いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

12 / 35
堕天使とお嬢さま

 

 

 

 ◇

 

 

「こっちの準備はいいかー? そろそろ店を開けるぞー」

 

 

 店内の方の準備が一通り終わったので、確認するために厨房へと足を運んだ。

 

 

「うん、オッケーだよ。いつでもどうぞ」

 

 

 頭に手拭いを巻いた曜ちゃんがそう答えてくれる。確かに、彼女が作業するであろうスペースには綺麗に切り刻まれたキャベツやニンジンが置かれていて、下準備に抜かりは無いように見えた。

 

 しかし、問題はやはりというかなんというか、他の二人にあった。

 

 

「…………あっちの二人は何をしてるんだ?」

 

 

 こちらに背を向けて黙々と手元にある何かとにらめっこしてる金髪と黒髪。怪しくて仕方ない。どうしよう、超気になる。

 

 

「あはは。たぶん大丈夫、じゃないかなー?」

 

「曜ちゃんがそう言うならいいけど。じゃあ、店を開けるからよろしくなー?」

 

 

 微笑む曜ちゃんと怪しげな二つの背中に声をかけ、店内の方へと戻る。

 

 すると千歌は俺を待っていたかのように店の入り口に立ち、『大漁』とでっかく描かれた桃太郎旗を握り締めていた。どうした。

 

 

「何してんの、千歌」

 

「ふっ。ついにやるんだね、信ちゃん。やるからにはこの旗を店の外に掲げなきゃいけないっていう内浦のルールがあるんだよ」

 

「何その超安っぽいローカルルール」

 

 

 

 どうでもいいけどお客さんに迷惑にはならないようにしてくれ、と心の中で思っていると、千歌はくるりと振り返って店の外へと出て行った。

 

 

「────おぉーい! みなさーんっ! 海の家が開店しますよーっ! ぜひ来てくださーいっ!」

 

 

 それから千歌は、砂浜で遊んでいる人達全員に聞こえるくらい超デカい声を出した。案の定、たくさんの視線が一斉に海の家へと注がれる。すげぇな、人間拡声器かよこいつ。新たな才能をこの従妹に見出した気がした。

 

 

「よし、千歌。中で準備するぞ」

 

「うんっ。やるよーっ!」

 

 

 宣言通り店の前に旗を立てて、千歌は中へ戻って行く。俺もその後に続いて店内に入り、第一号の客が来るのを待った。

 

すると早速、若い女の子二人組が店に入って来た。カウンターの方にいる千歌と目配せをして一度頷き、その二人組の方へと近づく。

 

 

「いらっしゃいませ。お二人様でよろしいでしょうか?」

 

「あ、はい。そうです」

 

「ではこちらにどうぞ」

 

 

 客に席を促し、ラミネートされたメニュー表を机の上に置く。すかさず千歌がお盆にお冷を二つ乗せてやって来た。流石は自称・若女将。打ち合わせはしなかったのに、やるべきことは全部頭に入ってるらしい。

 

 

「ご注文お決まりになりましたらお呼びください」

 

「じゃあ、いいですか?」

 

「はい。どうぞ」

 

 

 女の子の一人にそう言われ、ポケットに入れてたメモ用紙とペンを即座に取り出す。

 

 

「えっと、この堕天使の涙EXってなんですか?」

 

「え?」

 

 

 お客さんがメニューのある部分を指さしてる。見ると『当店イチオシ!』、と赤ペンで書かれた横に黒々とした禍々しい感じの字体で“堕天使の涙EX”と書かれている。なんだコレ。誰が書いたのかは丸分かりだが、まったく内容が分からない。確かに気になるな、いろんな意味で。

 

 

「あー、コレは当店のおすすめとなっております」

 

 

 店員が分からないと答えるのはNGなので、機転をきかせて書いてある通りにふわふわっとした感じの説明をした。

 

 

「へー。じゃあこれ一つとヨキソバを二つください」

 

「分かりました。少々お待ちください」

 

 

 ささっとメモ用紙に注文内容を書き、すぐに厨房へと向かう。その間に二つ目のグループが店内に入って来ていたが、そっちは千歌が対応してくれていた。

 

 しかし、堕天使の涙EXって何だろう。大丈夫だよな。流石にあの厨二病女も人に食わせられないものは作ったりしない、よな。

 

 

「注文入ったぞー。堕天使の涙EX一つとヨキソバ二つ、よろしく」

 

「お、来た来た。待っててね、すぐに作るよ~」

 

 

 曜ちゃんは俺の注文を聞くなり、すぐさま鉄板で手際よく焼きそばを焼いて行く。ほうほう、こりゃ美味そうだ。

 

 少しこっちの方も気になったので、その作業を眺めて行くことにした。ヨキソバは既に一つ目が完成している。だが、一向に堕天使の涙EXが出てくる気配が見られない。何があった。

 

 

「で、堕天使の涙EXは誰が作るんだ?」

 

「クックック、堕天使の涙EX────爆誕」

 

 

 あ、ヤバい。なんか急に心配になってきた。いや、大体想像はついてたけど、あいつ一人で作るものだとは思ってなかった。

 

 こっちに背を向けている善子の方へと近づき、彼女の肩越しにその手元を覗き込んでみる。するとそこには。

 

 

「…………たこ焼き?」

 

 

 窪みのある鉄板の中で綺麗に丸められた小さな小麦粉のかたまり。見た目は間違いなくたこ焼きだ。しかも普通に美味しそう。

 

 心配して損した。堕天使の涙、とか言うくらいだからもっとヤバそうなのをイメージしてたんだけど、これなら大丈夫そうだな。

 

 

「フフ、これはただのたこ焼きじゃないわ、信吾」

 

「ただのたこ焼きじゃない? 何が違うんだ?」

 

「この中にはヨハネが魔界から持ってきた悪魔の調味料が入ってるの。さぁ、一つお食べなさい」

 

 

 そう言って善子は爪楊枝に刺したたこ焼きを俺の方に差し出してくる。悪魔の調味料という言葉に違和感を覚えたが、見た感じ全然不味そうには見えない。

 

 

「ふーん。じゃあ失礼して」

 

 

 せっかくなので試食してみることにして、軽い感じでそのたこ焼きを口に放り込む。

 

 外側は油で香ばしく焼かれ、中も熱々でいい感じの感触だった。ふむ、これならいけなくもなああああああああああああああああああああああああ!? 

 

 

「─────ぐぁああああああああああああああああああッ! な、なんだコレッ!?」

 

 

 口の中が痛い!? 違う、辛いんだ! 辛いを通り越して痛い! しかもとんでもなく。なんで? 

 

 

「フフフ。出てきたわね、悪魔の果実が」

 

「ゴホッ、ちょっ、水ッ、水をくれっ! 口の中が焼ける!」

 

 

 どういうことだ。見た目とのギャップに頭と舌がついて行ってない。そして頼むから日本語で説明してくれ。

 

 

「これは二年前に作った堕天使の涙の改良版。タコでもタバスコでもなく、ジョロキアパウダーをふんだんに詰め込んだ────これぞ、堕天使の涙EX」

 

「ふざけてんのかお前はッ!?」

 

 

 確かにボロボロ大粒の涙が出てくるけど、意味合いが違いすぎる。しかもこれが改良型ということは過去にも犠牲になった人がいるってことか。こんなもんただの罰ゲームじゃねぇか。

 

 

「ふざけてないわ。流石にこれを全部食べるのは危険だから、六つのうち一つだけ普通のたこ焼きが入ってるの。堕天使の優しさってやつね」

 

「なんでロシアンルーレット風!? つーか普通逆だろっ。どうでもいいから普通のたこ焼きを作ってくれッ!」

 

「ヤダ! 私は堕天使の涙が作りたいのッ!」

 

 

 なんか急に駄々を捏ね始めた善子。こんの女、可愛いからって調子に乗りやがって。こんなもん説明も無しに出したら食った人が天に召されるわ。生きてることにちょっと感謝してしまうレベルの辛さだった。

 

 

「我がまま言うなっつーのっ。お客さんが待ってんだよ! 御託はいいから早く食えるもんを作ってくれっ!」

 

 

 

 熱くなってしまい、思わず大きな声を出して詰め寄ってしまった。善子は一度ビクッと身体を震わせ、それからじわっと瞳を潤わせる。

 

 

「うー。な、何よ。新入りのリトルデーモンのクセに」

 

「あ……」

 

「わかったわよ。作ればいいんでしょ作れば」

 

 

 泣き目になりながら、言われた通り普通のたこ焼きを作り始める善子。その背中は明らかにシュンと沈んでしまってる。

 

 今のはちょっと言い過ぎたか。初対面の男にこんな風に言われたらそりゃビックリもするよな。とんでもないものを食わされて、ついカッとなってしまった。

 

 頭を掻きながら、涙目でたこ焼きを作る善子に声をかけることにする。まぁ、食えないほど不味くはなかったし、名前もあんな毒々しいんだからエッジを効かせたメニューとして出してもいいかもしれない。死ぬほど辛かったけど。

 

 

「はぁ……ごめん、少し言い過ぎた」

 

「…………」

 

「メニュー表にも堕天使の涙って書いてあるんだし、それで普通のたこ焼きを出しても面白くない。だから、特別に六個のうち一つだけ辛くしていい」

 

「え…………いいの?」

 

「あぁ、そっちのが面白いだろ?」

 

 

 慰めも含めてそう言ってやると、善子はぱあっと顔に笑顔を咲かせて俺の方を見てくる。その顔を見て不覚にも少しドキッとしてしまった。なんだよ、ちょっと可愛いじゃねぇかこいつ。

 

 

「やったっ。ふふ、見てなさいっ、このヨハネがとびっきり美味しい堕天使の涙を作ってやるんだからっ!」

 

 

 そう言って勢いよくたこ焼きを焼き始める善子。初めは話の分からない頭のおかしい女だと思ったが、ちゃんと反省も出来る善い子だったらしい。先入観で人を決めちゃいけないな、と反省してみる。

 

 こんな街にも変な奴はいるんだな、なんて、意気揚々とたこ焼きを作る黒い髪の女の子を眺めながらしみじみ思う俺であった。

 

 海の家の手伝いは、まだまだ始まったばかり。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 そうして開店からおよそ一時間が経った。正午に近づくにつれて、店内には昼飯を求める海水浴客が続々と訪れていた。

 

 俺が東京で鍛えたバイトの力と、旅館の倅として生まれ落ちた千歌の接客能力により、客はスカスカと入れ替わって行く。さらに予想以上に料理の評判が良く、食べて行ってくれた人の口コミで自然と宣伝が行われてるほどだった。強力なスパイスが効いた堕天使の涙EXも、罰ゲーム的な感じで若い男女の団体客には意外と好評だったり。

 

 

「出来たのデース!」

 

「ん……? なんだ?」

 

 

 注文が書かれたメモ用紙を持って行く途中で、厨房の方からそんな声が聞こえてきた。訝しみながら何があったのかを確認しに行く。また面倒なことにならないといいが。

 

 

「お、鞠莉ちゃん。ようやく出来たんだね」

 

「イエースッ。今回のは前回を越える超大作なのデース!」

 

 

 曜ちゃんとマリーが寸胴の中を覗き込みながら何やら話をしている。そういえば、さっきからあの子だけ料理を出してこなかったな。

 

 

「何が出来たんだ?」

 

「あ、信ちゃん」

 

 

 気になったので厨房の中に入り、ドヤ顔をしてるマリーと曜ちゃんに近づく。むふぅ、と息を吐くマリーさんは随分とご満悦らしい。

 

 

「フフフ、聞きたいデースカ? シンゴ」

 

「まぁ、それなりに興味は無くもない」

 

 

 微妙なニュアンスの回答だが、意味は通じるだろう。そう言うとマリーはニコッとキュートなスマイルを提供してくれた。

 

 

「なら実際にゴショーミあれっ!」

 

「お?」

 

 

 寸胴の中のスープ的な何かをお椀に入れて、マリーはそれを差し出してくる。見た目はなんていうか、控え目に言うと色んな食材が入った味噌汁みたいな感じ。率直な感想を述べるなら闇鍋。なんぞこれ。

 

 

「美味しいんだよ~? 食べてみて、信ちゃん」

 

「…………マジで?」

 

「うんっ。絶対美味しいから」

 

 

 鉄のしゃもじを持つ曜ちゃんに太鼓判を押される。もの凄く不安なんだが、曜ちゃんがそこまで言うのなら、という気にもなった。まず、これには何が入っているのだろう。蟹の足的な何かとデカい海老の顔がスープから飛び出ていて、俺のことをジーっと見てる。ヤダ、そんなに見ないで海老さん。つーかなんで味噌汁に蟹と海老? 意味が分からない。

 

 取りあえず鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。匂いは良いな。海鮮系のダシが効いてる感じがする。そして、俺は恐る恐るその味噌汁らしきものに口をつけてみた。

 

 

「ん゛─────ッ!?」

 

「どーうデスカ、シンゴ?」

 

 

 一口だけ口に含んだ瞬間、よく分からない声が何処からともなく出てきた。俺のリアクションを見てるマリーは予想通り、というような勝ち誇った顔をしている。

 

 

「こ、これは…………」

 

 

 お椀を持つ左手が震える。衝撃的過ぎて、右手に持った割り箸を落としてしまった。だが、そんなものも気にならないほど意識はこの謎のスープへと向かっている。

 

 もう一度スープを啜り、味を確かめた。やはり、それは、もう、これ以上ないくらいに。

 

 

「─────美味すぎる」

 

 

 なんだコレは。こんなに美味いものを俺は生まれて初めて口にした。いたって庶民的な舌しか持っていなくても、高級な味であると気づくことができた。それくらい絶妙な旨味がこれでもか、というほどに出ている。

 

 魚介系のダシと味噌ベースのスープ。口に入れた瞬間に感じる旨味成分の波動と、クセになってしまう魔法がかかっているかのような後味。どうやったらこんな美味い料理が作れるんだ。思わず感激してしまうほどに美味しい。

 

 

「よかったデースっ。今回も成功したわね~」

 

「や、ヤバくないかコレ。これを出したら相当売れるぞ。いや、マジで」

 

 

 俺の感想にマリーは満足そうな笑顔を浮かべる。あまりの美味しさに引き込まれてしまい、今度はスープの中に入っている具材へと箸を伸ばした。

 

 しかし、箸が摘み上げてきたものを見た時、何かがおかしいことに気づく。

 

 

「そうネ。じゃあ、早速メニューに載せまショーウ。名前は」

 

「ちょっと待て」

 

「ン? どうしたの、シンゴ」

 

 

 箸に掴んでいるものを確認する。食べたことはないが、テレビとかで見たことはある。でも何故スープにこんなものが入っているのだろう。これはそう。

 

 

「フカヒレ?」

 

 

 間違いない。それも結構分厚く、これだけでもかなりの値段がするんじゃないだろうか。

 

 

「ザッツラーイトッ。今朝、内浦の漁港から仕入れた新鮮なフカヒレデース!」

 

 

 マリーがそう説明してくれている最中に、再び箸をスープの中に入れる。すると次々に見たことしかない超レアな食材の数々が出てくる。

 

 

「……マリー、ちょっと訊いてもいい?」

 

「ンフ?」

 

「コレ、一杯いくらすんの?」

 

 

 訊ねると金髪美女は口の横に人差し指を当ててんー、と悩んでいた。その間、俺は予想が的中するかどうかを少しだけ期待する。

 

 

「そうねぇ。今回は多分……」

 

「……多分?」

 

 

 間が空いたのでオウム返しすると、マリーはシャイニーな笑みを浮かべて答える。

 

 

 

「二十万円くらいかしら~?」

 

「あんたは海の家に何を求めてんだ」

 

 

 

 何しれっとあり得ないこと言っちゃってんのこのセレブ。日曜日の夕方にやってる某お宝鑑定番組でもここまでの予想外は起きねぇよ。つーか今回は、って前もあったのか。

 

 

「アハハ……前は十万円だったよねぇ」

 

 

 焼きそばを作ってる曜ちゃんが遠い目をしてた。こいつらの過去に何があったんだ。

 

 

「っていうことで、このシャイ煮NEOをメニューに載せるわ~」

 

「鞠莉。セットで私の堕天使の涙EXも付けて二十万五百円でどう?」

 

「オウ、グレイトッ! ならシャイ煮NEOウィズ堕天使の涙EXのコラボで行きまショーウ」

 

「却下」

 

「なんでヨー!!!」

 

 

 即座に断ると、頬を両手でぐにぐにと引っ張りながら抗議してくるマリー。痛いっつーの。

 

 

「普通に考えてみろ。こんな所に二十万をキャッシュで持ってきてる奴が何人いると思う」

 

「んー。まず私でしょ?」

 

「持ってんのかいっ!」

 

 

 キレの良いツッコミを入れてから思わず頭を抱えてしまった。分かったぞ。この金髪のお嬢さま、もしかしなくても世界が自分中心に周るタイプの奴だ。もう一人同じ属性を持つ蜜柑色の髪の女を知ってるのでよーく分かる。

 

 

「イーじゃない。出してみたら意外と売れるかもしれないデショー?」

 

「一杯売れたらもう店を閉じていいくらいには儲かるかもしれないが、絶対売れない。賭けてもいい」

 

「モーッ! シンゴはキュートな顔してガンコなんだからっ。果南と一緒ね」

 

「誰がキュートだ」

 

 

 そしてどうして今あの子の名前が出てくる。予想もしてない名を聞いただけでちょっとドキッとしてしまったのは言わないでおこう。

 

 むー、と退かないマリーとにらめっこしてると、彼女は急に何かを閃いたようにハッとなり、邪悪な微笑みを浮かべて俺の顔を見てきた。

 

 

「フフ、シンゴ。あなたはさっき、このシャイ煮を食べたわよね?」

 

「……それがどうした?」

 

 

 首を傾げて答えると、マリーはさらにこちらへと近づいてくる。

 

 

「分かりませーんか? 味見とはいえ、高級なこのシャイ煮を食べたのだから……ちゃーんと、お代は払ってもらわないとね」

 

「へ?」

 

 

 俺の手にはいつの間にか空になったお椀が握られている。高すぎる値段に文句は言ったものの、あまりの美味さに箸を止めることが出来なかったんだ。しょうがないじゃん。

 

 マリーは徐々に顔と身体を近づけてくる。香水の良い匂いがする。それに気づいただけで、自然と心拍数が上がった気がした。

 

 

「ほら、払って? 食い逃げはいけないわ」

 

「い、いや。でも」

 

 

 彼女の細くて白い指が首筋に当てられ、肌を優しくそっと撫でられる。同時に息が止まった。それからマリーはくすっと笑い、目を細めて俺の顔に顔を近づけてくる。身長が同じくらいなので、余計に距離が近く感じた。

 

 

「ダメよシンゴ。どうしてもお代を払えないって言うのなら」

 

「な、なら…………?」

 

 

 マリーの指が顎先に触れる。近すぎて咄嗟に顔を反らした。だが、彼女は逃がさないというように俺の顔をくいっと自分の方へと向けさせた。

 

 息がかかる距離に綺麗な唇がある。薄っすらとメイクを施した白い頬と大きな目は逸らすことを許してくれない。

 

 心臓の音が外に漏れてしまう、とそんな懸念を抱いた時、マリーは俺の耳に口を近づけて小さな声で呟いた。

 

 

 

「…………身体で払ってもらうしか、ないわね」

 

「──────────」

 

 

 

 頭が真っ白になる。色っぽい声音に乗せられた言葉と甘い香水の匂いに、この意識は溺れてしまいそうになった。

 

 こんな綺麗な女の子に迫られるのなんて初めてだったし、耳を疑うようなセリフを聞いて思考回路はショート寸前。

 

 反応を楽しんでいるマリーの手が俺が着てるラッシュガードの中へと入れられそうになった、その時。

 

 

「てーいっ」

 

「あだっ!?」

 

 

 ぽこーん、とお玉的な物で後方から頭を叩かれる。そしてすぐさま襟を掴まれて俺は後ろへと引きずられた。

 

 

「いつまで油売ってるの、信ちゃん」

 

「ち、千歌……」

 

 

 俺のピンチ(チャンス)に現れたのは、店内の方に居た筈の千歌。なかなか戻ってこないことに痺れを切らしたのか、彼女はご機嫌ナナメ。めずらしくぷんぷんしてる。

 

 

「あら、ごめんね千歌っち。嫉妬ファイヤーが燃え上がっちゃったかしら~?」

 

「う、うるさいっ。鞠莉ちゃんはあんまり信ちゃんをからかわないでっ」

 

「オウ、ソーリー。あんまりシンゴの反応が面白かったからつい遊んじゃったのよ~」

 

 

 マリーはひゅう、と口笛を吹いてから千歌に謝ってくる。なんで謝るのかはよく分からんが、どうやら彼女は俺をからかっていたらしい。普通に考えればそうですよねー。でも。

 

 

「ちょ、千歌。なんでそんなに怒ってんだよ。俺はマリーの作った料理を味見してただけなのに」

 

「……ふんっ。信ちゃんなんてもう知らない」

 

「あ、ちなみにシャイ煮NEOは五百円まで値下げ出来るわよ~」

 

 

 遠ざかるマリーがそう言ってくる。嘘だろ。さっきの二十万はどうした。俺は最初から騙されていたってわけか。畜生、悔しい。

 

 そんな感じで、俺は何故か怒ってしまった千歌に引きずられて強制的に店内に戻され、仕事を再開したのであった。

 

 それから千歌は口を聞いてくれず、一人で黙々と接客をしていた。予想通り、新登場のシャイ煮NEOは爆発的に売れ出し、新たな起爆剤として役目を果たしてくれたとさ。

 

 海の家の手伝いは、まだ終わらない。

 




次話/蜜柑色の涙
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。