いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

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蜜柑色の涙

 

 

 ◇

 

 

 

 忙しい昼が過ぎ去り、段々と客足も少なくなって来た頃、ようやく俺は一休みをすることが出来た。何とかピークは乗り越えられたことに対し、深く安堵する。色々ヤバい事案がちょこちょこあったが、ここまで無事にやってこれたのでとりあえず良しとしよう。

 

 

「ふぉ~…………」

 

 

 厨房の奥にある狭い控室で、俺はのっぺりとした声を出しながらテーブルに突っ伏した。

 

 代わりばんこで休憩するということになったため、今は千歌にホールを任せている。あいつなら一人でも大丈夫だろう。しかし、あの子は俺がさっきマリーに迫られてるのを見てからずっとぷんぷんしっぱなしで、口を聞いてくれなかった。それでなんであいつが怒るのか、イマイチ理解できない。

 

 

「信ちゃーん? あ、居た居た」

 

「ん? ああ、曜ちゃんも休憩?」

 

「うん。ヨキソバ何人分か作り置きしてきたから、鞠莉ちゃんと善子ちゃんに任せてきちゃった」

 

 

 そんなことを考えながら休憩してると、控室に水色の水着を着た曜ちゃんが入ってくる。だが、厨房にあの二人だけを残してきて大丈夫だろうか。ヨキソバにジョロキアパウダーをかけたりしないよな。大丈夫だよな。

 

 畳まれて壁に掛けてあるパイプ椅子を広げてあげる。ありがと、と微笑みながら曜ちゃんは椅子に腰掛けた。

 

 

「あれ。それって」

 

「まかないだよ。えへへ、信ちゃんも休んでるみたいだったから持ってきたんだ」

 

 

 プラスチックのパックに入れられた曜ちゃん特製の焼きそばが二つ。そう言えば腹が減ってたことも忘れてた。唐突に腹の虫が鳴き始める。ありがたい。流石は曜ちゃん。

 

 

「ありがと曜ちゃん。悪いね、俺の分まで」

 

「どういたしまして。ちょうど信ちゃんにも食べてもらいたかったから」

 

「俺に?」

 

 

 焼きそばと割り箸を差し出してくる曜ちゃん。けど、今の言葉はどういう意味なんだろう。

 

 

「アハハ。わたしその、お父さん以外の男の人に手料理を食べてもらったことってなかったからさ。あ、お客さんは別だよ?」

 

「ああ、なるほど」

 

 

 そういうことなら分かる。なら俺は実験台みたいなモンか。女の子ってそういうの気にするみたいだしな。

 

 

「だから、食べてほしいんだ」

 

「はいよ。じゃあ遠慮なく」

 

 

 パックに付いた輪ゴムを外し、曜ちゃん特製のヨキソバをいただく。客の所に運んで行くときもめちゃくちゃ美味そうだったから、実は食べてみたかった。

 

 曜ちゃんは自分の分に手を付けずに、焼きそばを頬張る俺を見てる。あんまり見られるとちょっと恥ずかしい。けど、気になるんならしょうがないかな。

 

 

「どうかな?」

 

「ん。いや、超美味い」

 

「ホント? お世辞じゃない?」

 

「ホントだよ。曜ちゃん、料理も上手いんだ」

 

 

 食べてみて思ったことを言う。それを聞いた彼女はくしゃっと顔を綻ばせた。

 

 

「よかったぁ。ふふ、嬉しいな」

 

「すごいね。相変わらず曜ちゃんは何でもできるんだな」

 

 

 昔もそうだった。この子は俺や千歌に出来ないことをなんでもすんなりやってのける女の子だった。

 

 千歌から教えてもらったけど、曜ちゃんは中学時代、高飛び込みで全日本の強化選手にも選ばれるほどの実力を持った選手だったらしい。その話は全然意外じゃなかった。この子ならいつかきっとそうなるんじゃないか、とあの頃から感じていたから。

 

 

「はは…………ううん。全然すごくなんてないよ」

 

 

 曜ちゃんは割り箸を割って、笑いながら小さい声でそう返してきた。謙遜してるのかと思ったけど、どこか様子がおかしいことに気づく。

 

 

「でも、そう思う。俺は曜ちゃんのこと、うらやましく思ってたんだよ」

 

「うらやましい? なんで?」

 

 

 口に入ってる焼きそばを飲み込んでから答える。

 

 

「だって、あの頃から曜ちゃんは何だって出来ただろ? それがうらやましかったんだ」

 

 

 まだ小さかったあの時を思い出しながら語る。記憶の中にいる曜ちゃんは今のように垢抜けてはいなかったけど、運動神経が高くて手先が器用で要領が良い元気な女の子だった。

 

 それが十年後、こんなに綺麗に可愛くなってしまって、あの頃と同じく何事も他の女の子よりも先に行ってる。性格だって良い。今の彼女の全てを知ったわけじゃないけど、曜ちゃんは俺がイメージしてた通りの大人へと変わっていたんだ。

 

 でも、曜ちゃんは俺の言葉を聞いて微笑みを消した。そこで唐突に思い出す。

 

 

「ちがうよ、信ちゃん。わたしはそんなんじゃない」

 

 

 この子は、自分を褒められるのが嫌いな女の子だった、ってことを。

 

 

「なんで、そう思うの?」

 

「だってね、わたしはいっつも欲しいものが手に入らないんだ。たしかに大抵のことは出来るんだけど、自分で“どうしてもこれが欲しい”って思ったものは毎回手に入らないの」

 

 

 あはは、と曜ちゃんは空笑いを浮かべながらそう語る。彼女のように才能のない俺には理解が出来ない、その言葉を。

 

 だから訊いてみたくなった。こんなに可愛くてなんでもこなせる女の子が手に入らないものって、どんなものなのか。

 

 

「それは、好きな人とかも?」

 

「…………そう、だね」

 

 

 曜ちゃんはそっと頷く。好きな人がいることに驚きはない。けど、本当にこんなに完璧な女の子でもその人を射止められないのか、と疑問に思ってしまう。

 

 そいつは一体、どんな奴なんだろう。

 

 

「それはどんな人なの?」

 

「うーん…………聞きたい?」

 

「うん。聞いてみたい」

 

 

 頷いてみせると、曜ちゃんはふぅっと息を吐いてからこちらに顔を向けてきた。

 

 

「しょうがないから、信ちゃんには特別教えてあげる」

 

 

 そう前置きしてから曜ちゃんは続けた。

 

 

「……その人はね、わたしなんかよりもずっとキラキラ輝いてて、眩しくて、温かい太陽みたいな人なんだ。その人はずっと自分のことを普通だと思ってる。でも、わたしからすれば全然普通なんかじゃないの。そういうところも、好きなんだけどね」

 

「へぇ。愛されてるんだな、その人」

 

 

 そこまで曜ちゃんがぞっこんだとは思わなかった。そいつはさぞ良い奴に違いない。

 

 

「えへへ。でも、結局言えないまま高校は卒業しちゃったし、これからも言うつもりはないんだ」

 

「え、どうして。曜ちゃんなら大丈夫だって、絶対」

 

「だって、断られちゃうと思うから」

 

 

 曜ちゃんの告白を断るだと? そんな輩がいたら俺がぶっ飛ばしてやる。ますますその人に興味が湧いた。いや、流石に名前とかは訊かないけどね。野暮だし。

 

 

「もったいないなぁ。ホントに当たってみる気はないのか?」

 

「今のところはないかな。ふふ、信ちゃんって意外とこういう話が好きなんだね」

 

「む。まぁ、俺だって普通の男だし、興味はあるよ」

 

「じゃあ、信ちゃんもいるの? 好きな人」

 

「え」

 

 

 その質問に心臓が高鳴る。自然に誤魔化せば良いものを、突然な言葉に俺はあからさまに怪しい態度を取ってしまった。

 

 

「あ、やっぱり居るんだ。どんな人なの~?」

 

「お、教えない」

 

「えー。わたしは答えてあげたのに~」

 

 

 曜ちゃんは唇を尖らせてぶーぶー言ってる。言える筈がない。だって、俺もまだよく分かってないんだから。

 

 でも、あの子の顔が一瞬頭を過ったのは、気のせいじゃない。

 

 

「とにかくダメ。あ、そろそろ戻らなきゃだな」

 

「あー、逃げるの信ちゃん」

 

「違うって。はぁ。じゃあ、また今度教えてあげるから。その時になったらちゃんと話を聞いてくれ」

 

「ホント? うん。分かった。聞いてあげるね」

 

 

 その時が来るのかどうかも分からないが、この場を乗り切るためにはそう言うしかなかった。

 

 曜ちゃんからもらった焼きそばを頬張り、逃げるように席を立つ。けど控室から出る直前、言わなきゃいけないことを思い出して振り返った。

 

 

「曜ちゃん」

 

「ん?」

 

「ヨキソバ美味しかったよ。ご馳走さま」

 

「うんっ。どういたしまして」

 

 

 いつも通りの元気な笑顔。でも、やっぱりこの子は明るく振る舞ってても、ちゃんと自分のことで思い悩める女の子だった。そこも昔から変わらない。

 

 もう一度振り返って、今度こそ店内の方に戻ろうとした。ドアを開き、曜ちゃんを残して控室から出て行く。

 

 

 

「…………わたしは千歌ちゃんに愛されてる、信ちゃんがうらやましいんだよ」

 

 

 

 そんな言葉が聞こえたけど、既に閉じてしまった扉を開けることはしなかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 俺の分の休憩は終わったので、厨房の前をを通り抜け店内へと戻る。今度は千歌に休んでもらわなきゃ。あいつも働きっ放しで疲れてるに違いないしな。

 

 

「善子、このジュース一本貰ってくぞ」

 

「ヨハネよっ。うん、別にいいんじゃない」

 

「じゃあお構いなく」

 

 

 氷の入ったバケツに浮かんでる冷えたオレンジジュースを一本掴み取り、店内へと向かった。ジュース一本で許してもらおうとか思ってる自分もちょっとせこいなとも思うが、何もやらないよりは気持ちが伝わるだろう。

 

 しかし、なんで千歌はあんなに怒ってしまったのだろうか。別に俺が誰と何をしようが、従妹のあいつには関係ないと思うんだが。

 

 そんなことを考えながら、店内に繋がる建てつけの悪いドアを開ける。予想通り客は少ない。でも。

 

 

「あれ」

 

 

 パッと店内を見渡しても、千歌の姿が見えなかった。居るのはひそひそと小さな声で話をしてる三人の女性客だけ。あの子が何も言わずに勝手に店を空けるだなんて、何かあったんだろうか。

 

 彼女の姿を探していると、その三人組が俺の存在に気づき顔を向けてくる。

 

 

「あの、もしかしてここの店員さんですか?」

 

「え。あ、はいそうですけど」

 

 

 注文かと思い、手に持ったオレンジジュースを近くの机の上に置いてポケットからメモ帳とペンを取り出す。だがすぐにその様子がおかしいことに気づく。

 

 

「言っちゃっていいのかな」

 

「うん。教えてあげた方がいいって、絶対」

 

「そうだよね。結構ヤバい雰囲気だったもんね」

 

「?」

 

 

 ひそひそ話が終わり、一人の女性が決心するようにこちらを見てきた。少しだけ申し訳なさそうなその顔は何となく、具合が悪くなった人間に手を差し伸べられなかった人が浮かべる後悔の表情によく似ていた。

 

 

「その、ここにあなたと似た髪色の女の子が働いてましたよね」

 

「はい。それがどうかしましたか?」

 

 

 千歌を知ってる? ならこの人達はあいつの行方も分かってるのかもしれない。

 

 訊いてみよう、と思い口を開こうとした時、俺よりも先に女性客が重要な言葉を発した。

 

 

「実はあの女の子、さっき店にいた男の人達に連れて行かれちゃったんです」

 

 

 手に持っていたメモ帳とペンが床の上に落ちる。そんなことにも気づかないくらい、耳には音という音が入ってこなかった。ここにある筈の意識が、何処かに消えてしまった。

 

 

「………………今、なんて?」

 

 

 複雑に絡み出した思考回路からかろうじて零れ落ちた、その言葉。暑さが店内からなくなってしまったみたいだ。身体の中にある筈の感覚というものが、ほとんど欠落した状態に陥っている。

 

 ぐるぐると同じ考えが頭の中を堂々巡りする。なんで、とかどうして、とか。そんなことしか考えられない自分が嫌になった。

 

 時間が進むにつれて、夏の音が戻ってくる。騒がしい蝉の鳴き声とすぐそこにある海が奏でる潮騒と、店内に置かれた扇風機が回る音だけがここにはあった。

 

 それ以外は何も無い。

 

 本当に、何も無かった。

 

 

「えっと。四人くらいのグループの男の人達があの女の子に声をかけてて。女の子は断ってたんですけど、結局強引に連れて行かれちゃって」

 

 

 ごめんなさい、と謝ってくる三人の女性客。違う。悪いのは貴女方じゃない。千歌でもない。なら、誰が悪い。

 

 身体の中を流れる血液が急激に冷えて行く感じがする。額から一滴の冷や汗が頬を辿り、顎先から床へと落ちて行った。

 

 机の上に置いたオレンジジュースが汗をかいている。じわり、と木製の卓上に水滴を広げて行っていた。

 

 何をやってんだ。そんな悪態は、あの夏蜜柑色の従妹に思ったものではない。

 

 

 

 ただ、あいつから目を離してしまった()()()に向けた言葉でしかなかった。

 

 

「ッ!」

 

 

 曜ちゃんがまだ休んでいる控室へと足を向ける。急がなくては本当に大変なことになってしまう。

 

 千歌の顔が脳裏に浮かぶ。それだけで全身に力が入った。とにかく走れ、と本能が徐々に熱を帯びて行く。

 

 厨房を通り抜け、控室のドアを力強く開く。すると携帯を弄っていた曜ちゃんが驚いた顔で俺の方を見てくる。無理もない。けど悠長に説明をしてる暇はもっとない。

 

 

「し、信ちゃん?」

 

「曜ちゃんっ、ちょっと店を空けるからホール頼んだ!」

 

「え? ちょ、ちょっと待ってよっ!?」

 

 

 返事を聞く前に振り返り、店内を駆け抜けて外へと出て行く。履いていたサンダルが邪魔だったので走りながらその辺に吹っ飛ばし、素足で砂浜を駆ける。

 

 

「どこだ」

 

 

 ここの浜自体、あまり大きいものでもない。だからすぐに見つけ出せる。そう思うのに、見つけたい蜜柑色がなかなか視界に入ってこない。

 

 立ち止まることももどかしく、宛てもなく海水浴客達の間をすり抜けながら千歌の姿を探した。だが、やっぱり見つからない。一秒毎に不安が募って行く。焦りが汗の雫となって額から落ちてくる。

 

 走りながら自分の安易な行動を悔やんだ。どうして先に千歌を休ませなかったのか。何故、何かあったら一声かけろと言わなかったのか。

 

 そもそも、あいつが怒ってることに気づいていたのに、どうしてこちらから謝らなかったのか。俺は、そのすべてを後悔していた。

 

 

「千歌……っ」

 

 

 あいつに何かがあったら、と考えるだけでも怖くなる。こうなってしまう可能性があったことも、最初から気づいていた筈だ。

 

 あの子はもう、俺が知っていた頃の千歌じゃない。一度も会わなかったこの十年で正しく成長して、正しい女性としての魅力を持った十九歳の女の子になっていたんだ。

 

 もし、俺があいつを知らなかったら目を奪われてしまっていたかもしれない。勇気を出して、声をかけてしまっていたかもしれない。

 

 それくらい、千歌は綺麗になっていた。なのに。

 

 

「バカか、俺は」

 

 

 今さら悔やんでも仕方ないのは重々承知だ。だけど悔やまないわけにはいかなかった。そうしなければ俺は、自分が犯したミスをありきたりな理由を付けて許してしまう。それだけはダメだった。

 

 太陽の熱が吸い込まれた砂浜の上は、やけどをしてしまいそうになるくらい熱い。それでも止まることは出来ない。何とかしても千歌を見つけなければならない。その思いだけが足を前に進ませた。

 

 全速力で走りながら蜜柑色の髪を探す。数人の客にぶつかりそうになって咄嗟に砂浜に転んだりもした。すいません、と謝ってからすぐに立ち上がって前へと向かう。

 

 何処に居るんだ。頼むから出てきてくれ。心の中で何度そう願っても千歌は見つからない。ここに居ない、ということはもっと遠くに連れて行かれたのか? その考えが浮かんだ瞬間、無意識に足に力が入った。

 

 どうすればいいのか分からなくなる。走って探しても見つからないのなら、次はどんな手を使って千歌を見つければいい。俺には分からない。分からなくても絶対に探し出さなくてはいけない。

 

 目で見つけられないのなら、耳を澄ませばいいのか。そうだ。なら、あの騒がしい声を探せ。あいつの声量ならば、この人数の中でも確実に聞き取ることが出来る筈だ。

 

 そう思い、海水浴客達の声に意識を傾けた時。

 

 

 

『離してくださいっ!』

 

 

 

 そんな声が何処からか聞こえた。確かに聞こえた。自分自身に確認するために何度も反芻する。

 

 立ち止まり、声が聞こえてきた方向に顔を向ける。そこにあるのは無数のテントとパラソルの群れ。だが、それだけ分かれば十分。

 

 その方向へと駆け出す。そして、探していた夏蜜柑色をようやく見つけたのだった。

 

 

「千歌っ!」

 

 

 四人組の男グループに囲まれてる小さな身体。俺はその前に盾になるように身体を立たせ、前に居る男共と対峙した。

 

 

「し、信ちゃん?」

 

「何、お前」

 

 

 千歌を連れ去ったという男達はやはりというか、なんとなく想像してた通りの見た目の輩だった。歳は多分、俺とさほど変わらないだろう。髪を明るく染めたり、身体を真っ黒く日焼けさせてる奴もいる。

 

 走ったせいで息が上がり、言いたい言葉がなかなか出てこなかった。しかし、ここまで来ればもう大丈夫だろう。少なくとも千歌がどうこうされる心配はなくなった。その事実があるだけでも、深い息を吐いてしまいそうになる。

 

 

「…………分かってると思うけど、この子はうちの店で働いてる。仕事の邪魔をしないでほしい」

 

「ハハ、そうそう。一人で暇してそうだったから一緒に遊んでくれって言ったんだよ」

 

「可愛くてあんまりエロい身体つきしてたから、声かけちゃった」

 

 

 下品な笑い声を上げる男共。思わず舌打ちが出そうになったが、何とか寸前のところで堪えた。ここで乗ってしまえばこいつらの思うツボだ。俺はそこまで喧嘩っ早い性格をしてるわけじゃない。むしろこの臆病さに今は感謝したかった。こいつら全員をぶん殴りたい衝動は腐るほど出てきたけれど。

 

 

「…………」

 

 

 千歌が俺の後ろに身を隠すのが分かった。こんなことを知らない男に言われて怖くない筈がない。だからこそ、間に合ってよかった。

 

 でも、絶対にこいつらは許さねぇ。

 

 

「残念だけど、この子にはあんたらと遊んでる暇はないんだ。こっちには仕事がある」

 

「あんなにぼろくて暇そうな店なのにか?」

 

「……っ。そ、そんなこと!」

 

「千歌。黙ってろ」

 

「ぇ…………う、うん」

 

 

 店を馬鹿にされて千歌が挑発に乗りそうになる。言い返したい気持ちはよく分かるが、今は余計なことは言わない方がいい。

 

 

「とにかく、この子のことは諦めてくれ。店にも迷惑をかけてほしくない」

 

「はっ、カッコいいこと言うねぇ童顔のお兄ちゃん」

 

「さっきから偉そうな口利いてるけど、何? あんた、この子の彼氏なの?」

 

 

 俺を見下すように背の高い男が訊ねてくる。理性がどうにか我慢してくれているが、そろそろ限界だ。これ以上話していたら間違いなく手を出してしまう。

 

 千歌のためにも、店のためにも、ここで問題を起こすわけにはいかない。勤務時間外なら容赦なく殴りかかっていたが。

 

 けど、これはチャンスだ。その質問が飛んで来たのなら、こう答えるのが一番正しい。それがたとえ虚言であっても、千歌を守るためなら嘘くらい吐いてやる。

 

 こいつらが狙うのは、恋人がいなそうな女の子。なら、諦めさせるために必要なセリフは一つだけ。

 

 

 

「…………だったら、どうする」

 

 

 

 背の高い男を下から睨み付けながら、低い声でそう答えた。ただ訊き返しているのか、それとも肯定なのか曖昧な答え。だが、この状況なら相手には確実に肯定に聞こえるに違いない。

 

 そう答えると四人の男は俺の顔をしばらく見つめてから、ふっと興が冷めるかのように俺達から離れた。気づけば周囲の人達も何かあったのか、と視線をこちらに向けている。それは俺としてもありがたかった。この状況で今の言葉を聞いてもなお手を出して来たら、そいつは相当な馬鹿か人目を気にしない馬鹿か、そのいずれかしかない。

 

 

「んだよ、彼氏いんのかよ。つまんねぇ」

 

「ピュアそうな女の子だったから、いねぇと思ったんだけどな」

 

「てかお前が最初に声かけるとか言ったんだろ」

 

「は? 俺のせいかよ。だいたいお前らも───」

 

 

 その二つのどちらでもなかった男達はそんな会話をしながら俺達から背を向けて歩いて行く。それを確認して、ようやく溜まりに溜まっていた安堵の息を吐いた。

 

 

「はぁ…………よかった」

 

 

 話し合いで解決することを選んだのは、男として少々女々しいかもしれないが、立場上仕方ない。

 

 そんなことを考えながら、後ろを振り向く。そこには瞳を潤ませた夏蜜柑色の従妹が立っていた。

 

 

「…………信、ちゃん」

 

「ごめんな、千歌。もう少し早く見つけられればよかった」

 

 

 そんでもって目を離さなければよかった、と後に続く筈だった言葉を心の中で呟いた。これを言ってしまえば千歌が気にしてしまうと思ったから、言わないであげた。

 

 千歌は顔を歪めてぽろぽろと涙を流し始める。泣かせるつもりはなかったが、そりゃあんな男達に無理矢理連れて行かれて恐怖を感じない筈がない。

 

 

「っと…………」

 

 

 俺の胸にぼふっと顔を埋めてくる千歌。引き離すわけにもいかず、そのまま彼女に胸を貸してやった。

 

 

「信ちゃん……っ」

 

「ん?」

 

「怖かったよぉ……」

 

 

 涙声でそう言ってくる千歌。こう言ったら不謹慎かもしれないけど、その言葉を聞けて俺は安心した。

 

 

「だよな。でも、無事でよかったよ」

 

「──────っ」

 

 

 そう言ってやると千歌は、今度は背中に腕を回して強く抱きついてきた。まぁ、泣いてるんだから仕方ない、と言いたいところだがこれはちょっといただけない。

 

 俺は薄手のラッシュガードで千歌は水着だし。その、顔に似合わず大きい胸とか、その他諸々が身体に押し付けられてる。落ち着くんだ、俺。従妹の身体に反応するだなんておかし、くはないが、モラル的にも人目(ひとめ)的にもヤバいものがあるので、ここは冷静になることにした。

 

 

「…………信ちゃん?」

 

「どした?」

 

 

 どさくさに紛れて顔の前にある髪の匂いを嗅いだりして時間が過ぎるのを待っていると、泣き止んだ千歌が見上げてくる。頬は桃色に染まり、赤くなった瞳には俺の顔がちゃんと映っていた。その女の子っぽい表情を見て、無意識にドキッとしてしまったのは許してほしい。

 

 

「ありがと」

 

 

 それだけ言って千歌はそっと微笑んだ。それは、雨が止んだ空から差し込む優しい太陽の光みたいな笑顔だった。

 

 俺からも言いたいことは山ほどあったが、そんな顔をされたら何も言えなくなってしまう。畜生、千歌のクセに生意気だ。

 

 そう言えば、昔も千歌が泣いた時は泣き止むまでいつも待ちぼうけを食らった記憶がある。見た目はこんなに変わってしまったのに、やってることは全然変わってない。

 

 それを思ったら自然と笑ってしまった。知らない男について行くな、と怒らなきゃいけないのかもしれないけど、今は許してやろう。

 

 

「ああ。どういたしまして」

 

 

 それから俺達は海の家に戻り、閉店までやれるだけの仕事をした。

 

 口を聞いてくれなかった千歌がちゃんと話をしてくれるようになったのは、さっきの一件の所為。許せない事件だったけど、それだけは感謝したかった。

 

 




次話/君のために
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