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「あ。来た来た。おーい、信ちゃん果南ちゃーんっ!」
桟敷席の入り口でチケットを渡し、俺達は中に入る。横に並んだ花壇の下に階段があり、そこが何個かに区枠分けされている。確かにこれは見やすそうだ。空を仰ぐと、大きな青い光の花が夜空に咲いていた。
俺達に気づいた千歌が手を振ってくる。だが彼女がこちらを見た時、一瞬その手と表情が固まったような気がした。
階段を下りて千歌と曜ちゃんが座ってる場所に近づく。果南は変わらずに俺の右横を歩いてる。
「お待たせ。悪い、橋の上がかなり混んでた」
「お疲れさま、信ちゃん果南ちゃん。あの女の子はどうだった?」
「うん。すぐにお父さんとお母さんに会えたから、大丈夫だったよ」
俺の代わりに果南が答えてくれる。すると水色の浴衣を着た曜ちゃんは安心したように微笑んでくれた。
「よかったね。遅かったから心配してたんだよ」
「ごめん。電話入れておけばよかったな」
「ううん。大丈夫だよ。ね、千歌ちゃん?」
「…………」
「千歌ちゃん?」
「え? あ、うん。そうだね。アハハ、あの女の子が無事でよかったね。うん」
曜ちゃんの隣に座る千歌はそんなよく分からない反応をした。めずらしいな。いつもなら安心して泣く、くらいのリアクションをみせる筈なんだけどな。
千歌はチラッとこちらを見てくる。どうしたのか、と思い、その視線に目を凝らすと、彼女の目線が俺の右手に注がれていることに気づいた。
「「あ」」
「あれれ~? 果南ちゃんと信ちゃん。手なんて繋いでどうしたの~?」
嫌な笑顔を浮かべた曜ちゃんが俺達に問い掛けてくる。そう言えば完全に忘れてた。いや、忘れたというのは手を繋いでいたことではなく、離すタイミングを忘れていたということ。すっかり頭から抜けてしまっていた。千歌が見てきたのはこれが原因か。納得。
曜ちゃんに言われて、俺と果南はどちらともなく手を解いた。名残惜しさが右手から全身へと広がり、何故か猛烈に悲しくなる。
「べ、別に何でもない」
「そ、そう。何でもないんだよ、曜」
「え~? ホントに~?」
曜ちゃんは俺達の反応を楽しんでいる。罰として柔らかそうなほっぺたを引っ張ってやりたい。
もうちょい前に離しておけばよかった、と今さらになって後悔する。でもしょうがないじゃん。せっかく繋いでいたものを俺から手離すとか出来るわけない。心が痛くなりそうで嫌だった。
だが、千歌はまだ何も言ってこない。どうしたのだろう。気分でも悪いのかな。
「だ、だって信吾くんが急に握ってくるから」
「果南、今それ言うのはナシ。俺のメンタルが死ぬ」
「おー。信ちゃん、男の子だったのはやっぱり嘘じゃなかったんだね」
「それはどういう意味なんだ曜ちゃん。なぁ、教えてくれ」
この子は俺の性別をなんだと思っていたんだ。そう言えばこの前もそんな感じのことを言ってたな。いい加減、この童顔だけは宇宙の果てまで吹っ飛んで行ってほしい。
曜ちゃんの頬っぺたをうりうりと弄っている時、千歌が俺の方に顔を向けてきた。表情はいつものように微笑んでいる。
「えへへ。信ちゃんと果南ちゃんは、やっぱり仲良しだ。…………うん、昔と一緒だね」
黄色い浴衣を身に纏う彼女は、そんなことを言って来た。だが、その言葉の意味がよく分からなかった。
なんで、俺と果南が仲良しなのが昔と一緒なのだろう。彼女とは出会ったばかりだというのに。
この間もそうだった。千歌は、俺が果南のことを知ってる筈だと言った。彼女と会う機会が多かったから、そのことをすっかり忘れてしまっていた。
果南は無表情で千歌のことを見つめている。感情の無い、冷たい瞳だった。それがどうにもおかしいと感じた。何が彼女をそうさせているのかは分からない。俺には、何一つ分からない。
千歌に訊ねようとした直前、花火を見つめる人達から一際大きな声が上がった。
「わぁ」
「綺麗だね、曜ちゃん」
大きな花火が何発も連続で空に光の花を描く。千歌と曜ちゃんはもう既に意識を花火の方へと移してしまっていた。これ以上はもう訊ける雰囲気でもないので、今はこの疑問を胸の中に納めておくことにして、夜空に浮かび上がる花火へと視線を向けた。
赤、青、黄。色とりどりの花火が夜に花を咲かせる。昔はどこでこの花火を見てたんだっけ、とそんなどうでもいいことを思い出していた。
少なくとも、こんなに良い場所で見た記憶は無い。それでも、空に浮かぶ輝きを眺めていると、あの頃を思い出さないわけにはいかなかった。
縦の細い光が最初に描かれ、それから少しの間を置いてパッと大輪の花が咲き、音が鳴り響く。その度に声や拍手が辺りから上がる。
「…………」
俺は黙って花火を見上げる。そう見せかけて、隣に座る果南の横顔を盗み見た。気になってるのは花火よりも彼女の方だったのかもしれない。
綺麗な輪郭をした果南の顔が、花火が上がる度に色を変える。そんな何気ない表情を見ているだけで、落ち着かない気持ちになった。
腰掛けているコンクリートの上に置かれた手。彼女の手をもう一度握れたら、なんてことを考えたけど、俺にはそんなことをする勇気などある筈も無かった。もしあったとしても、さっき手を差し出した時点で使い果たしてしまっている。誰にも気づかないように、本当に小さなため息を吐く。
そんな時だった。
『───信ちゃんっ』
「…………え」
誰かに、名前を呼ばれた。
正確に言うと、呼ばれた気がしただけ。でも確かに聞こえた。聞き覚えがあるような、小さな女の子の声だった。
辺りを見渡してみる。でも、そこに居るのは名前も知らない見物客達。それと、千歌と曜ちゃんと果南。この三人のみ。誰も俺のことなど見ていない。みんな、打ち上がる花火を見上げている。
訝しみながらふと果南の方へ視線を向けた。
その時、ある記憶が脳内に再生される。
『私はね、青い花火が好きなの。海みたいで綺麗だから。信ちゃんは何色が好き?』
「………………」
「? どうしたの、信吾くん」
なんだ、今のは。あんな光景は一度も見たことが無い。忘れてしまっているのか? いや、それは無い。その一瞬だけを忘れていたのだとしても、俺に話しかけていたあの女の子や、その時の記憶すべてを忘れるわけが無い。だというのに。
ぼうっとしていると、視線に気づいた果南が声をかけてくる。その顔は穏やかで、口許には小さな微笑みが浮かんでいる。
「ああ、いや」
どうして、果南を見ている時にあんな記憶がフラッシュバックしたのかは分からない。それを訊ねたとしても、彼女が分かってる筈もないので咄嗟に頭に浮かんだ言葉で誤魔化すことにした。
「綺麗だな、って思って」
俺が言ったと同時に大きな華が空に瞬き、声は掻き消されてしまった。でも、果南はそれ以上何も言って来なかった。
花火は打ち上がり続ける。形や色の美しい光が輝いた時、人々の歓声と拍手が広がり、誰もが満足そうな顔をしていた。
空を見上げながら思うのは、今日、この場所に来れて良かったということ。果南が誘ってくれなくとも、千歌は恐らく俺を連れてきただろう。
でも、そうではなかった。果南は俺をこの花火大会に呼んでくれた。たまたま一緒に居たから声をかけてくれただけなのかもしれないけど、それでもこうして隣に居られることを何よりも嬉しく思う。
けど、どうして嬉しいんだろう。この感情に理由をつけるとしたら、なんと言えばいい? 形になりそうでならない、ぼんやりとした輪郭の無い線だけが浮かび上がっている。それを無理やり形付けようとしても、まだ綺麗なシルエットにはならない。
だから、もう少しだけ待とう。何かがあれば理解出来る。このモヤモヤとした感覚を正確に言葉に出来る瞬間が必ず来る。今はそう信じるしかない。
あの夕立に打たれた時から抱き続けている感情。不器用だから、それを一言では纏めきれない。もし、自分が器用だったならどう答えたのだろうと考えてみても、上手くイメージが出来なかった。
「あ……ごめん」
不意に果南の右手の小指が俺の左手の小指に当たった。たったそれだけのことなのに、彼女は謝ってくる。何も悪いことなど無いのに。
藍色に紫色の朝顔が咲いた浴衣が、花火の光で色彩を変えていた。果南の頬は少しだけ桃色。俺が見ているのに気づくと、さらに赤くなった。
「な、なに?」
「別に。なんでもない」
俺はそう言って微笑んでみせた。言いたいことはあったけど、今は言わないでおいた。
意地悪したわけじゃない。でも果南はそう受け取ったのか、ちょっとだけ不機嫌な顔をして、触れ合った小指を俺の小指に絡めてきた。
それはちょうど、指切りをするような形。ただお互いの手はコンクリートの上に置かれているから、誰にも見られることは無い。誰にも気づかれることは無い。
果南がどうしてそんなことをしてきたのか分からず、俺は問う。
「どうかした?」
不機嫌な顔をしていた果南は少しだけ照れたような笑顔を浮かべる。その表情は、心臓を鷲掴みにしてくるような威力を持っていた。
「別に。なんでもない」
俺がさっき言った言葉をオウム返ししてくる果南。小指と小指はまだ繋がれたまま。これが彼女のなりの仕返しなんだな、とようやく気づいた。
誰にも気づかれることは無い、この指と指の重なり。沢山の人達が居る中で、俺達だけが知ってる秘密の約束を交わしているような感じがした。
このまま、いつまでも時間が止まってくれればいいのに、と。出来る筈も無いことを思い浮かべながら、夜空を見上げた。
「ねぇ、信吾くん」
「どうした?」
「信吾くんはさ、何色の花火が好き?」
「花火の色? そうだな」
しばらくして隣にいる果南にそう言われ、空に咲き乱れる光の花を見つめながら少し考える。そんなの一度も考えたことはなかったけれど、何故かすぐに答えは浮かんだ。
「青、かな」
そう答えると果南は少しだけ驚いたような顔をして、それからふっと微笑んでくれる。
「……そっか。私と、一緒だね」
その言葉が聞こえた時、青い花火が空に咲く。
小指が少しだけ、強く絡められた気がした。
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