春。
ようやく暖かな風が吹き始めた頃。
入学したばかりのマァル・シマジ・アブトロメは一つの空席を今日もぼうっと眺めていた。
担任のパースパリーが板書する音が響く。
(殿下は……今日もお休みかー)
入学式から数日が経つが、噂の少女が登校して来ることはなかった。
噂に聞く殿下の護衛を務めていると言う赤毛のミノタウロスと、ザイトルクワエ州の守護神の娘は毎日二人で登校して来ているのに。
公務が忙しいのかもしれない。
つまんないな、とマァルは息を吐いた。
すると、隣に座る幼児塾の頃から友達のユリヤも同時に溜息を吐いた。
二人は目を見合わせ、同じことを考えていた様子に苦笑する。
きっと、元から神都に暮らしているマァルやユリヤよりも、他の都市から来ている子達の方が溜息を吐きたいに違いないが、そういう子達の生まれや育ちは高貴なことが大半なので残念げな姿は見せていない。
彼らは殿下と同じ場所で学べる――同じクラスになるかは博打だが――と期待して皆親元を離れて暮らしているのに、親に送る手紙は多分毎日「今日も殿下はお忙しくていらっしゃいませんでした」だろう。
特に、同じクラスになったみたいだと思えば思うほど、手が届きそうなので悔しさが増す。
ただ「殿下に会いたいのに」というフラストレーションをうまく発散してくれている子がクラスには三人もいる。
一人目はザイトルクワエ州の守護神セバス・チャンの愛娘のクリス・チャン。
優しく、品性もあり、男女共にとても人気がある。
ほとんどの子供達と同じ金髪碧眼は何となく彼女が身近な存在に感じるし、彼女自身の性格も親しみやすいものだ。
二人目は二郎丸。ナインズ殿下の護衛だと言う一郎太とよく似ているし、彼がこのクラスに来るはずのアルメリア殿下の護衛だと言う事は疑いようがない。
彼の男子からの人気はすごく、休み時間には組手をしていたりする。体育の時には毎回クリスと揃ってトップの成績だ。
そして、最後。三人目は同じクラスにいるサラトニク・ルーン・ファールーラー・エル=ニクス。
彼は驚愕する程に品のある少年で、多くの友人に常に囲まれていた。前者二名といつも一緒にいて、女子からしょっちゅう声をかけられている。
マァルもユリヤも憧れずにはいられない男の子だ。多分、サラトニクで初恋を経験した女子がクラスには何人もいる。マァルも例に漏れず、そのうちの一人だ。初めてのレディ扱いにこの人といると自分が特別な存在になったと思えてならない。
ちなみに、彼は寮住まいではなく、神都に大きな屋敷を一つ借りて執事のエンデカやメイド、何人ものコック、庭師のカーディオと暮らしている。
よく実家を離れている子達を誘ってホームサロンを開いている。わかりやすく言えば、知的交流会だ。
神都生まれだが、マァルもユリヤと一緒に何度か誘ってもらった。
実家を離れている子達は貴族上がりが多いので、その時には皆素敵に着飾って来ていて驚いた。単なるお遊びの集まりだと思いきや、ホームパーティーと言う側面を持った集まりだったわけだ。
初めて誘ってもらえた時には制服のまま行ってしまって恥ずかしかったくらい。
マァルは特別良い家柄というわけでもなく、両親はただの靴屋だ。
靴だけは誰よりも素敵なものを履いている自負があるが、あれには驚かされた。
皆サロンが開かれるたびに違う服を着て来ているのがまたすごい。
ただ、今日開かれると言うサロンの招待状には「制服でいらして下さい」と書かれていた。
マァルとユリヤはこれならばと遊びに行くつもりでいる。
殿下も忙しくて登校できない中、クラスの一番の関心ごとはサラトニクの知的交流サロンと言っても過言ではないかもしれない。
マァルは担任のパースパリーが黒板を見やすいように翼をだらりと垂らしている様子に、殿下もああ言う翼があるのかなぁと想像の翼を広げた。
殆ど情報のない、神秘に包まれた少女。
あぁ、マァルにも話せる日が来るだろうか。
そうしていると、チャイムが鳴り昼食の時間になった。
マァルはろくに聞いていなかった授業の片付けをし、ユリヤと二人でロッカーに荷物をしまった。
振り返ると、サラトニクの周りにはたくさんの女の子。二郎丸の周りにはたくさんの男の子。
あの女子の輪の中に入る自信は――あまりない。
「マァル、ご飯行こぉ」
隣でロッカーを閉めたユリヤに言われ、マァルはすぐに頷いた。
「うん!行こ!」
二人で賑やかな教室を出ようとすると、ふとクラスがいつもと違う騒めきに包まれた。
何だろうと思っていると、短い角の生えたミノタウロスがクラスの入り口に立っていた。
「一郎太兄様。如何なさいましたか?」
「サラ、ごめん。二の丸とクリス呼んでもらって良いか?」
「お待ちください」
大勢の女の子に囲まれていたサラトニクが窓際に向かって行く。
こちらは大勢の男の子に囲まれている。
「丸君、兄上が来ているよ。クリス君も呼ばれてる」
「――え?いち兄?」
「――あれ?どうされたんでしょう?」
マァルは二人が手を振るお兄さんミノタウロスの下へ駆けるのを見送った。
クラスの者達は何となく耳を澄ませていた。
「二の丸、クリス。今日サラの家に行く前にナザリック寄ってもらって良い?」
「――うん、分かったぁ」
「悪いね。オレが行くより二人の方が嬉しいだろ」
「お任せください!私達の仕事です!」
「ありがと。キュー様にはそう伝えとくよ。そんじゃなぁ」
一郎太はひらりと手を振って出て行った。
ああ言うワイルドな雰囲気の男の子は一年生の男子にはいない。
「なんかさ、なんかさ、格好いいよねぇ」
ユリヤがうっとりと一郎太を見送り、マァルも頷く。
「人の男の子とは違う感じするよね」
二人は良いものを見られたと教室を後にした。
廊下の向こうにはまだ一郎太が歩いている。
大きく見える背中を追うように歩いていると――彼を待つように壁に寄りかかっていた男の子の存在に二人は立ち止まった。
「――一太、二の丸達は良いって?」
「良いそうですよ。でも、キュー様が行くのが一番良い気がするなぁ」
「僕が行くと、そのまま行かないでになっちゃうでしょ」
「あ、そっか。はは、ほんとですね」
二人は笑って学食の方へ向かって行った。
マァルとユリヤは「今のって……」と顔を合わせた。
美しい長い銀色の髪、隠されるべき尊き面。
青い模様のついたローブは三年生の証。
ちなみに一年生は紫で、二年生は赤。前述の通り三年生が青で、四年生は白、五年生は黄、六年生は緑と行った具合だ。
「今のってナインズ殿下だよね?」
「すごぉい。声聞けちゃったねぇ!」
姿を見掛ける事はあるが、声を聴いたのは初めてだった。
今日はなんて付いている日だろう。
二人は上機嫌で昼食を取った。
「ユリヤの今日の髪かわいいね!」
マァルが言うと、正面で食事を取っていたユリヤは嬉しそうに目を細めた。
いつもふたつに結ばれているだけの髪の毛は、今日は三つ編みにしてあり、可愛い花のついた髪留めをしていた。
「えへへ。お母さんが朝やってくれたんだぁ」
「私もお母さんに何かやって貰えばよかったなー」
くりんくりんと弄ぶ茶髪はゆるい天然パーマがかかっていて、肩に触れるくらいしか長さがない。
「私がマァルの髪結んであげようかぁ」
「良いの!」
「うん!教室戻ったらしてあげる!」
二人は食事を終えると、食器を下げて教室に戻った。
ユリヤが髪に丁寧に櫛を通し、マァルはくん、くん、と髪を後ろに軽く引っ張られる感触に鼻歌を歌った。
完成した頭をユリヤの手鏡で見ると、いくつもぴんぴん髪が跳ねていたが、何もしないより素敵に見えた。
ユリヤのおさげとお揃いだ。
「わぁー!ユリヤありがと!」
「えへへ、マァルの癖っ毛って本当にかわいいねぇ」
「そ、そっかな〜!」
マァルが少し顔を赤くして髪に触れていると、横からビッとお下げを引っ張られた。
「っいた!!」
「マァル!お前女みたいな頭して似合わねーの!」
おさげを掴む手を叩いて振り返ると、幼児塾の頃から嫌いな男子、ジェニ・フーゴ・ヘルツォークが立っていた。
「うるさい!あっち行ってよ!」
「やーい、ブースブスブス」
「嫌い!ジェニなんか大嫌い!」
どうせ可愛い格好なんか似合わないと分かっている。
悔しくて手に付いた筆箱でジェニを叩き始めると、泣きたい気持ちでいっぱいになり、マァルは唇を震わせた。
すると、トン、と手が肩に乗った。
「マァル君、可愛いよ」
振り返ると、サラトニクが微笑んでいた。
「え、エル=ニクス君……」
「今日のサロンのためにお洒落してくれたの?」
「う、うん。そうなの……」
「ありがとう。嬉しいよ」
サラトニクはそれだけ言うと教壇の前の自分の席に戻って行ってしまった。
マァルは大好きだと書いた手紙を渡そうかと思ってしまった。文字通り恋する乙女の顔でサラトニクを見送ると、「へへ」と声を漏らしてユリヤの隣に座り直した。
「ブスなのに。サラトニクはおかしい」
ジェニが言うが、もう無視する事にした。
「良いなぁ。マァル」
「へへ、へへへ。エル=ニクス君って本当可愛いのに格好良いよね」
「うん!私ね、エル=ニクス君と二郎丸君と一郎太さんと、後他に三人好きな人がいるんだぁ」
ユリヤが楽しげに言うと、マァルも「私もぉ」と顔をふにゃふにゃにした。
女の子の話題はいつでも可愛いものと好きなものばかり。
マァルは授業が始まると、今日のサロンでサラトニクに渡す手紙を書いた。
手紙はとても拙い字で――
かわいいって言ってくれてありがと。
エル=ニサラトニクくんもかわいいよ。
またあそぼうね。
――と書かれていた。
これをサロンで渡すと決め、マァルは授業が終わるのを待った。
そして、念願のチャイムが鳴り、皆でお祈りと聖歌を歌うと子供達は帰り始めた。
クラスの皆が今日のサロンに呼ばれているので、ぞろぞろと足並みを揃えてクラスを後にした。もちろん、何人かは用事があったり、習い事に行かなくてはいけないので人数はクラスのおよそ半分くらいだ。
それに、お土産を買ってから行くからと言って列を離れて行く子もいる。
サロンは開始時間と終了時間が決められているが、好きな時に行って好きな時に帰って良い不思議な集まりだ。
大神殿の方角に向かい、大きなお屋敷ばかりの建ち並ぶ通りに入る。
マァルはポケットの中で大切な手紙に触れた。
先頭を歩くサラトニクは、歩くのが遅い
硬い石を体の中にストックするので、大人になって臓器が硬く丈夫になるまではこんな風にゆっくり動く事で体を守っているらしい。
シャハロはいつもは地元が同じアベリオン丘陵である、仲良しの
担任のパースパリーも体の小さな子達には手を貸してあげるようにとよく言っている。
「ねぇねぇ。マァルは今日お土産持ってきたぁ?」
「ん?うん!何かね、靴に塗るやつ持たされたよ!」
マァルはお菓子はたくさん貰うだろうと両親が工夫した結果、靴クリームを持たされていた。これならいくらあっても困らないはずと。だが、お菓子だっていくつあっても困らないだろう。
「そうなんだぁ。私、クッキーだけど平気かなぁ……」
「わぁ!それが一番良いよ!私も食べたい!」
ユリヤはマァルの言葉に嬉しそうに笑いあった。
そうして、辿り着いたのはすごいお屋敷だ。
たくさんの花が咲く前庭では庭師がミツバチ達と一緒に花同士の花粉を付けてやっている。
サラトニクの帰宅に気が付くと丁寧に頭を下げていた。
家の中を案内され、教室よりも広いような絢爛な部屋に通される。大きなガラス窓の向こうは庭の花畑だ。何台もソファや椅子が出されていて、座りきれなければいつでも庭にも出られる。
社交会というわけではないので、踊ったり形式ばった挨拶をする事はない。
ただ、土産を持ってきた者は執事に渡すし、サラトニクと執事にきちんと「お邪魔します」と挨拶した。
執事はお土産のお菓子をすぐに出してくれた。
ジュースを飲んだり、お菓子を食べたり、本を眺めたり、床を掃除する
あるグループは誰かの詩の朗読を聞いたり、またあるグループは最近大神殿に
知的交流会と言うのはすごいものだ。
こんな事をしている人は神都中を探してもサラトニク以外に聞いたことはない。
マァルとユリヤは床に座り、サラトニクが話す難しい話に相槌を打った。
話の中身にはあまり興味はないが、サラトニクを正面から眺めていても良い時間は貴重だ。
サラトニクのいる輪には女の子の比率が高いが、男の子もいる。中には三年生にお兄さんがいる男の子もいて、その子などはとても熱心にサラトニクの話を聞いてメモを取っているくらいだ。名前はクロード・フックス・デイル・シュルツ。
サラトニクの一番の友達はクロードかもしれない。
今度劇を見に行こうとサラトニクが言っていると、執事がそっと近寄り、何かを耳打ちした。
「――皆、ごめんね。私はちょっと。すぐに戻るね」
サラトニクが部屋を出て行ってしまうと、女の子達は残念そうに息を吐いた。クロードも残念げだ。
だが、本当にサラトニクはすぐに戻った。
その後ろには――短い角の生えた赤毛のミノタウロスと、仮面の少年。
派手な二人の入室に気がつくと、皆立ち上がった。
「皆楽にしてくれて構わないよ。座ってお喋りしてね」
仮面の君からの通達に皆、恐る恐る座った。
「――サラ、いつもありがとう」
「いえ。ナインズ兄様。私にできるのはこれくらいの事です」
「謙遜しないで。僕にはできない事だよ。君がいてくれて良かった」
「……うまく行くでしょうか」
「分からないけど、うまく行くって思いたいね」
「……不安です。問題のないサロンになったとは思いますが……」
「サラがそう言うなら、そうなんだよ。さぁ、もう少しで着くと思うよ」
一体誰が。
そう思っていると、仮面の君はミノタウロスと共に手近なソファに掛けて執事を呼び止めた。
「エンデカ。ごめんね。大変でしょ」
「いえいえ。ご支援も頂いておりますし、ジルクニフ様よりやり遂げろと申しつかっておりますので」
「ありがとね」
「とんでもございません。何かお飲みになりますか?」
「そうだね。一太どうする?」
「オレなんでもいいや。キュー様と同じの」
「じゃあ、僕たちオレンジジュースで」
「お待ちください」
何も特別な会話はしていないと言うのに、子供達の目は釘付けになっていた。
サラトニクはとんでもなく気品のある存在だと思っていたが、この二人は別次元なのかもしれない。
仮面の君が王の風格を持っているのは当たり前だが、お付きのはずのミノタウロスも王らしく見えるのは何故だろう。
そして、何の感慨もなく仮面が外されると、部屋がどよめく。
ナインズ殿下は昼食を学食では取らず、何人かの友人と応接室で取っているので、その素顔を見られる人はそう多くない。
仮面は一郎太に渡され、鞄に仕舞われた。
「――ナイ様、良いの?」
「良いよ。僕は今日に賭けてるから」
オレンジジュースが二人に差し出され、ナインズはそれを取ると一口飲んで口を湿らせた。
「それより、東陸の話聞いた?」
「いえ?」
「ラクゴダール共和国以外の小国はこれでもう全てが神聖魔導国になったらしいよ。タリアト君は昔、それこそが不幸な人がいなくなる手段だって言ってたよね」
「……そうですね」
「でも、今東陸に住んでる人達は共和国との友好条約を破棄しようって言ってるって。共和国の人達も友好国なら商人殺しの国を切り離せってすごく怒ってるみたい。大神殿じゃ
「うーん。オレは難しい事分かんないけど、共和国に周りは虐められてたって聞いてますよ?」
「共和国に虐められてたのに、どうして共和国の商人が殺されてたの?」
「共和国が意地悪でムカつくからじゃないですか?」
「でも、あそこには信頼できる人がいるってツアーさんは言ってたよ?ムカつかない気がするのになぁ」
「その人、ツアーさんが思ってたより良い人じゃなかったんじゃないですか?」
「そう言う事?」
「多分、そうなんじゃないんですか?」
声変わりもしていない幼い声からは想像もつかないような難しい話を前にマァルは目を白黒させた。
友達のお姉さんやお兄さんもこれほど難しい話をするだろうか。
サロンの中は静かになっていたが、サラトニクが普通にお喋りを始めると、じわりと皆話を始めた。
時計が時を刻む音が数えきれないほど響き、何人かはナインズと一郎太に握手を求め、興奮してキャアキャアと声を上げた。
いつしかサロンはいつも通りの賑やかさを取り戻した。
皆が思い思いの知的交流を重ねていると、また扉が開いた。
二郎丸とクリスだった。
二人は真っ直ぐナインズの下へ向かい、小声で何かを話した。
ナインズは数度頷き、「ありがとう」とだけ告げてまた一郎太と話をした。
二郎丸とクリスはマァルの隣に座り、サラトニクの話す事に耳を傾けた。
マァルはいつ手紙を渡そうかとサラトニクを見つめた。
そして、ふと、ユリヤの隣に大きな眼鏡をかけた黒髪の見たことのない女の子がいることに気が付いた。
女の子はひどく綺麗な顔立ちをしていて、生まれて一度も感情を持った事がないのではないのかと思えるほどに涼しく、何の温度も感じさせなかった。
このサロンには学年も、クラスも違う子がいるが、こんなに綺麗な子は見たことがない。まぁ、マァルも全員と知り合えるほど何度も出席しているわけではないが。
それにしても、サラトニクを見つめるどの女の子も、憧れや恋心を真っ直ぐに宿していると言うのに、この子は一体何なのだろう。
「……ぁ」
マァルからは小さな声が漏れた。
気付けばサラトニクはその子に話しかけるように色々な事を話していた。その瞳は憧れや恋心に彩られ、幸せそうだった。
――男の子は皆可愛い女の子が好き。
マァルはユリヤに結んでもらった髪に触れた。
サラトニクの隣にいたクロードが話し始め、いくらか経つと女の子は立ち上がり、サラトニクのいる輪を離れて行った。
別の輪の一番後ろに着いて少し話を聞いては、また別の場所へ行く。
渡り鳥のようにあちらこちらを見て周り、最後は庭の外を眺めた。
ローブの模様の色は紫色。この子も一年生なのだ。
マァルはその子が気になってサラトニクの輪を離れた。
庭を眺める横顔を見つめていると、生き物だとは思えない滑らかすぎる動きで眼球がこちらへ向いた。
「――何」
尋ねられた声には何か、ある種の迫力のようなものを感じてしまい、マァルは何と言えばいいのか分からなかった。
用事がないと見たか、少女はまた庭に視線を戻した。
「あ、え、えっと。お庭出ても良いんだよ」
「そう」
「あなたサロンは初めて……?」
「そう」
「一緒にお庭……行く……?」
誘うと、少女はさっさと一人で庭へ出て行ってしまった。
慌ててその後を追って、マァルも外に出ていく。
庭では何人かが庭師と花の話をしていた。
少女は庭師の下までは行かずに、まだ蕾もついていないただの草が並ぶ花壇に向かってそれを眺めた。
「つまんなくないの?お花の方が綺麗だよ?」
「……人の子よ。この世の全ては実らせるまでの時間にこそ価値があるのですよ」
まともに口をきいてくれたが、難しい話だった。
それに、この子も人間種ではないのだろうか。いや、亜人の特徴が見えていないだけかもしれない。そういえば普通の人よりも少し背中が盛り上がっているような気もする。甲羅でも背負っているのだろうか。
「……じゃあ、お花は価値がないの?」
「違う。咲くまでの過程を含めて花は花なのです。咲いたから綺麗なわけではないのですよ。お前にはこの草にいつか花が咲く姿が見えないのですか」
意味が分からなかった。
「……どう言うこと?」
「だからお前達は愚かなのです。もう良い、下がれ」
少女は溜息を吐き、花壇に腰掛けた。
下がれなんて生まれて初めて言われた。マァルは不愉快な気分になったので、意地を張ってその隣に座った。
「下がれと言っているのが分からなくて」
「分かんない。何でそんなこと言うの。もっとちゃんと教えてくれればいいじゃん」
「所詮お前には理解できないのです」
「皆分かんない事があるから学校に行ってるし、エル=ニ――サラトニク君のサロンに来るんだよ」
これまで無だと思われた少女の顔に初めて感情が浮かぶ。
それは「厭わしい」だ。
だが、興味を持たれていない感じがしていたので、そんな感情でもこの子の顔を変える事ができた事に少しの優越感を感じた。
「エル=ニクスと呼ぶのです。お前はあれと同等の存在ではないです」
「同じクラスだもん。サラトニク君も身分はないから皆仲良くしてって言ったもん。後、私はマァル・シマジ・アブトロメよ。お前なんて失礼だわ」
少女の目にはハッキリと「嫌い」と浮かんでいる。こっちだって別に好きでも何でもない。
サラトニクはこんな子の何が良いのだろう。
良いところは顔だけじゃないか。――いや、頭も多少良いのかもしれない。
こんな大きなメガネを掛けていて、難しい事を言うのだから、多分勉強家なのだろう。
「帰る」
少女はそう言うと花壇から立ち上がり、サロンではなく庭から真っ直ぐ玄関へ向かおうと歩き出してしまった。
「か、帰るって。サラトニク君に挨拶しないと失礼だよ」
「――参加することで礼は尽くしたのですよ」
「そんなわけないじゃない!怒るよ!!」
大きな声を出して手を握ると、少女は大人のような力でそれを振り払った。
すると、慌ててサラトニクがサロンから飛び出してきた。
「ちょ、ちょっと!マァル君!!」
何故か責めるような口調で名前を呼ばれ、マァルの目に涙が浮かぶ。
「こ、こちらへ」
いつも優しいサラトニクは少女の手を取って、花壇の向こうへ駆けて行ってしまった。
二人は何かを少し話し、少女はそのまま帰って行ってしまった。
サラトニクは真っ直ぐマァルの下へ戻ってくると、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね。でも、いきなり怒ったらダメだよ」
「い、いきなりなんて怒ってないもん……。あの子が挨拶もしないで帰ろうとするから……」
「……ありがとう」
「サラトニク君、あの子誰なの……?」
「私のお客さんだよ。さぁ、冷えてきたから戻ろう」
背を押されると、マァルは「はわ」と声を上げた。
サロンに戻ると、もうナインズ殿下やお付きの皆は帰ってしまっていた。
ユリヤはマァルを迎えると「良いなぁ!私もエル=ニクス君とお庭見たかったぁ!」と羨ましげな声を上げた。
「サラのサロン、どうだった?」
ナインズの部屋に来たアルメリアは大きく頬を膨らませていた。
「愚か者ばかりです。面白くなかったのです」
「うーん、僕は割と面白かったけどなぁ。じゃあ、外の世界の花壇はどうだった?」
「花壇は悪くないです。植物は愚かじゃありません」
「ふふ、良かった。明日も行ってみる?花壇見に」
アルメリアは腕を組むとムンムン唸った。
顔にはまだ眼鏡が掛けられているし、髪も黒く、肌も紫色ではない。
この眼鏡はマジックアイテムで、存在を見つかりにくくする効果がある。自分より高レベルの存在には効果を発揮しにくいが、同レベルかそれより下ならばそこそこの精度で探知されにくくなる。
見えなくなるわけではないので、ただ影が薄くなるだけとも言える。リュカの友達のトマは影が薄いので、多分彼が装備すると誰も見つけられなくなるだろう。
アインズとフラミーに言わせれば子供騙しのマジックアイテムだ。
「花壇は見たいです。でも、愚かな人間に話しかけられると不愉快です。リアが草を見てたらつまんなくないのかって言われたのです」
「不思議だけど、外の人達には多いよ。花は花だから綺麗、草は緑だけだからつまらないって人」
「愚かです。何であれで生きている事を許されてるんです?」
ナインズはアルメリアを手招き、アルメリアが隣に座ると大切にしている本をアルメリアに渡した。
「今はまだ不完全だけど、皆いつか完全なものになる日が来るって信じてるんだよ。何もできない僕を皆が許してくれるように、僕たちも皆を許さないと」
最高神官長が書いてくれた本は挫けそうになったナインズを何度も元気付けた。
ナインズは今や全学年の生徒達の中で一番魔法を使える。一年生の頃の苦悩が嘘のようだ。
それに、シャルティアとの手合わせを繰り返しながら魔法戦士としてレベルを重ねていた。
どっち付かずになる事をアインズは常に恐れているが、総合力最強のシャルティアを目指すのならばとひとまずその様子を見守っている。
レベルは上がれば上がるほど必要な経験値が増えていくので、三十レベルの節目を迎えたところから中々レベルが上がらなくなってきていた。もちろん、それだけ有れば十分だろう。簡単に言えばアダマンタイト級と並べるのだから。
「……あの人間達はまだ蕾です?」
「そうだね。リアちゃんもそうだし、外の人達も皆そうなんだよ。咲くまで待ってあげるのは得意でしょう?」
「必ず咲くなら待ってやります。でもあの生き物には無理です」
「きっと咲くよ。だから、明日もまた行ってみようね」
「お兄ちゃまはまた居てくれます?」
「いるよ。約束する」
「……リアを守ってくれるんですよね?」
「そうだよ。僕だけじゃなくて一太や二の丸とクリスも、それからサラもリアちゃんを守るよ。今日もサラが助けてくれたでしょ」
「……どうしてお兄ちゃまがすぐに来てくれなかったんです」
ナインズは言葉を選んだ。一年生のクラスの中にいられる子達だけで解決してほしかったのだが、そう言ってしまえばナインズが側にいた意味がないと怒らせてしまいそうな気がした。それに、学校は行かないとの一点張りなので、クラス云々という言葉は今のアルメリアには地雷だ。
なので、嘘ではない上から何個目かの理由を選んだ。
「――サラがリアちゃんを助けてくれるって信じてたからだよ」
「むぅ。サラは信用できます」
「そうだよね」
アルメリアの現在のレベルは四。力自慢の人間程度の力しかない。
確かに忍者は六十レベルからの高レベル職のはずなのに、この世界では三十レベルにも満たない者が忍者だったりするので取得に必要な前提職業もユグドラシル時代とは全く違うのだろう。
――と、思っていたところだったが、アルベドとデミウルゴスは「悪魔の王から生まれた高貴な人なのだから当たり前だ」と鼻高々だった。
それを聞いたアインズとフラミーは両親の種族レベルが「遺伝」として加味されると言う当たり前の可能性に、ナインズが生まれてから約九年越しに思い至った。
ちなみに、アルメリアは未だにほとんど何の訓練もしていない。
ただ、一重に勉強をしていただけだ。勉強をする事で、物騒な種族レベルが上がっていくなんて、恐ろしく嘆かわしい話だった。
さて、ユグドラシルプレイヤーならば耳馴染みのあるウァラクとは、ソロモンの七十二悪魔のうち、序列六十二番の影の薄い悪魔だ。この悪魔は天使の翼を持っていて、爬虫類を支配する力を持つ。
ユグドラシルでは
ギルド、アインズ・ウール・ゴウンはフラミーの転職に必要な
「じゃあ、明日も行くってサラに連絡するね」
「むぅ。分かりました」
ナインズは額に一本指で触れると目を閉じた。
集中してサラトニクを探す。人や場所を探す時、このポーズの方が探しやすいよとアルバイヘームに助言を貰った故だ。
「――<
空気が振動する線が遠くへ伸びていく。
『サラトニクでございます』
「あぁ、サラ。僕だよ。ナインズ。明日もリアちゃんサロンに行ってみるって」
『本当ですか!では、明日も開くように手配いたします!』
「ありがとう。お願いね」
『はい!お任せください!もう二度とお見えにならないかと思いました!』
「はは、実は僕も。じゃあ、また明日ね」
『失礼いたします!』
サラトニクがこの声の向こうで深く頭を下げている姿が見えるようだ。
ぷつりと通信を切ると、ナインズはアルメリアの頭を撫でた。
「リアちゃん、サラすごく喜んでたよ」
「まったく仕方のないやつです」
そう言うアルメリアは少しだけ嬉しそうだった。
リアちゃん!!!!がっつり登校拒否!!!!
あれ!?メリークリスマス!!