距離としてはさほどでもないのに、しかし荷物がふさぐ道行きと音の反響の具合と心理的な隔たりにより遠く、わあわあと歓声が聞こえてくる。
音楽はくぐもって腹の底に響くような振動として周囲に満ち、あわただしく駆け回るスタッフと無線の連絡、薄暗い照明の中で出番を待つ少女たちの緊張した面持ちがそこかしこに散らばる、世界で最もワクワクする場所。
ここは、ライブ会場の舞台袖。
アイドル達が歌い、踊り、観客たちを湧かせるその片隅。
そこはまさしく裏方の戦場で、つまりアイドル達のプロデューサーの居場所だった。
◇◆◇
ライブは盛況のようだった。
育ててきたアイドル達の晴れ舞台はいつ見ても眩しい。客席の後ろから見る時もいいが、客席に向けて笑顔を振りまくアイドル達の横顔を舞台袖で見守るのはプロデューサーならでは。とてもとても尊い時間だった。
すでにライブが始まってしばらく。
ライブ参加アイドル全員での開幕曲に始まり、ソロやユニットでの曲数が重なるたびに歓声がボルテージを上げている。
高垣楓やニュージェネレーションは堂に入ったパフォーマンスを披露し、夢見りあむは歌詞をところどころ間違えていたが当人は最後まで気付いていなかったようだ。これはまた炎上するかもしれない。彼女らしく、実に素晴らしい。
さて、ここからは王道をあえて外し、ファンに驚きを楽しんでもらう時間だ。
意外性のあるユニットや曲の組み合わせ。デビューしたばかりの新人アイドルのオンステージ。ライブはこういった奇策もあってこそ盛り上がるもの。ファンの語り草になるようなセットリストを組むことは、プロデューサーの力の見せどころ。
ライブはアイドル活動の集大成の一つ。
観客が喜び、アイドルが楽しむ。
スポットライトの外で震えていた少女がステージの上で思い切り輝き、忘我のままに戻ってきたあとに浮かべる嬉しそうな笑顔。それこそプロデューサー稼業の醍醐味だった。
しかし、ライブが始まってしまえばあとは準備のスタッフとアイドル自身の奮闘によって成されるもの。
プロデューサーの仕事はライブが始まる前に終わっていると言っていい。
会場とスタッフの手配、アイドル達のレッスンや物販の企画。それらをこなしてきた疲労も心地よく、ライブの裏手でスタッフに指示を出す、緊張が強いアイドルに声をかけるなど、合間合間に隅々への目配りをしている。
そんなプロデューサーだからこそ、気付くことができる。
荷物に隠れて見えづらい位置。ふと目が行くことすら稀だろうそこに、不似合いなほど美しい黄金色の輝きが、かすかに見えた。
不安に駆られたアイドルがうずくまる。ライブ前ではよくある話だ。
そんなアイドルに声をかけ、心配を解きほぐすこともプロデューサーの務め。これまでも何度となく繰り返してきたこと。今日もそうして声をかけようとして。
「コホ、コホ……ゲホッ!」
「――!」
白い肌。金の長髪。美貌に煌めく瞳は紅。
誰が呼んだか吸血鬼の末裔という噂。
1年ほど前にデビューし、今日もこれからパフォーマンスを披露する予定のアイドル、黒埼ちとせ。
彼女がうずくまり、咳きこんで。
口を押えていたその手に、薄闇の中でなおべっとりと赤黒い。
血を吐く姿が、そこにあった。
◇◆◇
そう、長くない。
黒埼ちとせをアイドルにした当初に、白雪千夜を交えない場で彼女自身から聞かされた言葉だ。
確かに、体力は少なくレッスンも慎重に体調を見ながらが鉄則だった。
とはいえ、それを苦とする姿を見せたことはいままで一度もない。時に飄々と、時に神秘的に、アイドル生活を楽しんでいるように見えた。
……見えてしまっていた、ということなのだろう。
時に年齢不相応に達観しているようだったその様は、この期に及んで思えば大人びているというには老成が過ぎ、自身の命脈を悟っているからこその穏やかさだったのではないかと、そう思わざるを得なかった。
ちとせはこちらに気付いている。
呆然としたように見開いた目も、すぐに苦笑の形に細められた。
いたずらを見つかった少女のようなその様は、いままさに血を吐いたとは思えないほどに無邪気で。
だからこそ、既に覚悟の上の道行きなのだと思い知るには、十分だった。
大人として、プロデューサーとして。いやそれ以前に人として。
取るべき道は決まっている。
今すぐちとせを安静にさせ、救急車を呼び、病院に担ぎ込む。
何を迷うことがあろう。プロデューサーとして、うら若き少女たちをアイドルとして舞台に引き上げるからには当然その責任も負うべきもので、それこそが職務。何を恥じることも、躊躇うこともありはしない。
「……ねえ、魔法使いさん」
そう、たとえちとせ本人がスーツの裾を、悲しくなるほど弱々しく掴んできても、丁寧に言い聞かせて彼女をベッドに横たえるべきなのだ。
べきなのに。
――美しい
そう思ってしまうのもまた、人として、プロデューサーとしての宿業なのかもしれなかった。
白い肌。金の長髪。美貌に煌めく瞳は紅。
肌は血の気が引いてなお冴え冴えと白く、埃の舞う薄闇の中でさえ輝くよう。
さらさらとこぼれる金糸の髪は月光のように柔らかく、見る者全てを惹きつける魔力を秘める。
不安に揺れる瞳の中に収められているのは、ルビーですら霞んで見える輝きの真紅。
本当に?
本当に、ちとせを休ませることが正しい選択なのか?
どろり、と湿った囁きが脳裏をよぎる。
長くない、とちとせは言った。
その言葉に嘘はないという、強い確信はもはや疑えない。
仮に今すぐ病院に担ぎ込んだとして、ちとせはあとどれだけちとせでいられるか。アイドルとして再び舞台に立つことができるか。
今日までをアイドルとして輝いてきた彼女が、最後に白く消毒液の匂いに満ちた病室で枯れることが、本当に正しい選択なのか。
アイドルのプロデューサーとは、ただ少女たちを慈しみ守護するだけの存在ではない。
その輝きを見出し、時に成長を促し、彼女たち自身の歩みの先にこそある美しいものへと続く道を示すものだと、自身に任じてきたのではなかったか。
「……」
衝動は一瞬。葛藤は瞬きの合間だけ。
ちとせと交わした視線は最後まで逸らされることはなく、プロデューサーとしての行動は。
◇◆◇
プロデューサーが懐に手を入れたのを見て、ちとせの指は震えた。
何度も見た、携帯電話を取り出すときの所作だ。
関係者への連絡か、即座に救急車を呼ぶのか。ならばその行先は知れている。
ここで退けば二度と舞台に立てないという確信が現実に代わり、白雪千夜に、そして黒埼ちとせに魅了されたファンたちには病に倒れた悲劇の存在としてその名を刻まれることになる。そんな未来が、黒埼ちとせの結末なのか。
既に味わい尽くしたはずの諦観が再び胸を締め付けて、力の入らない拳をしかし握り締め。
ようとした、はずなのに。
――手を
「……え?」
ちとせの拳は、握られることがなかった。
そこには、プロデューサーの手。柔らかい布の感触。一枚のハンカチが、ちとせの掌を覆っていた。
優しく拭われたのは、吐いた血の付いた側。
べっとりと赤く染めていた血はハンカチに移り、ちとせの手はいっそ血色を取り戻したかのように赤みが差すだけとなる。
証拠隠滅。共犯者。
過る言葉はそのいずれもが、普段ちとせがプロデューサーを評する「魔法使い」よりなお人の道を外れたもので。
「……うふふ」
しかしそれでこそ、黒埼ちとせのプロデューサーには、相応しい。
胸をざわめかせていた焦燥が、そのままときめきの鼓動に変わる。
ライブの出番が迫る高揚に乗算されて、高鳴る感情を歌に乗せれば、この世の誰もを魅了させられる。そんな気がした。
――ああ。本当に、悪い魔法使いさん
そんな相手を選んでよかったと、ちとせは心から思う。
口元の血もぬぐう、とプロデューサーが言う。
嬉しい、と思わず口に出す。
そっと寄せられるハンカチに、ちとせは瞼を閉じて唇を差し出した。
まるで口付けのよう。
だがそれは呪いを解く王子様のキスではなく、悪い魔法使いとの契約だ。
左から右へ、唇をなぞる感触。
離れていくのを名残惜しく思いながら目を開ければ、そこにはあの日ちとせを見出した時と同じ、魅了されたのとは違う、しかし燃えるような熱の宿った目があった。
◇◆◇
黒埼ちとせが、完成した。
心の底からそう思う。
拭った唇はわずかな血が残り、メイクの紅よりなお映える。
開いた目蓋の奥の瞳と同じ色。吸い込まれそうなほどの深い赤。
夜の闇と月の光に凛と咲く、大輪の薔薇。
きっと、この日この場に黒埼ちとせを立たせるために、自分はプロデューサーとなり、ちとせと出会ったのだろう。
選択肢はいくつかあった。
ちとせをすぐに病院に連れて行くこと。
白雪千夜に知らせること。
見なかったふりをすること。
だがそれらは全て捨てたのだ。
プロデューサーとして、黒埼ちとせに魅了された第一のファンとして。
さきほどまでの弱々しさが嘘のようにまっすぐと立つその姿。
準備は整った。出番の時も来た。さあ、運命はここに整った。
――いってらっしゃい
だから黒埼ちとせのプロデューサーは。
――最高のライブになりそうだな
と、その背を押すのだった。
◇◆◇
「黒埼ちとせさん! お願いします!」
「ええ」
スタッフの呼ぶ声に応えるちとせ。
ステージに向かって歩を進め。
最後に一度だけ振り向いて、プロデューサーにこれまでで一番の笑顔を見せて。
「――いってきます」
スポットライトの光の中に、溶けていった。
◇◆◇
黒埼ちとせというアイドルには語り草が数多い。
美貌も歌もパフォーマンスも、いずれも人の目を惹く、いやさ人智を越えた美しさ。
ミステリアスな話しぶりと、同時期にデビューした白雪千夜との関係性。
そして、ファンたちは常に夢見るような目で語る、「あのライブ」。
誰も詳細を語らない。
ただ、その存在がファンを魅了し、その魂にまで黒埼ちとせの名が刻まれたことだけは、確かである。