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「ふぉおおおおおおおお…………」
疲れ果てた全身の奥底からそんな声を出し、砂浜の上に仰向けに寝転がった。
夏の夕暮れ。藍色の空には一番星が輝いている。頭上を旋回してる海鳥がお疲れさん、と気さくな感じで声をかけてくれた。嘘です。そんな感じに見えただけ。
砂浜に居た海水浴客は今ではほとんど居なくなり、やがて閉店時間が訪れた。それから少し経った後、こうして外に出て今日一日やり切った達成感を噛み締めていたのであった。
「ふ~。なんとか最後まで乗り切れたね」
「フフ、このヨハネがいれば大丈夫だと言ったでしょ」
「その割には疲れてるデース。相変わらず善子は強がりなんだから~」
「つ、強がってなんかないっ。あと善子言うなっ」
頭の上では厨房組三人による会話が行われていた。そもそもこの子達がいなかったら海の家自体成り立っていなかったので、感謝しか出来ない。する気力も出ないんだけど。
「うーん。…………疲れたけど、楽しかったなぁ」
寝転がる俺の隣に立ち、両手を空に伸ばして背伸びをする千歌。あんなことがあったけど、すぐに気持ちを切り替えてくれたのはこいつの強靭なメンタルのお陰なんだろう。流石は高海家の三女。あれくらいのことで壊れるほど軟な精神は持ち合わせていないらしい。
「楽しかった?」
「うんっ。みんなと一緒に働けて楽しかった。えへへ。変、かな?」
照れ笑いを浮かべながら千歌はそう言ってくる。俺としてはただ疲れただけと言いたいのだがまぁ、まったく分からないわけでもない。きっと、こいつはこうしてみんなで一つの何かをやり切ることを楽しみにしていたんだろう。昔からそういう奴だからな。背が伸びて胸がデカくなっても、そこら辺は変わらないんだと思う。
「別に。いいんじゃねぇの」
共感したらまた面倒な絡みに巻き込まれそうだったので、そうやってぶっきらぼうに答えてやる。俺が何を考えてるのか分かってるのか、千歌はニヤニヤしながらこっちを見下げてきた。くそ、なんか悔しい。
結局、最終的な売り上げは美渡姉に示された金額を大きく上回り、俺達は約束通り桟敷席のチケットをゲットすることに成功した。
しかし、俺が涙を流しながらそのチケットを握り締めていると、美渡姉からチケットを受け取ったマリーが不思議そうな顔をして『このチケット、家に百枚くらいあったのに~』と言ってはいけないことを言い出し、ついさっきまで絶望に打ちひしがれていた。
今日一日の努力は何だったんだ。それが真実だったとしても、あの言葉は一番聞きたくない言葉だった。因みに理由を訊いてみると、彼女の親が経営する淡島ホテルの花火大会に対する協賛金はとんでもない金額で、運営する沼津市から毎年余ってしまうほど桟敷席のチケットが届くらしい。どうでもいいけど、このセレブはもう少し庶民の喜びを勉強するべきだと思いマース。
そんな出来事を思い出しながら、静かな潮騒とひぐらしの鳴き声を聞いていると、曜ちゃんがある人の名前を呼んだ。
「あ、果南ちゃんだ。おーい、果南ちゃーんっ」
それはあまりにも思いもよらないタイミングすぎて、心臓に悪かった。咄嗟に上半身を起き上がらせ、後ろを振り向く。
海岸通りの県道。そこに立ってこっちを見ていたのは確かに、青い髪をしたあの子だった。格好は昨日と同じランニングスタイル。多分、今日も走っていたんだろう。
曜ちゃんに呼ばれた果南は短い階段を下りてこっちに歩いてくる。その間に俺は立ち上がり、ポケットに入れた二枚のチケットに手を触れた。
「果南ちゃん」
「や。みんな揃ってどうしたの?」
「今日は海の家の手伝いをしてたのデース。果南も来ればよかったのに~」
マリーがそう言うと果南はあー、と納得したような顔をする。彼女も仕事があったんだから、来られなかったのは仕方ない。俺も本当は来てほしかったけどな。
「そうなんだ。みんな、お疲れさま」
「ククッ、ヨハネは疲れてなんかいないわ。堕天使はこんなことでは根を上げないの」
「ふふ、善子ちゃんは相変わらずだね。あんまり無理しちゃダメだよ」
「だから無理してないってばっ。う~、なんでみんな分かっちゃうのよ~」
分かりやすいんだよお前、とうっかり零してしまいそうになったが寸前のところで耐えた。この小さな堕天使も頑張ってくれたからな。火事を起こしかけた時はマジで死ぬかと思ったけど。
「それで、海の家はどうだったの?」
「うん。バッチリだったよっ」
千歌が笑顔でそう答える。俺は隣で何とも言えない気持ちを抱きながら黙って頷いていた。バッチリの範囲がどの程度なのかはご想像にお任せします。
「そっか。それならよかったね」
そう言って、果南はこちらをチラリと見てきた。あぁ、そうか。俺が手伝ってるのが意外だったんだろう。一人だけ全然関係ない人間だからな。そう思うのも仕方がない。
けど、俺にはちゃんと手伝う理由があった。このチケットをどうしても手に入れなきゃならないっていう、しっかりとした動機があったからやったんだ。
この子に、どうしても渡したかったから。
「その、果南。昨日はありがとな」
「え? ああ、うん。私の方こそ」
「えっと、そのお礼って言っちゃなんだけどさ」
果南に近づき、ポケットに入っている二枚のチケットのうち、一枚を引き抜いた。
そして、彼女にそれを差し出す。本当は明日にでも淡島に行って渡す予定だったんだけど、ここで会えたんだから渡しておかない理由はないと思った。
「…………これ」
「海の家を手伝ったら貰えたんだ。明日花火を見るから、ちょうどいいと思って」
果南はこのチケットがどれだけレアなものなのか分かっているのだろう。驚いた顔をして、俺の手にある一枚の紙を眺めていた。
せっかく彼女が花火大会に誘ってくれたんだから、俺からも何かを返したかった。だからこれを貰えてよかった。
「いいの? 私なんかに」
「果南にあげたかったんだよ。だから貰ってやってくれ」
少し恥ずかしいことを言いながら、渋る果南にチケットを押し付けた。二枚あったところで他に誘う奴もいないし、貰ってもらわないと困る。
俺からチケットを受け取った果南は、手に持つ一枚の紙をジッと見つめていた。
それから数秒後、彼女は顔を綻ばせてくれる。
「…………ありがと、信吾くん。うれしい」
この笑顔が見れただけで、今日一日の努力がすべて報われた気がした。
それと同時に、明日の花火大会が楽しみで仕方なくなってしまった。遠足を心待ちにして眠れなかった小学生の頃の気持ちを思い出した。
明日も、今日みたいに晴れますように。
藍色の空にお願いをして、死ぬ気で駆け抜けた海の家の手伝いは終わったのだった。
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