騒ぎの前につけておいた線の上に移動した。

「では、ここからあっちの線まで一人づつ走ってもらいます。先生が向こうで旗を下ろしたらスタートだからね。誰から走るかな?」

「はーい!はいはい!オレ走る!」

 一郎太が目一杯手を挙げると、バイスは嬉しそうに頷いた。

「よし、一郎太がトップバッターだ!じゃあ、そっちからね」

「はーい!へへ、最速タイムで走ってやる!」

「一太、頑張ってね」

 ナインズと一郎太は拳をコツン、とぶつけ合った。

 バイスが指さした線の前につくと、一郎太は両手を地面につけ、蹄で数度土を掘った。蹴り込む足が引っ掛かるところを作ったのだ。そして、腰を低くしてフッ――と息を吐いた。

「おー、ミノタウロスはそう言うスタートなのか。面白いな!よし、用意!!」

 グッと腰を上げ「――っドン!!」

 一郎太は先生が旗を下ろすと同時に駆け出した。

「<能力向上>!!」

 吐き捨てた途端、ただでさえ速い一郎太の足は一気にスピードを上げた。

 あっという間にゴールすると、先生は自分の懐中時計と、タイム測定用の一秒を四分割して表示してくれる一秒時計を手に慌ててタイムを確認した。ちなみにどちらもマジックアイテムだ。

「さ、三秒半……」

「いえーい!」

 やったやったと喜ぶ一郎太が、スゲー!と声を上げる子供達の輪の中に戻ろうとすると、その首根っこはむんずと掴まれた。

「すごいけども!一郎太、武技を使ったらダメに決まってるでしょうが!」

「え、えぇ?なんで?自分の出せる一番速い方法で走るんじゃないの?」

「武技や魔法使ったら、お前が他のミノタウロスに比べて遅いか速いか分からないだろ。これは自分の体の成長がきちんと行われているのか確認する作業でもあるんだから。いいね!」

「ちぇ。分かりましたー。もっかい走るかぁ」

「ほら、早く向こうに戻って」

 見ていた生徒達がおかしそうに笑い声を上げた。

「ははは!一太、頑張れー!」

 一郎太は笑うナインズにピースサインを送り、再び位置に着いた。

「じゃあ、もう一回。用意……――ドンっ!!」

 思い切り地を蹴り駆け出す。走ると蹄に伝わって来る感触が気分を盛り上げる。

 一郎太は大歓声の中走り切った。あっという間だった。

「――四秒半!一郎太君、すごいぞ!武技なんか使わなくてもミノタウロスの平均よりよっぽど速いじゃないか!」

 先生はバインダーを手に一郎太のタイムを書き込んだ。ちなみに、授業が始まる前に種族ごとの平均タイムはきちんと一覧表に取りまとめてきている。

「やりー!」

「うーん、本当にすごいタイムだなぁ!じゃあ、そっちで座って待っててね。――次!誰が走る!」

「「はい!」」

 二人の声が重なる。

 ナインズとチェーザレのものだった。

「…先に走っていいよ」

 ナインズは走者を譲ってやると、チェーザレを観察した。

 外の人間は弱いと言われているし、クラリスやサラトニクは弱くてか弱いから大切にそっと優しくしてあげなければならない。

 同じ歳の男の子とはどれ程のものだろうか。

 チェーザレが位置につく。

「クライン君からだね。ちなみに、先に言っておくけど皆の歳の人間は十一秒半が平均だからね。さ、位置に着いて。――用意!………――ドンっ!」

 旗が下がるとチェーザレは駆け出した。

「チェーザレ!いけ!一郎太なんかに負けたら承知しないぞ!!」

 カインが何か馬鹿げた事を言っている。

 チェーザレの動きは、一郎太に比べてずっと遅かったが、足には自信があるらしい。

「――チェーザレ・クライン君、十と四分の一秒!」

 それを聞くと、レオネが呟く。

「遅いですわね?それともまあまあ?」

 ナインズも遅いと言いたかったが、レオネに振り返った。

「平均は十一秒だって言うんだから、チェーザレもよく走ったよ」

「それもそうですわね。でも、キュータさんはあの子とカインさんは嫌いなんだと思っていましたわ」

「好きじゃないし許さないけど、よく走ったのは本当だから」

 オリビアがナインズの頭を撫でる。

「キュータ君、次走るんだよね。がんばってね」

「ありがと、オリビア!」

 次の子ーと先生が呼び、ナインズは位置に着いた。体は準備運動をして十分に温まっている。一郎太の使った穴に足を当て、両手を地面につく。

「用意!」と同時に尻を上げ「――ドンっ!!」で駆け出した。

 魔法のかかっていない靴ではあまり走った事はないが、ナインズは早かった。

 平均より早かったチェーザレと比べても抜群に早い。生徒達が感嘆を漏らす。

 タイムは――「ろ、六秒半!?今まで一年生は一番速くて八秒台だったのに……」

 クラスの皆が歓声をあげてくれる。ナインズはごしりと額の汗を拭った。

「はは、よ、良かったぁ」

「キュー様!速かったぜぇ!」

 一郎太の隣に座るとナインズは笑った。

「ふふ。ありがと。一太には敵わなかったけどね」

「一桁だからお揃いお揃い」

 軽く息を整えていると、カインが「先生ー」と声を上げた。

「スズキは魔法の装備を着けてるから速いんだと思いまーす」

 ナインズの耳にはフラミーの耳飾りの下位互換、模倣品のピアスが輝く。

 防御力アップ、魔法の会心(クリティカル)率アップ、回復魔法の効果アップ、魔力回復速度アップ、水属性への耐性アップ、特殊技術(スキル)強化――などなど。

 この世界ではあり得ない程の能力がある一品だが、速度上昇はない。

「これに足を速くする効果はないよ」

「分かんないだろ。本当にそうなら、魔法の装備は外して走れよ!」

 ナインズは無言でピアスを外して一郎太に渡した。それのあまりの美しさに、近くにいたチェーザレが一郎太の手の中を覗き込んだ。

「もう一回走る」

 また位置に戻ろうとすると、ヤジが飛ぶ。

「――その腕輪だって魔法の装備なんだろ!」

 ナインズは封印の腕輪に視線を落とした。

「これは外せない」

「外せよ!ズル!!」

「外せないんだ。だけど、これにそう言う力はないはずだよ」

「ないのに何で外せないんだよ!嘘つき!あ、お前は僕たちを悪者扱いする嘘もついたもんな!!」

 バイスが「やめなさい!!」と大声を張る。

「シュルツ君!さっき先生がスズキ君に言ったことを聞いてなかったのか!事実確認ができていない事で人を責めちゃいけません!!」

 ナインズはこの教師は悪い人ではない気がした。ナインズがキュータだからさっきは意地悪されたのかと思ったが、この人の言い分は誰に対しても本当に同じなのかもしれない。

 なのに、特別扱いされない事に腹を立ててしまった。

 ナインズは少し自分を恥じた。

「事実かどうかわかるように外して走れば良いじゃん!」

「ちょっと!カイン君、意地悪よ!キュータ君は嘘なんてつかないのに!」

「………疑わしきは罰せず」

 オリビアとアナ=マリアが横から口を出し、そうだそうだとエル達も言ってくれる。

 ナインズはカインの方へ向かった。

「――あ!スズキ君!良いから、君のタイムはさっきのにするから!!」

 先生が何かを言っているが、そう言う問題ではない。

 ナインズはカインを見下ろすと、小さな声で呟いた。

「ごめん」

「――は?」

「ごめん。さっき君のこと疑って、ごめん。疑われるってこんなに気分が悪いんだね」

「は、はは。何だお前。僕に今更取り入ろうとしたって、その腕輪で早く走った事は許さないぞ」

「この腕輪は本当に関係がないんだよ。でも、僕も君をまだ疑ってるから、君が僕を信じてくれなくても良いよ」

 ナインズは言うべきことは言ったと走り終わった子供の集まる、走るレーンの反対側へ戻って行った。一度外したピアスを一郎太から返してもらい、耳に戻す。

 そこで、女神官がわざとらしく咳払いをした。

「んっんん。私が魔法で腕輪の効果を見ましょう。それで良いですね」

 生徒達はそれが良いと声を上げる。

 女神官はナインズの前で膝をつき、初めて触れる玉体を前に手が少し震えた。

「し、失礼いたします。<道具上位鑑定(オール・アプレイザル・マジックアイテム)>」

 元から神官はこの腕輪の効果を知っている。

 この世には魔法は全部で三つ。

 一つ目は神がもたらした位階魔法。広く全ての生き物が魔法を扱えるようにした圧倒的恵み。

 二つ目は神の文字、ルーン魔術。限りなく魔力消費が少ない魔法。これまではエンチャント専用だと思われていた。

 最後に――、始原の魔法と呼ばれる魂の魔法。絶大な力を持つそれは、世界最強とも謳われる竜王達だけが使う事を許されていると言う。普通の生き物には決して許されない頂。

 ナインズのこの抑制の腕輪は、ナインズの持つ大きすぎる力を抑えるためにあると大神殿より聞かされている。決してナインズから外させてはいけない。

「――はい。ありがとうございました。こちらは足の速さを上げるような物ではありません」

 女神官の通達に、皆がほらぁー!とカインに言った。バイスも頷く。

「神官さん…ありがとう…」

 ナインズが言うと、女神官は光栄さに胸がいっぱいになり、小声で告げた。

「当然のことでございます。ご安心ください。我々はいつでも御身の味方でございます」

 女神官がナインズのそばを離れると、バイスが手を叩いた。

「さ!じゃあ、次は誰が走るのかな!」

「「「「はーい!」」」」

 続々と子供達が走っていく。

 エルは割と背が高いので、走るのが苦手な割には早かった。

 ロランはエルと同じくらいの背丈だが、平均より少し遅かった。

 リュカは全身で走り、ナインズの次に速かった。八秒台だ。

 オオサンショウウオのキングは一番遅かったが、彼なりに納得のいく結果だったのか嬉しそうに尻尾を振った。

 イタチのチョッキーはちょこちょことものすごい勢いで走った。ナインズよりも早く、一郎太には少し届かなかった。

 レオネは平均より少し遅かった。二つ結びの髪がたくさん跳ねていた。

 イシューは女の子の中で一番速かった。身軽な体は鹿のようだった。

 アナ=マリアは意外にもぴったり平均速度。

 オリビアは長いまっすぐな髪を一つにくくってから走った。平均より少し速かった。

 切り揃えられたオリビアの前髪が汗でぺたりと額に張り付く。

「オリビア、速かったね」

「あ、き、キュータ君。はぁ、ふぅ。ありがとう!」オリビアは急いで額の汗を袖で拭った。「恥ずかしいな。なんだか」

 前髪を整え直していると、ナインズはそこを撫でた。

「あ、き、汚いよ…」

「汚くないよ。オリビアはいつでも綺麗だもん。頑張ったね」

「……ふへ」

 オリビアは顔を赤くして少しおかしな笑い声を漏らした。

 ナインズは帰ったらアルメリアの足の速さを計ろうと思った。

 どんどん子供達が走っていく中、最後に残ったのはカインだった。どこかもじもじしている。

「じゃあ、シュルツ君も位置に着いて!」

 カインは線の前に立つと、一度ナインズを睨み付けてから正面を見た。

「用意!――ドン!!」

 カインは必死に走った。ゴールがいつまで経っても近付かない。

(く、くそー!!)

 彼は運動が得意ではない――と思っている。ごくごく平均的な男の子だった。

 だが、両親は厳しく、平均的なカインを許してくれるような人たちではなかった。

 バハルス州の幼児塾に通っていた時、母は「絶対に市長になれ」と言ったが父は「お前は市長じゃないものになる道もある」と言っていた。父の言葉はまるでカインでは市長が務まらないと言う見放しのように聞こえた。市長は死者の大魔法使い(エルダーリッチ)様や弟に任せることもできるとも言っていた。辛かった。不出来なせいで何者にもなれないかもしれないと思うと、恐ろしかった。

 母はいつもなんでもトップを取れとカインに言う。そうしなければ本当に父の言うように市長になれない事になると何度言われたかわからない。

 父にどうしたら市長になれるか聞いた時、父の子供の頃の話をしてくれた。特に、子供の頃に影響を受けたエル=ニクスの話を。

 父はエル=ニクスより数個年上だが、子供の頃にカインの祖父に連れられて舞踏会に行くたびにエル=ニクスの素晴らしさを感じていたらしい。年下ながら、たくさんのことをエル=ニクスに習い、いくつも成長させてもらったと言っていた。

 エル=ニクス様はこんなにお小さい頃からいつか自分が皇帝となり民を束ねていくと言う覚悟をお持ちだった。人の上に立つと言うことの真の意味を理解しているお方だった、それを何度も教えられたと、そう言っていた。

 ――そして、神都第一小学校に神の子、ナインズ・ウール・ゴウンが通うと言う噂を母が聞き付けた。

 親の側を離れ、人を束ねる人を見て学んではどうかと勧めてくれ、父も快諾してくれた。

 何でも平均的なカインでも、殿下のお側で過ごせたら何かが変わるかもしれないと、カインは胸を躍らせた。

 そして入学式の日、エルを見た時感嘆した。

 聞きしに勝る美しい銀色の髪と、端麗な容姿。誰にでも優しく、低い物腰と大人びた言葉。

 この人がそうなのかもしれないと思った。カインを成長させてくれる運命の人。

 その想像は、魔法を容易く扱う姿や、美術の時間にあのティエール家の令嬢に話しかけられた事、入学式の挨拶の時最神官長が何度もエルの方を見ていた事から確信へと変化していった。

(僕だって……僕だって……!!)

 あんな邪魔な二人がいなければ、エルと仲良くなれたのに。

 悔しかった。悔しくてたまらなかった。

 二人が帰ったらエルに話しかけようと思って池で遠巻きに見ていたら、ミノタウロスに怒鳴られた。

 ミノタウロスなんか大嫌いだ。神の国に入ることを許されない野蛮人だ。

 駆け抜けたカインは、その場で膝を付き、吐きそうなほどに何度も呼吸をした。

「はぁ!はぁ!!はぁ!!」

 四秒は無理かもしれない。だが、六秒は――いや、七秒は出たんじゃないか。

 期待と希望を込めてバイスを見上げた。

「シュルツ君、十と四分の三秒!」

 その答えはカインには残酷だった。

 人間種で一番速かったキュータを皆が褒めそやしている。男子はどうやったらそんなに早くなるのとか、女子はキュータ君素敵だったとか。中には魔法も使えるようなのに足も速いなんて憧れるとか。

 足が速いくらいでなんだ。

 一郎太の服を乾かした魔法も、本当にキュータが使ったかなんてわからないじゃないか。

 僕だって、一生懸命走ったのに。

 そんな感情はカインの目元を熱くした。

「――シュルツ、よく走ったね」

 ふと、そんな声にカインは自らに影を落とした者を見上げた。

「……な、なんだよ…。笑いに来たのかよ」

「ううん。一太を悪く言う君のことは嫌いだけど、頑張って走ってたから」

「……そうかよ」

 カインの下へチェーザレが駆けてくると、キュータはその側を離れた。

「カイン様、あいつなんか言ったんですか?」

「……別に」そう答えながら、何となく言葉が口をついた。「――チェーザレ、お前よく走ったね。頑張って走ってたよ」

「は、はは。そうですか?」

 

 カインの心は何故だか少し軽くなった。




カイン君、毒親持ち臭がしる…
死なないで良かったね…
ちょっかい出したのが一郎太だったのは命拾いだ…

次回Lesson#7 封印と抑制
相変わらず明後日21日ですぜ!
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