『鱗滝さん。一つお願いをしてもいい?』
『なんだ』
『私も、鱗滝さんとお揃いのお面が欲しいの』
恥ずかしそうに俯き加減でそう言ったのはまだ幼い少女であった。彼女の両親は鬼に食い殺され、鬼に強い恨みがあるということで儂が初めて育手として引き取った。
『面か。構わんが』
『本当ですか! 約束ですよ!』
嬉しそうに笑う少女。これから彼女が歩む道は鬼斬りの道。苦難に満ちた道であろう。儂は彼女の厄を一つでも祓えるようにと祈りを込めて面を彫った。
『頼まれていた面だ』
『うわぁ……! ありがとうございます!』
手渡した面を心底大事そうに抱え込む。狭霧山に来たときはろくに話も出来なかったのに、今では感情も年相応に豊かになった。
『でも、どうして鱗滝さんと同じ天狗の面じゃなくて狐の面なんですか?』
『天狗の面より、狐の面の方がお前には似合っているだろう』
剣士として育てておいて、今更女子扱いするのもおかしな話だ。彼女は可憐な少女であった。本当なら綺麗な着物に憧れるような歳であろう。なのに、柔らかかった手の平は剣を振るううちに固くなり、山下りのせいで体のあちこちには傷跡がある。
剣士として育てたことに後悔はない。だが、この子に似合う面を彫っていたら自然とこの面が出来上がっていた。
しばらくキョトンとしていた少女であったが、言葉の意味を理解したのであろう。サッと面で顔を隠す。
『ぐすん……。えへへ、どうですか? 似合いますか?』
『……面に似合うも何もあるまい』
柄にもないことをしたことが恥ずかしかった。厳しい修行の中、嫌われても当然と思っていたが、彼女は儂を信じてくれた。彼女なら、きっと最終選別も乗り越えて見せるだろう。
『鱗滝さん。私、必ず帰ってきます。最終選別だって、この面がきっと力を貸してくれますから』
華のように咲いた彼女の笑顔。……本当に、強い子に育った。
翌日、最終選別に送り出した。いつもの癖で食事を二人分用意してしまった。
七日後。彼女の帰りを待った。彼女の好物をたくさん用意した。
翌朝。飯が冷えても、彼女は帰ってこなかった。
その夜。鬼殺隊に合格者の名前が知りたいと烏を出した。烏はすぐに帰ってきた。
――彼女の名前はそこになかった
「……夢か」
炭治郎を送り出した夜。久しく見ていなかった夢を見た。子供達を送り出すのはこれが何回目であろう。
騒がしかった昼間に比べ、静まった夜。静寂に耐えきれず外に出る。すると、そこには先客がいた。
「狼」
不思議な男だった。この忍びは愛想はまるでないが、話を聞くのが上手い。それに……
「……茶でも飲むか」
奴の茶は旨い。苦い記憶も一時は忘れさせてくれるほどだ。今夜は、特に飲みたい気分だ。
「いただこう」
スン、と香りを楽しんでから注がれた茶を一気に呷る。茶は喉元を灼き、体を巡る。……あぁ、やはり旨い。いつもならここで他愛ない話をする。だが、そんな気分にはなれなかった。
「炭治郎は……帰ってくる」
珍しく、狼の方から話し出す。それ自体にも驚いたが、炭治郎の名前が出たことに少し動揺する。
「あぁ、儂もそう信じている」
「そうは見えぬ」
見透かすような瞳。自分が面をつけていないことに今気づいた。炭治郎と狼の別れはひどくあっさりとしたものだった。
『狼さん。禰豆子を頼みます』
『御意』
ただ、これだけ。これから命を賭け鬼と戦いに行く者を送り出すというのに、家の留守を任せるかのような簡単なやりとり。儂も、昔は帰ってくると信じて疑わなかった。
「炭治郎は……強い。選別の鬼に遅れをとるとは思えぬ」
そう、炭治郎は強い。普通の鬼なら気づかれる間もなく灰に変えることが出来るであろう。
「お主は何に怯えている」
「……」
体が熱い。茶のせいかと思ったがそうではない。ズキズキと痛む頭をおさえ思い出すのは送り出した十三人の子供達。
「誰も……帰ってこぬ」
岩を一番早く斬った錆兎も、誰よりも速かった真菰も。最初の弟子である、あの子も。
「強く、鍛えたはずだった。皆、賢い子であった。なのに、誰も帰ってこぬ」
吐き出した言葉は止まらない。
「修行を厳しくしても、岩を大きくしても、あの子達はそれを乗り越える。そして、儂が死地へ送るのだ」
爪が自らの肌に食い込むほど拳を握りしめる。
「育手を何度も止めようと思った。だが、出来なかった」
鬼が溢れる現代において鬼殺隊の人員不足は深刻であった。自分が育手の役割を放棄すれば、育手に新たな人員を割くしかない。その分、鬼の被害が増えることは明白であった。
「儂は、恐れている」
「炭治郎が、帰ってこないことをか」
狼の言葉に首を振る。
「死んだ子供達に恨まれていることをだ」
あの時、こうしていれば。もっと、出来ることがあったはず。後悔の念が消える日はない。どれだけ、自らの全てを教え込んでも、面に祈りを込め一心不乱に彫っても、帰ってこなかったあの子達の恨み声が聞こえるのだ。
――鱗滝さん。どうして、私を最終選別に送り出したの?
「儂が無力なせいで大勢の子供が死んだ。所詮、儂は自分で斬ることしか出来ぬ、ただの老いぼれだ」
子供達を育てるほどに情が湧く。師弟の絆は、やがて家族の絆へと変わった。家族を自らの手で死地に送った儂は、恨まれて……当たり前だ。
酔いもすっかり冷め、もう寝ようと立ち上がる。
「義父は……戦場で飢えた狼を拾った」
静寂を破ったのは狼であった。
「義父は狼に己の全てを仕込んだ」
忍びの掟。戦いの技術。全てを。
「義父は最後に狼との死合を望んだ」
古い記憶の中であったが、義父の願いは果たされた。
「……ひどい義父だな」
「そうだ。だが、恨むことなどない」
振り返って尋ねる。
「……なぜ」
「親の願いを聞くのは、子の役目だ」
その言葉に鎮まった激情が再び呼び起こされた。
「儂は……!」
言葉が、詰まる。静かな夜に悲痛な願いが響く。
「ただ、あの子達に帰ってきて欲しかった!」
それだけで、よかった。
「十三」
「何……?」
怒号を気にした風もなく、突如数字を発した狼。
「何の……数だ」
自分でも声が震えたのが分かった。
「狐の面」
「何を、言っている……」
狼は山を見ると、確かめるようにゆっくりと話す。
「口元に傷、二枚の花びら、額に……」
言葉が出なかった。狼が語る狐の面は、かつて自分が子供達に渡した厄除の面の特徴と完璧に一致していた。なぜ、狼は知るよしもない面のことを知っているのか。
全ての面を言い終えると狼は魂寄せのミブ風船を勢いよく割った。
「皆、帰ってきている」
――鱗滝さん
「あぁ……」
涙が、零れた。
――鱗滝さん、帰ってきましたよ
「あぁぁ……」
料理はとっくに冷めてしまったぞ。
――ごめんなさい。ちょっと遅れてしまいました
「いいんだ……。もういい……」
何も見えぬ闇夜に手を伸ばす。十三人、全員抱けるように。大きく。
「おかえり」
――ただいま
月明かりが照らす山には二人しか見えない。ただ、そこには家族がいた。不器用な父親と親思いの子供達。
もう、誰も失いたくはない。
(炭治郎……必ず…必ず帰ってこい)
最終選別終了まで、あと七日。