敵中横断二九六千光年   作:島田イスケ

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第13章 悪魔の喉笛
おおぐま座


日本で〈北斗七星〉と呼ばれる星座は、欧米では〈おおぐま座(アーサ・メジャー)〉と呼び名を変える。北の夜空を大きな熊が、小熊のまわりをノシノシ歩いているようだ、と。

 

そして〈小熊〉とは北極星だ。1942年3月、ふたりの男が星空の下で焚き火をしていた。

 

彼らがいるのはアメリカ西部。丘に挟まれた谷間である。地図にはなんの工夫もない《Hill Valley》の名が記されている。誰が付けたか〈ヒルバレー〉。丘と谷でヒルバレー。

 

名前通りの盆地だった。よってアメリカの内陸部において、夏であればうだる暑さ、冬は凍てつく寒さになる。三月も初めの今はまだ氷の季節であり、谷は一面、見渡す限り、冬に降ってまだ解けない白い残雪に覆われていた。

 

丘へ上る雪の斜面に点々と熊の足跡がついている。ここらにいるのはまさに大熊のグリズリーだ。冬眠から醒め、餌を求めて這い出したところなのだろうか。

 

さらにどこからか、狼の遠吠えらしい声も聞こえる。ふたりの男はウイスキーを飲み交わしながら、怖々と周囲に眼をやっていた。

 

ふたりのうち片方が、缶詰を一個手の中で転がしている。それに対してもう一方の男が言った。

 

「食えよ、マクフライ。そいつも〈メイド・イン・ジャパン〉だ」

 

「シーチキン」

 

〈マクフライ〉という名前らしい男が言った。持っているのはツナ缶で、ラベルにそう書いてあった。誰が付けたか〈シーチキン〉。日本で〈マグロ〉という名の魚は欧米で油漬けの缶詰になると〈海の鶏肉〉と呼ばれるのだ。

 

「こいつは罠だ。誰かがおれを獲って食らおうとしてるんだ」

 

「ただのツナ缶だよ」

 

「ジャップが造るものはみんな最低だ」

 

「ただのツナ缶だって」

 

「この〈シ-チキン〉ていう魚はおれの腹に入るために海を泳いでいたのかな」

 

「まあそういうことだろう」

 

「ジャップのガキはみんな〈ダイコン〉を齧ってる。日本で〈ウマミ〉があるものはみんな缶に詰められて、他所(よそ)の国へ出て行くからだ。この戦争は食い物の恨みだ。『オレの〈シーチキン〉を返せ。オレの〈マンダリンオレンジ〉を返せ。代わりにお前ら〈ケトウ〉が、〈ダイコン〉食っていろ……』」

 

「〈ダイコン〉ってなんだ?」

 

「木の根っこだよ」マクフライは言った。「人間の食い物じゃない」

 

「その缶詰は魚の肉だ。ナマコとかホヤじゃあないよ」

 

「見たことがあるのか、それを」ラベルの()を疑わしげに眺めやる。「ここでこんなもん開けて、熊か狼に匂いを嗅ぎつけられないか? おれはそいつらの餌になるためこれまで生きていたことになる……」

 

臆病者(チキン)

 

「なんとでも言え。まったく、なんでこんなところに……」

 

「命令だよ。国のためだ」

 

「はっ」と言った。「〈エグゼクティブ・オーダー〉か」

 

空を見上げた。七つの星が真上にある。

 

「なあ、わかるか。〈おおぐま座〉だ」

 

「ああ」

 

と相手の男。〈おおぐま座〉は春の星座だ。日本やアメリカあたりの緯度では、春の初めの今の時節に特に天の高みで光る。七つの星は〈熊〉の背中と尻尾にあたるが、そこから伸びて脚や頭となる星々も周囲に街の灯りのない荒野で今はハッキリと輝いて見えた。

 

マクフライは言う。「あの〈熊〉はメスなんだって知ってるか」

 

「いいや」

 

「そうなんだそうだ。神話ではね。アルカディアを追われた娘が熊に姿を変えられて空を歩かされている。北極星はその子の息子がやっぱり熊に変えられたもの……」

 

「へえ」

 

「ギリシャ神話だよ。〈アルカディア〉っていうのはギリシャ南部にある理想郷とされる高原の名だ。娘はそこの王女だったが、神の怒りに触れてしまった。我が子もろとも熊にされて北に追放、『永遠に空をグルグルまわっていろ』と命じられた」

 

「エグゼクティブ・オーダーか」

 

「そう。〈最高権力者の命令〉」

 

「その娘は何をやらかしてそんなハメになったんだ?」

 

「何も。全部言いがかりさ。神が娘の美しさを見初(みそ)めて近づき、子を(はら)ませた。自分が騙してそうしたくせに、『ふしだら女』と呼んでポイ捨て。産ませた子供もだから〈神の子〉のはずだけど、決して認知などしない。〈処女懐胎(かいにん)〉じゃないからね」

 

「グレイト・スコット」

 

「ヘビーだろ?」

 

言って遠くに続いている熊の足跡らしいものに眼をやる。

 

「この谷にも熊がいるようだけど、子供を連れてどこかに出て行くんだろうな。〈オーダー〉が実行ということになれば……」

 

「まあここには居られんだろうな」

 

「シンガポールの英軍のように」

 

「あれは連中が腰抜けなだけだ」

 

「そうかい」と言った。「ブラウン」

 

「なんだ?」と相手の男。〈ブラウン〉というのが彼の名前らしい。

 

「『タイム・マシン』って知ってるか?」

 

「一体なんの話だよ」

 

「H・G・ウェルズだよ。発明家が時を旅する機械を造って遠い未来の世界に行くと、人はなんだか羽をむしったニワトリみたいな生き物になってる。細い手足でヒョコヒョコと歩く以外に何もできない……熊みたいな化け物の食い物として飼われるだけの存在なんだ」

 

「ああ、ガキの頃読んだ。確かその化け物も、実は人間なんだっけ」

 

「そう。かつて奴隷にされた〈黒〉や〈黄色〉の成れの果てだ。百万年の恨みが積もって、〈白いの〉を見ると食い殺さずにおけないようになっている。本当にそうなっても不思議はないだろ。おれ達は〈彼ら〉を解放なんかしてない。未だに奴隷扱いしている。そうしてこれだ。ルーズベルトが言い出したことを議会が承認したら、ここは……」

 

周囲を見渡した。雪だ。他に何もない。谷間にはロクに木も生えていない。夏には草とサボテンがわずかに生えるだけの赤茶けた砂漠になる。

 

それがアメリカ西部の荒野だ。焚き火をするにも燃えるものを集めるのに大変な苦労をしなければならない。それが、この〈ヒルバレー〉という土地だった。そんなところでこのふたりはいま野営をやっている。

 

すべては先日発せられた〈オーダー〉のためだ。〈キャンプ〉はわざわざこんな土地を選んで置くことになっている。だから彼らは今ここで、キャンプしなければならなくなった。

 

〈オーダー〉が実行されるときに備えての調査のために。マクフライは空の星座をまた見上げてウイスキーを(あお)って飲んだ。

 

「百万年後はあの〈熊〉も形がまったく変わっちまっているらしい。でも、遠い未来じゃない。〈その時代〉はもう始まってるのかもしれない。おれは自分で自分が住むことになるトリ小屋をここに建てに来たのかも……おれの息子も孫も曾孫も食肉用に飼われるだけの腑抜けになって、未来永劫変わらなくなる。誰かがタイムマシンに乗って、歴史を変えでもしない限り……」

 

「この戦争に敗ければだろう」

 

「勝てると思うか?」

 

「どうだろうな」と言った。「分析屋は君だ」

 

「本当の敵はジャップじゃない」マクフライは言った。「あの丘に向かって叫んでみろ、『リメンバー・パールハーバー』と。返ってくるのは『アフリカ』かもしれないぞ。『リメンバー・アフリカ』『リメンバー・ワシタ』『リメンバー・サンドクリーク』……もしも(こだま)がそう返ってきたらどうする。『何がパールハーバーだ。お前達がしてきたことはなんなんだ。奴隷の子は奴隷の子、いいインディアンは死んだインディアンだけだ――お前らはそう言ってきた。それをオレ達は忘れないぞ。だから言ってやる、〈マゼラン〉と。お前らが〈リメンバー・パールハーバー〉と言うたび叫び返してやる。リメンバー・マゼラン、リメンバー・マゼラン……』。そう谺が返ってきたらどう言い返すことができるんだ。『お前の先祖はオレの先祖の娘手籠(てご)めにしておいて、子が生まれたら母子(おやこ)ともどもどこか他所(よそ)に売り飛ばした。〈奴隷の子は奴隷の子だ。人間の子とは認めない〉と言いながら――オレ達はそれを忘れない。だから日本の軍隊がここまで来てくれたなら、共にお前らと戦ってやる。パールハーバーがどうのと言うやつがいたら顔を覚えておいて、斧で頭をカチ割ってやる。そいつの家に火を点けてやる。オレの先祖がやられたように、木から吊るしてやってもいい。日本のテンノーの軍隊が来たら必ずそうしてやるからな』と、言われたならばどうする。そいつらに勝てるのか」

 

「いや……」とブラウン。「そんなふうに言われると、わからなくなってくるんだが……」

 

「なぜだよ。簡単なことだろうが。勝てない。そのときにおれ達は勝てない。勝ち目なんかあるわけがない――もしも勝てたら、ひょっとして、誰かが敵がヘマするようにタイムマシンで工作したってことかもな」

 

「ジャップがヘマをすれば勝てる?」

 

「まあね。一応はそういうことだ。同じウェルズの小説でも、『宇宙戦争(ウォー・オブ・ザ・ワールド)』とは違う。あれは地球が勝ったんじゃない。バクテリアに救われただけだ。この世界大戦(ウォー・オブ・ザ・ワールド)では、そんなことは起きてくれない。ジャップの船の大砲で〈自由の女神〉が崩れるのを、〈彼ら〉がウキャキャと笑って眺める。おれ達が浜にへたり込み、『こうなったのは全部が全部ルーズベルトの野郎のせいだ地獄に落ちろ』と泣いてる横で、チャールストンを踊ってな……」

 

「なのにここに〈キャンプ〉を造ろうとしているわけか」

 

「そうするしかないだろう? おれみたいな〈イエロー〉が何を言ったって、上の連中は聞かんのだから。敗けたら、おれ達みんながみんな、こんなところに住まなきゃなくなる。雪風の吹く赤い砂漠……」

 

冷たい風が吹きつけて、焚き火の炎を揺らしていった。マクフライがツナ缶の縁で硬く凍った雪を掘ると、赤茶色の砂が出てくる。それをひと握り掴み取った。

 

「こんな土地にはクズしか生えない。ジャップのクズくらいしか……だからおれの子が食えるのは、クズの根っこのパンだけになる。そうしておれの子孫がみんな、クズの肥やしになることになる。百年前にジャクソンがやったことの(むく)いを皆が受けるんだ。ルーズベルトの野郎が今、同じことをここでおれにやらせるせいでだ」

 

赤い砂を雪に撒いた。そうして言った。

 

「あの犬畜生」

 

「ルーズベルトは日本に敗けるかもしれないと全然思ってないんだろうな」

 

「でなきゃこんなことやらせるもんか。シンガポールがなぜ落ちたのか考えてみもしないんだ。だがな、敗けるぞ。アメリカは敗ける。たぶん、今年の七月四日だ。あと四ヶ月……」

 

赤砂と残雪の上にツナ缶を放る。雪風に身を震わせてマクフライは言った。

 

「それがこの国の滅亡の日だ。それまでに今の状況を打開できなきゃ未来はない。アメリカがこの缶詰のようになるんだ」


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