いつか見た、あの夏の日まで。   作:雨魂

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弁天島の伝説

 

 

 

 ◇

 

 

 それから旅館に帰った後、千歌と一緒に夕食を食べて部屋に戻り、窓際の机に突っ伏していた。窓に映る疲弊したその姿は、まるで夏の暑さにだれる犬のよう。今ならしいたけの気持ちがよく分かる。

 

 時刻は二十時を半分すぎた頃。鈴虫の鳴き声が部屋に届いている。まるで季節が今を秋だと勘違いしてしまっているのではないか、と思うくらい、涼しい夜だった。

 

 

「お疲れだね、信ちゃん」

 

「そりゃ疲れたよ。よく平気でいられるな、千歌」

 

「えへへ。なんかね、楽しいことをしてると疲れないんだよ」

 

「え。何、そのチート能力。俺にもくれよ」

 

 

 向かいに座るのは部屋着姿の千歌。暇だから遊ぼ! と、部屋に突入してきたのは数分前のこと。

 

 外から届く鈴虫の鳴き声と穏やかな波の音を聞きながら、俺達は他愛もない会話をしていた。果南が言っていた部活の話も訊いてはみたけど、千歌は恥ずかしがって答えてくれなかった。何を照れてんだこいつらは。そんなに恥ずかしい部活だったのか?

 

 

「あ~。あっつい温泉に入りたい」

 

「あ、じゃあ一緒に入る?」

 

「入るわけねぇだろ」

 

 

 いきなり何を言い出すんだこの女は。いや、別に入りたくないわけじゃないけど、理性的な問題を加味するとやめておいた方がいいんじゃないかと思う。

 

 

「昔はよく一緒に入ったのにね」

 

「昔は昔だ。今は違うだろ」

 

 

 それでも良いと言われたら俺は喜んで、ではなく、仕方なーく一緒に入ってやろう。だがしかし、そこら辺の恥じらいはこの従妹も普通に持ってるらしい。

 

 

「そうだよね。うん、やっぱり今はヤダな」

 

「それが当たり前なんだよ」

 

「あ、水着とか着たら大丈夫かも」

 

「どんだけ俺と風呂に入りたいんだ、お前は」

 

 

 そういうきわどい話題は男の欲望的によくない。話をしてると考えちゃうからな。千歌に背中を流してもらってるところとか、逆に俺が流してやるとかおっと危ない。それ以上考えたら悶々して眠れなくなってしまう。

 

 そんな感じでほのぼのと話をしてると、部屋のドアが二回ノックされる。

 

 

「どうぞ」

 

 

 鍵はかけていなかったので入れる筈だ。俺がそう声をかけるとゆっくりとドアが開き、訪ねてきた人の姿が見える。

 

 

「休んでるところごめんね、信吾くん。洗濯物、乾いていたから持ってきたわ」

 

「あ、おかーさん」

 

「あら、千歌もいたのね。二人で何を話してたの?」

 

 

 部屋に入って来たのは洗濯カゴを抱えた叔母さん。そういえば乾燥機に入れっぱなしだったな。申し訳ない。

 

 

「すいません、わざわざ持ってきてもらって」

 

「いいのよ。これが私の仕事なんだから」

 

 

 椅子から立ち上がり、叔母さんから洗濯物を受け取った。

 

 

「お母さん、お風呂沸いた?」

 

「そういえばまだ沸かしてなかったわね。どうして?」

 

「あのね、なんかね。信ちゃんが今日は千歌と一緒にお風呂に入りたいんだって」

 

「いつ俺達はそんな話をしたんだ、なぁ。お前の頭には会話をおかしな内容に変換する装置でも付いてんのか」

 

 

 よりによって自分のお母さんにそんな爆弾発言をしてしまうおバカな従妹ちゃん。それを叔母さんが本気で受け取ったらどうすんだ。間違いなく俺が抹殺されるわ。

 

 

「あらあら。それはいいけど、あんまり他のお客さんの迷惑にならないようにね」

 

「おかあさんっ!?」

 

「ふふ、冗談よ冗談」

 

 

 娘の冗談に悪乗りしてくる叔母さん。しかし、今のは冗談に聞こえなかったぞ。予想外の言葉に思わずお母さんと呼んでしまった。俺がこの人をお母さんと呼んでいい立場になる事態は何があっても避けなければならない。そうなる可能性とは、つまりそういうこと。やめよう。その生活を想像するだけで死にそうになる。毎朝ジャンピングプレスで起こされ、休日も疲れ果てるまで遊びに付き合わされる。なんだそれ。ただの地獄じゃねぇか。

 

 

「じゃあ千歌が沸かしてくるね~」

 

「はいはい。よろしくね」

 

 

 千歌はそう言って部屋を出て風呂を沸かしに行った。大丈夫かな。俺が先に入ってたら後からあいつが入ってくるとかないよな。今日はしっかり風呂の鍵を閉めよう、と心に刻んだ。

 

 騒がしい従妹を見送り、部屋には洗濯物を届けに来てくれた叔母さんと俺だけが残る。

 

 

「あ、その」

 

「じゃあ、千歌の代わりに叔母さんが信吾くんのお話相手になってもいいかしら?」

 

 

 こちらから話しかけようと思ったのに、叔母さんは俺の思考を読んでいるかのようにそんなことを言ってきた。頷くと叔母さんは千歌によく似た微笑みを浮かべてくれる。

 

 また窓際に移動して、椅子に腰掛ける。こうして叔母さんと二人で話すのは、内海に帰って来てから初めてだった。それもその筈。この旅館の女将であるこの人には、そんな暇は多くはないのだから。

 

 何から話そうか、と思いを巡らせていると向かいに座る叔母さんが先に口を開いてくれる。

 

 

「どう? 久しぶりの内浦は」

 

「暑いし疲れることもありますけど、毎日楽しいですよ」

 

 

 窓の外を一瞥し、ここ数日であった出来事を思い返しながら、続ける。

 

 

「なんか、あの頃と同じような景色なのに全然違う所に見えたりもして、懐かしかったり新鮮だったり。まぁ、そんな感じで過ごしてます」

 

「ふふ。そうなの」

 

「それに、千歌も大きくなっててビックリしたし、曜ちゃんとかめちゃくちゃ可愛くなってて、腰抜かしそうになりました」

 

 

 十年振りに再会した人達もやっぱり別人みたいに変わっていて、素直に驚いてしまったのはしょうがないんだと思う。俺がその人達にどう見えてるのかまでは分からないけど。

 

 

「最初は不安だったけど、海にも慣れました。まだ入ったりするのは怖いですけど、なんとなく、嫌いではなくなった気がします」

 

 

 叔母さんは、黙って頭を頷かせてくれる。

 

 

「それなら、よかったわ」

 

 

 それから少しだけ部屋に沈黙が流れる。俺は、誰にも打ち明けられなかったことを言ってみようかと思った。なんとなく、この人になら言っても問題ないと思ったから。

 

 

「…………あの、叔母さん」

 

「ん? どうしたの信吾くん」

 

 

 脈絡のないことだし、言葉にするのが憚られたこの違和感。けど、言ってみなきゃ何も始まらないと思い、覚悟を決めてからもう一度口を開いた。

 

 

「多分、意味分かんないと思うんですけど、いいですか?」

 

「うん、いいわ。話してみてちょうだい」

 

 

 そんな前置きをしてから、俺はずっと感じていたよく分からないあの感覚を言葉にする。

 

 

「……俺、なんか大事なことを忘れてる気がするんです」

 

 

 そこまで言って、すぐにまた続ける。

 

 

「なんて言うか。その、上手く言葉にできないけど、一番忘れちゃいけないことを忘れてるような。ずっと思い出そうとしてるのに、それがどうしても思い出せないんです」

 

 

 言いながら思い浮かべるのは、あの青い髪の女の子。内浦に来た初日、バス停であの子と出会ってから同じ違和感を抱き続けていた。

 

 俺はあの子を知らなかった。なのに、見覚えがあるような気がする。名前も、住んでる場所も知らなかったのに、出会ったことがあるような気がしてならなかった。

 

 でも、何度思い出そうとしても記憶の中にはあの子の面影はない。それどころか、あの子に関するものすべてを知らないでいた。そりゃ初対面なんだから当たり前だ、と言われてしまえばそれまでなんだろう。けど、俺にはどうしてもあの子を初対面の女の子だとは思えなかったんだ。

 

 俺の中にあるのはそんな奇妙な感覚。()()()()()()()()()()()()()。どうやっても辻褄が合わない、おかしな違和感だった。

 

 

「…………」

 

「こういうのって初めてで、でもどうすれば思い出せるのかとか全然分かんなくて、ずっと一人で悩んでたんです」

 

 

 何か手掛かりになるようなものはありませんか、なんて馬鹿なことを訊けるわけがない。言えるのはここまで。そうなの、と流されてしまえばそれまでの話題だった。

 

 俺の言葉を聞いた叔母さんはジッと顔を見つめてくる。何か心当たりがあるのか、と期待をしたけど、この人にそんなことが分かる筈もないとすぐに気づき、生まれた淡い希望をすぐに掻き消した。

 

 

「すいません。なんか変なこと言っちゃって。忘れてください」

 

 

 頭を掻きながら空笑いを浮かべ、そう言う。

 

 けど、叔母さんはこの話題をすんなりと流してはくれなかった。

 

 

「信吾くん」

 

「はい?」

 

「弁天島の伝説って、知ってる?」

 

 

 

 唐突に、叔母さんはそんな話を始めた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「この内浦にはね、弁天島っていう小さな山があるの。そこの頂上には祠があってね、パワースポットで有名な場所なのよ」

 

 

 叔母さんはそう話を切り出した。俺は黙って、その声に耳を傾ける。

 

 

「そこにはね、この辺の人しか知らない昔から伝わる、古い言い伝えがあるの」

 

「言い伝え、ですか」

 

「そう。私もおばあちゃんから教えてもらった話なんだけどね。それを信吾くんに聞いてほしいんだけど」

 

 

 いいかしら、と訊ねてくる叔母さん。断る理由もないのですぐに頷いてみせた。

 

 

「じゃあ少し長くなるけど、聞いてちょうだい」

 

 

 そう言ってから一度口を閉ざし、叔母さんは俺の顔を見つめてくる。そして、ゆったりとした口調でその言い伝えを話し出した。

 

 

 

 

 

 

「──────むかしむかし、内浦の港の近くに、仲の良い男の子と女の子が住んでいました。

 

 その二人はいつも一緒に居て、海や山で日が暮れるまで遊んでいました。

 

 そうして月日が流れ、二人は大きくなり、ある時、お互いを好きだということに気がつきます。

 

 そうして間もなく、二人は恋人同士になりました」

 

 

 昔話にはめずらしい恋物語だけど、ここまではありきたりな話だった。そう思っていると叔母さんは続きを話し出す。

 

 

「ですがある時、(はな)と呼ばれる女の子は偶然、見てはいけない光景を目にしてしまいます。

 

 それは、恋人の喜助(きすけ)が知らない女の子と一緒に遊んでいる姿でした。

 

 最初は見て見ぬフリをしていた花ですが、徐々に喜助は花と遊ぶよりも長い時間、その知らない女の子と遊ぶようになってしまいました。

 

 当然、そんな姿を見せられる花は、喜助とその知らない女の子に嫉妬してしまいます」

 

 

 おっと。これはちょっといけない方向に話が進み始めてきたぞ。しかし、口を挟む間もなく叔母さんは続ける。

 

 

「そんな状態で時は流れ、ついに花は沼津の街で喜助とその女の子が手を繋いで歩いているところを目撃してしまいます。花は喜助本人に問い詰めますが喜助は上手く話をはぐらかしてしまい、花は途方に暮れてしまいます。

 

 そんな時、花は弁天島の麓に住む祖母からある言い伝えを聞きました。

 

 

 それは、弁天島の頂上にある祠の中には一本の神楽鈴が祀られており、その鈴を握って()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という奇妙な話でした。

 

 

 浮気をする喜助に痺れを切らした花は、なんでもいいから自分以外の女に手を出したことを後悔してほしいと思い、軽い気持ちで弁天島の祠に訪れました。

 

 普段は鍵で施錠されている祠は、何故かその日だけは開いていて、不思議に思いながらも花は祠の中に入ります。すると、祠の中には花の祖母が言ったとおり、一本の神楽鈴が置かれていました。

 

 祖母が話した言い伝えを話半分に聞いていた花ですが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、思いを抱き、喜助のことを思いながら鈴を鳴らしてしまいます。

 

 リンリン、リンリン。

 

 ですが、何も起こりません。やっぱり祖母の話は冗談だったんだ、と花はため息を吐き、鈴を置いて祠を後にしました」

 

 

 重い話になりそうな不安を感じていたが、やっとおとぎ話っぽい感じになって来て少しだけ安堵した。頑張れ、花ちゃん。

 

 

「翌日、花は喜助の元に訪れました。ですが、そこには既にあの知らない女の子が居て、喜助と仲良さそうに遊んでいました。

 

 我慢の限界に達した花はとうとう二人の前に現れ、喜助とその女の子に詰め寄ります。こうすれば喜助も後悔する、と花は信じていました。

 

 ですが、様子がおかしいことに気づきます。

 

 喜助は、突然現れた花のことを明らかに知らない人を見る目で見ていました。

 

 花から喜助を奪った女の子がこの子は誰かと訊ねても、彼は知らないと首を横に振るだけ。

 

 喜助は、本当に花のことを覚えていませんでした。

 

 あんなに仲が良かった恋人のことを、喜助は一夜にして忘れてしまっていたのです。

 

 そこでようやく花は昨日、弁天島の祠で鈴を鳴らしたことを思い出します。

 

 ─────そう。祖母の話は冗談なんかではなく、本当に起きる言い伝えだったのです。

 

 花のことを忘れてしまった喜助はもう気を遣うこともなく、すぐに知らない女の子と恋人になり、内浦から出て行ってしまいました。

 

 そして、自分の所為で喜助に忘れられた悲しみに溺れた花は、涙を流しながらもう一度弁天島へと向かいます。

 

 そして祠の中にある鈴を握り締め、今度は自分が喜助を忘れるように願い、花は鈴を振りました。

 

 リンリン、リンリン。

 

 するとどうでしょう。その鈴の音を聞いた花は綺麗さっぱり喜助のことを忘れているではありませんか。

 

 そうして、仲が良かった二人はお互いのことを忘れ、別々の人生を歩んで行きましたとさ。

 

 

 めでたしめでたし」

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 そんな感じで、叔母さんの話は終わった。なるほど。確かに何処かにありそうな言い伝えではある。しかし、問題はそこじゃない。

 

 指でこめかみ辺りに触れながら、伝説を聞いて思った素直な感想を漏らす。

 

 

「…………なんですか。その、昼ドラみたいな言い伝えは」

 

 

 生まれて初めてそんな重たいおとぎ話を聞いた気がする。ていうか間違いなく初めてだ。何処にこんな悲しい伝説があるのだろう。花ちゃんが不憫すぎて泣けてくるわ。喜助はくたばってしまえ。

 

 

「ふふ、そうね。大人になると、そういう見方になっちゃうのかも知れないわ」

 

「っていうと?」

 

「叔母さんが子供の頃は躾のためによくこの言い伝えを言われたのよ。“いい子にしないと、お母さんが弁天島の鈴を鳴らしちゃうぞ~”ってね」

 

「あー、なるほど」

 

 

 叔母さんにそう言われ、ちょっと納得する。よくある話だよな。秋田とかじゃ鬼みたいな奴が家に入って来て子供を脅かす、なんてその土地独自の躾の風習があるみたいだし。叔母さんが教えてくれた話も、恐らくそれの一つなんだろう。

 

 自分のことを忘れてほしい人、若しくは忘れたい人のことを思いながら弁天島の祠にある鈴を鳴らすと、本当に忘れてしまう伝説、か。なんとなく嘘くさいけど(実際嘘なんだろうけど)、なんて言うか。

 

 

「悲しい話よね。そう思わない? 信吾くん」

 

「ちょうど思ってたところでした。なんか」

 

 

 俺はそこまで言って咄嗟に口を閉ざす。今の言い伝えを聞いて思ったことを口にしようとしたんだけど、やっぱりやめておくことにした。

 

 だって、そんなのあり得ない話だから。

 

 

「どうしたの?」

 

「……いや。何でもありません」

 

 

 そう誤魔化して、窓の外に広がる景色に目を向ける。三分の一くらいが欠けた月が夜空に浮かび、海の上にもその姿を映していた。まるで月が二つあるみたいだな、なんてことを柄にも無く思った。

 

 海を眺めながら静かな夏の夜の音を聞いていると、叔母さんがくすっと笑いを零す。それを聞いて窓の外から視線を移動した。

 

 

「どうかしました?」

 

「ううん。何でもないわ。脈絡のない話を急にしちゃってごめんね」

 

「別に、大丈夫です…………でも、どうして」

 

 

 どうして、そんな話を俺にしたんですか。そう言う前に叔母さんは微笑みを浮かべながら、言おうとした筈の質問に答えてくれる。

 

 

「信吾くんの話を聞いたら、その話を思い出しちゃったの。もしかしたら信吾くん」

 

 

 千歌によく似たおっとりとした緋色の両目を見つめながら、俺はその続きを聞いた。

 

 

 

 

 

「誰かに、鈴を振られちゃったのかもね」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ドクン、と一度だけ心臓が大きく鼓動する。理由は一つ。今、叔母さんが言った言葉を現実的に解釈してしまったから。

 

 あり得ない。そう、頭ごなしに言うのは簡単だ。だってそんなのは言い伝えでしかない。漫画や小説の中でしか出てこない、非現実的なおとぎ話。それも分かってるのに、俺は叔母さんが言った言葉が()()()()()()()()()()、と心の真ん中で思ってしまった。

 

 もし、それが本当なら、俺は忘れてしまっているのか。だから、思い出せないのか。いや、やっぱりおかしい。そんな話は信じられない。でもじゃあ、どうして。

 

 俺はあの子と会ったことがある、と感じてしまうのだろう。

 

 

「…………」

 

 

 考えても思いつくのは、ここ数日で考え続けた月並みな結論だけ。俺が感じる違和感はただの勘違いで、何も忘れてなんかいない。そう思うことでしか、答えが出せなかった。

 

 そんな風に自分を納得させている時、向かいに座る叔母さんが口を開く。

 

 

「信吾くん」

 

「はい?」

 

 

 伏せていた顔を上げ、叔母さんと向かい合う。そこに居るのは橙色の髪をした千歌のお母さん。もちろんそれは変わらない。

 

 変わってるのは、叔母さんの表情だけだった。

 

 

「信吾くん。最後に内浦(ここ)に来た時のこと、覚えてる?」

 

 

 声のトーンを下げて、叔母さんは言ってくる。

 

 

「最後に、ですか」

 

「うん。信吾くんがここに来なくなった年のこと」

 

 

 そう言われ、十年前のことを思い返してみた。記憶の中にあるのは、今見ている景色とほとんど変わらない光景。

 

 でも、叔母さんが問い掛けてるのは今のことじゃなく、昔のこと。俺が最後に内浦に来た年のこと。

 

 分かってる。言わなきゃいけないってことは、自分でもちゃんと理解してる。でも、どうしてもためらってしまう。冗談を言ってるとか、嘘を吐いてるんじゃないかとか思われてしまうのが嫌だった。

 

 でも、これは事実。自分に嘘は吐けない。口に出せないってことは、自分に嘘を吐くことを認めてしまうのと同義。なら、ちゃんと言わなければならない。

 

 

「…………怒らないで、聞いてくれますか?」

 

 

 叔母さんは何も言わずに頷く。それを見て、決心がついた。

 

 俺は十歳の時ここに来て、それから一度も今までこの街に足を踏み入れることをしなかった。十歳より前には毎年夏休みと冬休み、必ず訪れていたことは覚えてる。記憶は鮮明ではないが、印象深い出来事なんかは断片的にキチンと頭の中に入っている。

 

 何もおかしいことはない。ただ、叔母さんの質問を答えるのだけは少しだけ勇気が要る。それは何故か? 理由は一つしかない。

 

 

 

「覚えてないんです」

 

 

 

 最後にここに来た時のことを、俺は完全に忘れてしまっていた。あのとき、自分が何をしたのか。どうやってこの街から帰ったのか。それだけがどうしても思い出せない。

 

 

「おかしいかもしれないですけど、本当なんです。気づいたら俺は海が怖くて、ここに帰ることが嫌になってました。海が怖いって思うようになった理由も、全然分からないんです」

 

 

 十年前の自分が何を思ってたのかなんて、思い出せるわけがない。気づいた時には海が怖くなってて、絶対にこの街には帰らないと心に決めて十年を過ごしてた。分かるのはそれくらいだ。

 

 正直、意味が分からなかった。十歳になるまでは海を好きだと思ったこともなかったけど、そこまで嫌らうこともなかった。それも覚えてる。なのに、突然嫌いになった理由が思い出せない。

 

 思い出せない? じゃあ、俺はそうなってしまった理由を忘れてしまってるのか? 

 

 それは、何故? 

 

 

「…………やっぱり、ね」

 

「え?」

 

 

 叔母さんは俺から視線を外してそう呟いた。その意味深な言動が気にならない筈がなかった。そして同時に、小さな疑念が生まれた。

 

 この人は、俺が何を忘れているのか知ってる? 

 

 

「じゃあ信吾くん。昔、海に溺れたことは覚えてない?」

 

 

 叔母さんがそんな話を切り出してくる。俺には覚えがなく、首を横に振った。

 

 

「十年前、信吾くんが最後にここに来た時。信吾くんは帰る前に海に溺れちゃったの。でも、何とか救われて、すぐに沼津の病院に運ばれたのよ」

 

「…………」

 

「一日入院しちゃったけど、身体は何ともなくてすぐに元気になった。それからこの旅館に帰ってくることもなく、信吾くんは東京に帰ったの」

 

 

 抑揚のない淡々とした口調で、叔母さんは語る。まるで、お気に入りの人形に向かって今日あった出来事を話す小さい女の子みたいに。でも、叔母さんが話しかけてるのは人形じゃない。

 

 多分、普通の人間である、俺だった。

 

 

「…………俺が、海に溺れた?」

 

 

 なんだそれ。それはいつの話だ。叔母さんは確か十年前のことと言っていた。

 

 俺は、そんな思い出を一切覚えていないというのに。

 

 それくらい大きな事故なら、覚えてなくてはおかしい。しかも、俺は小さい頃から泳げなかったから、海に入ることを用心深く避けていた筈だ。

 

 なのに、どうして海に溺れなくちゃならない。

 

 

「あの─────」

 

「お風呂沸けたよ信ちゃーんッ!!!」

 

 

 超大事なことを叔母さんに訊こうとした瞬間、千歌がバーンと勢いよく部屋に入って来た。この夏蜜柑女は思考回路どころか空気も読めないらしい。

 

 

「あら、お帰りなさい千歌」

 

「ただいまー。えへへ、今日は上手に沸けたよっ」

 

「ごめん千歌。大事な話をしてるからまた後──」

 

「ほら一緒に入ろっ、信ちゃん! 早くしないと冷めちゃうよ~」

 

「だから入らねぇって言ってんだろっ」

 

 

 さりげなく誘ってくるとか悪魔かこいつは。うっかり頷くところだったわ。一度でもそんな素振りを見せた瞬間、この女は俺を何としてでも風呂まで連れて行くことだろう。危なかった。

 

 千歌にTシャツをぐいぐい引っ張られながらも、俺は席を立たずに叔母さんとの話を続けようとした。が、叔母さんはそんな騒がしい娘を見てから立ち上がった。

 

 

「ふふ、相変わらず二人は仲良しね」

 

 

 どこがだ。

 

 

「当り前だよーっ。千歌と信ちゃんだよ? ずーっと仲良しだもんねっ?」

 

「誰が仲良しだ、ってああもう抱きついてくんなっ。暑苦しいっての」

 

 

 この旅館に住む怪獣ちかちーは見た目こそ変わったものの、中身はあの頃と同じ。

 

 ……嫌われるよりはこうしてスキンシップを取ってくれる方がマシだよな。そう思いながら、べたべたとくっついてくる従妹のことを引き離していた。

 

 

「じゃあ、お母さんも休むわね」

 

「うん。お休みなさい」

 

「あんまりうるさくしちゃダメよ? あと、お風呂場を汚すのもほどほどにね」

 

「おかあさんッ!?」

 

「ふふ、冗談よ。お休みなさい、二人とも」

 

 

 最後に爆弾をもう一発投下してきた叔母さんのことをまたおかあさんと呼んでしまった。横でほえー? っと首を傾げてるこの従妹はもう放っておこう。

 

 部屋を去って行こうとする叔母さんに声をかけようと思った。でもそんな俺に気づくことなく、叔母さんは振り向いて部屋の出口へと向かっていく。

 

 

「あ、言い忘れてたことがあったわ」

 

 

 部屋を出る直前に、叔母さんは後ろを振り向く。昔と変わらない温かい笑顔。そんなものを俺に向けながら、言ってくれた。

 

 

「明日の花火大会、楽しんできてね」

 

「あ…………」

 

「それじゃ、お邪魔しました。お休みなさい」

 

 

 扉が閉まる。叔母さんが最後に見せた顔を思い出しながら、そこに向けた視線を動かさなかった。

 

 あの人は多分、俺が明日の花火大会を死ぬほど楽しみにしてることを知ってた。どうしてかは分からないけど、俺の目にはそう見えた。

 

 

「…………してやられたな」

 

 

 叔母さんにも、横でわーわー言ってるこの従妹にも。結局、大事なことの答えは何一つ分からなかった。

 

 でも、今はそれでいい。明日は大事な日なんだから、あまり深く考え過ぎたら楽しめなくなってしまうかもしれない。時間はまだある。帰る日までに、答えを知ることができればそれでいい。

 

 そう自分に言い聞かせながら、千歌の身体を持ち上げて部屋の外へぽいっと投げ捨てた。

 

 それから十分くらいドアの外からの説得が続き、立てこもり犯の気持ちがちょっとだけ分かった俺なのであった。

 

 

 

 そうして、夜は更けて行く。

 

 

 




次話/黒澤姉妹
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