いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

1 / 35


 I love crying in the rain. (私は雨の中で泣くのが好き。)

 because when i do, (だってその時だけは、)

 no one can hear the pain.(誰もこの痛みを聴くことができないから。)


 ────in the rain.



Prologue
遣らずの雨


 

 

 

 Prologue/

 

 

 

 ◇

 

 

 

 海は怖い場所。長い間、そう思いながら生きてきた。

 

 特に深い理由があるわけじゃないのに、何故か苦手としてしまう。誰にだってそういうものがひとつくらいあると思う。大半の人は好んでいるのに、どうしてか自分だけが嫌ってしまっているもの。

 

 誰かは犬が好きだと言うけれど、あの子は怖がって触ることすらできない。あの人は珈琲を好んで飲むのに、あいつは苦くて口にできないと言う。それと同じように。

 

 誰もが口を揃えて海が好きだと言った。でも、俺は海が大嫌いだった。きっと、俺という人間にとっての()()()()()()が、海だったんだ。

 

 確かに、数時間前まではそう思っていた。

 

 

「…………ついてねぇ」

 

 

 強い雨に打たれながら、そんな言葉をポツリと零す。雨に濡れた呟きは誰にも聞かれることなく、アスファルトにできた水溜りの中に落ちていった。

 

 七月下旬の午後。車通りの少ない県道を、夕立に濡れながら一人で歩く。

 

 ここは静岡県沼津市の端にある小さな港町。穏やかな内海が傍にあって、晴れた日には海の向こう側に富士山が見える。振り向けば深緑の山々が連なり、そこでは毎年美味しい夏蜜柑が採れたりする。

 

 人は少ないけど景色は綺麗だし、港に揚げられる新鮮な魚介類も都会じゃ絶対に食べられないと思うくらい美味い。ただ一つ、そんな魅力的な町を嫌いになる理由をたった今、見つけてしまった。

 

 

「なんで、こういう時に限って何も無いんだよ」

 

 

 夕立から身を隠す建物を探しているのに、それらしいものがまったく見当たらない。

 

 右には灰色に染まる大海原、左には蝉時雨が微かに聞こえる雑木林。前を向けば延々と何も無い道路が続き、後ろを見ても以下同文。

 

 この町には当然のようにあって欲しいものが悉く欠落している。都会育ちの俺からすればよくこんな所で生きて行けるな、と住人たちを称賛したくなってくるほど何も無い。

 

 

「…………お?」

 

 

 しかし、諦めずに県道を進むと、歩道の脇にトタン造りの建物を見つけた。あれは。

 

 

「バス停、か」

 

 

 時刻表と思われる細長い看板が前に置かれているから、多分そうだ。あそこなら人も居なそうだし、雨宿りをするのにはちょうどいい。よかった。これでこの町を嫌いにならなくて済みそうだ。

 

 そう思い、気休め程度に両手で頭を覆いながら、雨に濡れたアスファルトを蹴った。

 

 

「え…………」

 

「…………あ」

 

 

 そして、バス停に足を踏み入れた瞬間に停止する思考回路。

 

 咄嗟に数歩後ずさり、この身体は再び雨が降りしきる外へと出る。

 

 誰も居ないと思っていたバス停の中。そこには、俺よりも先に雨宿りに訪れたであろう誰かがベンチに座っていた。

 

 数秒間、何も言わずに見つめ合う。周囲には依然、降り落ちる雨の音だけが響いていた。

 

 べンチに座る一人の女の子は目を大きく見開き、夕立に濡れながら立ち尽くす男のことを見ている。恐らく、俺も彼女と同じような表情をしているに違いない。

 

 

「こんにちは。その、大丈夫?」

 

「え? あ、あぁ、うん。大、丈夫」

 

「そこじゃ雨に濡れちゃうよ? よかったら、こっちに来ませんか?」

 

 

 優しい口調でそう声をかけられる。なんとかたどたどしく返事を返したが、この身は動かないまま、夏の驟雨に打たれ続けていた。

 

 

「でも、いいの?」

 

「うん。君も雨宿りをしにきたんだよね?」

 

 

 その質問に黙って頷く。すると、雨宿りをしている女の子は爽やかに微笑みながら続けた。

 

 

「なら一緒だね。私のことは気にしないでいいから、雨宿りしていきなよ」

 

 

 その子は横にずれて、空いたスペースを左手でポンポンと叩きながら、そう言ってくれた。

 

 絶えず響き渡っている雨音と、鼻腔をくすぐるペトリコール。灰色の空から降ってくる無数の透明な雫が目の前を通過し、足元に落ちて行くだけの時間が過ぎていった。

 

 突然、耳を劈くような轟音が周囲に轟く。

 

 

「────うわっ!?」

 

 

 遠くに雷が落ちただけなのに、驚いて女々しい声を上げてしまった。顔が高速で紅潮していくの自覚する。

 

 やっぱり、今日はついてない。

 

 

「ふふ。ほら、そこにいたらほんとに雷に打たれちゃうよ?」

 

「…………」

 

「私は気にしないからさ、一緒に雨宿りしようよ」

 

 

 優しいその言葉を聞いて、俺は初めて目の前にいる女の子の姿を直視することができた。

 

 青い髪の長いポニーテール。小さいイルカが描かれたデザインの薄緑色のTシャツに、丈の短いハーフパンツと藍色のランニングシューズ。スポーティな格好からして、きっと運動が好きなんだろう。

 

 色白な肌に、少しだけ目尻が垂れている瑠璃色の両目がお淑やかそうな印象を持たせる。身に纏う落ち着いた雰囲気と、内浦の海のように穏やかな微笑み。魅力的なそれらが目に移った途端、心が落ち着かなくなったのは全部、夏のせいにしてしまいたい。

 

 そんな彼女を見て、何故かほんの少し、判然としない違和感を覚えた。

 

 

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 

「はい、どうぞ」

 

 

 立ち尽くしたままではしょうがないので、断わりを入れてから足を踏み入れた。狭いバス停の中で、できるだけその子から離れた所に腰を下ろす。

 

 そして、当然のように落ちる沈黙。

 

 黙ったままではなんだか居心地が悪い。でも、気軽に話しかけるのもなんとなく恥ずかしい。初めて会った女の子を退屈させないような面白い話題があるわけでもないし。

 

 なら、そこまで無理をする必要はない。挙動不審になって変な目で見られる方がよっぽど嫌だ。そう思い、隣に座る存在を気にしながら雨が止むまでの暇つぶしとして、外に広がる景色へと目を向けた。

 

 

「…………」

 

 

 でも、どうしても隣に居る女の子が気になってしまう。なんでそんなに気になってるのか? あぁ、正直に言ってしまえばこの女の子、めちゃくちゃ可愛い。外見だけで人の価値を決めるわけじゃない。そんな薄情な男には育てられなかった。でも、その見た目はこれでもか、というくらいにストライクゾーンのド真ん中をぶち抜いてきた。だからこそ、自分の常識を疑いたくなるほどに、すぐ傍にある存在に興味が湧いてしまう。

 

 だが残念ながら、俺には彼女を楽しませる粋な話をして距離を縮まらせる、みたいな甲斐性など備えられていない。自分の情けなさを改めて自覚した途端、深いため息が出てきそうになる。

 

 でもまぁ、そこまで高難易度の芸当はできないとしても、少し話をするくらいならできるはず。

 

 

「す、すごい雨……だね」

 

 

 そして、一か月で全部使い切れるかどうか分からないくらいの勇気を使ってそう言った。

 

 心臓は大きな音を立てて鼓動を繰り返している。雨音が無かったら隣の女の子にも聞こえてるんじゃないか、と思うくらいに。

 

 

「そうだね。天気予報じゃ今日は一日中晴れるって言ってたんだけどなぁ」

 

「そう、なんだ」

 

「うん。でもこの辺は山が多いから、この時期はけっこう夕立が降るんだよ」

 

 

 俺が勇気を出して言った言葉に、青い髪の女の子はそう返事をくれた。

 

 

「この辺……ってことは地元の人?」

 

「うん。生まれた時からこの町に住んでる。そういう君は、内浦の人じゃないよね」

 

「ああ。さっき、ここに来たんだ」

 

「そっか。旅行か何か?」

 

「親戚の家があるんだよ。夏休みだったから、久しぶりに来てみようかなって思って」

 

「なら、普段はどこに住んでるの?」

 

「東京だよ」

 

「東京かぁ。いいなぁ、私も東京に住んでみたい」

 

「よく言われるけど、言うほど良い所じゃないよ。人も多いし、学校に通うのも大変だし」

 

「でも、こんな町よりはいいでしょ? なーんにも無い、田舎だもん」

 

「なーんにも無いんだ?」

 

「うん、なーんにも無いんだよ」

 

 

 青い髪の女の子はそう言って、座りながら伸ばした足をプラプラと前後に動かす。地元の人が言うくらいだ、さっき思っていたことは間違いじゃないんだな。

 

 

「でも、この町は良い所だと思うよ」

 

「どうしてそう思うの?」

 

 

 首を傾げる女の子。俺は視線を前に広がる駿河湾に向けて、その問いに答えた。

 

 

「十年振りにここの景色を見たっていうのに、ぜんぜん変わってない。やっぱり、いつまでも変わらないのが、この町の良いところだと思うんだ」

 

 

 それが、数時間前にこの町に着いて最初に思ったこと。嫌いだったはずの海を十年振りに見た時、俺はその素晴らしさに気づいた。思い出した、というのが正しいのかもしれない。

 

 

「………………十年、振り?」

 

「? どうかした?」

 

「あ、ううん。何でもないよ。ただ、ちょっと気になっただけだから、気にしないで」

 

 

 女の子は何かを誤魔化すようにそう言って、視線を逸らす。

 

 その所作に疑問を覚えたけれど、それをあえて問うことはしなかった。

 

 それから再び、穏やかな沈黙がこの狭い空間に流れる。

 

 車通りの少ない県道には俺とこの子以外の人影は見られない。カンカン、とトタン屋根に雨が当たる心地良い音。近くの汀に打ち寄せる、細やかな潮騒。内浦の自然が奏でる静かな旋律に、そっと耳を澄ました。

 

 それから悟られないように、横目で隣に居る女の子のことを盗み見る。

 

 彼女は口を閉ざしたまま、物憂げな表情をして何もないはずの灰色の空を見上げていた。

 

 そうしてお互いに黙ったまま雨が止むのを待っていると、さっき気になったことを思い出す。

 

 多分、いや、ほとんどの確率で思い違いだとは思うけど、胸に何かがつっかえたような違和感がどうしても取れなかった。だから。

 

 

「「あの」」

 

 

 声が被り、同時に青い髪の女の子と顔を見合わせた。あぁもう、なんで俺はいつもこうなんだろう。

 

 

「え、えっと。その、君から言っていいよ」

 

「あ……う、うん。分かった」

 

 

 数秒の間。雨音を聞きながら、次に耳に入ってくるはずの言葉を待った。

 

 

「名前、なんて言うの?」

 

 

 青い髪の女の子は、真剣な表情でこちらを見ていた。俺の名前を知ることにどんな意味があるのかは知らない。けど、訊かれたのなら答えるのがこの世界のルール。

 

 

 

「高海、信吾。歳は二十歳だよ」

 

 

 

 だから、俺は素直にそう答えた。

 

 名前を聞いた女の子は、大きな瑠璃色の目をさらに見開いてこちらを見つめてくる。

 

 彼女が訊いてきたなら、次はこっちの番。

 

 綺麗なその瑠璃色の瞳を見つめながら、隣に座る女の子に問う。

 

 

「その、全然ナンパとかそういうんじゃないし、勘違いだったらほんとに申し訳ないんだけど」

 

 

 そう。これは、この胸の中にある違和感を失くすためだけにする質問。

 

 これを訊かなくては全部、曖昧なままで終わってしまう。

 

 きっと夏の蜃気楼として、すべてが七月に消えて行ってしまう。

 

 寄せては引くあの波に飲まれ、海に奪われてしまう。

 

 だから、俺は言った。

 

 

 

「俺たち、どこかで会ったことない?」

 

 

 

 十年は長いようで短い。俺は、この町で過ごした日々をよく覚えている。そこで出会った人達も、見た景色も、ちゃんと頭の中に記録されてる。

 

 だから、この女の子のことは知らない。

 

 なのに、どこかで会ったことがある気がしてならなかった。

 

 

「…………え?」

 

 

 そう言った後、青い髪の女の子は目を見開いたまま俺の顔を凝視し続けてきた。

 

 その意味が分からず、彼女の目を見つめていた。でも驚いたのはそれが理由じゃない。見間違いとしか思えない現実が、そこにあったから。

 

 問い掛けから数秒が経った時、見ていたその美しい瑠璃色の目から一滴の雫が零れた。

 

 

 その水滴は白い肌の上を滑り、綺麗な形をした顎先から彼女の服の上に落ちて行く。

 

 

 いや、もしかしたらあれは涙じゃなく──ただ同じ色をした、雨粒だったのかもしれない。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 それからすぐに雨は止んだ。

 

 青い髪の女の子はあの問い掛けに答えてくれず、俺もそれ以上なにかを口にすることはなかった。

 

 しばらくの間、徐々に弱くなっていく夕立と明るさを取り戻す空を見つめながら、俺たちは言葉を交わさずにバス停の中で俄雨が上がるのを待った。

 

 

「雨、止んだね」

 

 

 空を仰ぐ。厚い雲に穴を空けるみたいに顔を出し、綺麗な光の線を雨上がりの地上に注ぐ太陽。顔を下げると、視線の先に拡がる海は元の美しい水色を取り戻して、七月の日差しをキラキラと嬉しそうに反射させていた。

 

 そんな美しい青の世界に包まれ、心は思い出そうと鼓動を繰り返す。この町のことが大好きだった、あの頃の感情を。

 

 でも、まだ海は怖いまま。理由も分からないのに、俺はあの場所を無意識に怖がっている。

 

 

「身体冷えちゃうから、そろそろ行くよ」

 

 

 そう言って、ベンチから立ち上がる青い髪の女の子。

 

 数分前まで雨が降っていたことが嘘みたいに空は気持ち良く晴れ渡り、眩い日光が降り注いでいる。そんな透明な世界に足を踏み出して、彼女は頭上に還ってきた群青を見上げた。

 

 時雨の雨音が彼方へと去り、今度は忙しない蝉時雨が聞こえ始める。道路の向こう側にはゆらゆらと楽し気に陽炎が揺れ、そこにある夏の情景を幻のように見せていた。

 

 

「さよなら。高海信吾くん」

 

 

 青い女の子は乾き始めたアスファルトを蹴り、走り出す。

 

 その後ろ姿を見つめながら、潮の香りが混ざる空気を深く吸って、右手を強く握り締めた。

 

 

「待って」

 

 

 そして、間に合わなくなる前に走り出そうとする両の足を止めた。

 

 立ち止まった青い髪の女の子は何も言わず、前を向いたままこの口が吐く言葉を待っている。

 

 

「君の名前、訊いてなかった」

 

 

 今はただ、それだけが知りたかった。その名前に聞き覚えがあれば、俺の中にあったあの懐かしい感覚が形になるんじゃないかと思ったから。

 

 蝉の鳴き声と波の音が耳に届く。茹だるような日差しが照り付ける夏の日の午後。アスファルトからの照り返しと、駿河湾の向こう側から運ばれてくる柔らかな潮風。握り締めた右手に、じわりと汗が滲む感じがした。

 

 

「…………果南」

 

 

 青い髪の女の子はそう呟いてからこちらを振り返り、半身の姿勢でバス停の前に立つ俺を見つめてくる。

 

 明らかな憂いが含まれている表情に、少なからず訝しんだ。ただその疑問は声には出せず、胸の中で形になる前に氷菓のように夏の暑さに溶けて、すぐに消えた。

 

 

 

「私は───松浦果南」

 

 

 

 やはり、その名に覚えはない。だからあの違和感は、ただの気のせいだったんだろう。

 

 悲し気な顔は消えない。どうしてあんな顔をしてるのかが理解できなかった。何があの子をそうさせているのか、俺にはひとつとして分かりやしなかった。

 

 

 どこで海猫が鳴く。それと同時に、傍を通り抜けた涼風。

 

 

 リン、という透明な鈴の音が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 I shall not see the summer shadows.(あの夏影が霞んで見えてしまう)

 

 I shall not feel the rain.(私には雨さえも感じられない)

 

 And dreaming through the twilight(昇ることも 沈むこともない 黄昏の中で)

 

 That doth not rise nor set.(いつか見た夏の夢を見ている)

 

 Haply I may remember, (たぶん 覚えているかもしれないし)

 

 

 And haply may forget.(きっと 忘れているのかもしれない)

 

 

 

 ────the summer shadows

 

 

 

 

 ────いつか見た、あの夏の日まで────

 

 




次話/蜜柑色の従妹
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。