仏には桜の花をたてまつれ わがのちの世をひととぶらはば
とん、と一歩地面に踏み出して、目の前に広がる景色があまりにも春めいていたせいか、黒埼ちとせの脳裏にその句が過る。
降りたったのは公園の入り口。遊歩道の先には、温かく柔らかい春の日差しが集っているような薄紅色のトンネルが見える。それだけで、胸が弾む。
生きていることを示す鼓動が、とくんとくんと時を刻んでいく。
幼馴染、と一言で済ますには複雑な経緯のある白雪千夜とともにアイドルとなってしばらく。
レッスンと仕事、営業とライブ。既にしていくつかのアイドルらしいこともして、思った通りだったこと、思った以上だったこと、思いもよらないことをたくさん味わった。
屋敷での生活もあれはあれでちとせの好みであったが、それとは全く違う今という時間もまた、決して嫌いではない。少々忙しいのが玉に瑕と言えなくもないが、そんなものは些細なことだ。
「――お嬢さま。なぜお嬢さまが荷物を?」
「プロデューサー、急に仕事の電話がかかってきちゃって。長引きそうだから私たちで先に始めてて、だって」
「……まったく、だからといってお嬢さまに荷物を持たせるなどと」
冴え冴えするほどの美貌は無表情によって一層際立つもの。
ましてそれが、愛してやまない白雪千夜の、強く意識して取り繕ったものであるならなおのこと。腹の底に渦巻いているのは言葉通りの怒りなのか、それともせっかくの休みに花見に連れてきてくれたプロデューサーが自分たちそっちのけで仕事に駆り出されそうなことに拗ねているだけなのか。
ニコニコと笑うちとせに見られていることに気付いた千夜は、ちとせが持っていた弁当の包みを受け取り、肩をいからせて歩きだす。その耳が少し赤くなっていることにちとせが気付かないほど鈍いなど、千夜でさえ思っていないだろうに。
「お弁当、全部食べてしまいましょうか」
「それもいいわね。千夜ちゃんの作ってくれたお花見弁当、楽しみだわー」
桜並木の下までの、ほんのわずかな散歩道。
風に運ばれ、散り始めた花びらが1枚、2枚。温かい日差しと、涼しい風。
友が作ってくれた料理を詰めた弁当箱に、もうすぐ急いで追い付いてくるだろうプロデューサー。
とても楽しい、花見になりそうだった。
◇◆◇
「んー、卵焼きおいしい」
「恐縮です。……まあ、たくさんつまみぐいしてらしたので味は既に知っていると思いますが」
「でも、ここで千夜ちゃんと一緒に食べると一層おいしいわよ?」
新米とはいえ、アイドルは多忙の上、目立つ。
長時間の場所取りと宴会じみた花見などできようはずもなく、手作りの弁当を持って繰り出し、公園のベンチでのピクニックが精々ではある。
だが、とても得難い時間だとちとせは思う。
美しい景色。大切な友。友の手料理に、この時間を作ってくれた魔法使い。
平日の昼下がりは公園と言えど人通りも少なく、満開の桜も、花咲き誇る枝を揺らすそよ風も、全てがちとせと千夜の物だった。
「……それにしても、遅い」
「なぁに? プロデューサーのことが気になるの?」
「…………料理が冷めます」
「お弁当、詰める前にちゃんと冷ましてたわよね」
事務所には安部菜々という偉大な先輩アイドルがいるのだが、ふと彼女のことを思い出す。
息をするように墓穴を掘っていく今の千夜とは関係ないが。関係ないが。
だが確かに、プロデューサーがここにいないのは惜しいとちとせも思う。
なんということはない公園の桜並木だというのに、今日はどうしたことかとてもとても美しい景色になっている。
春の陽射しは冬よりも柔らかく、風の具合か花びらがゆっくりゆっくりと舞い散っていく。
このまま、時が止まってしまえばいいのに。ちとせをして柄でもないことを思ってしまうほど、この瞬間は儚く、尊く、愛おしかった。
「……ん」
「千夜ちゃん、眠い? 朝早くから、お弁当作ってくれてたし」
「いえ、大丈夫……です……」
まして、お腹がいっぱいになりつつある千夜がうつらうつらと船を漕いでいる。レア過ぎる。ファンなら伏して拝むだろう理想郷がここにはあった。
「無理しないでいいわ。『少し、おやすみなさい』」
「は、い……」
だからここはしっかりと寝かせてあげよう。こてん、とちとせの肩に千夜の頬が乗る。
昔からこうだった。千夜が望めば、言葉にすれば、大抵のことはかなう。
プロデューサーとの出会いを言い当てた、魔女のおばあちゃんが言っていた。
『願えば、叶う。そういう星の元に生きている。空気を吸って吐くことのように! HBの鉛筆をベキッ! とへし折る事と同じようにッできて当然と思うことですじゃ!』
……時々とんでもなくテンションの上がるおばあちゃんだったなあ、と思い出しながら、意識を今に引き戻す。
千夜ちゃんマジかわいいわー、と思いながら春を満喫する少女、黒埼ちとせ。この春も、その先の夏も秋も冬も騒がしく楽しいものになりそうで、一度しか来ない今この季節の巡りを待ちわびる。
とはいえ、こうなってしまうとちとせ一人。話す相手もおらず、少し寂しい。プロデューサーはまだ来ないかな、と思って空を見上げるくらいしか、することがない。
視界一杯に広がる桜の海と、その隙間から垣間見える空の青。白い花弁に血が通ったかのような薄紅に映える、深く透き通った青があまりにもきれいで。
「きれいな空ね、目に染みるわ」
思わず、涙がこぼれそうになる。
悲しいわけではない。幸せなだけだ。
友がいて、景色が綺麗で、毎日が楽しい。これ以上何を望むことがあるだろう。このまま春の陽射しに溶けて行っても悔いなどない。
遥か昔、桜を愛した歌人もこんな気分だったのだろうか。
ただ、一つの問題は。
「……」
千夜を起こさないように少しだけ体をよじって、荷物の中から取り出したのはスケジュールを書いた手帳。アイドルになってから用意したものだ。
ぱらりとめくれば、びっしりとは言えないまでもこれまでの仕事とこれからの予定が書いてある。
来週のレッスンは何度も通ったスタジオで。
新しい歌の収録は千夜と一緒に録ることが決まっている。
ライブは少し先のことだがつい浮かれて色付きのペンで書きこんだ。
城ケ崎莉嘉がくれたシールが可愛らしく踊り、今度ユニットを組めたらいいという話をしたアイドルたちと来年のスケジュールに記しをつけたりもした。
まったく、そうそう終わる暇もないな、と苦笑がこぼれるのを止められない。
自分がこんなことをしていていいのか、こんな風になるとは思わなかったと、ちとせの胸中は複雑で。
だから、コツコツと響いてきたよく知る足音に、少しいたずらをしてやりたくなった。
「願わくは花の下にて春死なん」
ドキリ、とばかりに足音が唐突に止まった。
少しだけ、溜飲が下がった気がする。かつて自分は長くないと聞かせたあの人がどんな表情をしているのか、振り向きづらい状況にあることだけが少し残念だ。
そのきさらぎの望月のころ。
足音の主はそう続きを詠みながら、ちとせの隣へ立った。座ったまま見上げたれば、呆れたような困ったような、してやったりと言いたくなる顔。その顔が見たかった。この魔法使いは、からかい甲斐のあることと言ったらそれこそ千夜にも負けていないのだから。
「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら。……でも、こんなに見事な桜を見ていると、そういう気分になるでしょう?」
1000年以上昔のこと。今と同じ景色を見ていたはずもなく、しかし驚くほどに心が寄り添うのだから不思議だ。
プロデューサーは、そんなちとせを嗜めることはしない。どんな反応をするかと思って長くないだろうことを伝える以前も、あとも、むしろちとせの側が驚くほどに変わりがなかった。
ちとせを一人の人間として敬い、少女として尊重し、アイドルとして輝けるよう情け容赦なくレッスンとレッスンと仕事とライブとレッスンを叩き込んでくる。
ちとせがそれを心から楽しめると、知っているかのように。
ファンの心に姿を、歌を、笑顔を刻み込むことが、ちとせにとっての大切な旅路の一歩一歩となることを知っていたかのように。
本当に、悪い魔法使い。
クスリと笑う。
その震えのせいか、千夜がむずがるような声を出し、目覚めてしまった。
だが、そろそろいいだろう。春の昼間とはいえ外で寝続けてしまっては体に悪い。それに、ようやく待ちかねた相手も来たわけなのだし。
「ふぁ……。…………なんですか、おまえ。遅いですよ」
「そう怒らないの、千夜ちゃん。ほら、プロデューサー。千夜ちゃんの作ってくれたお弁当、食べて食べて」
「違いますお嬢さま。私たちの包みに入らなかった分を別の容器に入れただけです」
「そうだったかしら。まあ、私たちには多すぎるからプロデューサーも、ね?」
途端、賑やかになる。
プロデューサーは笑顔でおかずを詰めた容器と箸を受け取り、千夜はむくれながらも口に合うだろうか、とそわそわしていて。
そんな二人が、こっそりとほくそ笑むちとせに気付くこともなく。
「?」
「……なっ! なぁ!? ハート!?」
「あらあら、ハート形の卵焼きなんて、かわいいわねえ」
プロデューサーが摘み上げたハート形卵焼きにめっちゃ慌てる千夜という、計画通りの可愛いものを見ることが、できた。
卵焼きというものは大体において楕円に近い形をしている。
なので、斜めに包丁を入れ、片方の向きをくるりと変えればそれだけでデコ弁の類に適した可愛いハートマークができあがる。
どのくらい簡単かといえば、普段は料理などしないちとせが、千夜の目を盗んでこっそり仕込むことができるくらいに、である。
「かっ、返せ! 返しなさい! それはその……そういうのじゃないですから!」
「あらあらあら」
赤くなって手を伸ばす千夜。しかし相手は百戦錬磨のプロデューサー。個性豊かな数多のアイドル達の奇行珍行にも動じずうなずく猛者である。ひょいひょいと踊るように身をかわし、ハートマークの卵焼きなんてものを作ってもらえた喜びにうっすら涙を浮かべ、それがまた千夜の心に燃え上がる羞恥の炎にガソリンとなって火力を上げる。
あ、携帯電話を取り出して写真を撮り始めた。器用なことだ。
ちとせそっちのけで走り去っていく二人を眺めるのは、本当に楽しい。
もっともっと、この先も見ていたいなどと、柄にもないことを思ってしまうくらいに。
千夜は変わった。変わってくれた。これからも変わり続けてくれるだろう。
ちとせは、ただ終わることができればよかった。
だというのに、今はどうだ。うっかり自分まで、魔法使いによって変えられてしまったようだ。
この魔法は、どうやら12時の鐘を聞いても解けてしまいそうにはない。
なにせ、変わってしまった自分を自覚してなお、楽しくて楽しくてたまらないのだから。
「……ふふっ」
いつの間にか、だばだばと走って戻ってきたプロデューサー。いまだ千夜に追いかけられ、ちとせとすれ違う、その時に。
「私をアイドルにした責任、取ってもらうからね」
黒埼ちとせの心は、定まった。
◇◆◇
黒埼ちとせ。
美貌と、歌と、ダンスと、演技。
炎のような激しさと、月光のような儚さを兼ね備えたアイドル。
決して長くはなかった活動期間を最高に輝いた、魔性の少女。
その引退ライブはなぜかライブビューイングのみで行われ、ファンに惜しまれながらも最高のパフォーマンスを披露して。
「ところで、あなたたちがこのライブを見ているとき、私はもう死んでいるの」
最後のMCで口にしたこの言葉をもって、その存在はファンの魂に永遠に刻まれたという。