蜜柑色の従妹
第一章/十年の時を越えて
◇
夏休み。それは、この世の学生が最も待ち侘びている時間ではないかと思う。
多分、その認識に誤りはない。夏休みが無い八月など存在する意味すら無い、なんて歌詞の歌があった気がするけど、まったくその通りだと思う。夏休みが無い夏とか、そんなもんただクソ暑いだけの地獄の日々でしかない。
そんなことを考えながらエスカレーターを下り、南口と書かれた看板を目指し歩く。さっき出てきた東京駅に比べれば少なく感じるけど、やっぱり夏休みとなると人の流れは何処だって多い。
改札を通り抜け、南口へと向かう。さっきまで涼しい車内に居たからか、駅の外から入り込んでくる風が妙に暑く感じた。
「…………あっちいな」
カンカンと晴れ渡るスカイブルーを見上げながら独り言をひとつ。なんとなく東京よりも暑く感じる気がするのは気のせいだろうか。天気予報では差は無かったはずなのに。静岡県、恐るべし。
七分袖のシャツを肘の辺りまで捲り上げ、胸元のボタンを開ける。それも気休めにならない程に、俺に向かって猛威を奮ってくる七月下旬の炎天下。
茹だるような空気にうんざりしながら、人が出入りする入口の前で見慣れない沼津駅の駅前を眺めた。
やっぱり、十年も経てば街並みは変化してしまうらしい。そりゃそうか。最後に来たのは十歳だったんだし、変わってない方がおかしいってもんだ。
「待ち合わせ場所は、あっちか」
十年振りに訪れたこの沼津市。見渡す街並みは変わり、俺もあの頃からだいぶ身長が伸びて、世間からすれば成人と言われる歳にもなった。そんな俺のことを、あいつは覚えてくれているのだろうか。
年に数回はメールでやり取りしていたが、離れた場所から届く文字列だけでは変わったことなんて分かる筈も無い。だから夏休みに入ってから数日が経ったあの日、『今年こそは帰ってきてね(≧∀≦)⁾!』というメールを読んだ時は少しだけ緊張した。
あの子は俺の一つ年下だから、今は十九歳。あの頃はちっこくてうるさいだけの女の子だったあいつも、今では一人の女性として生きているんだろう。
不安と期待に心を躍らせながら、待ち合わせ場所に近づく。ロータリーには無数の雑踏が流れているが、あの銅像の前で待ち合わせをしてる人はそこまで多く無いだろう。だったら、俺でもあの子を見つけられるはず。
「あ」
そして、俺はその従妹を見つけた。まだ少し距離は離れているというのに、すぐに分かった。
橙色の髪に耳の横の三つ編み、そしてそこに巻かれた黄色っぽいリボン。間違いない。あれを付けてるのは恐らくこの沼津市にアイツしかいない。
蒸気機関車像の前で後ろ手を組み、つまらないそうに地面を見つめてる。近づくにつれてだんだんとその全貌がはっきり見えてくる。
胸元にリボンが付いた白いレースブラウスに、サスペンダーが付いた丈の短い藍色のサロペットスカート。あんな女の子らしい格好をするようになったのか、と歩きながらちょっとだけ感動してしまった。
近づいてくる気配に気づいたのか、徐にこちらを向く夏蜜柑色の従妹。その途端、彼女は表情に向日葵のような明るい笑顔を咲かせた。
それから大人になった従妹はこちらへと駆け寄って来る。俺も微笑みを浮かべながら近寄り、挨拶をする準備をした。だが、どこか様子がおかしい。距離は十分近づいてるのに、前方から迫る奴は足を止める素振りを見せない。これはまさか。え? おい、ちょっ、待っ────
「─────信ちゃーんっ!!!」
「うお!? 危ねぇっ!」
両手を広げてポーンと飛びついてくる従妹。俺はキャリーバッグから手を離し、勢いがついたその身体をなんとか受け止めることに成功した。しかし、今ある問題はそこじゃない。
なんだ、このこっ
「う~。会いたかったよ信ちゃ~ん」
「おい、ちょっ、離れろって
「そんなこと言わないでよぉ。千歌はずっと会いたかったんだよ~ぅ」
俺の首の後ろに両手を回し、飼い主に甘える犬の如く顔を擦りつけてくる従妹。あ、なんか柑橘系の良い匂いがする、じゃない。冷静さを失うな俺ェ。
なんとか引き離そうと身体を捩るが、凄まじい力で抱きついてきているこの従妹はなかなか振り払えない。周りに目を向けると、近くを通りかかる人達は人目を憚らず再会の熱い抱擁を繰り広げる俺達を一瞥し、温かい目線と微笑みをくれた。でも嬉しくない。むしろ超恥ずかしい。
左右に身体を振っても、この従妹はとんでもない腕力でしがみついてくる。この細い腕の何処にそんな力があるんだと不思議になる。頼むから離してほしい。猛烈に死にたい衝動が燃え上がって来た。
「いい加減にっ、しろっ!」
「わっ!?」
冷や汗が全身の汗腺から溢れ出してきたところで、わき目も振らない従妹の両肩を掴み、無理やり引き離した。
くっきりした緋色の瞳を大きく開き、目の前に居る俺の顔を見てくる橙色の髪をした女。ああ、こいつは確かに俺の従妹だ。間違いない。昔は長かった髪は肩にかかるくらいのセミロングになっていて、身長もそこそこ伸びているらしく、平均より少し小さい俺の身長と比べると十センチくらい低い。顔つきもどことなく大人な雰囲気になっており、今どきの女性らしくメイクなんかも施しているらしい。あの頃と変わらない特徴が無ければ、この子が従妹だということに気づかなかったかもしれない。そう、見た目が変わってることは認めよう。
だがこいつ、外見以外何も変わってない。早速頭が痛くなってきた。抱きつかれた時に偶然触れた(不可抗力だ)胸が想像の三倍くらい大きかったのは素晴らしかったが、他の問題が多過ぎて話にならない。
「全然変わってないな、ばか千歌」
「何おう? 信ちゃんだって変わってないもん。すぐに分かったもんねー」
「俺だってすぐ分かったっつーの。ていうかそんなに変わってないか? 俺」
「えへへ、相変わらず女の子みたいな顔してるね」
「な。おまっ、それは言わないって昔約束したろ。また叔母さんに怒られんぞ」
「大丈夫だよ~だ。もう千歌は大人だもーん」
この女、やっぱり何も変わってない。話せば話すほど露呈してくる幼稚さ。マジで九歳のままで頭の成長が止まったんじゃないか、と思ってしまったがそれは恐らく間違いではない。
えっへんと腰に手を当てて胸を張る千歌。まぁ、幼さを残した顔にそのメリハリのある身体つきはちょっとズル──なんでもない。
「信吾くん」
そんなことを考えていると後ろから名前を呼ばれた。聞き覚えのある、そのおっとりとした声音。
「あ、おかーさんっ」
俺の背後が見える千歌が手を上げる。やっぱりな、そうだと思ったよ。でも、後ろ姿だけで俺だって分かったのはなんでなんだろう。
千歌の母親。俺からすれば叔母さんに当たる人。この人とも十年振りに俺は会う。ここに来る度に世話になった覚えしかないので、叔母さんにだけは頭が上がらない。
十年も経てばあの叔母さんも少しは年を取ってるだろうな。そう思いながら、後ろを振り返った。
「叔母さん。お久しぶ─────」
「あら、大きくなったわね信吾くん。ふふ、カッコよくなっちゃって」
もっと変わってない人がいた! むしろ成長した分、昔より若く見える!? マジで一体どうなってんだこの家族はっ!
「えー、可愛くなったと思うんだけどなぁ」
「あ゛? 喧嘩売ってんのかコラ」
腕組みをしながらこちらを見てくる千歌。自分に対するコンプレックスを強いて挙げるなら、俺はこの童顔を挙げる。これだけはどうしようもない。どんだけ頑張って身長を伸ばしても、筋トレをしても、女みたいな顔つきだけは変わらなかった。
「こーら。ダメよ千歌。男の子はね、女の子に可愛いなんて言われたくないの」
さ、さすが叔母さん。本当にその通りです。素晴らしい言葉に涙ぐみそうになる。
「本当のことは思ってても言わないのが大人っていうものなの。分かった?」
おっと。これは躾けの方向性が違いますね。それ実は千歌の言葉が正しいってことじゃない? そこんところどうなんですか、叔母さん。
「分かった! じゃあこれからは信ちゃんが女の子みたいでもカッコいいって言ってあげるね!」
「そういうことじゃねぇんだよっ」
なんでこうなった。今度は千歌がお母さんの言葉を信じちゃってるし、どうしようもねぇじゃん。
叔母さん。十年振りに会ったのはいいんですけど、ちょっと傷つきましたからね、俺。
なんて、バカなことばかりを考えていても仕方ない。そんなことより、俺にはこの二人に言わなければいけないことがある。そこから目を逸らしていてはいつまでも話が進まない。
恥ずかしいけれど、これはちゃんと言わなくちゃいけないこと。
「そうだ、千歌」
「うん、どうしたの? 信ちゃん」
大人になった従妹の名前を呼び、それからずっと準備していたその言葉を口にする。
「その、ただいま」
十年間も帰らなかった奴が、そこで変わらずに待っていてくれた人に言わなければいけないのはこの言葉以外に無い。そんなの、十年前の俺だって知っていた。
それでも、改めて口にしようとするには勇気が必要になる。けど、この子ならちゃんとこの想いを受け止めてくれると思っていたから。
「うんっ。おかえりなさい、信ちゃん」
そう言って優し気に微笑んでくれる千歌。その顔はやっぱり、十年前と同じようで同じではない。正しく成長した十九歳の女の子の
そんな感じで、俺はこの街へと帰ってきた。
そして、そこにはやっぱり、十年の時を越えて待っていてくれた蜜柑色の従妹がいたのだった。
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