鬼火の尾、野狐の牙   作:雄良 景

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■極楽
 「幸福のあるところ」「幸福にみちみちてあるところ」の意味。(wiki調べ)

■蜻蛉
 細長い翅と腹を持った昆虫である。
 形がカタカナの「キ」に似ていることから、キザ(気障)のことを「トンボにサの字」と言ったりする。
 前にしか進まず退かないところから「不退転(退くに転ぜず、決して退却をしない)」の精神を表すものとして、「勝ち虫」と呼ばれることもあった。(wiki調べ)

■極楽蜻蛉
 思い悩むことをせず暮らす人物をからかった語。のんき者。気楽者。

■白澤
 中国に伝わる、人語を解し万物に精通するとされる聖獣である。吉兆の印としても知られる。
 白澤の絵は厄よけになると信仰され、日本でも江戸時代には道中のお守りとして身につけたり、病魔よけに枕元においたりした。





桃源郷の極楽蜻蛉

 

 

「う、うわぁ…天国みたいだ…」

 

 

 目の前の光景を見て思わずそう呟いた桃太郎に、赤紫色の着物に身を包んだ智嘉は声をあげて笑った。

 

 

「何をおっしゃるのん。正真正銘の天国ちゃいますか。初めて来たわけちゃうくせに!」

 

 

 大きな声で笑う智嘉に、桃太郎は真っ赤になって恥じ入った。桃太郎もいっぱしの男として女の子の前では恰好つけたい気持ちを持っているが、何せ出会いが出会いだったもので。笑われてばかりな気がする。

 確かに天国に住んでたくせに何言ってんだと思われるようなことを言ってしまった。けれど、本当に驚いて、それ以外の表現が見つからなかったのだ。

 

 

「ええ、ええ、せやけど分かりますよって。ここら辺は基本立ち入り禁止区域どすさかい、見たことなかったやろうし。それに、特別な場所で、えらいきれいで、ええ、天国みたいやろなぁ」

 

 

 フォローをしているようで揶揄ってくる智嘉に、それでも桃太郎は大きく首を縦に振った。

 

 

「は、はい、あの、まさに桃源郷(・・・)って感じで……」

「桃源郷!!」

 

 

 智嘉は耐えきれないとばかりに、とうとう腹を抱えてしゃがみこんでしまった。稀代の英雄様とは思えないコメントがいたくお気に召してしまったのだ。

 

 桃太郎たちが居るのは、天国の中でも一部の人間しか出入りできない『仙桃』の果樹園だった。『仙桃』の話なら桃太郎も聞いたことがある。というか、一説には桃太郎が生まれた桃が仙桃ではないかという話まであるのだ。桃太郎だって意識してしまう。

 

 天国の気候は常に春のように温かい。そこで厳重に管理されている仙桃はその身に持つ莫大な可能性をもって辺りに神々しい雰囲気を漂わせていた。

 

 

「桃太郎はんにはここの管理のお仕事をしてもらいますえ。『桃太郎』なら桃と相性がええやろう」

 

 

 うふ、うふ、と笑いを引きずる智嘉に言われた業務内容に、桃太郎は背筋が伸びた。なんということか。仙桃の管理だなんて、とても重要な仕事を任されてしまった。普通本職でもない人間にやらせるか…!? しかもそんな理由で任せていいのか!? 天下の仙桃を!!!

 くちには出さないものの突っ込みどころしかない。桃太郎の心臓はバックバクだった。

 

 

「そないに緊張しいひんでも、なんかあれば大体は家主の責任にしてええどすさかい」

 

 

 というかさっきからこの人、その家主に厳しくないか。桃太郎は職場環境のストレスを考えて胃が痛くなった。

 

 

 

 

 

 

 桃太郎は智嘉の案内で果樹園から出、近くの小道をまっすぐ進んでいった。道は人通りが少なくないのか、割かし人の手が入っていて歩きやすい。

 たどり着いたのはそこそこの大きさがある一軒家。いや、家、というより、店、であろう。けれど、智嘉の説明的には居住地でもあるらしい。裏側から水音と湯気、そして独特の匂いがあるから、温泉でも湧いているのかもしれない。

 家に温泉か。天国みたいだなあ、と思って、そこで桃太郎は慌ててくちを(つぐ)んだ。真っ当な感想だとしても、これ以上智嘉に笑われるのは勘弁願いたかったからだ。

 

 

「ここが今日からのお住まいどす」

「漢方薬局『極楽満月』…」

「へえ、家主の店どす。自家営業やさかい…」

 

 

 そこまで言って、智嘉が言葉を切った。そして勢いよく桃太郎の襟首をつかみ、店の出入口前に立っていた状態から大きく右方に退く。そのちから強さといったら!

 勢いに身体が浮かび上がった桃太郎は、詰まった襟首に首を絞められて「ぐえ、」と潰れたカエルのような声を出した。

 

 

 ガジャーン!!

 

 

 それと同時に、何か『白いもの』がドアを突き破って吹っ飛んでいく。

 桃太郎は目をむいた。―――――もしかして、今吹き飛んで行ったのは人だろうか。人のような形状をしていたように見える。まさか、と解放された首を押さえてせき込みながら、目を白黒させた。

 なにせここは天国。些細なトラブルはあるにしても、そんな暴力沙汰や大きな事件とは無縁の場所だった。だから桃太郎はこれまで、他人がドアを突き破って飛んでいくなんて見たことがなかった。まさかここは地獄だっただろうかとすら思った。

 

 

「最低!!」

 

 

 女の声が響く。壊れたドアからノシノシと大股で出てきたのは、少し乱れた着物を纏った、頭に2本の角を持った鬼女だった。やっぱりここは地獄だたのだろうかと桃太郎は呆ける。

 …いや、それにしても。ボケっとしていた状態から、サッと視線をそらして桃太郎は目元を手で覆った。乱れた着物の(なま)めかしいこと! 童貞には刺激が強すぎた。

 鬼女は扉脇に突っ立っていた智嘉と座り込んでいる桃太郎に気が付くと、キッと睨みつけてから、まさに鬼の形相で走り去って行った。

 

 

「あ、あの、今のは……」

「桃太郎はんには申し訳あらへんどすが、今のはこれからの日常になる思うさかい。早う慣れとぉくれやす」

「えっ」

 

 

「いっったぁ~~…」

 

 

 そっと智嘉に伺い立てた桃太郎は、まさかの返答にギョッとした。今のが? 日常? いったい何が起こったんだ。

 すっかり思考停止した桃太郎の耳に、若い男の声が届く。

 

 

「で、そこで転がってるまっしろしろすけが今の騒動の元凶で、この店の店主で、つまりは家主で、ほんであんたの上司どす」

「えっ」

 

 

 まさかのまさかだった。今の一瞬で桃太郎の中で店主はとんでもないトラブルメイカーなのではないだろうかという疑念が渦巻く。そんな人の部下になって寝食を共にするだなんて、自分はこれからどれほどの苦労をするのだろうか。

 桃太郎は大層察しがよかったために、すっかりこの先の苦労を感じ取ってしまい気が遠くなりそうだった。

 

 それにしても、智嘉はやっぱり、随分と店主に対して物言いが厳しいものである。もしかして彼女も苦労を掛けられたのだろうか。桃太郎は首を傾げた。

 

 

「ん? あれぇフーちゃんだ!」

 

 

 対して、男ののん気なこと。へらっとした笑顔で酷評ともとれる紹介をしていた智嘉に話しかけてきた。

 フーちゃん、という呼び方の語源を桃太郎はまったく理解できなかったが、まさか初対面の自分のことではないだろうからきっと智嘉のことであろうと断じた。

 しかし、あだ名ととれる呼び方をするということは、案外この二人は仲がいいのではないだろうか。桃太郎は、さっきの酷評も仲がいいからこそだったのかもしれない、と思い直すことにした。

 

 

「こないなのでも中国では名の知れた『白澤』っちゅう神獣でして、漢方の権威なんどす。上司っていうのんは、仙桃の土地はこの人の私有地やさかい。そやさかい桃太郎はんも住み込みで働いてもらうことになるんどす」

「えっ」

 

 

 思い直したところで放り込まれた爆弾に、また桃太郎は固まった。天国にあれだけ大きな私有地を持っているなんて、と言う驚きでもあったが、何より男の正体である。人でないどころか、かなり目上のお方であった。

 

 

「え~酷いなぁ。あれ、てかもしかしてその子が仙桃の管理手伝ってくれる子? 男なの? ちぇ~僕女の子がよかったなあ」

「そうや、せっかく住み込みなんやさかい桃太郎はん、漢方習うたらどないどすか? 神獣白澤に直接手ほどきを受けたとあれば箔も付くやろ」

「えっ」

「え~無視? あ、でもめちゃくちゃ褒められてる! うれしいなぁ」

「相変わらずお元気なお人や。もう少しお体を労わった方がええのちゃいますか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうなる、俺。

 

 

 

 

 

 

「それにしても、またえらい男前にしてもろうたなぁ」

 

 

 智嘉が呆れたように白澤の赤くなった頬をまじまじと見る。視線は汚物を見るかのように冷たいが、白澤はうふ、と笑った。

 

 

( あ、智嘉さんとおんなじ笑い方だ )

 

 

 桃太郎はアッという顔をした。道中さんざん見て聞いた、印象的な笑い声だったからすぐに分かったのだ。

 

 

( そういや、なんか笑った顔も似てるような…? )

 

 

 ニンマリとした狐目に三日月のくち元。気づけばなんとも瓜二つに思えてきた。まさか親戚か何かだろうか。そうならどことなく親しげな雰囲気を感じる会話にも頷ける。と桃太郎が考えているうちに、話は進んでいく。

 

 

「いや~寝ぼけて違う子の名前呼んじゃってさ」

「その失敗はなんべん目どしたか」

「だってさぁ、寝起きだよ? ぼーっとするでしょ? 可愛い間違えじゃないか」

「脳みそ極楽蜻蛉どすか。行きずりやろうと最低限のデリカシーやん。はいはい、この話は終わりにしますえ。要望があった人材派遣の件どす」

「うん、後ろの子だろ? ねえだから僕女の子がよかったんだけど…」

「300年前! ご要望通り女の子派遣したらとんでもない修羅場になったやん。よりにもよって住み込みの子に手ぇ出すさかい…おかげさんで事態の収拾にてんてこまい! 女の子はもう来まへん」

 

( やっぱりなんか仲良さそうだな… )

 

 

 ポンポンと続く会話に、過去の話。少なくとも長い付き合いなのではあるんだろうな、とうかがえるよな親密さ。桃太郎はどこか身内空気の中取り残されて気まずげに肩をゆすった。

 しかしふたりはそれに気づくことなく話を続ける。

 

 

 

「ええ~、だってそれはあの子もいいって言ったから~~」

「へえ、へえ、もうええどす。話を戻しますえ。このお人今日から働いていただく桃太郎はんどす。天国の住人やさかい派遣するより話拗れんでよっぽど楽やろう。うちと連携せんでええんで、処理も増えまへんし」

「ああ確かに。大変だね~公務員」

「仕事増やしてくる人が何を言うのん。同情するなら納期守れ」

「酷いなあ。…ん? あれ、もしかして桃太郎って、あの?」

「ええ、ご想像の通り。桃太郎はん、すんまへんが挨拶を」

 

「っあ、はい! 桃太郎です、よろしくお願いします」

 

「はーいよろしく! 僕は白澤だよ」

 

 

 きょどって挨拶をする桃太郎に、にこり。白澤は智嘉とよく似た笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 

 

「あ、あの、このお茶、おいしいですね」

「ほんと? ありがと! お茶はねぇ、練習したからね。こういうの女の子が喜ぶから」

 

 

 とりあえず詳しい話は中で、と招き入れられた店内で、店主直々にふるまわれたのは花茶(ホアチャ)だった。ツルンとしたグラスの中で花が揺れ、見た目は大層美しい。

 が、今しがた雲の上の存在だと知った今後の上司と、その上司と親し気な狐娘との3人でお話合い、という状況下。桃太郎には茶を楽しむ余裕なぞなかった。

 

 ガッチガチに緊張している桃太郎に、もちろん智嘉は気づいていた。まあまあ、英雄様は肝が小さくいらはると、大して気にも留めていなかったが。なにせ、他人事なのだ。

 

 対して白澤は、当たり障りのない誉め言葉を絞り出した桃太郎に変わらず明るく笑いかけた。なにせ、これからの部下である。せっかく住み込みなのだからこれから自分の面倒も見てもらおうと(もちろん、本当は面倒を見てもらうなら女の子がいいが)算段をつけているので、好感度を上げておきたいのだ。

 

 

「ほな、簡単な説明だけしますえ」

「あ、はいっ、お願いします」

 

 

 ひとくち、お茶を飲み込んだ智嘉は桃太郎に簡単な説明をした。

 まず、立場としては天国で働く天国の住人だということ。地獄は関係ないということ。つまり、勤務に関する法や規則は全て天国の決まりにのっとったものになるということ。

 そして、桃太郎の仕事に対する上司、つまり責任者は、白澤であるということ。

 

 

(あて)から説明するのんはこれくらい。詳しゅうは上司になった白澤さまに聞いとぉくれやす。雇用の手続きやらも白澤さまがするさかい。ほな、白澤さま。後はおたのもうしますなぁ。(あて)はもう戻るさかい」

「はいはい。あ、ちょっと待って。おまじないしてあげる」

 

 

 言い終わって、グイっとお茶を飲みほした智嘉は椅子から立ち上がった。今回は桃太郎を案内するために天国までやって来たが、何を隠そう、未曽有の人材不足に悩まされている地獄において智嘉はピンチヒッター(・・・・・・・)と名高いのだ。暇ではない。

 茶を飲んで一息ついた。ならさっさと地獄に帰って仕事の続きをしなくてはいけない。

 

 

 立ち上がった智嘉に桃太郎は頭を下げた。話を聞いた限り、智嘉は本来桃太郎を案内する義務がないことには気づけたからだ。理由が善意かはわからないが、手間をかけてもらったのなら礼を言うべきだということを知っている。

 しかし、頭を下げたのちお礼の言葉を言う前に白澤が智嘉を止めた。おまじない、とは。桃太郎が首をかしげているうちに、机を挟んで座っていた白澤は手を伸ばし、人差し指で智嘉のおでこをなぞった。

 

 

 

 大きな楕円をひとつ。その中に、まるをひとつ。

 

 

 

「……おおきに。ほな失礼します」

 

 

 智嘉はスッと表情の消えた顔で頭を下げると、そのまま壊れた出入り口の扉を踏みつけて出て行った。遠ざかっていく背中からは「極楽蜻蛉……これやさかい………」という文句というか罵倒というか、そんな言葉がぶつぶつと聞こえてきた。

 

 驚いたのは桃太郎だ。なにせ、ずっとニコニコしていた智嘉からストンと表情が抜け落ちたのだ。びっくりして、けれど恐ろしくて何も言えず、智嘉の姿が見えなくなってからそっと白澤を伺った。

 

 

「は、白澤さま、今のは…」

「うん? おまじないだよおまじない。僕が神獣だってのはさっき聞いたでしょ? 白澤(ぼく)は『吉兆の象徴』なの。だいたい幸せ、幸福のことね。あの子昔、ここで漢方習ってたことあるからさぁ、師匠から可愛い弟子へちょっとしたお節介」

 

 

 変わらずニコニコとしている白澤に、まず桃太郎はだからあんなに親しげだったのか、と思った。しかし、いや、それにしても神獣相手に気安すぎる気もするから、やっぱり智嘉が特別なのだろう、と思い直した。

 ―――――けれど桃太郎は知らない。この後、自分が智嘉以上に白澤に対して辛らつになるということを。

 

 

「……あの、でもすっごい無表情でしたけど。あれ嫌がってるんじゃ」

 

 

 桃太郎は少しためらって、それでも自分の懸念を話すことにした。もし智嘉が、女の子が嫌がっているのなら、それを目撃した自分が止めるべきではないかと思ったからだ。いくら相手が神獣で、いくらそれが智嘉を思った、悪いことでないにしても。

 と言っても、その場で止められなかった自分がしゃしゃり出ても今更、かもしれなが。

 

 そうやって控えめに意見した桃太郎に、白澤は少し驚いた。それから、じんわり、うれしそうに笑う。

 

 

「なるほど。聖獣(かれら)が気に入るわけだ」

「え?」

「なーんでも! あの無表情は気にしなくていいよ」

 

 

 小さく呟いた言葉は、桃太郎に聞こえていなくてもいいもの。その代わりに、白澤はこれからの部下へ今日一番の笑顔を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、照れ臭くって拗ねてるだけだから!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地獄に戻った智嘉は、閻魔のそばに鬼灯の姿がないことに気が付いた。なんでも小休止ついでに自室に物を取りに戻ったらしい。

 なら丁度いい、と智嘉は鬼灯の自室へ赴いた。

 

 

「鬼灯さま、お邪魔しますえ」

「……ああ、あなたですか。ノックをしなさいノックを」

「そらすんまへん」

 

 

 扉を開けた瞬間、目の前には金棒を振りかぶった鬼灯。どうやら無断入室した不届き物をぶちのめそうとしたらしい。しかし入ってきたよく知った顔に、とりあえず矛を収めた。

 智嘉はケロリと謝りながら、やっぱしえらい疲れてはるなぁと改めて認識する。普段の鬼灯なら「そんな礼儀知らずに育てた覚えはありませんよ!」くらい言うだろう。なにせなかなかコメディな補佐官様なのだ。つまり、今の鬼灯にはそんな言葉を付け足すだけの精神的余裕がないのである。

 

 

「英雄様ご一行、無事に案内終わりました」

「ああ、お疲れ様です。ありがとうございました」

「いえいえそないでも。鬼灯さまの代わりに簡単な業務内容説明も済ませときたさかい。あとは現場がどうにかするやろ」

「………そういえば、してなかったですね」

 

 

 ゆっくりとまばたきをして、鬼灯が記憶を振り返る。そう言えば何の説明もしないで勢いで契約してしまった気がする。今回は問題にならなかったが、褒められたことではないのは確か。

 鬼灯は自戒するように目元を指で揉んだ。

 

 

「うふ、そろそろ一回休まれた方がええのちゃいますか?」

 

 

 ひょっこり。智嘉は鬼灯に近づいて、横からその顔をのぞき込んで言った。

 

 

「そうですね、今の仕事がひと段落したらですかね」

「おお! さすがは閻魔さまの第一補佐官さま! お仕事熱心でいてはるわぁ。こら周りも休んでいられまへんなあ」

 

 

 ―――――嫌みだ。

 今の発言は『お前が休まないと部下も休めないぞ』という意味だというのは、きっと10人中10が分かることだろう。

 

 ここで鬼灯は確信した。智嘉は端っから休ませるつもりでここに来たのだと。

 

 

「………」

「うふ、うふ、地獄きっての鬼神さまが、よもや過労死なさるとは。こら世も末どすなぁ!怖い怖い」

「勝手に殺さないでください」

 

 

 ギロリ、と閻魔も慄く目つきで智嘉を睨みつける鬼灯だったが、当の智嘉は慌てもしない。

 変わらぬ微笑みで、ぬろお、とした手つきで両手を鬼灯の頬に滑らせ、目の下をなぞった。

 

 

「今日も今日とておきれいなお顔どすなぁ。美白にも磨きがかかったのちゃいますか? 羨ましなあ。ここもほら、パンダちゃんみたいで可愛らしい。上野やったらアイドルになれますわ―――――お香はん(あねさま)を呼びまひょか? それとも漢方薬(・・・)にしまひょか」

 

「………3時間ほど休憩します」

「そら結構。ゆっくり休んどぉくれやす」

 

 

 舌打ちひとつ。智嘉の手を払ってベッドに向かった鬼灯は、白豚なんぞ呼ばれれば余計に気分が悪くなる、と吐き捨てた。智嘉の言った『漢方薬』がどういう意味なのか分かるくらいには長い付き合いなのだ。

 

 智嘉は鬼灯がベッドに入ったのを確認してから、部屋から出て閻魔の元へ向かった。鬼灯は何も言わずに休憩を延長したが、しかし何も気にせずに眠ることにした。

 たまった仕事はたくさんある。この後捌く予定のものはひとつも後回しにできない。けれど焦りはなかった。

 なぜなら、他でもない智嘉が鬼灯の休憩を把握しているのだ。

 ならば憂うことはないと、降って湧いた休憩時間を1分も無駄にしないことに専念した。

 

 

 

 

 

 

「あれ? 鬼灯くんは?」

「うふ、うふ、今頃ゆっくり夢の中……のんびりお休みタイムどす」

 

 

 閻魔の元へひとりで来た智嘉に、連日閻魔に群がっている獄卒たちはピタッと会話を止め身を引いた。シンとなった仕事場で、てっきり鬼灯が智嘉と一緒に戻ってくると思っていた閻魔はパチクリと瞬きして問う。それに対して智嘉はいつもの笑顔にどこか満足感を乗せながら鬼灯の休憩延長を伝えた。

 急なことではあるが、過労が癖になっている部下がゆっくり休んでくれるとあれば閻魔も嬉しい。

 

 

「よかったぁ、最近休めてないようだったから」

「そんなん言うてお仕事ぎょうさん回すんどすさかい、閻魔さまもお人が悪い」

「あ、はいすみません…」

 

 

 にっこりと優しい上司のセリフを言う閻魔に、智嘉は微笑みながら容赦なく突っ込んだ。これには閻魔も小さくなるものだ。

 しかし仕方ない。鬼灯は誰もが認める地獄の立役者。日々地獄経営のために忙殺される姿を知っているものからすれば、鬼灯を支援するのは自然の摂理。まあもちろん、閻魔が軽んじられているわけではない。ないのだが、まあ、其れとこれとは話が別で。

 

 

 ちょっと棘はあるが温かい会話。しかし―――――空気を読めないヤツというのはどこにでもいるものだ。

 

 

 

 

 

 

「ええーっ! じゃあこの仕事どうしたらいいんですか!」

「ば、馬鹿お前っ」

 

 

 

 

 

 

 急に、割り込むように響いた声に、閻魔と智嘉、そしてその場にいた獄卒たちの視線が集まる。茶髪の、今どきの若者と言った風貌の、獄卒と思われる男が書類を片手に不満そうにしていた。

 男の隣にいたもうひとりの獄卒は、周りの視線を伺いながら男を止めようとする。

 しかし男はまるで気にせず、『これだよこれ!』とばかりに手に持った書類を振った。

 

 

 ―――――先ほど言った通り、鬼灯の過労は多くの獄卒が知るところである。

 そして、下積みから叩き上げ、地獄のナンバー2にまでのし上がった鬼灯を慕う獄卒は多い。

 

 スウ、と周りの視線が冷えてきた。さすがに男も気が付いたのか、気まずげな色が顔に乗る。―――――しかし、自分は仕事の話をしているのだ。周りに非難される謂れはない。どっちかというと、勝手に予定を変更して休憩に入った鬼灯が悪いだろう、と開き直った。

 

 

 ここまでくればこの後の展開が読めそうなものではあるが、獄卒たちは男に冷ややかな視線を向けるだけで何も言わない。何もしない。―――――なにせ、ここにはちょうど、一番先に、一番恐ろしく怒るであろう『鬼』がいるのだから。

 

 

 

 

 

「かなんなあ、そないなおっきな声出して。怖おしてしゃあないわ」

 

 

 

 

 

 しゃなり、しゃなり、智嘉が歩きだす。ゆっくりと、獄卒の海は割れ、男の本へ一本道ができる。

 

 レッドカーペットのようなそこを、智嘉はゆっくりと歩いた。

 

 

「お仕事大変なんどすか? いったいどない案件やろう」

「え、あの、これです、けど……」

 

 

 その異様な雰囲気に、男はすこし勢いを落とした。そして、手を差し出した智嘉に持っていた書類を渡す。

 それを受け取ってまじまじと読み込んだ智嘉は、それからなんとも、わざとらしいくらいの声で騒ぎ立てた。

 

 

「まあま! こないなの鬼灯さまにお渡しして、いったいぜんたい、何がしたかったん? わざわざ第一補佐官さまが目ぇ通すようなものちゃうやろ」

「え、いや、だって!」

「赤ん坊かて自分で考えるでこれくらい。いややわ、教育係は誰どすか? こんなんも教えてくれへんかったん?」

 

 

 馬鹿にされてる。そう思った男は言い返そうとするが、その言葉はちかの声で遮られた。しかし、そのセリフ。『教育係』? いったい何のことだと男が一瞬頭をひねったと同時に、智嘉はにっこりと笑みを深めて笑いかけた。

 

 

「ああでも、あんた、―――――運がええ(・・・・)なぁ、鬼灯さまが居んで。うっかりこないな仕事を渡したら、ここの医務室じゃ手に負えへんくなってましたで」

 

 

 

 

 

 

 

「うふ」

 

 

 

 

 

 

 

「ほらほら、一緒に戻りんひょ。(あて)がアンタの教育係にちゃんと教えたれって言うたるさかい。まったく、教育不足でおせわしない鬼灯さまが無駄にお疲れになるとこどした。ああ、最初のうちはどの書類が指示を仰ぐべきかなんてわかりまへんさかいね。しゃあないしゃあない。アンタの責任やない。ほらほら、これでも勤続年数ばっかり長いもので、怖いものなんてあらしまへんさかい、安心してついて来とぉくれやす」

 

 

「あら―――――そない怖がらのうたってええのに。若いうちは失敗するもんどす。みなはん大目に見てくれますよって」

 

「智嘉さま、そいつもう6年目ですよ」

 

 

 

 ―――――すっかり固まってしまった男に、気にせず智嘉は話し続ける。不意に近くの獄卒が智嘉の勘違い(・・・)を正せば、男はこの世の終わりのような顔をして、智嘉もまた、驚いたような顔になった。

 

 

 

 

「まあまあまあ! そらすんまへんね、もうひとり立ちしてましたか。(あて)はてっきり、ものの道理も分からへん新人はんやとばっかり!」

 

 

 

 

 嘘だ。それくらいは男にも分かった。

 目の前の『鬼』は、分かっててあんな物言いをした。自分を晒上げるような言い方をした。

 

 

 

 一瞬―――――その狐目の奥、ゾッとするような(あお)が見えた気がして―――――それだけで、男はもう駄目だった。

 

 

 

 男はようやく理解した。自分が踏んだ地雷がどういったものなのかを。撫で上げた逆鱗の恐ろしさを。

 最初に男を嗜めた獄卒は、とっくにそばから居なくなっていた。男はまさに孤軍無縁の四面楚歌―――――

 

 

「まあまあ、智嘉ちゃん。それくらいで」

 

 

 大王がいつもの声で制止を促す。―――――けれど、その本心がどうであるか。それは智嘉が話している間は傍観に徹していたことから窺い知れるだろう。

 上司として、いくら公衆に黙認されているようなものとはいえひとりの部下を特別贔屓しすぎるわけにはいかない閻魔が、それでも黙っていた意味を。

 

 

「ええ、ええ、かんにんなぁ」

「い、いえ、俺も、すみませんでした……」

 

 

 もう男は涙声だった。地獄に勤めて6年。これほど恐ろしかったことがあっただろうか。若さと仕事に慣れてきたからこその慢心や気のゆるみが、まさかこれほど自分を追い詰めると思っていただろうか。

 男は今すぐこの針の筵から逃げたかった。智嘉の「ほな、みなはんお仕事しまひょか」という声に一目散にその場から逃げ出した男に、付き添うように一度見捨てた獄卒が追いかけて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんっなんだよあの(ひと)……!!」

「お前、運が無い(・・・・)な……」

「え、」

「よりにもよってあの(ひと)がいる時に問題を起こすなんて…大事にならなくてよかった」

「な……ん、だよ、それ、」

 

 

 

「―――――おい木方(きほう)!!」

「ヒッ、え、先輩…?」

「お前っ…あの鬼狐(きこ)相手にいったい何をした!!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……智嘉さん。先ほど如飛虫堕処の責任者から物凄い腰の低い謝罪があったのですが」

「あらま、なんでっしゃろか。不思議どすなぁ。ほな、鬼灯さまも復活されたさかい(あて)はそろそろ職場に戻ります」

 

 

 しらっと居なくなった智嘉に、鬼灯はターゲットを変えた。

 

 

「閻魔大王」

「ふふふ、智嘉ちゃんって昔から、鬼灯くんになついていてるよねぇ」

 

 

 いつもは震え上がるような目で睨まれた閻魔は、しかし穏やかに笑った。

 その返答にならない返答で何となく事態を察した鬼灯は、深い、深い溜息を吐く。

 

 

「……余計に騒ぎ立てる真似を。これで件の職員が辞めたらまた人が足りなくなるでしょう」

 

 

 それでもそれ以上何かを言うことなく、智嘉が進めた仕事の続きに手を伸ばした。

 

 

 





「え~だってさあ、僕が何年生きてるか知ってる?」
「本当に気に食わない。あの男のそういつところが嫌いなんですよ…まあそもそも生理的に好きませんが」


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